はしがき

一 訟庭の辯論は人の生命、身體、自由、名譽、財産を保護すべき最も堅牢なる甲冑なり。往昔佛蘭西に於てガンベツタが國事犯の被告人を辯護して、那翁三世を罵り、國民に背きたる謀叛人なりと絶叫したるが如き、其言、稍〃矯激に失せるものありと雖も、訟庭武士の面影として、吾人をして長へに其の英風を髣髴せしむるものあり。訟庭戰場の號令として、一時歐洲全土を震動せしめたるは今更云ふまでもなし。余も亦我國の訟庭をして辯論を尊重するの風を養はしめんと欲し、泰西の事例を引いて屡〃鄙見を公にしたことあり。曾て訟庭叢書を編み、辯論の權威を發揮せんとするの念を起したるは全く之が爲めなり。今夏、疾を獲て、病床に輾轉すること月餘。閑間無聊、筆硯を枕邊に呵して、本篇を考訂、益々其要を感したり。

一 本篇は明治三十九年五月九日及十二日、余が東京地方裁判所第一刑事部訟庭に於て爲したる武林男三郎被告事件の辯論速記を蒐輯したるものに係る。男三郎彼れ何物ぞ。無名の青年、墮落の書生、固より傳ふるに足るべき漢子にあらず。然れとも事の解すべからざる、人の解すべからざる、法醫學、精神病學、人類學、社会學、性相學、其他一般刑事法學より見て、研究の價値、大に有るあるを信ず。若し夫れ、句を鍛ひ章を練るは、余の能くする所にあらず。辯論の要旨にして、セキ採せらるることを得ば、余が望足れり。

一 本篇の主人公は、云ふ迄もなく男三郎なり。然れども余を以て彼れを見る。實に不可解の人物なり。眞、假容易に辯じ得べからず。故に事件を論する、余自らの意見に基き、彼れ多くの陳供に採らず。百僞中、一眞を探ることを得ん。

一 余辯論に於て、豫め案を立てず。訴訟記録を讀んで心髓を把へ、證據物件を閲して、骨脈を探り、解剖的に意見を組成するを例とす。而も論して秩序なく、述べて肯綮に中らざること多し。況んや其言、文章の如きものあり、談話に似たるものあり、又演説に類するものあり。即ち辯論の振はざる所以なり。今本篇を考訂し、淺學菲才、噫我不及を悟り、憮然たるもの之を久ふす。而して訟庭辯論稿を準備するの要あるを痛感す。

一 本篇を一瞥するときは、豫め目次を作り、辯論を結構したるものの如しと雖も、決して然らず。考訂に際し、讀者の便利を圖り、隨意に題名を附したるに過ぎす。

一 本篇に振假名を付するは、余の甚だ欲せざる所なり。井關君の強請に餘儀なくせられたりと雖も、妥當ならざるもの多し。余は全然責任を負はず。

一 本篇の考訂は病床にありて之を爲す。魯魚焉馬の誤謬多きは固より其所なり。讀者、庶幾くは其意のある所を酌み、其至らさるを咎むる勿れ。兼松謙太郎越智馨二氏常に枕邊に侍し、繕寫校正の勞を取り、刊漸くにして成るを告く。謹んて謝意を表す。

 明治三十九年九月初浣稚翠書屋病窓の下に於て

花井卓藏又記す   


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