ニセ首相の顔希望格差社会について


希望格差社会について



 「希望格差社会」という言葉が、巷間よくささやかれています。我が国において、経済的な面での格差が広がっているという意見はよく目にします。が、経済的な格差だけでなく、若年層においては将来に対する希望が持てず、「自らの努力だけでは未来はどうにもならない」と感じる割合が増大しているというのです。我が国の未来を背負う若者の心に、暗い影がさしているのであれば、これはとても重大な問題です。

 このような将来にたいする絶望は、社会階層間の格差が広がることによって生ずる部分も確かにあるでしょう。しかし、このような精神的な問題は、必ずしも経済的な原因に左右されるとは限りません。たとえ、他人から見て必ずしも不幸には見えない生活であったとしても、主観的には絶望していることもあるでしょう。その逆に、貧しい生活をおくっていても、本人が将来に夢を感じているのならば、そこには希望があります。「希望に格差があること」、「希望が平等であること」を客観的に計る指標は存在していないのです。

 希望・絶望の大小を計る難しさの例として、大学進学をあげてみましょう。
(a)「頭はよかったが、親が大学に行かせてくれなかった」

(b)「いくら勉強しても狙っていた大学にはいれなかった」
どちらのケースに、より絶望を感じるでしょうか。

これは、受け取る側の心に依存する問題であって、人によって回答は異なるはずです。ある人は、「自分の能力不足のせいではなく、親のせい」という言い訳が存在している上の例のほうがマシと思うかもしれませんし、「出来るだけのことはやったのだから、受験の失敗は仕方がない」と下の例のほうがマシという人もいるでしょう。事ほど左様に、希望・絶望は主観的な問題なのです。それだけに解決は難しいと言えます。

 よく、経済的な格差を緩和するために、職業訓練や失業保険の充実など、社会的なセーフティネットを用意すべきだという意見がありますが、こと「希望/絶望」という問題に対しては、経済面での最低限の保証は、常に有効に働くとはいえないでしょう。「失業中でも最低限の生活ができる」ということに対しても、それを「幸福」と考えるか「屈辱」と考えるかは、受け取る人次第なのです。

 ではどうすれば、より効率的に「希望」を人々に分け与えることができるのか。ここは、ひとまず「希望」という言葉に立ち返ってみる必要がありそうです。三省堂の「大辞林 第二版」によれば、希望とは
(1)ある事の実現を願いのぞむこと。また、その願い。のぞみ。

(2)将来によせる期待。見通し。
と定義されています。ただ、ニュアンスとしては、単なる「期待」や「見通し」と異なり、「実現の可能性は少々低いが、それが起こることを強く期待している状態」を指しているように思えます。「希望」の希が「まれ」という意であることからも、それは了解されるでしょう。

 「希望格差社会」のキーワードとして、「努力してもどうせうまくいかない」という絶望があげられました。しかし、よく考えてみてください。努力さえすればかならずつかめる目標とは、「夢」や「希望」でしょうか?誰しも青春時代には青臭い将来を想像してしまうものですが、そこで描かれていた「夢」や「希望」は、本人にとっても、「もしかしたら、そうなれるかもしれない」といったものだったはずです。つまり、「努力と、そしていくらかの幸運があればつかめるかもしれないもの」こそが「夢」や「希望」なのです。

 つまり、「努力してもどうせうまくいかない」という若者たちの認識をもう少し丁寧に敷衍すれば、「いくら努力しても、最終的に希望を実現するために必要な幸運なんて、この世知辛い世の中にはあるはずがない。」という絶望であるといえるでしょう。この「幸運」という言葉が、私たちに大きなヒントを与えてくれました。

 クロード・シャブロルという映画監督がいます。彼は、ヌーベルバーグ世代のフランスの監督です。それまで、「カイエ・デュ・シネマ」誌などで映画評を書いていた彼が監督デビューしたきっかけは、偶然伯母の遺産がころがりこんできたことでした。この遺産で彼は製作会社を興し、何本かの映画をつくりました。その中で、「いとこ同志」は特に高い評価を受け、興行的にも成功。そして、この資金を元に彼の友人であるジャン=リュック・ゴダールが長編第一作の「勝手にしやがれ」を作ったのです。確かに、シャブロルもゴダールも才能あふれる逸材だったのでしょう。しかし、「伯母の遺産」という幸運がなければ、彼らが映画を撮ることは無かったかもしれないのです。

 繰り返しになりますが、希望格差社会という言葉で象徴されているものは、若者の間で、「いくらかの幸運」なんて、あり得ないと認識されている状態なのだと思われます。バブル崩壊以後の鬱屈した世情の中で、そのような下向きの態度が一般化してしまったことも、仕方がないことだったのかもしれません。そうであればなおさら、下向きの意識を一気に上向きにするようなパンチのある政策が必要なはずです。

 我々は、いわば「希望のセーフティーネット」といえる画期的な政策を実施したいと考えています。その名を「きぼう創生一億円事業」。かつて、「ふるさと創生一億円事業」という政策が竹下内閣で施行されましたが、それに続く第二弾といえるものです。概要は以下の通り。

  1. 「きぼう創生一億円事業」(総務省所管)は、一年度に5つの事業を募集する。募集対象者は40歳以下の現状に希望を持てない日本国国民とする。なお、年度につき一人一度の応募しか認めない。

  2. 応募書類に書き込む内容は、住所氏名職業年齢の他、自身の「希望」。ただし、「希望」については一億円以内で実現可能な具体的な事業に限る。(例えば、「ラーメン店を開店する」「CDデビューをする」「読者モデルになって一世を風靡する」など。「一億円の預金」など、単に金を要求するだけの希望は認めない)

  3. 総務省は、受け付けた応募書類について、「希望」の実現性の可否などを審査し、可能なものについては、「きぼう創生一億円事業」候補としてストックしておく。

  4. 前年度末の3月に、候補とされた事業の中から、5つをランダムに取り出し、「きぼう創生一億円事業」として認定し、該当者の事業の実現を支援する(単に一億円を渡すことはしない。申し出の合った事業に対する支出と確かに認められる事項だけに対して支払うものとする)
候補になった事業から5つを選ぶに当たっては、その事業の有望性などは一切問いません。また、事業に対する支出のチェックに関しても、事業に関連している支払いであるかは精査しますが、その支出が事業にとって妥当なものであるかは検査対象外です。その事業のプロの目から見れば、無意味で無駄な出費に見えたとしても、その可否は事業認定者の才覚に任されます。なぜなら、「きぼう創生一億円事業」とは、投資や投機ではないからです。「きぼう創生一億円事業」とは、あくまで「幸運」の代替物なのです。

年間にたった五人しか認定されないことで、この事業の実効性を否定的にみる方もいるかもしれません。しかし、確率は低いとはいえ、一億円の援助という「幸運」は確かに存在しているのです。この幸運が、若者たちの「日々の努力」に対する前向きの姿勢を作り出すことを信じてやみません。わが国の将来のため、「きぼう創生一億円事業」について国民の皆様のご理解とご支持をお願いいたします。





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