リアルの条件(3)

パラパラもまた恐るべし(?)     桜井圭介

 
 今日は「パラパラ」の話から。パラパラ!こんなものが何故これほど
までに蔓延、じゃなかった普及したのか? 言うべきことは山ほどあるが、一
番の理由はやはり「あまりにも簡単だから」ということだろう。究極の「誰で
も踊れるダンス」。ところが、先日「パラパラが踊れない人」約1名を発見。
いや、ちゃんと「振り」は出来ているのだ。なのに何かパラパラに見えない。
不思議だ。その人は中村有志。俳優そして何よりも優れたパントマイマー
である。彼のソロ・パフォーマンス『ONNAYUJI』でのこと。もちろん全編最
高に面白かったのだが、コギャルネタで、パラパラを踊る。ところが、彼が踊
ると「あまりにもしなやかに腕が動いてしまう」ので、パラパラにならない!
もちろん彼も「カキカキ、テキパキ(パラパラ)、一本調子で、手旗信号みた
いに機械的にやる」というパラパラの特徴はしっかり押さえていて、かなり
「なげやり」に腕を動かしているつもりだったのだろう。にも拘わらず、彼の
持っている身体能力がそうさせないのだ。どんなに粗雑に動こうとしても腕が
勝手にしなやかに動いてしまう! そういう中村有志もスゴイが、パラパラもま
た恐るべしである。おそらく、玉三郎もマラーホフもダメだろうな。天才ダン
サーには踊れないダンス、パラパラ。
 さて、今の話、かなりレアなケースだと思うのだが、笠井叡が5人の
女性ダンサーに振り付けた『青空』でも「ヘタなほうが良く
見える」という逆転現象が起った。そこそこはテクニックを持っていて、そこ
そこは身体の利くダンサーと、ほとんど技術を持たず、身体も硬いダンサーが
混じって同じ舞台に立つ。その優劣は「普通のダンス」なら最初から決まって
いるだろう。ところが笠井のこの振付、これがまたかなり「フツーでない」代
物で、一言でいえば「奇怪なポーズの連続」。しかも連続と言ってもポーズと
ポーズの間の連関はなく、動きの起承転結というものがないのだ。それが延々
1時間も続く。だから、それは「パラパラマンガ」のように、何かひとつのも
のとして把握出来る運動にはならない。むしろ、コマ落ちがあまりにも甚だし
いフィルムを見ているのに近いか。恐らくこれは、ある時間的な継起を連続シ
ャッターするのではなく、一瞬のなかに様々なイメージが同時的に存在する空
間(笠井の頭の中!)を、歯ミガキを押し出すように時間的継起に変換した、
そういうものではないかと思うのだ。
 では、このような振付において、ダンサーはどうすれば「踊りこなした」と
言えるのだろうか。5人の中の「踊れるほうのダンサー」は、ポーズとポーズ
の間に欠落したポーズを想像し補填し、一つながりのフレーズにすることによ
って、何か自分なりの「脈絡」を付けようとする。具体的には、ポーズとポー
ズの間の身体の運びをいかに丁寧に、いわば「ダンス的」に踊るかということ
だ。これはダンサーとしてきわめてまっとうなアプローチだ。だが、気の毒な
ことにそのように「デコボコをならす」ことは、この振付の「特殊性」を消去
してしまうばかりなのだ。いっぽう、「踊れないほう」のダンサーには「間を
埋める」とか「ダンス的に処理する」とかいう余裕はない。与えられた振りを
−─英単語に向かうように、意味はともかくスペルだけでも−─死ぬ気で丸暗
記し、本番では一気呵成にはき出すのだった。身体能力的にも体力的にも限界
を超える要求に気力だけで応える。それ自体(スポ根!)を云々するつもりは
ない。ただ、疲労困憊、意識朦朧の状態でも黙々と彼女たちが見せてくれたの
は、まさに笠井の振付のもつ特殊性、さらに言えばトンデモなさ、出鱈目ぶり
なのだ。たしかにこの振付は、ひとつひとつは単に「ヘンなポーズ」に過ぎな
い。ただしその量が膨大なのだ。量は質を変えると言う。それはうまい具合に
ブロックにして記憶したり処理することができない。だからダンサーは容量を
超えるポーズの累積を端から順に実行していくしかない。するとアラ不思議、
帰路に就く観客の頭のなかで、時間から空間に再変換され、マルチ・スクリー
ン状になった夥しい数の「わけのわからないポーズ」たちがブンブン五月蝿く
飛び回っている、ということになるのだった。
 
(この文章は『バレエ』誌2001年1月号に掲載されたものを加筆訂正したものです。著者の許可なく転載を禁じます。)
 


                     Dancin'All Night / Cover Page / Mail to Sakura House