以下は1996年4月14日、私の父が死亡したのち、ニフティサーブ「メディアマン・フォーラム」に書き込んだ原稿です。
親父は花見が好きでした。しかし、二十年ほど前から肝臓を患い、酒宴を開くわけにはいかず、桜を見ながら散歩するのが好きでした。この2年間は歩くのもままならず、僕の運転する車に乗って花見をするのを楽しみにしていました。
4月7日。僕の親しいあるおばさんに「桜がきれいだけど、お父さんも見たいだろうねぇ」と言われました。病院に入ったままの父を車椅子で引っぱり出し、桜を見せようかとも考えたのですが、翌日父は意識を失いました。肝臓の機能が低下しているため、それが原因で昏睡状態になるのです。9日は呼びかけると少し反応しました。昏睡状態でうつろな目が「お父さん」と呼ぶと少しだけ生気を帯びるのです。10日にはもう少し良くなりましたが11日にはまた悪い状態になりました。医師は「もう危ない」と言うのですが、僕には真実味が感じられませんでした。なにしろ父は以前にも3、4回「もう死にます」と言われながら奇跡の回復をした人でしたから。僕は「必ず意識を戻す」と信じていました。
12日。父は意識を戻しました。しかし明晰な意識ではなく、かなりレベルの低い意識でした。僕が病院に着き、二言三言父に言葉をかけた後、父は「あっ、ようじが来た」と言いました。僕が父の顔をのぞき込んでも視線は空をさまよっていました。しかし簡単な言葉は交わせました。その日、病院から帰ろうとすると父は手を耳に近づけようとしています。しかし力がなく届きません。
「どうしたの?」と聞くと「かゆい」
「耳がかゆいの?」
「ああ」
左の耳をしばらく掻いてあげました。
「もういい?」と聞いて、やめると
「ようじ・・・・」
「なに?」
「ありお、ありお・・・」
「なに?」
「ありがとう」
父は「ありがとう」という言葉が言えなかったのが恥ずかしかったのか、「ありがとう」と言えたのがうれしかったのか、ニンマリと笑いました。それが僕の聞いた父の最後の言葉でした。
翌日13日。病院に行くと再び昏睡状態でした。このときは一目でもう危ないとわかりました。反応が弱いのです。 時々看護婦さんに寝たままで喉にたまった水分を管で取ってもらいます。かつてはそれが痛くて昏睡状態でもからだが反応していたのですが、その日はもうその反応もなくなっていました。ただ、呼吸と脈拍はしっかりしていました。その日は土曜日だったので兄が「今日は泊まる」と言うので「僕は明日にするよ」と言って母と一緒に帰りました。
その晩の午前1時。つまり14日の午前1時。家に着きました。#520、#521(フォーラム上の発言番号)の発言を書き込んで、#522の発言を書き込んでいた午前3時、兄から電話がありました。
「血圧が下がり始めた。もう危ないかもしれない」
母を起こしてすぐに病院に駆けつけました。
いったんは最高血圧が85まで落ちましたが、僕たちが着いて最高血圧は105まで戻りました。看護婦さんがまだ平気のようですからしばらく仮眠をしていて下さいというのでソファで寝ました。
午前6時、兄に起こされました。父の呼吸数はかなり落ちていました。最高血圧も80前後です。時々痙攣を起こしました。母が「大丈夫? 大丈夫?」と言って膝をさすったり、手を握ったりするとしばらくして痙攣は止まりました。痙攣が止まると僕は父に
「父さん、ようじだよ。平気だよ。恐いことないよ」
と言いました。
この時にはもう父が死ぬとあきらめていましたので、もし少しでも意識があるなら、恐怖心を持たずに死んで欲しいと思ったからです。痙攣、母の「大丈夫?」、僕の「平気だよ」が5回ほどありました。
そして父の呼吸は急に静かになりました。
看護婦がナースステーションにあったオシロスコープを病室に運び込みました。
ピッ、ピッ、ピッ・・・
脈拍が電子信号として単調に響きます。医師が入ってきます。
「綱渕さん、どうかな?」
と言って首から脈を取ろうとした瞬間、オシロスコープは止まりました。
波を打っていた緑の線は直線になりました。
恐らく何の苦痛もなかったでしょう。泣く気にもなれませんでした。ただ、親父の顔を見つめていました。
午前7時40分、医師が死亡確認をしました。窓を開けると青い空の下、遠くの桜が散り始めました。
<96.04.18> 04:02
父は僕に何も教えようとはしませんでした。
小学校に入った頃、本を読んでいてわからない言葉に出会うと父に教えてもらおうとしました。どんな言葉かは覚えていませんが、父にとっては簡単な言葉のはずでした。しかし父はその言葉について何も教えてはくれません。ただ、辞書の引き方だけ教えてくれました。少し立つとわからない漢字に出会います。その漢字の読み方を父に聞きました。また、何も教えてはくれません。ただ、漢和辞典の引き方を教えてくれました。高校を卒業し、大学受験のときも父は何も言いませんでした。三年浪人しても父は「好きにしなさい」としか言いません。大学を卒業し、「電通に入る」と僕が言うと「なぜ?」とは言いましたが、やはり最後は「好きにしなさい」でした。5年ほど電通に勤め、「電通やめる」と言っても「好きにしなさい」でした。
たったひとつの父の教えは
「自分の道は自分で探しなさい」
ということのようでした。
<96.04.18> 04:24
二年ほど前に約一年間、親父と一緒に連載を持ったことがある。「(謙錠、ようじの)平成親子塾」というものだ。アルク出版から出ている月刊「セブンシーズ」に14回にわたって連載された。内容は親父と僕が対談し、江戸の文化とこれからのパラダイムを考えるというものだった。この作品の何が一番面白かったかと言えば、親父と僕の話がまったくかみ合わないところが面白かった。話しがかみ合わないけど、なんか親子の会話というものは面白い。親父はこの連載を作るための対談を楽しみにしていてくれた。話題によっては僕の運転する車で増上寺へ行ったり、神奈川県の生麦へ行ったり、皇居へ行ったりした。話しがあまりかみ合わないと時には喧嘩になったりもする。それも今から思えば楽しいものだった。
親父とはこの連載をまとめて単行本にしようと相談していた。しかし実現する前に親父は逝ってしまった。僕の構想では、連載になかった綱渕家のルーツ探しを最後の章としたかった。そのための取材を4月末にする予定だった。
親父はサラリーマンをやめて作家になった。僕の祖父は山形での生活を捨て、樺太で漁師を始めた。綱渕家には途中で大きく道を変えるという血が流れているようだ。僕もサラリーマンをやめて自由に暮らしている。親父も祖父がなぜ山形から樺太に渡ったのか、詳しいことは知らなかった。山形では祖父は神主をしていたらしい。その理由が分かれば綱渕家の血も少しは理解できるかもしれない。
<96.04.19> 04:03
僕が小学校1、2年生の頃、親父がまだ健康だった頃。休日で家にいた親父は、よく僕に煙草を買いに行かせた。近くの煙草屋へ小さな手にしっかりと小銭を握って行った。買ってくるのは缶ピース。小さな紙袋に入れてもらって持って帰った。親父は缶ピースを僕の目の前で開けた。缶のふたに刃がついていて、薄いアルミのふたを切る。プシュッという音とともにピースの香りがもれでてくる。親父がその匂いを嗅ぐので僕も大人ぶってまねをした。ちっとも良い香りだとは思わなかった。だけどそれは親父の指先の匂いだった。
小学5年のとき、親父は作家になり、肝臓を患った。一時は黄疸がひどくて手術しなければ死ぬと言われた。しかし親父は手術を拒否した。黄疸濃度があまりにも高く、普通の人ならとうに死んでいても不思議でない値を示していた。それでも親父は手術しなくても絶対直ると信じていた。
親父の病気は親父の言うとおりに直ってしまった。退院して数日後直木賞の受賞が決まった。
黄疸以来親父は煙草を一切やめた。指先の匂いはなくなった。
最近の僕は気が向くと煙草を吸う。それも流行の軽い煙草ではなく、キャメルやピース、ときにはダビドフなどしっかりと味と香りのあるものを吸う。そしてあるとき気付いた。指先の煙草の匂いが好きなことを。
<96.04.20> 04:42
僕が小学生の頃、親父はめったに遊んでくれなかった。家にいるときは寝ているか本を読んでいるかどちらかだった。ところがある日一緒に近所の神社の脇にある公園に行ってくれた。しかも僕をブランコに乗せて背中を押してくれるのである。力一杯押されるのでブランコから落ちるのではないかとしっかりと鎖を握っていた。
あんなに楽しい思いをしたことなかった。
<96.04.21> 02:57
親父にせがんで映画に連れていってもらった。小学生の頃はゴジラとかガメラばかりで、親父は映画館に入ると同時にいびきをかいて寝ていた。恥ずかしかった。
中学生になり、やっと親父も楽しめる映画に一緒に行くようになった。
フランス映画の「小さな刑事」
「ドーベルマン・ギャング」
「ウエスト・ワールド」
「007 黄金銃を持つ男」 などなど・・・
しかし高校に入り一人でも映画を見に行けるようになるともう一緒には行かなくなった。もう一回くらい行けば良かった。
<96.04.21> 03:06
僕は三年浪人した。
二浪すれば絶対なんとかなるだろうと思っていたが、なんともならんかった。三浪が決まった受験発表の会場から電話を入れ家へ帰ったら、親父と母さんが出前でラーメンをとって食べていた。食卓を覗いてから僕は自分の部屋に引きこもった。このとき食卓で見たものは僕にとってショックだった。ふたりのラーメンのドンブリはつゆだけ飲まれ、麺がほとんどそのまま残っていたのである。
もうこれ以上浪人出来ないなと思った。翌年やっと大学に入った。
<96.04.22> 14:43
親父は肝臓を悪くしてから酒を飲まなくなったが、かつてはかなり飲んでいたようだ。編集者のみなさんから酒豪と呼ばれていたのだから相当なものだろう。ある日僕が二日酔いで気持ち悪いのを我慢して出社しようとしたとき親父に、
「酒を飲んで油断するような奴には仕事はできんぞ」
と言われた。そのことを通夜に来て下さった編集者に言ったら、
「でも、先生は酒飲んだらすっかり油断してたみたいですけどね(笑)」
そう言われてさらに思い出した。
親父の言葉、
「しかも油断していないことを悟られてはいけない」
はたして親父は「油断しているように見せて油断していなかった」のか、それとも「単なる酔っぱらい」だったのか。その謎を解く術が今はもうない。
<96.04.24> 02:16
僕はカーペンターズの音楽が好きだ。よく車でかけた。
親父は僕の運転する車に乗っているときカーペンターズがかかると
「あっ、カーペンターズだ」と必ず言った。ほかのどんな曲をかけてもそのように言うことはなかった。しかしカーペンターズが好きだとか、良い歌だねなどとは決して言わなかった。
親父らしい。
<96.04.24> 02:35
親父が死んでから10日がたった。居間に置かれた骨壷に向かって、毎日線香をあげているが、まだ実感がわかない。病院に行くと、「おっ、ようじ、来たのか」と言われてしまいそうである。
<96.04.24> 02:45
親父が意識を失う4、5日前から、寝入りにノックの音を聞くようになった。寝ようとしてウトウトし始めると耳元でドンドンとか、コンコンとか、聞こえるのです。妙にリアルに。
親父が死んで通夜をした。親父の葬儀は高円寺のそばの堀川斎場で行った。通夜の夜、堀川斎場の二階に泊まって寝ようとしたら、再びノックの音がした。その時のノックの音は斎場の入り口の厚いガラスの扉を叩くような音だった。
<96.04.29> 02:15
親父は生涯で二曲の歌を作曲した。一曲は旧制新潟高校の寮歌。そしてもう一曲は父の書いた小説「斬」の主題歌だ。自分の小説の主題歌を自分で作詞・作曲する作家はあまりいないだろう。
父は僕が作曲したり、編曲したりするのを喜んでいた。「俺の息子だから・・・」という感じだった。親父が作曲した「斬」の主題歌を僕がアレンジしてシンセサイザーで録音して聞かせるという約束をしていた。その約束も果たせなかったなぁ。
<96.04.29> 02:22