方面愛乃雫
東京市社會局編
東京:東京市社会局, 1925.8

 この本の序文によれば、大正9年の冬に東京市に方面委員制度なるものが実施されたのだという。 タイトルの「方面愛乃雫」の方面とはこの方面委員という名称から取られたものである。 どうも、今で言う民生委員のような、生活保護の世話などを担当する制度らしい。 本書はその方面委員の扱った事例の記録である。序文にはこうある。


 一體方面事業は唯仁惠的に一個人を救ひ又は恤むといふ目的に止まるものではなくて此等の人を能く教へ、能く導きまして人の人たる道を踏ましめ善良なる市民たらしめんとする事業であります。
 本書こそは委員諸氏が臨床家としての人間苦の記録であり又市民に愛の科學を如何に教へしかを物語るもので同時に生ける貴き社會の縮圖であります、賢き眼は愛のみが世界を光明に導くことを悟ると思ひます。

   大正十四年八月

東京市社會局長  矢 吹 慶 輝


それでは、事例を抜き出してみることにしよう。

[一]教化善導のこと
  (2)廃頽せる婦を教化す
      下谷區第四方面委員
           澤  淙 圓

 澤委員の避暑宅の庭前から令嬢風の女が二人怖るおそる訪れて来た。 「私達は東京市京橋區の者で有りまして數日まえ此處に参りましたが財布を落しました爲めに歸るにはかへられず、泊ることも出来ず實に困りました。 如何なもので御座いませうこの羽織を旅費に代へたいのですが、東京へ歸るまで二人の汽車賃だけ御拝借願ひますまいか、東京にさへ戻れば必ず御返済致します」。 炯眼な委員は娘の言葉に直く眞僞は窺はれた。 然しその弱點はあばかなかつた。 (中略)彼の粋な明石縮の服装及水色の洋傘に南京珠の袋をさげたその様子はレストランの女給と推測された。然しその粉黛の頬にも眉にも事實困却の色は観られる。 遊びほうけて 旅費もないように遣ひ果たしたのであろう。 此の種の女によくある廃頽気分がここに至らしめたものと洞察されるが、その眞に恐懼した態度は全然不良無恥なものではないと委員の慈心には一種の豫感がした。 「宜しい私が旅費をお立替申しませう。然し余談ながら貴女方の年輩が一生に一番大切な時ですな」善導教化を天職とした委員は精錬された弁と温厚なる人格とを以って諄々彼等の前途の光明を開き説いた。 慈愍の泉より溢れ出る温流に浴した彼の女の心は浄められたか急に彼女は嗚咽し始めた。 時は浪も磯もはや紺青に昏れて宵の明星が燦いて来た。 自然の嬰児に歸つた彼の女は「誠に有難うございました。 實は私はカフエーの娘で島原なみ(20)と申します。 このつれは私どもに居るものです。私たちはあまり遊び過したのです。」 名剣邪鬼を払ふ委員の清訓に彼の不浄を自覺した。懺愧の初聲であつた。 「私たちはあまりに虚栄の夢と遊惰の幻とに酔ふて居ました。」 ここに至つて委員は菩薩の歓喜を感じた。(p.7-8)


 要するに、女寸借サギ師を見破って改心させた、ということが言いたいのだが、なんと仰々しい言葉遣いであろうか。とてもブンガク的な文章である。なにしろ、「精錬された弁と温厚なる人格とを以って諄々彼等の前途の光明を開き説いた。」であり、「慈愍の泉より溢れ出る温流に浴した彼の女の心は浄められたか急に彼女は嗚咽し始めた。」であり、「名剣邪鬼を払ふ委員の清訓に彼の不浄を自覺した。」なのだ。この澤委員のブンガク趣味にあてられたのか、挙げ句の果てにはこの女寸借サギ師も「私たちはあまりに虚栄の夢と遊惰の幻とに酔ふて居ました。」と言い出す始末。しかし、カフエーの女給がこんなセリフを口にするものだろうか?

 方面事業の活動成果を宣伝するという本書の性格からして、仕方のないことなのだけれど、この本を読む限り方面委員の力たるや素晴らしいもので、彼らが一度やると決めたことは絶対に失敗しないかのようだ。序文で社會局長は、本書は「市民に愛の科學を如何に教へしかを物語るもの」であると述べているのだけれど、他の事例をみても、あまり科学的な事を方面委員が述べている件りにはお目にかかれない。とにかく、方面委員の「熱意」をもってすれば為し得ないことはないらしいのだ。例えば、(11)「流浪十有余年歸参が叶ふ」(p.26)では、家出をし、十年以上も両親と嫁をほったらかしにしていた男が実家に帰りたいというので、方面委員が彼を伴って実家に赴き、帰参を許さない親父を説得する。


 ・・・かくてやつとの事で委員の熱情に動かされ、せがれの不實を赦すことを納得した。老母と嫁とは今は嬉しさに堪へ兼ねて座敷にころび込み、委員を伏し拝みながら、生き如来様のおいでましかと悦び泣いた。(p.28)
 (14)倫落の娘(p.35)では、男に拐かされて家出し、亀井戸の銘酒屋に売り飛ばされた娘を助けてくれ、という親の頼みで方面委員は娘の雇主に掛け合うのだが、

 雇主委員の誠意と熱心さに感じて、心善くその取計ひにお任せすることを承諾した(p.37)
 (16)騒擾を未然に(p.42)では、関東大震災で崩れた工場の水門の破損のために生じた田畑の浸水被害をめぐり、周辺の農家と工場とで一騒動がおこりかけたのを方面委員が丸く収めるのだが、この方面委員は次のように言う。

 方面委員は辛辣なる策略も用ひず強烈なる武器も持たず、只だ至誠という二字を眞向に振りかざすの外なにものをも持合せがないのである。(p.45)
 (21)「佛に出會つた佳報もの」(p.58)では、方面委員は上野公園の西郷銅像付近で偶然再会した貧しい男が、家主から急な追い立てをくって困っていると聞き、掛け合いにいく。

數回に渡つて交渉を重ねた結果、冷酷であった家主も委員の熱誠にひかされて、一ヶ月内に立退かせる代りに立退料として金七拾圓を提供することを承諾された。(p.59)
しかし、人助けの熱意や苦労はわかるけれども、「佛に出會つた佳報もの」と自分のことを仏と臆面もなく言い切る根性はやはりすごい。

 相談事として目立つのは、売り飛ばされた(あるいは売り飛ばした)娘の行方を探して欲しい、というものである。最後に、一例を抜き出して終わるとしよう。


[二]家事又は身の上相談のこと
  (22)永い流転の娘と邂逅
          芝區第一方面事務所

 芝新網にわびしくも同居住まひをして居る六十を越した独りの婆さんが居た、その家にまた下宿してゐた者の救護手続きの爲めに慰訪をした嘱託は、圖らずもこの孤独の婆さんの身の上につき気の毒な物語を聞いた。今から二十年程前のことであつた。当時六つになる實の娘を事情あつて京橋區山城町の山本と云ふお茶屋に養女として遣した、最初の内こそ双方互いに往来して居たのであつたが、山本一家が他へ移住してからは音信不通となつたので娘の消息はそれ切り絶へてしまつた痛ましい胸を幾春秋となく押へ堪へて過して来たが、懇意な人から娘が大連で藝妓をして居たが自殺を企つて遂げられなかつたと云ふ新聞記事を聞かされてさては藝者になり果てて支那三界まで流転してゐるかとそれでも生きていて呉れたかと驚き且つ悦びて、其時交通巡 査に捜査方を願ひ出た、然し何等確めらるることもなく、折角の風評も水泡となつて終つたことを如何にも残念がつて心に悩みは却つて強くなつた。そこで、芝警察署長と協議してその捜査方を依頼した、約三ヶ月程を経た後のこと麹町署から本人が大連の鎮海楼で藝妓をして居ることを報じて来た、この吉報を得て早速書面を出したが懐かしい返事をのみ待ち焦がれて居たにも拘はらず、如何にせん二週間後空しく受信人不明で返戻された時の落胆は例へる方もなく見る目も気の毒であつた、改めて方面委員事務所から大連警察署に宛てて本人捜査及び説諭を依頼してやつた、同時に返戻された母の手紙と方面委員事務所の手紙も添へてあつた、間もなく十月の末頃に大連から娘は天津租界地にゐたが、先般の母の手紙も一度は手にしたものの往年母の仕打の無情を恨み永い苦労をした身をかこちて書面を見ずにつき返したのであつた、間もなく本人から細々と書記された返信が母の手許についた、いくら恨みはあつてもやはり母子の仲で、戀しい懐かしい情緒が堪へ切れず一時に勃発して来た、その後は二日置きとなく引続引続き音信を受けたが、本人も歸心矢の如く来春早々歸京して母の温い膝に抱かれ度いといふいと濃やかな文を書き送られた。かくて老母も春の来るのを待ち遠ふに思ひつつ、二月の末大連から戻つて来た娘をみた母は、夢中に懐き締め暫し言葉もでなかつた、母子とも嬉し涙に泣き伏した。 稚子輪に結んだ十一二の時に別れた切り永い間全く消息の判らなかつた我娘に邂逅ふことの能きた老母の悦び娘の嬉しさこそ外ながらも欣びに溢れた。娘は二ヶ月程滞留して又た一先づ大連に引戻らねばならぬ。話は尽きぬ名残り多くも再び西と東に分れ都合が出来れば娘の後を追ふて大連に同棲したいと考えてゐるとのことである。(p.60-62)


 大連や天津租界を流転する、とはもう「上海帰りのリル」の世界である。それにしても、この老母は大連に移住したのだろうか。そして、終戦時にこの親子はどうしていたのだろう。あのどさくさの中無事に帰国できたのか?



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