[ レヴュー ]

眼球彷徨日記(口唇期リビドー的)より




 
6月21日

 松尾スズキのミュージカル『キレイ』を観る。俺、自慢じゃないがミュージカルほど苦手なものはない日本男児。クライマックスの「チョー切ない感じで熱唱する奥菜恵にウルウル!」なシーン、その奥菜恵の歌ってるまわりをウロチョロと松尾スズキが踊る。このダンスが素晴しい。例えて言えば「グルーチョ・マルクスが踊るフレッド・アステアのダンス」といった感じ。よーするにヘロヘロしたカンペキ脱力ダンスで、ヘタすると感動(とくに奥菜ファンにとっては)を台無しにしかねないきわどいもの。もちろん感動は逆に倍増する。こういうことをヘーキでやってしまう演出もアッパレだが、ダンサーとしての松尾の尋常でない才能を見た。だから「アステアが踊るグルーチョ・ダンス」と言ったほうが実際はそのクオリティに見合っているかも。「松尾スズキ・ダンスショー」が見たい!マジで。

7月5日

 吹越満の『フキコシ・ソロアクト・ライヴ〜両B面』。ついワハハ本舗と比べてしまうが、笑いが「理に落ち過ぎ」という感じ。「落語的」と言ってもいい(志ん生みたいな出鱈目は例外)。俺、蕎麦も落語も苦手な東男。自慰中にいわゆる「ムスコ」が突如死んだオヤジ(等身大)になる、といったフザケたアイデアは好きだが「ト書き&セリフ付パントマイム」(そういや落語もそうだ)は、どうも冗長になるのが難。むしろ、アイデア一発芸のほうにヒットがあった。ビデオ・プロジェクターを手に持って円形劇場の壁面360°を回す。映像は吹越の顔アップ、扇風機などの吹流し状に伸びたハナ毛が回転速度・方向にシンクロしてなびく。超クダラネー、でも好きだな。何でこの手のものについ反応する俺か? だって、これって「ダンス」じゃん。

7月13日
 人形と人間が渾然となったマジック・シアターの巨匠、P・ジャンティの『漂流者』。ただもうビックリさせてもらおうと足を運んだ者には、今回のジャンティちょっと「文学し過ぎ」の感。それから「ダンスし過ぎ」。そもそも、あっと驚く「変容」こそが彼の舞台の「ダンス性」なのに、普通の意味でのダンス・シーンの挿入はクドいし、鼻白む。もちろんいつもながらのビックリなネタもそれなりにあったが、今回なぜか心ひかれたのは種も仕掛けもわかる単純な「ヘンさ」だったかもしれない。サーカスの小人少女(袋状のパニエの中に脚が折り畳まれているだけなのだが)や首の下に脚が生えた人間(お尻に人形の頭をつけて袋状の衣裳の穴から首を出す)が、舞台を転げ回るのは子供の悪戯(シーツ被って「オバケ〜」みたいな)を見るようで、“意味もなく”楽しい。これは「ダンス」だな、と。しかし俺、何でこんなに幼児性強いかね。

7月14日
 たまには(?)「ダンスの公演」にも行く。ミライクルクル。じつは個人的に目下イチ押し中の若手グループ。なにしろ未来が「来る来る」ではなく「@@」だと仰せになるような「ワケわかんねー」思い込み系(?)のお嬢様方だが、今回はちょっと妄想の強度が弱かったかも。それでもやっぱり唖然とさせられるシーンがあった。膝をついた状態のままで前進し舞台を練り歩く。ただそれだけのことなのに、その美しいこと! 三人縦に並んでぞろぞろと進むさまは、膝から下がワンピースに隠すともなく隠れ、水鳥が泳ぐ姿を思わせた(そして、ちょっとだけジャンティの小人少女も)。だがこんな単純な動作も、舞台の上で「ダンス」として踊られたのは、おそらくこれが初めてなのではないか。

7月15日
 立て続けにダンス公演に。伊藤キムの新作『抱きしめたい』。こちらはどこから見てもれっきとしたコンテンポラリー・ダンス!な舞台。それでもやっぱり「変な」部分に目がいく俺。吊されたカンテラのような小さなスポットだけの照明。その真下に剃髪の伊藤キム。つるつる頭(電球のような)に当たる光がハレーションとなり、踊るその動きにつれて舞台全体の照明効果が変化する。そのことに当人が気付いたが最後、ダンスは、電球のスイッチをカチャカチャひねり、灯けたり消したりする子供じみた無意味な遊びと化すのだった。おそらく稽古中に発見したのだろうが、そこで起った「脱線」をそのまま舞台にのせたのに違いない。その時のキム君のはしゃぎようが目に浮かぶ。「ダンス」でしょ、それはもう。

      
(この原稿は『太陽』9月号に掲載されたものです。著者に断りなく転載を禁じます)
 



     cover page/profile/discographie/"dancin'all night !!/what's new ?/Link to …/Mail to Sakura House