レヴュー&クリティック抄


香山リカ(精神分析医)

かっこよく飛翔するバレエの肉体ではなくて、重力や自分の重さに屈し、
ひきつりながら地べたを這う舞踏の肉体。
それは相変わらずなのだが、室伏の動きはあまりに激しく、あまりにいび
つなので、だんだん壊れた機械かマンガ『寄生獣』に出てくる異生物に見
えてくる。しかも、理由はよくわからないけれど、それはどうしても“昔
からある何か”にではなくて“未知の何か”に見えてしまうところが不思
議だ。だから、「ああ、おなじみの暗黒舞踏ね」と古臭く感じることもな
かった。
私自身は運動能力がまったくないし、自分の風邪にもうまく向き合えない
くらい身体感覚が欠如しているのだが、自らの身体性に鋭敏な人がそれを
非日常的に操ってみせるのを、観賞しているのはとても好きだ。
(【香山ココロ週報】 2000.11.27 No.043 より)

 

桜井圭介 (ダンス批評)

■BUTOHとは、「土俗」でも「神秘」でも「癒し」でもない。「アジア主義」も
「J回帰」も「エコロジー」も関係ない。白いカッターシャツに黒のパンツの舞踏家
が何もない舞台に立ったとき、そのことがわかるだろう。
■しかしまた、彼の舞踏は我々の電脳的世界をシミュレートするものでもない。むし
ろその逆、舞踏の身体の高速度と高密度をシミュレートしているのが、電脳空間なの
ではないか。この舞踏家が高速度/超低速度撮影のように驚くべき微細なタイム・コ
ントロールを行使するとき、身体と空間、身体のあらゆる部分と部分の間に瞬時にネ
ットワ−クを組織するとき、そのような「錯誤」に見舞われるだろう。
■リドリー・スコットとギーガーのエイリアンのように身体の内側から隆起してくる
「もうひとつの身体」、それがBUTOHだ。舞踏家の背中がものすごい勢いで丸め
られていくとき、脊椎の一個一個が完璧に分離して動かされるとき、そのことがわか
るだろう。
■在り得べきBUTOH ?  否、現に在るBUTOH、室伏鴻を見よ!
 
 

武藤大祐(美学)

いまや「舞踏」とは、弱気なアイロニーの対象としてかろうじて生き長らえ
ている、一個の理念にすぎないのではないだろうか?
そんな及び腰は、見事に粉砕。仮にもはや「舞踏」などと呼びえないもので
あったとしても、室伏鴻の踊りは、まったくとんでもなかった。とにかく重
要な場面が連続した。室伏の身体と観客の知覚が、時間を追って多様な危機
的局面を次々に迎えていくという意味においてである。
(中略)
そして運動を極限まで抑圧して立つ。まるで皮膚という袋の中をなにか別の、
エネルギーに満ち満ちた生命体がうごめいてでもいるかのように、ある部分
は力をはらんで硬直し、ある部分はあからさまに弛緩し、この両極端がまる
で常軌を逸した仕方で全身に布置されていく。驚愕を禁じえない。室伏は明
らかに、みずからの身体と(いや、何かわからないが確実に何かと)闘ってい
る。
(中略)
この、観客と関係を結びつつ同時に断絶して孤独な、決死の闘いは、そんな
踊りという行為のとらえがたさと、身体というものの持つ底知れぬ深淵をま
ざまざと見せつけた。
誰も手を出せない、自律した、荒れ狂う渦のようなもの。一個の戦争。観客
の視線はなす術もなくそこに巻き込まれるばかりである。本当の身体は言説
化を拒むのではなく、ねじ伏せ、挫折させる。
(音楽之友社「Ballet」誌Vol.18 2001年3月号より)

 
 
 

石井達郎(ダンス批評)

西洋が培ってきた舞踊美学、室伏はそれを頭突きと体当たりで粉砕し、自ら
も砕け散る。その瓦礫のなかから室伏の体が一枚のハガネのように立ちあが
る。まるで、カタコンベの底に眠るいにしえの死体が微動し始めたようだ。
(2000年11月公演『Edge』を観て)

 
 

ジャン・ボードリヤール

(Murobushi の)BUTOH はひきつり revulsion の演劇、あるいは痙攣 convulsion の、
反発 repulsion の演劇だ。その肉体は、半ば猿のように、半ば爬虫類のように、 反り
返り、地に常にもはいつくばり、凶暴なエネルギーにみなぎり、柔らかく、 非人間
的で、食人的だ。西洋の肉体の自然主義的造形性はない。そのかわりにある 肉体は、
仮面をつけられ、曲折し、しなだれかかり、白眼をし、猿のように非劇的 なまでに
わいせつだ。ただし真珠のように光る白い肉体なのだが。
(‥‥)残酷性の秘密、それはほどける代わりにもつれていく記号、床に眼をこらす
記号なのだ。西洋の作舞術(コレオグラフィ)のように、抽象的な空間を何かで満た
そうとするのではなく、空間全体を肉体に帰さなくてはいけない。分別(サンス)を
失い、死刑に処された裸体を代償にして、ただしその裸体自体たるや、我々の肉感的
な想像力にとって決して淫欲的ではなく、従って、残酷でもないのだが。
(「ひきつりの演劇」より──Ko Murobushi の踊りについて)

 
 
 

土方巽(1947-1986)

 また夏ですね。この暑い夏がが来れば、あなたの踊りを思い出すという具
合にこれからも進行するといいと思います。ところで去年の五太子の公演で
あなたが踊られた木乃伊ですがね、あの踊りについておおかたの人は、あま
り触れたがらないですね。何か異様なもの、異形なものという、そういうこ
とで片付けているようですが、私はそうは思わないんです。あの踊りを見た
ときには、あらたな仏骨をまのあたりにしたという感じを抱きました。その
異様な迫力というものは、魔性な情景の実像を把握している。さらに異様な、
まあ私たちの顔前で転げまわったと、そういうあらたな木乃伊の発見、そう
いうふうに私の網膜に映ったわけです。だいたい舞踏するもの、また自分の
からだを舞踏場として揺りいて往くというふうな行為のなかにですね、だい
たい人の如きものになされてしまって、その為にぐらぐら揺らいだ口元だと
か、擦り切れた形なんかをもたせられてしまうわけです。挙げ句の果てにそ
の行為を売りに歩くことさえ覚えてしまう。そういうふうなものを根底から
覆すような新しい舞踏の、まあ発見、古い言葉でいえば、原点というような
ものを確かにこの眼で確認したと思います。だいたいあの木乃伊だって幽霊
に抱かれた乳呑児についての考察を進めていけば、だいたいあの木乃伊の乳
呑児は年の頃七才ばかりに私には見えた。これは私がただそこに転ばされて、
眺められることの感動を味わった二十年前の舞踏の原点と非常に近いんじゃ
ないかと、そういうふうに感じたわけです。ただそこにおかれて在ることの。
ところがあなたの木乃伊は更にこう、発展したものだ、そう思います。
 糊口をしのぐようなこういう刑苦にみちたようなダラダラした暮し方には
やはり鋭い爪でひっ掻きたくなるような心情が必要だし、それはいつの時代
でも人を打つものが含まれているのではないでしょうか。だがもんだいは、
そこにその踊りを見た人にただちに悟られるという、そういう感化力のもん
だいだと思います。まあ年齢が長けてしまって俊速の才に欠けるところがあ
りましてね。あなたの木乃伊には、そのいろんな哭霊が合掌の形をとってお
りましたよ。それはその観客のなかに手を合わせていた老人も、四・五名、
こういう状態というものは、私の経験では確かに異様なものではあるが、そ
の異形さの中に含まれている、まあ邪気のない幼さというか、他奇のない幼
さというか、そういうもののなかに、ついぞまあ試みられなかった舞踏の木
乃伊というものがひそんでいて、のたうったり転がったり、ふきあげてくる
ようなひとつの形相がありましてね、そこに私は一瞬、あやふい艶っぽさを
見い出すことができた。ここらへんに大きなもんだいがあったんじゃないか
と私は、今でもそう考えているわけですよ。だいたい私達のからだにしたっ
て、あなたの宇宙塵を浴びた砂鉄みたいな、極限まで踊りを追い込んでいく
という、解消していくエネルギーだって、この暗いからだを探していけば、
饅頭がからだの中にどこか隠れているんじゃないか、とか、この炎天下をま
じめに歩けば至る所に死んだ顔がいききとして生きかえっているんじゃない
か、だいいちそこらへんの曲がっている道が死んだ顔じゃないか。まあ私な
んかはこういう暑い陽に炙られますと、なんとなくぼぉーっと涙が出てきて
犬の年齢など考える馬鹿くさい所におちてしまいましたが、どんなとこだっ
て踏みこんでいけば、死なんていうよりもっと暗い水なり、なんなりがたっ
ぷりたまっているわけで、それがあなたの踊った七才の木乃伊の表情の中に
私は確かにそのひとつの舞踏の地下水を見た。焦げる肉片をぶらさげた仏骨
を視た。かすかな未知の記憶をつかんでいた。むしろあの焼かれる渦中に炎
の妹も介在していた。こういうものがいっしょくたになって合掌の形を生じ
せしめたのではないか。それは、はなはだ尊いものなのでして、今流行の肉
体論などではとても把握できないもんだと、そう思います。まあ舞踏のいろ
んな探究のしかたがあることはもちろんでしょうが、一度からだをバラバラ
にしてしまいたい、まあ、太陽を乗せた馬車があるならその馬車引きになっ
て炎天下を歩きたいんだとか、そこらへんの道路に転がっている石を拾って
乳を、石から乳しぼる、そういうふうな始源の記憶といいますかねえ、そう
いうものに舞踏は誘われていっているわけなんですね。そう思いますが。え
え、あなたの舞踏の中にもうひとつの苛烈な無為、為さない行為という側面
も私は見たわけですね。それを人間という薄明かりを通して眺めたり、無の
中に自分が入って、焼かれることを願ったり、これを夏の暑さを着てガマに
変貌したり、空耳をもってみたり、そして私達の思考というのは、だんだん
おれてたたまれて、引出しに入れられて、樟脳をかけられて、そしておしま
いになってしまうという所があるんですが、そういうふうな所にだって凶暴
なやさしさが、まあより添っているわけなんでね。あなたが火炎につつまれ
て私達の顔前で転げ回った最中に、私はその裏側に股って、真黒い筒を落下
していたわけですよ。そうしてああいう乳呑児の木乃伊、それがそのまま夏
を背負って、種が黒こげになって、真黒いように堂々と落ちる滝を連想させ
る。そういう所からね、眼をころっと転がすとなんかそこらへんの、その固
まった思考でも、人間でも、なんでもいいんですが、火薬がつまった怒りっ
ていうか、そういうふうなものさえ連想する。ちょっと火放つと瞬時にでも
爆発するんじゃないかと、それをそこらへんに咲いている瓜の花が、こう、
浸ったりしてそよいでいる。もうこたえられないような所にですね、木乃伊
の舞踏はあったわけなんです。
 どうも舞踏の自殺行というふうなものが新しい芽をふかない。そこらへん
の植物だって盛んに自殺しながら新しい芽をふいているのに、どうも舞踏が
危険な、危険というか、安易な所に生い先を狂うような所へ持って行ってい
る。だいいち人間で終わるなどというような、したたかな覚悟のものも見当
たらない。まあこういうことをべらべらしゃべっていますと際限がないわけ
ですが、今回の舞台を見せていただきまして、前回の踊り、私の少年時と重
ねてみたりして、本当にあの木乃伊には私のこうだらけた肉も荒縄で縛られ
るような一瞬を見る事ができたのでどうか、あれを舞踏の原点、竈としてや
っていただきたいと思います。あなたの創造された舞踏と私が、今、頭の中
で炎天下を日傘が歩いている、それを怪獣がうしろから守って歩いているよ
うな、そのくせ、泥鰌があぶくからそれをうかがっているような、そういう
ものと一緒に重ねてみてですね、ええ、誰も踏み込まなかった窒息状態に入
っていきたいものだと思っているわけです。
                        一九七七・七・十一

(1977年7月・背火『常闇形ひながた』公演パンフレットより)




Top Page へ戻る