リアルの条件(5)

イデビアン・クルー『フリムクト』



 
 今日のニュースによると、『AIBO』のニュー・モデルが出るらしい。売れてるんだな。
対話型ロボット、15万円。昔のロボット型オモチャは、『AIBO』なんかと違って、決め
られた動きを延々くり返すだけ、壁にぶつかって倒れても、寝ながらジーコジーコ腕振っ
てたものだ。イデビアン・クルー『フリムクト』を観ながら、あのバ
カ・ロボットを思い出していた。
 海辺の環境音のなか、あるダンサーの「振り」は「太陽の照りつける午時の灼けた砂の
上」というふうに、ヨタヨタした足取りでフラフラと登場し、何かにけつまづいたように
脚をカクンと一回。そんな感じの「1フレーズ」。それだけ。似たような小さなフレーズ
1個を踊るダンサーが一人、二人三人と舞台に出て来る。たった一個、各々に与えられた
「振り」を持って空間に放り込まれるオモチャのロボット達。気がつけば舞台は真夏のビ
ーチよろしくダンサーで溢れかえっていた。
 これは最小の素材の操作による、いわゆる「ミニマリズム」の方法と言えるが、ふつう
大抵の場合、単純なフレーズをその単調さに辛抱堪らずつい変化させていったり、どんど
ん複雑なフレーズに発展させていくという「逃げ」に走るのだが、それをやっちゃあおし
まい、「ミニマル」じゃなくて、ただの「主題と変奏」だ。土俵際で粘る井手茂太は、さ
すがにそこのところをちゃんとわかってるね。では、「ミニマル」であるゆえの「単純さ」
は本当に「単調」(だから「退屈」)なのか?
 たしかに個々のダンサーは、基本的には自分のリフレインを延々繰り返すだけだ。けれ
ども、別方向からやってくるダンサーとの位置関係によって、「一つの動き」も瞬間瞬間
その意味あいが変わってくる。早い話が、たまたま二人が向き合う瞬間には各々の動きは、
否応なくひとつの関係(デュオ)となるのだし、その斜め後ろにもダンサーがいればそこ
にはトリオが存在し、さらには舞台上にいるすべてのダンサーとの関係がその瞬間の動き
を唯一無二のものにするのだ。こうして、出来事は刻一刻と生起していき、砂浜の風景は
瞬時に更新され変化し続ける。退屈どころか、一瞬たりとも目が離せない。それなりに長
いシーンだったが、いつまでもズーッと見ていたいと思った。
 これは、かなり驚くべきことではないだろうか。「あらかじめ決定された行為の反復」
と言えば、まさに「コレオグラフィック・システム」の悪として、近頃のダンス方面では
分が悪い。それゆえにフォーサイスは「即興」の可能性を驚異的な実践によって追求し続
けるのだが、巷のフォーサイスもどきや、流行りの「コンタクト・インプロヴィゼーショ
ン」を安易に用いた作品にあるのは、「今ここで、2個の身体が心を開いて向き合いさえ
すればリアル(出あい)は生まれる」という脳天気なコミュニケーション信仰。人は自ら
の行為を主体的に選択しているつもりだが、「運命論」が言うように、あらかじめ決定済
みの事が起こっているだけかもしれない。そういう「懐疑」がまるで欠落しているのだ。
 一方、『フリムクト』の海岸のシーンは、主体性を奪われた状態でいかに出来事が生起
し得るのか、を問うている。この、「即興による偶然性」とかいった気のきいたものの微
塵もない、あらかじめ全てが固定されている「振付」、つまり個々のフレーズ=ダンサー
の投入、配置、経路、タイミングの微調整の厳密さは、前提となる「運命論」だ。その際、
応答を求められているのは我々「観客」の視線である。ある瞬間に、別々に行為する身体
と身体を結ぶ線をどのように読むか、その予測不能性と多数性(フレームは観客の数だけ
ある)に作品を委ねているのだ。それこそを「インタラクティヴ」と呼ぶべきではないか
?  あ、そうか、『AIBO』が「インタラクティヴ」だと言えるのも、こっちが相手をして
やる限りにおいては、ってことじゃん!ていうか、倒れて床でもがいてる駄目ロボット相
手でも、「何してんだ、お前は。ほんとバカだよなー。しばらくそうしてろ。」とか言う
瞬間、それって「インタラクティヴ」?

 音楽之友社刊『バレエ』 2001年5月号初出 )

[付記]
この原稿を雑誌に発表した後、ある人から、ここでの“インタラクティヴ”ということばの使用に関連して以下の
ような指摘を頂戴した。

《CIや即興はまずもって個々の踊る主体間のインタラクティヴィティに関わっているが、それを捨象する代わり
にここで提出される論点は非主体的な「出来事」である。「別々に行為する身体と身体を結ぶ線」、そこで一体
何と何の間にインタラクティヴィティなるものが成立しているというのか?主体的なアクティヴィティ(自由)
すらないのに?あるいは、“見かけの”(=現象としての)インタラクティヴィティに過ぎないものを、それで
もわざわざ「インタラクティヴ!」と見なすことの意味は?》と。

この指摘は、ある意味もっともな批判である。私の書き方のまずさのせいである。じつは、ここで私が問題として
いる(『フリムクト』の)インタラクティヴィティは、フォーサイスやCIにおいて論じられるような「ダンサー
とダンサーの間のインタラクティヴィティ」、つまり「作品内のフレシキビリティ」ではなく、「観客と作品の間
のインタラクティヴィティ」なのだ。たしかにわかりずらい。しかし、現代美術の方面における「インタラクティ
ヴ・アート」は、鑑賞者と作品(作者)のインタラクティヴィティという意味で使用されるわけだから、あながち
特殊な用法とも言えないと思うのだが、どうであろうか。
そのような意味でのインタラクティヴについて、さらに私は「インタラクティヴがインタラクティヴである場所は、
二者の間にというより、おのおのの想像力の働きの上にある」と考える。インタラクティヴ・アートの可能性は半
分は作品の構造にあるが、もう半分は、結局、見るという受動的な行為のなかにもある能動性に負うのだ、という
ごく当たりまえなことに今さらながら気付いたのだ。つまり、出来事の(恣意的な)読み(眺め/切り)取りが、
作品の「掛けがね」になっているのだ。考えてみたら、これほど観客に作品の成立を委ねてしまったことは、どん
なに実験的な舞台でも、かつてなかったのではないかと思う。これまでの「インタラクティヴな」という作品、舞
台は大抵が、何らかの仕掛けを設定して、観客の反応を作品にフィードバックさせる的な発想−−単純なレベル
(さて、この次のシーンはどっちを選びますか?的なもの)から、複雑なレベル(実際はどんなものかよくわから
ないけど、それこそアイボ的なシステム)まで−−には、こちら側が全く応答しないという十分ありうる事態を想
定していない。だから、こちらにしてみればアイボもそうだが、半ば強制されたインタラクティヴなのではないか。
ところが、『フリムクト』が示すのは「いかに固定された世界(作品、システム)であろうが、我々のまなざしと
いう応答によってインタラクティヴたり得る」という逆説だ。もちろん、現状として存在する「インタラクティヴ
・アート」は、そのようなものでないのだから、この原稿自体を、逆説として了解してもらってもよい。いずれに
せよ、この視点は現在のアート・シーンや、それを巡る言説においてはあまり問題にされていないようなので、
今後も御意見・御批判を乞う次第である。

  

 (著者に無断で複製、転載を禁じます)

 



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