産業ロック製作所推薦図書
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商業放送の研究

商業放送の研究
金沢覚太郎著.
東京:日本電報通信社, 1946.

 かなり前から一つ疑問を持っていて、それは、いつ、どのようにコマーシャル・メッセージという奇怪なものが生じたかということである。広告の歴史を考えてみても、広告を見ることと引きかえに、無料で何かを提供するというのは、ラジオ・テレビなどの電波によるマス・コミュニケーションが発達するまでは無かったように思う。

 たまたま見つけた、この「商業放送の研究」という本に、そのあたりの事情が載っていたので紹介することにする。ちなみに、出版者の「日本電報通信社」とは今の電通のことである。

 初の商業放送はウェスチングハウス會社の副技師長フランク・コンラツド博士によって始められたとされる。1920年4月、ピッツバーグ郊外ウィルキングバーグにあるコンラツド博士の自動車小屋の二階を放送局として許可をとった。


 當時の聴取者はもちろん今日のように一般の家庭にある市民たちではなく、きわめて限られたアマチュア無線家の小さなグループにすぎなかつた。コンラツドは、はじめは、いわば彼のファンにあたるこれらのアマチュアグループに向けて談話ばかり放送していたが、それだけでは直ぐ厭かれて来たので、いろいろ趣向をかえて、野球や蹴球の試合成績などの發表もやつてみたりしたが、娯樂ものとして、とりあえず手つとり早く、簡便で經濟的な蓄音機のレコードを放送した。このレコード放送をよろこぶフアンは次第に増えて、その年の夏頃には「夕方のある一定時間に放送してほしい」という要望が、手紙や電話でもつてどしどし送られて来た。これらの要望に応えるのには、相當數量のレコードを用意しておかねばならぬし、また新しく賣り出される新譜レコードも次々に購入して補つてゆかねばならぬ。それにはいくらコンラツドが熱心であつても、彼の懐ろが許さず、財布を逆さにしても、とても足りるものではなかつた。そこで彼は必要に迫られて一計を案じた。それは蓄音機の販賣店からレコードを次々に借りることであつた。いちいち自分の懐ろをいためてレコードを買い込む必要もないし、レコードの方は廣告になる。たしかにそれは妙案であつた。彼はレコード屋との交渉の見透しが大丈夫と見極めると、聴取者グループであるラジオアマチュア達に對して、毎週水曜日と土曜日の午後七時三十分から二時間、まとめて定時放送をするという聲明を出した。

 ところがこの相談をうけた蓄音機商はさすがにアメリカ商賣人で、抜け目なく交換條件を出すことは忘れなかつた。つまり新譜レコードはいくらでも提供するが、そのかわりに、レコードの提供者としてのその店の名前を、ラジオでアナウンスしてもらいたいという要求である。もつともな言い分なので、コンラツドはそれ以後、新譜レコードの時間の前後には、その提供者の店の名前を放送することにした。コンラツド博士の放送したレコードは、他の販賣廣告方法によるよりも、はるかに多く賣れるようになつた。(中略)このやり方を思いついたその蓄音機商こそ、廣告放送の依頼者として、アメリカラジオの歴史に記されるべき筆頭の名前であろう。放送番組の作製經費は聴取者からは一切とらず、廣告主がそれを負擔 するという商業放送システムの原則は、すでにこの時から生まれたということが出来よう。(p.15-17)


 放送における広告の初めはタイアップものだったようだ。今でいえば、二時間旅情サスペンスドラマでホテルの看板が大写しになったり、移動に使用した航空会社の飛行機の離陸シーンをインサートしたりする感じか。しかし、「このやり方を思いついたその蓄音機商こそ、廣告放送の依頼者として、アメリカラジオの歴史に記されるべき筆頭の名前であろう。」と書いておきながら、どういう訳かその名前はこの本には記されていない。

 1922年6月1日にウエスタン電気会社はニユーヨークにWEAF局を設立した。このWEAF局は後にNBC全国放送網の基本局になったものだという。この局は同年8月16日に最初のプログラムを放送し、8月28日に初めての特定のスポンサーによる提供番組を放送した。これが最初のコマーシャルメッセージの放送となる。


 それはロングアイランド市のジヤクスンハイツにあるクインスボロー土地賣買會社の社員ブレイクウエルが、ジヤクスンハイツにあるアパート住宅を奬勵する廣告文句を、音樂伴奏なしで十分間話した放送であつた。その時のメツセージの大要は次の通りである。

 今年はアメリカの偉大な小説家ナザニール・ホーソンの歿後五十八年に當ります。偉大な彼の業績を追憶するため、わがクインスボロー會社はホーソン・コートと名づける高級アパートメントを、静寂な環境を背景として建設しましたので、一般の希望者のお申込みに應じたいと思います。雑踏したニユーヨークの不潔な空氣から逃れて、この別天地にお住いになることは、皆様の健康上からいつても理想的であります。地下鐵を御利用になれば、僅か二十分でニユーヨークの商業中心地に達することが出来ますから、非常に便利です。

 純粹ストレートのアナウンス型をとつたこの歴史的廣告放送は、この日一日だけではなく、引續き毎日、一回100弗の放送料金で次のスケデユールで五日間にわたつて放送された。

(p.22-23)


 この初めてのコマーシャルメッセージで興味深いのは、「歿後五十八年」「僅か二十分」と時間に関係する言葉が二つも出ているところである。10分程度の放送時間に対して$100を支払うというのが、最初のコマーシャルの料金だというが、この時間に対して金を払うという制度に影響を受けてコマーシャルの内容も時間にこだわってみたのだろうか。ホーソーンの没後58年という、とても中途半端な年を記念するというのは、よっぽど時間にこだわりたかった為としか思えないのだが。

 考えてみれば、商業放送が確立したこの頃は、またフォード様式の大量生産工場が生まれた時期でもあって、世間全体が時間に対して特に鋭敏になっていたのかもしれない。商業放送誕生のきっかけとなったレコードにしても、2-3分という時間を物理的なモノに変えたものとみることができよう。恐らく、聴取者から金を取らない商業放送という制度が生まれるには、無線という技術だけでなく、時間を課金の単位とすることに違和感を覚えないという社会通念が確立されていることが必要だったのだろう。

 それにしても、最初のコマーシャルにホーソーンの名が使われているのは面白い。そういえば、緋文字のヘスタ・プリンの胸の「A」も、ある意味宣伝みたいなものだもんな。


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