2 戀愛狂にあらざる乎

 事件の各論に入るに先ち、少しく大體より觀察して見ようと思ひます。

 第一被告の精神状態である。抑も戀愛は煩悶の種にして、煩悶の極は狂と爲る。而して被告の境遇は如何。明治三十年初夏の頃、野口曾惠と云へる戀人を知りしより此のかた、八年の星霜、其間彼れの心的状態は全然煩悶に狂ふて居る。好んで辯を爲すにあらざるが故に、其慇懃を通ぜし事の道行などは、茲に供述することを致しませぬ。唯被告に就てのみ云ふのです。彼れが八年間の言行態度果して常人を以て見ることを得べきや否や。裁判所に押収せらるる兩人間の艶書は、實に山の如く堆く、而して艶書映(う)つす所の文字よりして、彼れ當時の心緒を察すれば、憎むべき乎、憐むべき乎、將た笑ふ可き乎は直に分ります。通常人の相思纏綿の情とは、到底同視することが出來ないてはありませんか。文字に映(う)つし出されたる筆の迹、若し彼れ心緒の寫生なりとせば、彼れは慥に戀狂てある。常知常能を逸し去つて、早く既に狂と爲つて居る。戀の爲には其身が如何なる事に成らうとも、行末が如何様に成り果うとも、左様の事柄には一切萬事無關心である。學問の研究も、前途の方針も、偖ては骨肉の親しみも、朋友の好しみも、彼れ眼界心境の支配を離れて居る。一意戀の永續を圖るを以て、運命の逢着點と妄想して居る。プルタークの云ひし如く情郎の精神は情婦の精神中に棲息するものと見へ、全く精神が變化して居る。試に艶書を御覽になれば必ず首肯して下さるであろう。艶書の數は二百幾十通。明治三十年五六月の頃よりして、最近縛に就くまで、丁寧に保存せられて、十襲祕藏せられて終に今日の訟廷にまで證據として運ばれて居る。曾惠子の筆の迹は曾惠子の顏とも見える。曾惠子は戀の人にあらずして戀の神である。我れ今心神の總てを捧げて戀神の前に拜跪す、亦何物をか要求せん。是ぞ被告男三郎の生命であつて、而して又信仰であります。戀は癖者とは申しながら、あまりに常軌を逸して居るではありませぬか。被告曩日獄中より豫審終結決定疏明書なる長文を作り、辯護人に寄せて曰く
人誰か對者をして己が專有物たらしめんことを望まざるべき。而して其の最も著しきものは、人生の愛であらうと存じます。即ち愛の本性は自家を對者に與ふるにあります。己を與ふることは愛の内有法則にして、外物を與へたるのみにては滿足するものではありませぬ。外物は或は其意思の發表として、若くは其隨伴物として用をなしましよう。然れども愛の本性は己を飽くまでも對者に與ふるにあるのであります。單に其所有物を與ふるのみならず。併せて又其具有物(自己)をも與へねばなりませぬ。夫れ故に自己を頒與することは、愛の第一義であります。即ち眞正の愛は必ず己れを授受することに依て成立するものと存じます。人人が友として相親むに於けるも亦然り。己が財物を與ふるのみならず、又己れ自身を與へるのです。所謂刎頚の交は生命を共にすべきものであります。而して夫妻の愛は相互に自己を與ふるに始まり又終るものと信して居ります。由是觀之、我が妻曾惠が被告を自己の專有物と爲さんことを希ふと同時に、被告も亦曾惠を我專有物と爲さんことを望むものであります。被告は妻の操を要求すると共に、妻に對する操を守るべきは當然の義務即ち夫妻相互頒與の法則なりと信じて疑はざるものであります。其法則を守らず、其法則に從はずして夫妻相和するを欲するも豈得んやであります。而して被告は妻に對する義務として法則を破つたことは決してありませぬ。云〃
既に御覧に爲つたでしよう。百枚以上もある隨分長い書面であります。多くは讀上げませぬ。否讀上ぐるに忍びませぬ。全篇悉く戀愛の文字を以て填められてある。勿論文字は拙劣である。然れども被告の觀たる戀愛の眞理は乃ち有りです。曰く我れ戀人を專有物とせざれば神聖の愛にあらず。曰く我れ愛者の犠牲となるにあらざれば神聖の戀にあらず。曰く予は予の總てを曾惠に與へ、曾惠亦彼れの總てを予に與へたり。曰く野口曾惠は予の曾惠にして、武林男三郎は彼れの男三郎なり。被告の戀愛觀詮じ來れば斯の如しである。意馬心猿は何人にも免れざることなりと雖も、其迷へる狂へる彼れが如きは稀れであります。由來英雄、美姫の爲めに國を傾く。況んや意思薄弱、被告の如き人に於てをや。可憎乎、可憐乎、將可笑乎。辯護人曾て彼れを監房に訪ひし時、曾惠を思ふて綿〃の情一睡を得ずとて、涙潜潜たるを見たることがあります。戀愛に於ける被告の精神状態は果して常人として見られましょうか。狂人とみられましょうか。而して豈に啻に艶書の保存と云はんや。戀愛の釋明と云はんや。被告は又見るだに厭はしき一種の寫眞を珍藏して、肌身を離さぬのである。之が爲めに學校を落第し、卒業證書を僞造し、一年志願兵を詐はり、通譯官と稱し、人を欺き、己を欺き、果ては罪も咎もなき都築富五郎を殺したのである。其動機皆戀愛に起つて居ると云ふに至ては、狂たる殆んど論は無いと信じます。カーライル戀愛は發狂と全く同一物にあらず、然れども二者共通の點點多しと云つて居る。

 戀に狂へる被告男三郎はバイロンの所謂結婚は幸福の花と爲らずして罪惡の蟲と爲つたのである。寧ろ憐むべきではありませぬか。少年時代には神童として學校に唄はれし者、曾惠と云へる人に戀してより此のかた、學問しようと云ふではなく、立身出世しようと云ふでもなく、學校で習つたことを覺へようとするでもなく、教師の訓戒を守ろふとするでもなく、外に出づれば人と接して恰も曾惠の如く、内に歸れば戀神として愛敬する曾惠の意を迎ふるに是れ努め、憂き身を窶すことの憐れさ。如何に英雄も癡女も此道計りは別とは申しながら、其狂気じみたる態度はあまりに軌道を外づれて居るではありませぬか。百枚の疏明書は我〃辯護人をして精神異状論に重きを惜かしむる好材料と爲るのである。而して此狂的状態は明治三十年四五月の頃から明治三十九年の今月今日乃ち此訟廷にまで繼續致して居ります。

 辯護人は敢て事件に同情を表して、總ての罪を以て寃抂なりとし、被告を救ひ出さうとする者ではありませぬ。寃罪は進んで雪がねばならぬ。犯したる罪には謹んで服せしめねばならぬ。夫れ故に事案を見るに於きましては、最も冷靜公平を主として居るのであります。本件の訴訟記録を精讀して、而して被告を以て戀愛に狂せる者と斷じ、普通一般の人を以て迎へられぬものとして疑を起したのてあります。

 斯く申せば精神状態の異状とはそんなことを申すのではない、被告の如きは一通りの教育もあり、又相當の辯明も出來る、知能の働、缺くる所なく唯だ戀愛に妄想を描けるだけの事である、彼れを以て精神の昏迷者なりと論するは、法律の要求する精神の異状を誤解するものであると云ふ反對論が出るかも知れない。乍併、所謂精神の異状なるものは概論の出來ないことであつて、一概には云へませぬ。我〃は固より醫學上の知識は有して居りませぬ。けれども精神病には種〃なる區別があるものだそうであります。通例は知能の障礙を以て、精神の異状と云ふことに看做されて居るらしゆうありますが、知能に缺くるところなき精神病もあるそうでございます。知能に虧缺ある精神病。知能に虧缺なき精神病。醫學上の區別としては現に存在して居るそうてあります。知能はありと雖も、仍且精神状態に障礙ありとせらるるものは感動狂と爲り、智性狂と爲る。感動狂分類せられて、或は遲鈍狂と爲り、或は妄想狂と爲り、或は迫想狂と爲る。知能に缺くるところありて、而して精神状態に障礙あるものは、之を先天癡狂(重白癡、輕白癡、癡狂)と云ひ、又後天癡狂(麻痺性、老耄性、梅毒性癡狂。外傷性癡狂。竈状病性癡狂)と云ふ。被告は固より多少の教育がある。此訟廷に立つて辯明するところも一應筋が通つて居る。啻に筋が通つて居るのみではない。一の事實に就ては必らず一の立證をする。知能の點に於て決して缺くるところなきものの如くに見へます。然れどもそれは戀愛以外の事項である。若し被告を戀愛の一事に縮めて研究したら什うである。其言ふ所、其行ふ所、其妄想する所に一種の狂的作用が慥に認められます。故に辯護人は本件に關し被告を以て廣き意味に於ける精神状態に障礙あるものとして、法醫學者に命ぜられて鑑定を爲さしめられんことを求めたのである。或は辯護人の豫期する結果を生じたかも知れない。而して私は智性狂の系統に屬する妄想狂若くは迫想狂に近いものと思ひます。

 法律の要求する普通人とは、百般の事に關し、常道を辨へ常識を備ふる人の意義であつて、或妄想に固着して意識混濁し、常道を踏まず、常識を失ふものあらば、其點に於て廣き言葉で云へば狂である。天下婦人多し。明治三十年よりして明治三十九年。而して鐵窓に呻吟してまでも妄想は依然として固着し、戀人以外目に見へず。戀人以外耳に聞へず。男三郎の男三郎にあらずして、曾惠の男三郎なる。何となれば男三郎の心身既に授受せられて、曾惠心身の領内に專屬すればなりと云ふのである。色とか戀とか云ふことになると、英雄も癡女も同じことで、歐洲を席卷したるナポレオンでも、力、山を抜く項羽でも、大抵な所までは馬鹿を遣るものですけれども、被告の樣な思ひ切りの惡い妄想漢は見たことも、聞いたこともありませぬ。

 乍併、辯護人は狂なれば迚、直に刑法七十八條の『罪ヲ犯ス時知覺精神ノ喪失ニ因テ是非ヲ辨別セサルモノハ其罪ヲ論セス』とある條文を適用して、責任を免除し得べきものと主張するものではない。是は自ら別問題てあつて、刑法の要求する知覺精神の喪失とは勿論精神状態の障礙を云ふのでありますけれども、責任の免除は障礙程度の最も高き場合に限るべきことが當然であつて、而して被告を以て必すしも之に該當するものであると主張するのてはありませぬ。唯だ犯罪ありとするも、常人が深思熟慮の上に於て爲せる犯罪と同じように見ることは穏當でないと云ふのです。常人に酌むべき情状はない、然れども狂人に酌むべき情状はある。酌むべき情状がないとしても、其言ふ所は所謂狂者の言、癡人の夢、容易に信を惜けぬ。斯う申すのであります。

 辯護人は今假りに豫審終結決定書を以て事實として、事件全體を観察しませう。人を殺す。物を奪(と)る。檢事の申さるる如く惡魔の化身かも知れない。併、被告事件の二つは慥に爭ひがある。假りに全部決定書通としたところで、其基く所那邊にあるかと問へば、檢事は動機悉く野口家にありと申された。野口家にありと申さるる事即ち總て戀狂の作用と私は受取る。左れば眼前に曾惠なる戀人映ぜざりせば、事件は決して起らない。曾惠なる人あるが故に、此事件は訟廷に運ばれたのである。曾惠とは何ぞや。被告の心身を捧げたる戀神の異名であります。契りし昔に比ぶれば、婚して而して後の厄難は被告をして益〃狂的たらしめたのである。彼れは人間として殆んど何人も有せざる程の妄想に悶へ苦んだのであります。彼れの心事を論ずるに當り、常人の心事を以てせんとするは、事理に通ぜざるの太甚きものと云はねばならぬ。此點は本件の擬律に就て豫め訴へて置く必要があります。

 それから、戀愛に狂せる人の陳述を、他の問題ならばいざ知らず、戀愛の含まれたる事實に關し、而も譎詐百端、昨是今非の申立を間違いなきものとして、信用することが出來るてありましようか。刑法の知覺精神の喪失に當らずとするも、多少にても精神に異状ある以上は其責任は兎も角も、其の陳述には容易に信を措くわけには參りますまい。戀の前には平氣で嘘を言ふ、平氣で罪を犯す。何等の迫害なく、何等の誘導無く、被告人自身自由任意に陳述を致したからと云つても、其の陳述は安心して受取られないてはありませんか。況んや任意不任意は今や訟庭に大問題と爲つて居ります。

 要するに辯護人は被告を以て廣き意味に於ける精神状態の異状者なりと認む。從つて其陳述を採つて、常人の犯罪同樣に證據に供するを不可なりとするものである。又之を以て事實を確定する證據に供するを危險なりと主張するものであります。
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