産業ロック製作所研究紀要 第1号(1994年8月)
Bulletin of the Industrial Rock & Roll Productions No.1(August 1994)

ドラムス専制とヒッチコック

---20世紀の音楽をめぐって---

 音楽好きと自らを任じている人間なら誰でも好みの音楽について議論をしたことがあるはずだ。その議論は、時には趣味を同じくする人間とであったり、時には全く異なる趣向を持つ人間とで交わされるものであったりする。前者の議論(これを議論と呼んでもよい、と仮定した上での話だが)では、互いに崇拝する音楽の形式がいかに素晴らしいかについての際限ないトートロジーの形式をとることが多い。そのジャンルに縁がない人間にはほとんどわからない固有名詞の羅列と、その固有名詞にたいして与えられる賞賛あるいは軽蔑といったパターンが延々と続く。そのパターンの隙間に時折、「ジャズはやっぱりいいね」なり、「クラシックに限る」なり、「やっぱ、ファンクっすよ」なりジャンル全体への崇敬の念が述べられることもある。当人たち同士の感情面での満足はさておくとすれば、端的に言って限りなくゼロに近い生産性しかもたない議論と言っていいだろう。

 では、後者の議論はより生産的と言えるだろうか。我々の経験からすれば答えは「ノー」である。互いに異なる音楽ジャンルの信奉者同士の議論(これを議論と呼んでもよい、と仮定した上での話だが)はほとんど水掛論におちいるのが関の山だ。その水掛論から、つかみあいの喧嘩になることもしばしばなのだが、もし、その場に分別臭い第三者がいれば、「いやあ、音楽はジャンルじゃないよ。いい音楽はいい音楽なんだ。どんなジャンルにあってもいいバンドはいいバンドだし、つまらないバンドはつまらないバンドなんだ」などと紋切り型を並べその場を収拾しようとするだろう。老練な調停者ならば、黒人音楽vs白人音楽の争いならまず間違いなくプレスリーの名を出すだろうし、ファンクvsロックの争いなら、ファンカデリックや、レッド・ツェッペリンの名をあげたり、ジャズvsロックの争いならマイルス・デイビスや、スタイル・カウンシルの名をあげたりと、互いの妥協点に達するためにジャンルをクロスオーバーしているビッグネームを口にする。水掛論の当事者たちはこの第三者の調停を「時の氏神」と受け入れるだろう。この手の水掛論は、この程度の紋切り型で納めるか殴り合いになるかどちらかしかないことぐらいは経験で解っているからだ。そこでめでたく音楽の話は打ち切りになり、円満に解散ということになる。もちろん、それぞれのジャンルに対する信奉にはいささかも揺るぎはないのだが。

 いずれにせよ、奇妙なのは細分化されたジャンルへの耽溺なのだ。もちろん、いずれにせよそういった、「ジャンル」の誕生にはそれぞれの固有の正当性があったには違いないのだが、そういった音楽を作る側の動機よりも、むしろ聞く側の「他のジャンルは聞くまい」とする強固な意志によって「ジャンル」が支えられているのではあるまいか。ある意味で、自分の属する音楽のジャンルを決定するということは、(すくなくとも日本においては(1))社会的な身分を自ら決めてしまう面がある。「パンク」「ヘヴィメタ」「ヒップホップ」の中へ自らを押し込み、それぞれのジャンルの仲間で周囲を固めようとする若者たちの態度をみれば、それが了解できるだろう。もちろん、若者だけのことではない、「クラシック」にしても同じことだ。要するに彼らは、音楽それ自体を希求の対象にしているのではなく、音楽に付随するところの社会的な記号を自らの差異化の道具にしているにすぎないのだ。

 我々産業ロック製作所は、このような細分化されたジャンルには重きをおかない(2)。何故なら、20世紀の音楽には本質的には次の二つの種類しかないからだ。

  1. ドラムスのある音楽
  2. ドラムスのない音楽
 なぜドラムスの有無が分類の前提と成り得るのか?おそらく、この「ドラムス」という楽器の奇形性と、この楽器の専制的な音楽支配が綺麗に忘れられ、都合よく視界から消されてしまった今となっては、こんな疑問が発せられるのも仕方がないことなのかもしれない。演奏される量でも、その音楽を聞く人間の数でも20世紀の音楽の主流を占めているのは、なんといっても「ドラムスのある音楽」であるのにも関わらず、この「ドラムス」の特権性は曖昧に脇に置かれ、あたかもそんなものは存在しないかのように無視されている。おそらくは、この楽器が20世紀初頭に完成されたことさえも忘れられているに違いないのだ。この論文は、その隠蔽されているドラムス奇形性、特権性にいささかなりとも近づこうとする試みである。いくつかの考察の後、最も早くこのドラムスの専制支配の問題に気づいていたと思われるアルフレッド・ヒッチコックの作品「第3逃亡者」を扱うこととする。

 まず、この楽器の奇形性を確かめるために、ジャズピアニスト山下洋輔氏の文章を借り、ドラムスという楽器を改めて眺めてみよう。

「世の中にタイコ打楽器の類は数々あるが、あれ程妙なものもまずない。(中略)その叩き方からしてどうもちゃんとしてない。両手と共に両足まで演奏に動員される。何か落ち着きというものがない。」(3)

「普通、百人のクラシックオーケストラのフォルテッシモに、一台のスネアのロール、一発のシンバルのクラッシュが引き合うことを考えれば、このこと(ドラムのもつ音量が桁違いに大きいこと・・・引用者注)ははっきりする。この楽器はそのシンバルが四枚、スネアを交えたタイコ類が大小とり交ぜて最低四つ、のべつに鳴り響くシロモノなのだ。勿論、クラシックオーケストラのバランスを、どんな意味にしろ、基準にしろといっているのではない。ただエレキ楽器を別にして、他のジャズに使われる楽器が、奏法は独創的といってよいほどそれぞれのプレイやーによって変えられているとはいえ、依然として昔のオーケストラ用に作られたものであることを考えると、その異様さが分かるのだ。同時にエレキ楽器の重要さがヴォリュームという一面でよく分かる気もする。」(4)

 奏法の異様さと暴力的な音量こそがドラムスの生命なのだ。四肢を全て用いるという大道芸めいた奏法の異様さ、特に二つの足が担当するバスドラムとハイハットの異様さはどうだろう。両足を使う楽器が他にあるだろうか。ピアノにしろ、パイプオルガンにしろ、ペダルを踏むのは片足だけだ。その奇妙な奏法によってドラムスは圧倒的な音量を作り出す。重要なことはこの「百人のクラシックオーケストラのフォルテッシモに」対抗しうる圧倒的な音量が、その異様な奏法をマスターしたたった一人の人間によって作り出されるという点である。オーケストラではシンバル、スネア、ティンパニ、バスドラムはそれぞれ別人が担当している。これらの楽器をたった一人であやつろうというのだから、その奏法があのような悪魔的なものに成らざるをえないのも納得がいく。リズムセクションをたった一人で占有しようとする邪悪な欲望があの楽器と奏法を生み出したのだ。このリズム楽器の占有は、必然的に演奏においてのリズム支配を可能にし、やがてはドラムスによる指揮者の排除へと進むだろう。ここにおいて、ドラムスは各演奏における支配を確立したといえる。また、ドラムスは自らの巨大な音量とバランスをとらせるために、他の楽器の進化を強要した。20世紀におけるエレキ楽器、電子楽器の誕生の根底には常にドラムスの音量という陰がちらついている。各演奏における支配と同時に、楽器の変化を促し、音楽を演奏する集団の形態を変えさせたという意味で、20世紀の音楽は二重に支配されてきたと言えるだろう。(5)

 一体、20世紀の音楽この楽器はいつごろ完成されたのだろうか。The new grove dictionary of musical instruments (6)を参考に眺めてみることにしよう。

ドラムスの歴史

1. 初 期
ドラムスの誕生はアメリカの黒人音楽であるブルース、ラグタイム、ジャズと強く結びついている。ジャズの誕生の紋切り型として、「アフリカのリズムと、西洋の和声の融合」がよく言われるが、事はそれほど単純ではないようだ。 (7)
 この「アフリカのリズム」説から考えれば、アフリカの打楽器がアメリカに流れ着いてドラムスという形に結実した、というような美しい物語を夢想したくなるけれども、実際は南北戦争時の軍楽隊や19世紀後半、合衆国で流行していたマーチングバンドで用いられていた打楽器を流用したという性格が強いようだ。初期のニューオーリンズのドラマーたちが軍楽隊の好んだmatched gripでスティックを握っていたことからもそれが裏付けされる。
 1890年代のラグタイムのドラマー達によってバスドラムとスネアの位置が現在のように定まった。この頃はまだバスドラム用のペダルがなく、スティックで叩いたり、爪先で直接蹴ったりしていたらしい。(Baby Doddsというニューオーリンズのドラマーは1920年代でもペダルを使わず爪先で蹴っていたという)

2. Trap Drummer
 20世紀の初頭、ヴォードヴィルなど舞台の音楽を担当するバンドのドラマーをTrap Drummerと呼んだ。こういった舞台のバンドは、演目の最中や、あるいは幕間のつなぎのためにだらだらと演奏を続ける必要があった。そのための賑やかしの道具としてドラムスに付けたスネアとバスドラ以外の小道具をTrapといったため、Trap Drummerという言葉が出来たものと思われる。代表的なTrapはcowbell, woodblock, tom-tom, chinese cymbalといったもの。おそらく、演目中の効果音の代わりの役割も果たしたものと思われる。

3.  完 成
 1920年になり、さらに様々なTrapが試されたが、最も重要な発明はやはりバスドラム用のペダルとハイハットシンバルだった。バスドラム用のペダルにせよ、ハイハットにせよ、ある日突然誕生したものでなくて様々な試みの後、次第に今の形態に落ちついてきたようだ。ハイハットについては、最終的な形態に落ちついた時期が分かっている。1927年に今でも存在している打楽器メーカーLudwigによってジャズの早いリズムに爪先の操作で対応できるハイハットが開発されたらしい。このハイハットをもって、ドラムスの完成とすることができるだろう。つまり、おおよそ1930年ごろを完成の時期とすることができる。

 1930年前後といえば、ビッグバンドジャズの黎明期にあたる。1920年代を通して、常に5-6人、多くても10人に満たない編成で演奏されてきたジャズが何故、大編成で演奏されるようになったのか?ドラムスの音量に対抗するためだ。まだ、エレキ楽器の発達していない当時、ドラムスの音量に対抗するには、楽器の編成を大きくする以外に方法はない。ここに最も早い時期でのドラムスの演奏形態への影響を見て取れる。エレキ楽器の登場をドラムスの音量へのリアクションとして見るならば、その後のロック、リズム&ブルース、フュージョンから、スカ、レゲエ、その他ワールドミュージック(8)までほとんどあらゆるポピュラー音楽でドラムを支配が確立されているのも合点がゆく。ドラムスの影響は、音量を通してだけではない。ハイハット、ドラムペダルの改良によってより早いリズムを叩きだせるようになったこともまた影響を及ぼしている。BPM=200を越える速度で演奏されるビーバップの誕生(1930年代後半)は、ドラムスの完成がなければ考えられなかっただろう。このように、20世紀の音楽の流れにはつねに「ドラムス」の影響が見えかくれしているのだ。(9)

 完璧な支配というものは、おそらくそれが「支配」であることすら察知されない状況にまで自らを透明化するだろう。もし、その透明なものが濁り、可視のものになるとしても、それは一瞬のことだ。だが、我々は是非ともその透明さが可視になる瞬間を捉えねばならない。その貴重な一瞬に立ち会う為に、いよいよアルフレッド・ヒッチコックの「第3逃亡者」(10)を見ることにしよう。

<「第3逃亡者」ストーリー>
 映画女優のクリスティンが、夫のガイと激しい口論をしているシーンから映画が始まる。映画の世界に引っ張りあげてやったのに、売れた今となっちゃあ、亭主を見捨てて男遊びか、とガイがなじっている。どうも、彼らの結婚はクリスティンの人気を損なわない為に世間には秘密になっているらしい(11)(ここでは、ガイの職業は明らかにされていないが、映画のラスト近くになって、ドラマーであることが分かる)。久しぶりに妻に会いに訪れたところ、家に若い男(ロバート・ティスダールという青年作家。彼女に関する物語を書く件でたまたま家を訪れていた)が入っていくのを見たガイが激昂したのだ(緊張すると異常にまばたきをするガイの様子が繰り返しこの口論のシーンに示めされる)
 翌日、クリスティンの死体が浜に打ち上げられる。レインコートのベルトで首を絞められ、海に投げ込まれたのだ。打ち合わせにクリスティンの家を訪れていたロバートが逮捕される。死体のそばに打ち上げられたそのレインコートのベルトが彼の物だったからだ。彼は、そのレインコートはこの町に来てから、酒場の駐車場で盗まれたものだ、と無罪を主張するが聞き入れられない。徹夜の取り調べの後、刑事から、「クリスティンがお前に1200ポンドの遺産を残していた」と聞き、失神してしまう。そこに、たまたま警察署長の娘エリカ・ガーゴインが通りかかり、ロバートの介抱をする。初公判の日、ロバートは裁判所の中で逃走すし、エリカの車の中に身を隠す。(この後、エリカとロバートが互いに心を通わせていくところや、エリカのおばさんの家での鬼ごっこの場面など、魅力的なシーンがあるのだが、この論文の考察とは直接関連がないので割愛することとする)
 ロバートとエリカはレインコートの行方を探し、盗まれた酒場へ行く。そこで、ウイルという浮浪者が似たようなレインコートを着ていたという情報を聞き出し、ウイルの根城の木賃宿へ向かう。ロバートが単身、木賃宿の中に入り探すが、なかなか見つからない。一晩あかした翌朝、ついにウイルを見つけるが、そこに警察がロバートを捕まえに踏み込んでくる。ようやくのところでウイルを連れて逃げ出し、調べてみると彼は確かにロバートの盗まれたレインコートを持っていた。ウイルはこのレインコートを通りすがりの異常にまばたきをする男にもらったと言う。どうもその男が真犯人らしい。しかし、ウイルはその男とは一度会っただけでまったく面識がないという。警察に追われ、三人は廃坑に隠れる逃げるが、地割れがおきて自動車が飲み込まれる。そこに警察がやってきて、ロバートとウイルは逃走するがエリカは連れ戻される。レインコートも警察に押収される。その夜、ロバートはエリカのところに別れを告げにやってくる。警察に出頭するつもりなのだ。ところが、エリカから例のレインコートにグランド・ホテルのマッチが入っていたと聞くと、そのホテルに行って真犯人を捜すことにした。
 ロバート、エリカとウイルはグランド・ホテルに向かう。手がかりは、コートのポケットに入っていたグランド・ホテルのマッチと、その男が異常にまばたきをするということだけだ。警察の見張りが厳しく、ロバートはホテル中に入れずウイルとエリカが二人で真犯人を捜すことにする。しかし、いくら探してもそれらしい人間はみつらかない。犯人は実は、ボール・ルームの演奏中のバンドのドラマーで、このバンドがミンストレル・ショー風に(12)顔を黒く塗っているので顔がよく分からなかったのだ(ヒッチコックはここで、伝説的なクレーン撮影によって映画の観客にだけ前もってドラマーこそが犯人であることを教えてくれる。カメラはまずボール・ルーム全体を俯瞰でとらえる。そこからすこしずつ右にパンしながらカメラを前進させる。まず、バンド全体を、さらに進んでドラムス、さらにドラマーの顔、さらに進んでドラマーの目のアップになる。ここでドラマーは神経質にまばたきをする。)。ウイルとエリカは真犯人を見つけることができず、ロバートも警察に捕らえられてしまった。しかし真犯人のドラマーであるガイは、自分がレインコートを与えたウイルがホテル来ているのを見つけ、また周囲を警官が囲んでいるのに気づいて(実際はロバートを捕らえに来ていた警官なのだが)自分が追いつめられているものと思いこむ。興奮し、次第にまばたきが激しくなる。ついに、不安に押しつぶされ、演奏中にリズムをキープすることができなくなり、失神してしまう。取調室で失神したロバートを介抱したように、エリカは失神したドラマーを介抱する。彼女は、このドラマーが激しくまばたきするのに気づき、ウイルを呼ぶ。ドラマーの黒いドーランをふき取る(13)とそこにはまさしくウイルにコートをめぐんだ男の顔が現れたのである。真犯人が明らかになり、ロバートは晴れて自由の身となる。
 ドラムスの権力を可視のものとする、という目的からこの作品を見るとするなら、注目しなければならないのは次の一点につきる。何故、ドラマーのガイは真犯人であることを隠し通せなかったのか。彼が、普段の通りにリズムを支え、決して目立たないように演奏していれば、不可視の権力機械としてのドラムスは誰の目にもとまらなかったに違いないのだ。おまけに彼は顔にドーランを塗っているのだから、たとえ顔を一度見られたウイルが来ているとしてもばれる恐れはまずない。にも関わらず、彼の罪は白日のもとにさらされる。何故だろうか?それは、ヒッチコックが周到にいくつかの補助線を張り、ドラムスの権力をあぶり出したからだ。では、その補助線とは一体何であろうか?

 先ず注意しなければならないのは、このグランド・ホテルのバンドが演奏する曲である。カメラが一大クレーン撮影でカメラを近づけていき、映画の観客に犯人を指し示すシーンの曲を注意深く聞いてみよう。バンドの演奏にあわせてこのバンドの指揮者が歌を歌っているのだが、その歌詞を紹介する。

When it comes to do the fleet
When it excites your dancing feet
I'm right here to tell you mister
No one can like the drummer man

When it comes to doing flicks
with a pair of hickory sticks
I'm right here to tell you sister
No one can like the drummer man

Everyman who plays in the band is wonderful tune
I've got to give credit where credit is due

But when it comes to make the music on
make you give it all it's got
I'm right here to tell you mister
No one can like the drummer man(14)

 "No one can like the drummer man"(ドラマーほど上手くやる奴はいない)の "can" には、ヒッチコックらしい皮肉で殺人がほのめかされている。ドラムスだってだれにも負けないが、殺人だってドラマーより上手くやる奴はいない、という訳だ。だが、そういった皮肉にとどまらずこの歌詞はドラムスの権力の中枢を暴き出してもいる。4段目以降の部分「確かに、バンドのメンバーはみんないい音してるけど、演奏を進め、曲を曲にするのはドラマーじゃなきゃできないのさ」に注目してみよう。バンドの指揮者がこの歌を歌っていることを思い起こして欲しい。本来、バンドのテンポを定め、演奏を演奏たらしめるはずの男が、指揮棒を振りながら「(指揮者でなくて)ドラムスが演奏を規定する」と、歌っているのである。ドラムスの専横に対する敗北宣言であると言える。この指揮者による敗北宣言は、しかし同時にドラムスの権力に対する最も効果的な攻撃となるであろう。その権力は本質的に見えない場所、背後に隠れることで機能するはずのものであり、たとえ敗北を認めるという形であれ、その権力が存在することを公けにされることは大きな打撃とならざるをえないからだ。実際、このドラマーの敗北は、後で見るようにこのように大きな権力を持たされたが故にやって来るのである。

 第二にヒッチコックが用意したものは、ドラムセットそのものである。図を見て欲しい。いくつか、現在のドラムスと異なっているところがあるのに気づくはずだ。まず、最初に目を引くのが、バスドラムの上に並ぶ奇妙な4つの物体である。何かしら、頭蓋骨を思わせる形態をしているが、これはおそらく音程を違えたカウベルだろう。しかし、カウベルがここに置かれていることを、それが死を象徴する頭蓋骨に似ているが故に殺人をほのめかしているという理由だけに帰してはならない。本来ならここに何が存在していなければならないかを忘れてはならないのだ。少し、目を閉じてドラムセットを思い出してほしい。そして、バスドラムの上に何があるのかを。そう、二つのタムだ。まっとうなドラムセットなら、ここにハイ・タムとミッド・タムの二つのタムが存在しているはずなのだ。もし、ここにタムがあったとしたら、ドラマーの顔までは隠れないにしろ、胸のあたりまでは正面から見えなくなるはずである。その状態でうつむき加減で演奏していればまず顔を見られる心配はない。ところが、このドラムセットにはそのバリケードになりうるタムを欠いているので観客の視線から逃れることができないのだ。もう一つ重要なのはこのドラムセットにはハイハットが存在しないことである。図をみれば分かるように、本来ならハイハットがあるべきはずのところには、小ぶりなチャイニーズシンバルがあるだけだ。このハイハットの欠如も、タムの欠如と同じようにこのドラマーを窮地に陥れる。もし足で操作するハイハットが、このドラムセットに付属していたらどうだっただろうか?ウイルとエリカが舞台に近づいて来たときの、このドラマーの動きを思い起こしてみよう。もし、ハイハットがあれば、左足でハイハットを踏むことでテンポを正確に刻み、左手でスネアを、右足でバスドラムのペダルを踏めば演奏としては問題はない。残った右手でさも頭でも痛いようなふりをして顔を覆えば誰にも怪しまれないですむ。ところが、実際のドラムセットにはハイハットは無く、ガイは演奏に両手を使わざるをえない。片手で顔を隠すことができないのだ。ウイルとエリカはますます近づいてくる。ガイはどうしただろうか?彼は振り返りドラムセットの背後にあるマリンバを急に演奏し始めたのだ。とりあえずはごまかすことができたとはいえ、この編曲を無視した行動は、指揮者の怒りを買い、「もう一度勝手なことをしたら首だ」とどやされてしまう。そして、ますます緊張しまばたきが一層激しくなり、破局への道を進んでいくのだ。ガイの失神する直前のシーンを思いおこして見よう。ガイは立ち上がり、最後に本来ならハイハットがある位置にあるチャイニーズシンバルを恨めしげに叩く。まるで、今さらながらにそれがハイハットでないことを後悔するかのように。
 このドラムセットは、あきらかに時代錯誤な代物なのである。Trap Drummer(上述の「ドラムスの歴史」のTrap drummerの項を参照)時代、つまり20世紀初頭のものとほぼ同じようなつくりなのだ。完全な形態のドラムスを使い得ないことは、ドラムスによる完全な演奏の支配を行使し得ない可能性を暗示している。もし、彼が1930年頃に完成した完全な形態のドラムスを演奏していたなら、この危機から彼は逃げおおせたに違いない。しかしヒッチコックは巧妙に楽器を設定することによって、その逃げ道をふさいだのである。(15)

 最後のヒッチコックの仕掛けは、ガイの奇妙な癖まばたきにある。ある人間が特定の人物であることを表現する視覚的なしかけを用意することは、様々な映画で試みられているが、ここではその仕掛けが、肉体的な特徴(背が高いとか、髪の毛の色等(16))でなく、ある人間の身体の動きがそのしるしとなっている点が問題なのである。自らの意志では制御できないまぶたの痙攣、バランスを欠いた闇雲な動きに支配されること。これは、どこかで見た構図ではないのか。そう、指揮者がいるのに演奏はその指揮者でなくてドラムスに支配されているという、このグランド・ホテルのバンドの権力の構図と同じではないか!意識=正当な指揮者が存在するにも関わらず無意識=ドラムスが運動を制御すること。バンドとドラムスの権力関係の中に、ヒッチコックは巧妙にもドラマーという媒介物を通して身体と無意識という同じ図式の権力構造を持ち込んだのだ。この権力の入れ子構造のなかで、この二つの権力の主体(ドラムスと無意識)は、自らの強大な権力を使いきるという、まさにそのことによって自壊していくだろう。

 その自壊を見る前にここまでの、ヒッチコックの戦略をおさらいしてみることにしよう。まず、(1)歌詞=言語を用い、(指揮者の敗北を認めるという形ではあるが)ドラムスの隠された権力をほのめかし、(2)ドラムスに物理的な操作を行うことでドラマーを視覚的に無防備な姿に置き、(3)バンドを支配するドラムスを操作するドラマーの中にさらに上位の支配系統を置く。この操作の結果、生じた事態というのはどういうものであったのか。それは決して、ドラムス=ドラマーがいさぎよく敗北を認め自ら去っていくという生やさしいものではなかった。その逆に、無意識との闘争の中でドラムスは最後の手段を行使し、自らの権力の巨大さを見せつけようとする。そして、まさにその瞬間に終末(自壊)がやってくるのである。その最後の手段とは何か?それは演奏を止めることだ!演奏を続けさせる唯一絶対の権力を持つということは、同時に演奏を止める唯一絶対の権力を持つことなのである。もし、ガイがストリングスセクションの一員でバイオリンを演奏していたとしよう。彼の演奏が突然乱調になったとして、バンドの演奏が止まるであろうか。背後でドラムスがテンポをキープしていたとしたら、その程度のアクシデントで演奏が止まる訳はないのだ。ドラムス以外の楽器ならいずれにせよ単独では演奏を止めることができまい。だが、ドラムスが演奏を終わらせようとする断固たる意志で事にあたる時、誰もそれに逆らうことはできないのだ。この「第三逃亡者」でのそのシーンを思い出してみよう。ヒッチコックは、先のクレーン撮影で全体からドラマーの顔のアップへとカメラを近づけていったのとちょうど反対に、クレーン撮影でドラムスのアップからカメラを後ろに退いていく。ドラムスの突然の乱調、指揮者は必死でドラムスにテンポを提示するが、いっこうにドラムスは相手にしない。カメラはさらに下がり、バンドメンが慌て出す様子をとらえ、さらに下がって異常を察知したボール・ルームの客達が舞台に近寄っていく様子を映し出す。ドラマーは立ち上がるが失神してしまい、ついに演奏は止まる(17)。ヒッチコックは、その権力の絶対的瞬間に自らの破局にいたるという皮肉な場面を提示することで、権力の透明さが可視になる瞬間を垣間みせたのだ(18)


NOTES

(1)
坂本龍一氏が、以前確か読売新聞の夕刊の文化欄(日付は失念)日本の音楽ファンは視野が狭く、自分の好みのジャンルではないもの、現在の流行ではないものは聞こうとしない、と苦言を呈していた。ということは、この傾向は特に日本に激しいものなのだろうか。
(2)
こう言っておきながら、我が産業ロック製作所が「ロック」を名乗っているのは矛盾のようだが、これは産業としての音楽を確立するために、とりあえず、マーケットの規模が最も大きい「ロック」をとりあえず選んだ結果すぎない。ロックに橋頭堡を築いた後、産業ジャズ、産業クラシック、産業イージーリスニング(イージーリスニングに非産業音楽が存在すると仮定しての話だが)に進出する可能性はある。
(3)
山下洋輔. ピアニストに御用心. 東京, 新潮社(新潮文庫), 1981, p. 49.
(4)
前掲書, p. 50.
(5)
あからさまにはなっていないとは言え、この「ドラムスの支配」に対する不安、敵意は潜在している。様々な(かなり悪意を含んだ)「ドラマージョーク」が生み出されている点からもそれがうなずけよう。「ドラマージョーク」の例については次のサイトを御覧になることをおすすめする。
(6)
The new grove dictionary of musical instruments / edited by Stanley Sadie 1 (a to f) p. 612
(7)
初期のジャズにおけるアフリカ音楽の要素と西欧音楽の要素の関係については、
ガンサー・シューラー著, 湯川新訳. 初期のジャズ:その根元と音楽的発展. 東京, 法政大学出版局, 1996年.
(8)
ワールドミュージックという言葉も定義がもう一つはっきりしない言葉だが、ここでは純粋な民族音楽ではなく、土着の音楽と西欧音楽との複雑な絡まりあいから生じた地域性の強いポピュラー音楽の事を指すこととする。
(9)
ドラムスの支配のしぶとさは電子楽器誕生以降の音楽の流れを見ても分かる。原理的には、電子楽器はいかなる音でも生成可能な代物なのであり、実際シンセサイザーで作られた旧来の楽器では考えられない音が盛んに創造され使われている。ところが、ドラムスは自由に音を創作することを許さなかった。そのかわりに、「ドラム・マシン」を世に送り出したのだ。このドラム・マシンの奇妙に保守的な性格は、その広告の惹句を見れば分かる。「人間のノリをそっくり表現できる」「高精度のサンプリングによる音色」等、本物とそっくり再現できることを謳ったものばかりなのだ。「本物とそっくり」という表現を使うことで、「ドラム・マシン」を何ものかの再現物、代替物で、つまりはまがい物である、と暗に規定し、それを通して自らの「本物性」をことさら強調し、さらに自らの権威を輝かしいものにしようとする陰謀が働いていることは明らかだ。
 いくつかドラム・マシン特有の音色(例えばローランドの初期のドラム・マシンTR-808やTR-909のスネアやバスドラムの音など)が存在することは存在するのだが、それとても、旧来のドラムスのスネア、バスドラム、ハイハットの音色の範疇を越えるものではない。音色の保守性以上に驚くべきことは、旧来のドラムのリズムの生みだし方と、ドラム・マシンのリズムの生みだし方にいささかの違いもない、という点である。ハイハットがテンポを規定し、スネアとバスドラムがビートを生み、フィルインにはタムを使うというリズムの文法は、旧来のドラムスにもドラム・マシンにも全く同様に適用されているのだ。
(10)
Hitchcock, Alfred. 第3逃亡者(YOUNG AND INNOCENT).  英国, ゲインズボロー=ゴーモン・ブリティッシュ・ピクチャーズ, 1937.
以前から疑問に思っていたのだが、邦題「第三逃亡者」とはどういう意味なのだろうか。この映画の日本初公開は1977年だから、その時にこの「第三逃亡者」という邦題が付けられたのだろうが、中身を見てもよくわからないのだ。一体誰が「第三逃亡者」なのだろうか。ラスト近くでは、主人公ロバート、ヒロインのエリカ、浮浪者で、ロバートの無実の証人となるウイルの三人で逃走するからか?でも、それなら「三人の逃走」であって第3逃亡者ではないはずだ。あるいは、ヒーローとヒロインの逃走者と別に、もう一人真犯人のガイも逃げているから、彼が第3の逃亡者である、と言いたかったのか。きっと「第3の男」と人気テレビドラマの「逃亡者」にあやかってヒットするように邦題を付けたのだろうが、すっきりしないことおびただしい。
(11)
秘密にされた結婚を扱った他のヒッチコックの作品と言えば
Hitchcock, Alfred. 見知らぬ乗客(STRANGERS ON A TRAIN).  米国, ワーナー・ブラザース, 1951.
プロテニスプレーヤーで上院議員の娘と婚約した男に、腐れ縁の妻がいて、彼女が離婚に応じない為に事件が起きるというもの。奇妙な事に、この男の名も「第3逃亡者」の男と同じくガイという。
(12)
19世紀初頭からアメリカ合衆国で流行したショウの一形式。黒人のように黒塗りした白人が黒人風の音楽を演奏したり、黒人風のダンスをしたり、黒人訛りの英語でジョークをいったりするもの。ミンストレル・ショウについては
三井徹. マイケル・ジャクソン現象. 東京, 新潮社(新潮文庫), 1985.
(13)
黒塗りの顔からドーランがとれ、白人の顔が現れるというシーンは
Hitchcock, Alfred. 知りすぎていた男(THE MAN WHO KNEW TOO MUCH).  米国, フィルワイト・プロ=パラマウント, 1956.
にも存在する。この作品は、ヒッチコックのイギリス時代の作品
Hitchcock, Alfred. 暗殺者の家(THE MAN WHO KNEW TOO MUCH).  英国, ゴーモン・ブリティッシュ, 1934.のリメイクだが、この黒塗りの男は1934年版では登場しない。
(14)
この歌詞は私が直接聞き取ったので、不正確極まりないことを告白しておく。自分の目で見ても文法的におかしいところがあるのだけれど、そう大きくは間違っていないと思うのだが.....。英語のできるかたは「第3逃亡者」を見て正しい歌詞をこちらまで投稿してください。お願いします。
(15)
出演を依頼したバンドのドラムがたまたま旧式だった、というのは考えにくい。やはりヒッチコックはわざわざ旧式のドラムを選んで映画に使ったものと思われる。何故なら、この映画は1937年に製作されているが、その頃にはハイハットを含んだ現在の形態のドラムがかなり普及していたに違いないからである。現に、「第3逃亡者」の4年前の小津安二郎の1933年の作品「非常線の女」のダンス・ホールのシーンに、すでにドラムセットの中にハイハットが登場しているのだ。
小津安二郎. 非常線の女. 日本, 松竹蒲田, 1933.
(16)
例えば、同じヒッチコックの作品「三十九夜」では、右手の小指が無いという身体的欠損が、ある人間を特定の人間と同定するしるしとなっている。
Hitchcock, Alfred. 三十九夜(THE THIRTY-NINE STEPS). 英国, ゴーモン・ブリティッシュ, 1935.
(17)
ここまで見れば、先のバンドの指揮者の歌の "But when it comes to make the music on" の部分が、途方もない皮肉となっていることがわかる。 "No one can like the drummer man" というのは、バンドの演奏を続けさせることだけでなく、バンドの演奏を止めることにも適用されうるのだ。
(18)
先にもあげた、同じヒッチコック作品の「知りすぎていた男」も同じような主題を扱っているといえる。この場合は、ドラムスではなく、シンバルの一撃に全てがかかっているのだが。黒塗りした男のダイイング・メッセージから家族が事件に巻き込まれ、シンバルの一撃と同時に起きるはずの暗殺計画を、オーケストラの演奏を中断させることで阻止するというのあらすじをみれば、「第3逃亡者」のラストの10分の時間を逆にして一つの映画にしたものが「知りすぎていた男」と言えるかもしれない。

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Industrial Rock & Roll Productions 1996
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