「がんばれ!あかね 完全版」


 あかねにはひみつがあった。
 そのひみつをあかねはとてもいやだと思っている。
 しょうがないじゃない、
 私が悪いんじゃない。
 それにわざとかくしているわけじゃないもん。
 みんなだって自分のお父さんやお母さんのことあまり話さないし、
 パパやママだってあまりいいふらしてほしくないにきまってるわ。

 だけど、ほんとうはひみつにしてはいけないひみつだということを
あかねにはわかっていた。

 あかねの名前は橋口茜(はしぐちあかね)という。
 今年の四月に六年生になった、クラスでもひょうばんのがんばりやさんだ。
 みつあみがとってもよくにあってると言われてから、いつもみつあみにしている
のでみつあみがあかねのトレードマークになっている。
 お父さんの名前は知治(ともはる)、お母さんは康江(やすえ)という。
 小学校二年生の弟がひとりいるごく普通の家庭である。

 ただひとつちがっていたのは、
 あかねのお父さんとお母さんがろうあ者だということだった。


 ろうあ者というのは耳がきこえないひとのことをいう。
 「ろうあ」は「聾唖」と書く。「聾」というのは龍(りゅう)に耳がないことから、
 耳がきこえないことをあらわし、「唖」はしゃべれないことである。
 でも、ほんとうにしゃべれない「ろうあ者」はあまりいない。耳がきこえないため
にふつうの人のようにうまく声がだせない人がほとんどである。
 あかねのお父さんは生まれたときから耳がきこえなかったので、あかねに話しかけ
る時以外はあまり声をつかってはなすことがない。お母さんは小学校に入る前に病気
になってきこえなくなったそうだ。
 お母さんのしゃべることはあかねは全部わかる。九州にすんでいるお母さんのお母
さんとお父さん、つまりあかねのおばあさんとおじいさんもわかる。でも、近くにす
んでいるおじいちゃん、お父さんのお父さんだけど、このおじいちゃんはお母さんの
いうことがわからないらしい。
 あかねはいつもふしぎだなと思っている。


 あかねのお父さんとお母さんが「ろうあ者」だということを、今のクラスのみんな
はだれも知らない。おとうとの慶治(けいじ)が小学生になった2年前、引っ越して
今の学校に転校してきたからだ。
 前にいた学校ではクラス友だちはみんな知っていた。なかよしの友だちは、とくに
なんともなかったけれど、いちど、いじわるな男の子とケンカしたとき、「なんだ、
ツンボの子のくせに」といわれたことがあった。
 あかねは「ツンボ」ということばのいみがわからなかったけれど、なんとなくその
子がひどいことをいったということはわかった。
 そのことをお母さんにいったら、お母さんはびっくりして、とてもかなしそうな顔
をした。あかねがいままで見たことがないくらいの、いまにも泣き出しそうな顔だっ
た。
 その晩、お母さんがお父さんとはなしあいながら、泣いていたことをあかねは知っ
ている。

 その時からあかねはお父さんとお母さんの耳が聞こえないことをだれにも言わなく
なった。

 あかねは英語の塾にかよっている。
 保育園にいたころ、英語に慣れるためというおじいさんのすすめで通いはじめて、
もう6年めだ。毎週1回だけど、もうかんたんな英語ならすらすらよめる。
 今日も学校がおわってから、英語の塾へいった。おなじクラスの子はいないけれど、
おなじ学校の6年生の子も何人かいる。
 塾の時間は5時から6時までだから、塾がおわってかえるとちゅうの商店街は仕事
がおわって帰るひとや、買いものにいくひとがたくさんあるいている。
 その日も塾がおわってからおなじ学校の友だちとあるいていた。
 「おい、あれを見ろよ」といったのはいちばんまえをあるいていたヒロシ君だった。
 ヒロシ君があごをしゃくった方を見ると、二人の男の人があるいている。
 その二人は大きく手を動かしたり指をまげたりしていた。
 口はほとんど動いていない。
 「知ってるか、あれ、手話っていうんだぜ」
 ヒロシ君が言った。

 あかねはちらっと二人の方を見た。
 二人が何を話しているか、あかねには少しわかった。
 お父さんとお母さんも手話を使って話している。お母さんは手話を使うときはいつ
も口も動かして、声もだしていた。
 お父さんも口は動かすけれど、声はあまり出さない。あかねには手話と声で話しか
けてくれる。小さいころからそうしてくれたから手話はだいたいわかるけれど、声は
ときどきわからないこともある。
 今の二人は口をほとんど動かしていない。お父さんよりだいぶ年上、おじいさんよ
り少し若いくらいだろうか。
 「ふん、へんなの」ヒロシ君のとなりにいた、ハヤト君が言った。
 あかねはびくっとした。
 「ばかみたいだな。手をめちゃめちゃに動かしてるし」
 「そんなこと言っちゃいけないんだよ」ヒロシ君が言った。
 「耳か不自由な人だからかわいそうなんだよ」
 あかねはなんだかいやな気もちになった。


 いつのころだったろうか。あかねがじぶんのお父さんとお母さんがほかの人と違う
と気がついたのは。
 もうだいぶ前のことだったようにあかねは思う。
 特にお父さんはちいさいころからほかの人と違うとわかっていた。
 あかねが声でよんでもふりむいてくれない。
 声ではなしかけても、なかなかへんじしてくれなくて、うんうんとうなずいて、頭
をなでてくれるだけだった。
 エレベータで両手に荷物をもった人がお父さんになんども「すみません、9階を
押してくれませんか」と言ってもお父さんはしらんぷりだった。
 とうとうその人はおこって、荷物をおいてじぶんでボタンをおした。
 いつもしんせつなお父さんがどうしていじわるをするのかふじぎに思ったものだ。
 いま考えると耳がきこえないために気がつかなかったからとわかる。
 あかねは、さっきの二人の悪口がお父さんへの悪口のようでとってもいやだった。

 「橋口も、そう思うよな」
 とつぜんヒロシ君に声をかけられてあかねは、はっとわれにかえった。
 「橋口も手話を見たの初めて?」ヒロシ君がもういちどきいた。
 あかねは思わず首をふった。
 「そうだろ、橋口もテレビで見たよな」
 あかねはだまっていた。
 「こないだ、NHK見てたらさ、手話の教室やってんだ。おもしろそうだからちょ
っとだけ見たけど、むずかしくてすぐほかの番組にしちゃった」
 ヒロシ君は話しつづけている。
 「あたし、帰る!」
 突然、あかねはたちどまって言った。
 そのまま二人を見ないようにしてかけだした。
 ヒロシ君とハヤト君はいつもとちがうあかねの態度にけげんな顔をしながら、か
けさるあかねのうしろすがたを見送っていた。


 あかねのお家はときどきみんなで近くのレストランに食事にいく。
 あかねはレストランに行くのが大好きだった。
 小さいころはレストランの前を通るたび、「いらっしゃいませのお店で食べよう」と
言ってこまらせていたとお母さんが笑って言っているくらいだ。
 でも、最近お父さんといっしょにレストランに行きたくないと思う。
 だって、お父さんといっしょにいると恥ずかしいんだもん。
 ときどき、変な声を出すし、スプーンやフォークを大きな音をたててぶつけても知
らん顔をしている。
 食べるときだってクチャクチャと音をたてて食べる。
 まわりの人がいやな顔をしているのに気づいて、赤くなったこともある。
 今日もお母さんが「久しぶりにレストランに行きましょう」と言ったとき、あかね
はなんだかゆううつな気分になった。


 レストランはいつもよりたくさん人がはいっていた。
 あかねは、まっさきに入るとカウンターの人に「はしぐち、4人」と告げた。
 前は、そういうのがあかねの役目と思ってうれしくて言っていた。でも最近は、お父
さんが声を出すとまわりの人がおかしな顔をするので、それがいやだからお父さんに
声をださせないように先に言うようにしている自分に気がついている。
 しばらく待つと、ウェイトレスのお姉さんが席に案内してくれた。
 お父さんは楽しそうにメニューを見ている。
 どうか大きな声をだしませんように、とあかねは心の中でいのった。
 「こえ!」お父さんは大きな声でメニューを指さしながら、注文をとりにきたウェ
イトレスのお姉さんに向かって言った。
 「これ」と言ったことはあかねにはわかった。でも知らない人が聞いたら「こえ」と
しかきこえない声だった。
 ウェイトレスのお姉さんは大きな声だったのと、何と言っているのかわからなくて
ちょっとびっくりしたようだ。

 「こえ!」わからなかったと思って、お父さんはもっと大きな声をはりあげた。
 ウェイトレスのお姉さんはやっと「これ」と言っていることに気がついたらしく、
 「あ、はい、和風ハンバーグですね」とオーダー表に書き込んでいる。
 まわりの席の人がチラチラとお父さんの方を見ているのがあかねは気になってしか
たなかった。
 料理が運ばれてきた。
 いつもならお父さんが大きな音をたてて食べてもあかねは気にならなかったけど、今
日はお父さんの食べる音を聞いていると料理を食べる気がぜんぜんなくなってしまった。
 ウェイトレスのお姉さんたちもまわりの人たちも、みんながあかねたちの方を見て
笑っているような気がした。
 お父さんはそんなあかねの気も知らず、大きな音をたててスープをすすっている。
 もういや!どうして私ばかりこんなはずかしい思いをしなくちゃいけないの!
 そう思ったとき、あかねは思わずたちあがって、お父さんに向かって手話と声で言
ってしまっていた。
 「お父さんなんか、だいっきらい!」



 あかねは、学校の帰りにひとりでとぼとぼ歩いていた。
 あかねはお父さんが大好きだった。
 女の子が欲しかったお父さんは、あかねが生まれたとき大よろこびして、あかねを
とてもかわいがってくれた。
 そんなお父さんにあかねはとてもよくなついていた。
 お父さんにむかってひどいことを言ったのであかねはとても落ちこんでいた。
 あの時、お父さんはおこらなかった。びっくりして、そしてかなしそうな顔をして
いた。
 その顔を思い出すと、あかねはお父さんにとてもわるいことをしたという気もちに
なった。

 「あら、あかねちゃん!」
 そのとき、あかねに呼びかける声があった。

 呼びかけてきたのはやさしそうな女の人だった。
 あかねはその人をよく知っていた。
 川原さんと言って、あかねが病気になったとき、なんどもお父さんとお母さんのた
めに手話通訳に来てくれた人だ。
 手話通訳というのは、手話を知らないひとと、聞こえない人がはなしをする時、手
話で通訳することだ。英語を話す外国人と話すとき、英語を通訳する人がいるのと同
じだ。
 川原さんはその手話通訳の仕事をしている。
 近くに住んでいるので、あかねのおうちにお父さんに用があるとかで、ときどき来
ることもある。
 「今、仕事が終わったところよ。駅までいっしょに歩きましょう」
 川原さんはにっこり笑いかけた。


 あかねと川原さんはならんで歩いていった。
 川原さんはあまり背が高くないのでクラスでも大きめのあかねとならんで歩くと、少
し高いくらいだ。
 あかねはやさしい川原さんなら、いまの気もちをわかってくれそうな気がしてきた。
 「川原さん、あのね……」
 「なあに?」
 「わたし、お父さんにひどいこと言っちやった」
 あかねは話しはじめた。お父さんのことをはずかしいと思ったこと、そんな自分が
大きらいだということ、でもどうしたらいいかわからないこと……
 川原さんはだまって聞いていた。
 「わたし、やさしいお父さんが大好き。でも、このままじゃほんとうにきらいにな
っちゃう……」あかねは目に涙をにじませながら言った。
 その時、だまっていた川原さんが口をひらいた。
 「あかねちゃん、あかねちゃんの気もち、わたしにはよくわかるわ。どうして、そ
んなふうに思うのかも」

 川原さんは話し続けた。
 「あかねちゃん、あなたは大好きなお父さんがどんなにりっぱな人か、まず知らな
くっちゃね。でも、口で言ってもわかりにくいわね……」
 川原さんはちょっと考え込んだあと、何かを思いついたように言った。
 「うん、それがいいわ。あのね、あかねちゃん、あしたの夜、わたしといっしょに
行ける?」
 「あしたの夜?火曜日の夜は、お父さんいつもかえりがおそくてお家にいないから、
お母さんがいいっていったら行けるよ」
 「じゃあ、お父さんがいつもおそいわけをあしたおしえたげる。お母さんには私か
ら話しておくわ」
 川原さんはニコッと笑って言った。


 火曜日の夜、約束の時間に川原さんがむかえにきた。
 「お父さんには言ってないわね」
 「うん。約束だから」
 「じゃ、いきましょう」
 川原さんが連れていってくれたのは、駅ひとつ向こうの市民センターだった。
 50人がはいれるくらいの部屋の入り口に『手話講習会』と書いてある。
 部屋の中はすでに人でいっぱいだった。
 「手話…こうしゅうかい?」あかねはそれを読んで言った。
 「そう。あなたのお父さんが先生なのよ」
 川原さんが言った。
 「お父さんが先生!?」あかねは目をまるくした。
 「お父さん、まだ来ていないようね。あかねちゃんがいるとびっくりして教えまち
がえるといけないから、ここにかくれて見ててね」
 川原さんはいたずらっぽく笑いながら言った。

 部屋のすみにそなえつけられたテレビ台の後ろのいすにすわっていると、やがて、お父
さんが入ってきた。
 あかねは見つからないように身をちぢこませた。
 お父さんは前の方の少し高くなったところに歩いていくと、みんなの前にむきなお
った。
 そばには川原さんがマイクを持ってすわっている。
 お父さんがみんなに向かって手話で話しはじめた。声はだしていない。
 その時、スピーカーから「みなさん、こんばんは。先週教えたこと、まだ覚えてま
すか?」という声がながれでた。
 あかねは、川原さんがお父さんの言っている手話を読みとってマイクにむかって声
をだしていることに気がついた。

 「先週は手話の表現の順は話し言葉と必ずしも同じでないと話しましたね。日本語
と英語の言葉の順序がちがうように、手話とみなさんが話している言葉の順序がちが
うこともあります」
 お父さんが話している手話を川原さんが声に変えていく。まるでほんとうにお父さ
んが話しているみたいだ。
 お父さんがいろいろ手話の表現の方法をみんなに教えている。みんなは、じっとお父
さんの手話を見つめていた。
 あかねはお父さんがなんだかいつものお父さんとちがうように見えた。
 「いつも話しているように、聞こえないとまわりのようすがわかりません。手話を
学んだみなさんは、できるだけ聞こえない人にまわりの状況や、どんなことがあるか
おしえてあげて下さい。わたしもこのあいだ娘におこられました」
 あかねはドキッとした。


 次の日、あかねは川原さんに電話をかけた。
 昨日のお礼を言いたかったのと、どうしても聞きたいことがあったからだ。
 「川原さん、聞いていい?」
 「どんなこと?」
 「川原さんは、どうして手話通訳になりたいって思ったの?」

 しばらく間があってから川原さんのこたえがあった。
 「私のね、父と母もろうあ者だったの」



 川原さんの両親も耳が聞こえなかった。
 二人とも戦争がはじまる少し前に生まれた。耳がきこえないことがわかったときは
もう戦争がはじまっていた。
 戦争中と戦争が終わってしばらくのあいだは、勉強どころではなかった。だから、小
学校のあいだ十分な教育をうけていない。
 そのため、二人とも、声はまったくといっていいくらい出せなかったし、文もうま
く書けない。話し合う方法は手話だけである。
 川原さんはそういう両親に育てられた。話し合う方法は手話だけだったから、いや
でも手話はうまくなった。そのころは、手話通訳をできる人が少なかったから、川原
さんは小さいころから両親のために手話通訳をやっていた。
 「さいしょはよかったの。でもそのうちに、父と母のために手話通訳をやるのがい
やでいやでたまらなくなったの」川原さんは言った。

 ある時川原さんは両親にむかって言ったそうだ。
 「私は父さんと母さんの道具じゃない!だからもう手話通訳はしない!」
 両親はおどろいたけどだまったまま何も言わなかった。

 「でもね、なぜ気が変わったかというと、父と母がしてきた苦労がわかったからな
の」川原さんは話し続けた。

 その時、川原さんには年のはなれた生まれたばかりの妹がいた。妹が夜泣きだした
とき両親に教えるのも川原さんの役目だった。毎日毎日夜中に起きるのに疲れていた
こともあった。
 手話通訳拒否宣言をした後、両親は川原さんに頼るのをやめた。そうして交代で起
きてミルクを飲ませたり、泣いたらわかるようにじぶんの手を赤ちゃんのそばにしば
りつけたりした。

 「それを見ていて、ああ、わたしもこうやって育ててくれたんだということがわか
ったの。こんなに苦労をして育ててくれたんだと思うと泣けてきちゃった。父と母に、
ごめんなさい、ってあやまったわ」
 川原さんはくすっと笑って言った。
 「今は、赤ちゃんの鳴き声を知らせるベビーシグナルや便利な機械がいろいろある
けど、聞こえない人が子どもを育てるのってとてもたいへんと思うわ。あかねちゃん
のお父さんとお母さんもきっと苦労してあかねちゃんを育ててきたんじゃないかしら」

 あかねはその時はじめてじぶんのもっている受話器が涙でびしょぬれになっている
ことに気がついた。


 やがて、秋が過ぎて冬が来た。
 あかねとお父さんのあいだは、とくに変わりはなかった。
 でも、あれいらい、レストランに食事にいくことはめっきり少なくなった。
 あかねはいつもお父さんにごめんなさい、と言おうと思っているのだけど、なかな
かいいだせないままだった。

 ある日、学校で担任の先生に呼ばれた。
 「橋口さん、職員会議で話し合って、こんどの卒業式で卒業生代表としての答辞を
あなたにやってもらうことになったの」
 「わたしがですか?」びっくりしてあかねは聞いた。
 「そう。あなたががんばりやということ、先生は評価してるわ。答辞の文章も自分
で書いてみる?もちろん、先生がみてあげるけど」


 その晩、あかねはまた川原さんに電話をかけた。
 「川原さん、お願いがあるの」
 「なに?私ができることなら何でも」
 「うん、あのね……」


 その日からあかねはときどき夜おそく帰るようになった。
 お母さんが聞いても、「友だちの家で勉強してるだけ」というだけだった。
 本当かどうか、友だちの家に電話したくても電話が使えないお母さんは、ただ心配
するしかなかった。お母さんはお父さんと相談しようと思ったけど、あの事件から急
によそよそしくなったあかねとお父さんのかんけいがこれ以上悪くなるのが心配で相
談できないでいた。


 冬がすぎていき、春が来た。
 今日はあかねの学校の卒業式だ。
 入学の決まった中学校のセーラー服姿がまぶしかった。
 あかねは朝から緊張していた。
 今日は、卒業生代表として答辞をあかねがやるのだ。
 それもただの答辞じゃない。
 今日は川原さんもお父さんとお母さんの手話通訳としてくることをあかねは知って
いた。
 だいじょうぶ、とあかねは自分に言い聞かせるように思った。
 あれだけ川原さんとみっちり練習したんだから。
 川原さんがいつもやっている手話通訳の方がもっと大変なんだから。


 小学校の桜の木はまだ気の早い桜が少し咲いているだけだった。
 卒業式は空気までなんだかいつもとちがうように感じる。
 あかねは、卒業生のいちばん前の席にすわっていた。
 うしろの父兄席で川原さんがお父さんとお母さんに手話通訳をしているのが見えた。
 もうクラスのみんな、あかねのお父さんとお母さんの耳が聞こえないことを知って
いるけど、手話通訳がめずらしいのか、ときどき川原さんの方に目をやっている子も
いる。
 卒業式はおごそかに進み、いよいよ答辞の時間がまじかになった。
 あかねは胸のどきどきは、さっきからとまらない。答辞を持つ手もじっとりと汗ば
んでいる。
 このどきどきがとまってほしい、とあかねは祈った。
 そのとき、「答辞、卒業生代表、橋口あかね」という司会の先生の声がひびいた。


 舞台の上はリハーサルの時よりも何倍も高いように思えた。
 あかねを見つめているみんなの顔がなんだか遠くでゆれているような気がしてきた。
胸のどきどきもさっきより早くなったみたいだ。
 勇気づけようとちらっとお父さんたちの方を見た。
 その時、こちらを見ている川原さんの目と目があった。川原さんの目が、「がんばっ
て」と笑いかけている。そして、お父さんとお母さんに、自分でなくあかねを見るよ
うにとうながした。
 それを見たとき、胸のどきどきがとまった。
 あかねは大きく息をすって、答辞が書かれた紙をひろげるとそれを目の前の机の上
においた。
 そして、しっかりとした手話を使って話しはじめた。


 「お父さん、お母さん、そして、いろいろいなことを教えてくださった、先生方、長
い間ありがとうございました。わたしたちは、今日、6年間学び、遊んだこの学校か
ら巣立ちます」
 思いがけない手話の答辞に父兄席はざわざわとしていたが、すぐに静まり、みんな
が、あかねの手話を見、しゃべる言葉を聞いていた。
 「思えば、この6年間いろいろなことがありました。楽しかったこと、うれしかっ
たこと、そして、悲しかったことや苦しかったこと……それらはいつかなつかしい思
い出となるでしょう」
 あかねは、はっきりとした手話と声で話しつづけた。途中で1回だけ手話が出てこ
なくてちょっと止まったけれど、だれも気にする人はいなかった。


 答辞は終わりにさしかかっていた。会場ではあかねの声いがいはなんの音もしない。
みんな息をのんであかねを見守っている。
 「今のわたしたちがあるのも、一生けん命教えて下さった先生方の、そして、病気
の時は夜も寝ないで看病してくれた両親のおかげです。この感謝の気持ちを、学校を
巣立ったあとも持ちつづけて、たくさんの人に返していきたいと思います。ほんとう
にありがとうございました。卒業生代表、橋口あかね」


 答辞を終えたあかねはちょっとふるえる手で、答辞の紙を巻いた。場内はシーンと
静まりかえっている。あかねは答辞をしまい、一礼をして顔をあげた。

 それを待っていたかのように、場内に拍手がわきおこった。
拍手につつまれたあかねが舞台からおりてきた。その顔はいまにも泣きだしそうだった。
 となりにすわっていた子がやさしく肩をたたいてくれた。

 閉会の言葉はあかねの担任の先生だった。
 「今日の答辞には父兄の皆さんもおどろかれたことと思います。ごぞんじの方もい
らっしゃると思いますが、橋口あかねさんのご両親はお耳がご不自由です。橋口さん
から、答辞を手話でやりたいと言われたときは私どももどうしたものかと思いました。
しかし、ご両親にわかる言葉で答辞をやりたいとの橋口さんの熱意にうたれて手話で
やっていただきました。たいへんりっぱな答辞だったと思います」
 ふただび大きな拍手がまきおこった。今度の拍手はなかなか鳴りやまなかった。
 「……これで、卒業式を終わります」
 拍手が鳴りやむのをまって先生は言った。
 あかねはふりかえってお父さんとお母さんを見た。二人とも泣いていた。
 お父さんの顔は涙でくしゃくしゃだった。
 それを見たあかねはたまらなくなって二人にむかってかけだした。
 大きく手をひろげたお父さんの胸はあたたかく、そして大きかった。
 それを中心にまた拍手のうずがまきおこった。

 この日3度めの大きな拍手だった。



 あかねは思う。
 自分が大きくなったらなにになりたいか、今はまだわからない。
 川原さんみたいに、聞こえない人の役にたつ人になりたいとも思う。
 お父さんやお母さん、それに川原さんのお父さん、お母さんのような人はたくさん
いる。
 そんな人たちも普通の人たちと同じようにくらせる世の中がいいと思う。
 手話通訳になれるかどうかなんてことはわからないけど、どんなことでもがんばら
なくちゃって思う。


 うん、あたし、がんばる。


                     <がんばれ、あかね 完全版  完>