訟庭論草
花井卓藏述   

 人肉事件を論ず

   五月九日の訟庭

  緒論

   1疑獄


 裁判長。本件は實に疑獄てあります。言葉が少し過ぎるようてありますが、空前絶後の疑獄であります。檢事の論、深刻鋭利、而して固く事實を信じて一歩も假借せられないのである。其論告は爬羅剔抉、實に三時間以上を費されて居る。檢事自ら一見明瞭の事件にあらざることを裏書して居られます。論告長しと雖も、而も證明すべき直接の證據は一も示されない。或は四圍の情供より彌縫し、或は被告人の人格より按排し、立論の妙を以て事實の眞を蔽はんとせられて居る。乍併、本件若し眞に爭ひなき事件なりとせば、之に伴ふべき確的の證據存在すべきは當然でありましよう。何ぞ數時間を費して情供人格を云爲して、證據に代用するを要せんやである。本件は疑雲に蔽はれたる一大疑獄にして、眞如の月は未だ訟廷を照して居りませぬ。或意味に於て奇獄であり、或意味に於て怪獄であり、而して實に難件であります。判事檢事の諸公、請うらくは辯護人をして充分に意見を披レキせしめ、共に倶に事の眞實を發見せられんことを。劈頭先づ此要求を致して置きます。
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