実録・サハラ越え〜何があってももういいの〜

アルジェリア・ニジェールルート
チュニジア・アルジェリア・ニジェール・チャド・カメルーン・ガボン

Part2 アルジェリア・タマンラセットまで

12月1日

ついにアルジェリアに着いた。早朝、トゥズールのバスステーションを出て

乗合タクシーでネフタへ。そこで車を換えて国境のハズーアへ。

両国の国境は結構離れているのでアルジェリア側まで乗せてもらったため

結構高く5.2Dかかった。すっかりチュニジアのお金が無くなる。

アルジェリア側の国境でいろいろフランス語で質問され時間がかかった。

なんせよく理解できなかったので・・・

なおアルジェリアディナールへの両替はアルジェリア側のイミグレでできる。

現金しか出来ないようだったがレートはそこそこだ。

ここで乗合タクシーを2時間ほどもイミグレの外につっ立って

同行のチュニジア人カップルらと待ち続けた。人は少なく、チュニジア人が

数人いただけ。チュニジアのチュニスやトゥズールには結構西洋人もいたが

アルジェリアではさすがにタマンラセットまで旅行者など一人も会わなかった。

カップルはモスリムの割にかなりオープンにいちゃついていた。

ちょっとイメージ違うなあ。

イミグレ周辺はまさに砂ばっかり、人が住んでるような場所は何も見えず

砂漠のど真ん中という感じで道もそこそこ荒れていた。

朝8時にはハズーアに着いたのだが乗合タクシーが出発したのはけっきょく10時過ぎ。

タクシーは、ボロボロのステーションワゴンでアルジェリアでも

かなり低レベルなほうだ。メーターは何一つ動かないしドアもちゃんと閉まらない。

近距離なのでこれくらいでもいいのだろう。

サハラ周辺では乗合タクシーがポピュラーな乗り物だが

面白いことにチュニジア、アルジェリア、ニジェールと南下するに連れて

乗るのは同じ7人乗りのフランス車でも詰め込む人数が

8人、9人、10人とどんどん増えていき、車もどんどん悪くなる。

良く言えばビンテージものになる。

チャドに至ってはろくに舗装道が無いので四駆の移動がほとんど。

ステーションワゴンは満足に走れなくなる。

アルウエドには100アルジェリアディナール、約150円で12時前に着く。

アルウエドから車を乗り換えウアルグラへはすぐ出発、250Dで2時半には着いた。

ウアルグラで飯を買おうとするがなんせラマダン中、バナナをやっと売ってくれた。

このへんは東部大砂漠と呼ばれる砂漠で、砂丘がかなり美しい。

車窓の眺めも見応え十分。

ウアルグラからガルダイアへも乗り換えた車はすぐに出た。200ADで5時半には着

いた。このへん移動距離が長いので車の状態も良くなる。

まだ薄暮だった。タクシーの停車場から歩いてすぐのホテルアトランティドへ。

ここは一番安い部屋が満室で500Dの部屋に泊まらざるを得なかった。

晩飯はその辺の食堂へ。ラマダン後のちょっぴりゴージャスなメニューを

みんなで食べていたのでモスリムの皆さんと御一緒させて頂いた。

チキンの丸焼きなんかもあり空腹を癒すには充分。さすがに

アルジェリアにしては少し高く300Dもした。でもおいしい。

たまにはこうしたものも食べなければ。

翌2日、まだ辺りが薄暗い7時に乗合タクシーステーションへ行きアルゴレアを目指した。

ホテルの前の通りを真っ直ぐ行って橋を渡ったところだ。300D。

道は完璧に舗装されており車も整備状態は上々。

100km進むのに1時間かからない。で午前中にはアルゴレアに着いた。

この間の道のりも眺めは素晴らしい。サハラ砂漠の片すみの部分だが

圧倒されるような景観も少なくない。

先の東部大砂漠もそうだが、このあとのサハラ越えも、その先の

ニジェール東部もそうだがサハラは同じ砂漠でもいろんな表情を持っている。

実に興味深い。

で、まだ時間はたっぷりあるのでさらに南下し

イッキにアインサラーまで行こうとしたが

なぜかポリスに登録に行けと運転手に言われた。

そこで警察署に行くと、明後日までアインサラーには行けないと言われた。

なんせフランス語しかしゃべれない連中なので何とも言えないが

どうもラマダン明けのテロが多い時期ということもあって

反政府ゲリラを警戒しているのかコンボイのエスコートがある

明後日まではここを出るなと言うことなのだ。まあ、現地人のアドバイスを

無視してもろくなことがないだろうから仕方なくアルゴレアのユースに泊まるこ

とにした。宿泊料はなんと100Dだ。

しかしなんせやることがない。両替が終わると他にやることが無いので

洗濯をしたりマルシェを見て回ったり・・・幸か不幸かユースが街の中心から

離れているのでこの間を移動するだけで結構時間が潰れた。

町の真ん中のタクシステーションでは運ちゃんたちと四方山話をしたりしたが

中に片言の日本語をしゃべれる人も居たから侮れない・・・

まあ、彼らもいつまでも油を売ってるわけでもない。

あとはユースの受付でTVを見たりしたがアラビア語が判らないのでそんな面白く

ない。

ここで2泊とはなあ・・・

食事は3食ともパンや野菜を買ってサンドイッチにしたりして食べた。

バナナやお菓子も買った。外食したい気もしたがちょっとガルダイアで高い飯を

食い過ぎたので倹約モードに入ったのだ。

まあ、色んな物を食いたくともラマダン中なのでたいしたものは夜まで食えない

けど。

警察に乗合タクシーを予約しておけといわれたのでステーションに行ってみると

4日の朝6時に来いと言われた。言えばユースまで迎えに来てくれるという話だが

アフリカではこういう場合来たためしが無いので6時に行くことにした。

安全そうなアルゴレアだが朝6時に荷物持って30分歩くのは不安だったので

ステーション近くのホテル・GrandErgに移ることにした。ここは350AD。

その晩、ユースの管理人をやっているヌールディンさんと夜お茶を飲んだ。

ここで初めてミントティーを飲んだ。ヌールディンさんは町のど真ん中で

食料品店を経営しており、どうも町では名士の一人のような感じだ。

感じのいい人で、すっかり仲良くなり、

ニジェールのアガデスに居る友人まで紹介してもらうことになった。

で、翌4日、アルゴレアを後にしてアインサラーへ。

車はボロボロだが道が良いのであっという間に着いた。

ちなみに車はほとんどプジョー504か505だったが私が乗ったのは

唯一のルノーだった。これもドアがなかなかちゃんと閉まらない。

お昼すぎくらいにアインサラーに着いた。町で他の客を降ろす際に

サイドブレーキが利かないらしく運転手のおっちゃんが席を離れかけたとき

坂を下りはじめひやっとする。

まだゼンゼン日が高いためその日のうちに

タマンラセットへ向かおうと考えたがどうもラマダン明け休日と重なるせいか

今日と明日は乗合バスがないという。

で、今回も警察に登録に行かされた上、宿を紹介されたがなんと

キャンプ場が閉鎖されており、町に一軒しかない高級ホテルに

泊まる羽目になった。1300ADというから1800円ほどもする。

冗談ではない、こんなところに2泊もできるものか。

同じくタマンラセットを目指す現地の若者2人となんとか民間の車の

ヒッチハイクを試みる。

今晩はしょうがないが明日はここを出たい。

すると夜7時ごろ、タマンラセットに行くランドクルーザーがつかまる。

現地の若者2人が交渉してくれた結果1200ADで

乗せてもらえるらしい。バスが1000なので悪くない額だ。

(そもそもアルジェリアにボッタクリなどないが・・・)

急遽宿をチェックアウトし、夜を徹してタマンラセットへ。

思えば散々だった。もちろん金は返してもらえないし、

せっかく高い金払ってホテル泊するんだからと洗濯までしていたので

乾ききってない洗濯物を大急ぎでパッキングして出なくてはならなかった。

おまけにせっかくまとめておいたサハラ越え情報のコピーをこの町で

落としてしまった。

ちなみにアインサラーからタマンラセットまで680kmあるのだが

ここからは急に道が悪くなり、なんと19時間かかった。

もちろんパンクなど当り前だ。真夜中になるとエンジンまで直しはじめた。

道中、運転手たちが持っていたラクダの足の部分をたき火にじかに落として

焼いて食べたり、砂漠の上でお茶を振る舞ってもらったりした。

ラクダの肉はもちろんただ焼くだけなのだがこれがなかなか美味しい。

表面を黒こげにして旨みが逃げ出さないようにじっくり焼いているからだろう、

原始的なようで実に理に適っているのだ。

お茶はよく味が出るように何度もポットからコップに

入れたり出したりするのが特徴だ。巧い人がやるとなかなか鮮やかなお手並みで

いかにもお茶会といった風情を感じるのである。

これはバスで行ったのでは判らない貴重な体験だった。

で、ようやくタマンラセットに着いたのだが昼2時までなら

ニジェールのビザが申請できたのだがタッチの差で逃した。

おかげで翌日は金曜だったので申請は2日遅れとなった。

この間かなり時間をロスしている。こんなに時間はかからないはずなのだが

どうもタイミングが悪い。

もっとも今思えばこんなに急ぐこともなかったのだけど

まあ、なにが起こるか判らない状態がまだ続いていると言われていたので

その時はやはり行けるうちに行っておこうと思うのも仕方なかった。

タマンラセットは意外に外国人も多く、落ち着きのある町だ。

アルゴレアもアインサラーもそうだがやはりここも

「サハラのど真ん中の街」という雰囲気がある。

しかも他の街より程々に大きいのでどこか居心地はいい。

 

タマンラセットではホテル・ティンヒナネというところに泊まる。

綺麗とは言い難いがなかなかいいところだ。

ご主人も親切で、いろいろ情報を教えてくれるし

金に汚いことも無い。町のど真ん中にあり一泊350AD。

ちなみにユースは100AD。町の北の入口のロータリーを

西に1kmほどのところにある。

ビザ申請まで2日時間を潰さなければならなかったのでここでも

町を隅々まで歩いたりレセプションでTVを見たりした。

アニメは見事に日本のものばかりだ。サンデーに連載されていた

学園サッカーものやちょっと怖い内容の昔の少女漫画、たとえば青池保子

ふうの、などをやっていた。アルジェリアの人が見て判るのだろうか・・・

ちなみに藤堂が会社員時代、寮で同部屋だった吉野君は

青池保子先生の親戚だったらしい・・・関係ない話だが。

 

ここですでにバイクでサハラ越えを達成し帰って来たスイス人クリストフと

知り合う。身長は190cmほどもある。

僅かこの2ヶ月後に彼のジュネーブの自宅を訪ねることになるとは

この時全く想像できなかった。

 

クリストフと同じ宿で生活のリズムも似ているので良く一緒に食事をした。

お互い相当暇だったと言うのもあるが・・・

ちなみに彼、タマンラセットからリヨンまでのエアチケットを持っていたので

フライトを待っていたのだ。チケットは僅か180ユーロ相当だとか。

国営のエールアルジェリは高いのでカリファ航空がいいらしい。

さすがにパンとチーズばかりを買って食うわけにも行かないので

この町では奮発し彼とよくテーブルをともにしたのだが、まあ食事も美味しい。

アルゴレアも良かったがここでアルジェリアを決定的に好きになった。

結果的にここに3泊することになったのだが今思えばかえって

よかったのかもしれない。

話をクリストフに戻すが彼はフランス語圏のスイス人だが

英語も達者だ。

おかげで情報交換もさる事ながらいろいろな世間話も出来た。

フランス語会話も多少教えてもらった。

過去形の正確な区別が良く分からなかったが

avoir+過去分詞が通常の場合で、etreを使うのが移動をあらわす動詞と

ここでしっかり覚えた。

予定を話すときは動詞の現在形でも充分だが

過去のことを話すのに現在形ではさすがに混乱を与えるので

しっかり覚えられて良かった。

私と好んで話をするくらいだから彼も相当な親日派で

日本に来たこともあるという。

詳細は後で述べるがジュネーブの自宅に行ってビックリ、かなりのものだった。

 

近年日本で国旗や国歌を巡る問題が学校などで起きているという

話題になった。

私は「別に今の国旗も国歌も反対とまでは言わないが

これだけ嫌がる人が居るのなら世界で唯一国旗も国歌も無い国になっても

いいんじゃないのか」と言ったら彼は笑っていた。

ちなみにオリンピックなど各国が一堂に会するイベントでは

白旗を上げればいいと思う。平和の象徴だ。

オリンピックで金メダルを取ったら、選手が好きな曲を選択して

表彰式でかけるわけである。

私だったら沢田研二の「ヤマトより愛をこめて」だね。

で、サッカーの試合前の国歌斉唱は

誰かが言ってたが日本代表サポーターも

唄っている「翼をください」を唄えばいいのである。

メロディの展開の素晴らしさも海外の皆さんにも誇れるものだし

歌詞も、選手・ファンともにモティベーションが上がるのではないだろうか。

 

今の国旗や国歌もあってもいいがそれを法律で強制するのもね・・・

それに教育基本法改正とかいって「日本の文化や伝統」を

押し付けるのもちょっと考えてしまうし、伝統とか文化といったら

日の丸や天皇制ばかりに常に結びつけるのもどうかと。

だからといって日本人のくせに日本の文化をバカにして

いい気になる若い者も嫌いだ。

これに関連する話だが5年前、ジンバブエを旅行していて驚いたことがある。

首都ハラレで音楽フェスティバルがあったので見に行ったのだが

指ピアノ(ムビラとかカリンバと呼ばれるやつ)やアフリカ風の太鼓を

使う、伝統的な音楽をやる楽団がステージに上がるとジンバブエの

若者からブーイングを浴びるのである。

かと思うとエレキギターやエレキベースを使うリンガラ音楽を

やるバンドが出ると拍手が起こる。

(ジンバブエ人から見て)外国人たる我々が興味深いのはむしろ前者だが、

ジンバブエの若者にとっては逆なのだ。

それを不思議がっていると一緒に行った黒人音楽大スキの

伊藤さんという方が

「日本人だって演歌や民謡は若者にカッコ悪いと見なされてるじゃないですか。

逆にロックバンドが人気がある。それと同じですよ」実に腑に落ちた。

そう言えば、70年代にジョージハリスンやレッドツェッペリンや

トラフィックがインドのシタールのサウンドをロックに取り入れたりしたが

それはイギリス人や日本人には斬新でかっこよく見えたけど

インド人には滑稽で失笑モノだったんだろうなあ・・・

だって三味線奏者がロックバンドと共演したりしていると

我々日本人は無惨で見ていられない思いがするではないか。

また、広島大学の相撲部は今やOBとアラブなどの外人留学生だけで

成り立っているのだそうだ。

若い日本の学生は相撲など恥かしくてやってられないのだ。

半面、留学生には相撲はもっとも興味深い日本文化の一つらしいのだ。

自国の文化の素晴らしさを外国人だけが理解しているのも

実におかしな話だ。

 

国際交流というと若い人はまず何もかも外国人の真似をしたがる。

かと思うと最近は政府広報のテレビCMで

「国際交流はまず自分の国のことを知ることだ」、なんて言い出す。

たしかにそのとおりだし日本の大人にとって日本の若者が身なりや髪の色まで

外人の真似をしているのを外人に見られた場合を考えると

情けなく思えるだろうから

こんな事を言い出すのだろう。その心情は分からなくはない。

日本のお偉いさんは子供が自分の国のことをこんなに知らないのは

日本人だけだと思い込んでいるのだ。

でも、イタリアだかフランスだかは自国の国旗をかなりの割合が

間違えるほどらしい。

(むしろそういう国ほど自由主義が成熟しているとも思える・・・)

ヨーロッパだって若者は英米の音楽やハリウッド映画に熱中していたりして

大人は憂いているらしい。どこもそんなものなのだ。

言語から音楽から建築、絵画、彫刻、カルチョなどとてつもない文化大国

イタリアでさえそうらしいのだ。

「若者にはもっとイタリアの芸術や文化の素晴らしさを分かって欲しい」と

イタリア人さえ考えているらしいのだ。

 

国際交流の本質は結局は

他国だけを見ることでも、自国の視点で自国を見ることでもなく

他国の視点で自国を見ることから始まるのではないだろうか。

一見相容れないようでも真のナショナリズムはグローバリズムと矛盾しないのだ。

日本は自国の視点で他国見てばっかりいるのだ。

それが出来ていないから日本は国際交流どころか

近隣諸国ともいまだマトモに付き合えないのだ。

(まあ日本だけじゃないけどね。USAとかもそう)

 

暇なので答えの出難い、難しい問題もあれこれ考えることが出来る。

旅のいいところだ。

 

で、土曜日、ようやくニジェール大使館に行く日になった。

 

つづく

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