[ レヴュー ]
 

とんまつり祭り&マリー・シュイナール


 
 暑い…。こう暑くては脳が溶けていく。で、必然的に舞台でも「バカなもの」にしか反応しなくなる俺。というか、「7〜8月の舞台」全般が他の月に比べかなり「バカ度」が高いことに気付いたね、しまいにゃ。今日びの「納涼」は恐怖から「バカ」にシフトしてるんじゃないか?
 さて、この夏一番の「バカ」な舞台は、どう考えても、みうらじゅんの『とんまつり祭り』なのだった。みうらさんの新コンセプト「とんまつり」とは、要するに「とんま」な祭りのこと。ある種の伝統行事は「奇祭」などと呼ばれはしても、伝統という「くくり」の内にあるから、大事に保存、真剣に継承などされてきたが、よくよく見れば「ぷぷぷっ、どーかしてしてるぜ!」というほかない、こりゃもう「おいおい!」とツッコミを入れてやることこそが正しい態度、といういわば伝統行事の捉え方における画期的な「パラダイム・チェンジ」なのである。
  例えば愛知県小牧市の「田県祭り」は“白昼堂々、巨大な男根を御輿にして練り歩く”というもので、まさに「どーかしてる」。あるいは東京都太田区の「水止舞い」は“藁で編んだ米俵状のものに入って、首だけ出して螺貝を吹く男。それをみんなで運んでいく”というまさに「とんま」。あと、日本全国18ヶ所の「とんまつり」をせっせと取材したみうらさん、あんたも「どーかしてる」よ!
 で『とんまつり祭り』は、おなじみの『ザ・スライド・ショー』同様、撮り溜めたスライドとビデオを見せまくって、その一個一個にツッコミ=トークするだけ、要は「映写会」というごくごく素朴な形式。にもかかわらず、次々と繰り出されるコンテンツのあまりのスゴさと、的を得たコメント(ま、全部「ど−かしてるよ」というキメの一言に収斂しちゃうわけだが)によって、頭がクラクラするよ−な「めくるめくひととき」となり得ていた。炎天下、夏休みの若者の海をかきわけラフォーレまで足を運んだ者にとって、これほどの「納涼」はなかったと言いたい。
 ところがそのつい翌日、今度は「とんまつりなダンス」というべきものを見てしまった。カンパニー・マリー・シュナール。「ワールドダンス2000・振付の現在」なる国際ダンス・フェスティバル、しかもその目玉の、れっきとしたダンス公演、という「くくり」によって、誰しも真面目な・インテリジェンスな・オシャレな気持ちで客席に着くわけだ。ところが、よくよく見れば「どーかしてるよ」な「とんま」なダンスなの、これが。
 例えば“片手に水の入ったコップ、片手にバケツを持った女が下手から歩いて来る。立ち止まって水を飲みほし、足元にバケツを降ろす。やがて、シーンとした会場にチョロチョロという音が響きわたる”とか、“遠くから石畳を歓喜しながら走って来るといった風に、スポットライトの下、同じ立ち位置でピョンピョヨンしている。(それで次はどう出るか?と待ち構えるうちに)そのまま明りがフェイドアウト、終わり”とかのまあニヤリとさせるタイプのピースも嫌いじゃないが、“素っ裸に腰簑を着け、顔と胸を青塗りした女がブードゥー教か何か呪術的な儀式(インチキだけど)のシャーマンのように、意味不明の叫び声を発しながら踊り狂う。しまいにゃ、頭にシンバル立ててバチでガンガン叩き始める”というようなものを見せられては言葉もない。
 その他、かのニジンスキー作品をベースにした『牧神の午後』は、羊のようにくるくるとカールした角を付けた「女」が踊るもので、例のマスターベーションはどうするんだろうと思ってたら、いきなり角の先端を折って、股間に装着しやがんの、おいおい! そして一番の「とんまつりダンス」は、大仰にも『空間・時間・来世』などと題されたピース。これ、昆虫の触角みたいなものが生えたエイリアンなのだな、たぶん。で、いかにもエイリアンのような擬態を踊る、ただそれだけ。確かに「ダンス」として見てかなりカッコいい、なのにそれはエイリアンの踊り、って何か哀しいものがありません? で、最後に触角をはずすと、槍を持ったアマゾネスのように見え、あー、エイリアンが進化して人類の女になったっつーことね、って。「マリーさん、あんたどーかしてるよ、おい!」としか言いようがありません。みうらさんに見せたい!

(この原稿は『太陽』2000年10月号に掲載されたものに一部手を加えたものです。著者に無断で転載を禁じます)
 


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