「イルカがほほ笑む日」

    リチャード・オバリー、キース・クールバーン著

    夏川道子、糸永光子訳、野崎友璃香監修

    TBSブリタニカ刊

 人が志を持つというのはどういうことなのだろうか? 

「イルカがほほ笑む日」の著者、リチャード・オバリー氏は大きな志を持っている。それは、水族館や人工のプールに閉じこめられているイルカをすべて解放すること。これが実現されない限り、彼の心は癒されない。

 リチャード・オバリー氏はかつてのヒットテレビシリーズ「わんぱくフリッパー」のイルカの調教をしていた。その物語はフロリダの湾岸警備をしている父親を持つ主人公の兄弟ふたりと、そのふたりが海に放し飼いにしているフリッパーというイルカとの交流を描いたものだった。兄弟が危機に陥ればフリッパーが助け、フリッパーが危機に陥れば兄弟が助け、父親の湾岸警備海域で事件が起きればフリッパーがそれを発見して父親に伝え事件を解決しと、家族とフリッパーの愛情に支えられた物語を僕

は毎回ハラハラしながら見ていた。

 オバリー氏は「わんぱくフリッパー」の撮影が終わり、フリッパー役として飼われていたイルカが次々と死んでいくことを知る。撮影が終わった彼らに充分なケアがなされなかったのだ。特にオバリー氏が捕獲から面倒を見ていたキャシーというイルカがオバリー氏の腕の中で死んで以来、彼はイルカは人が捕まえるものじゃない、イルカは自然の海に返すべきだと運動をはじめた。

 そのオバリー氏に3年前会いに行った。キーウェストからマイアミへ13マイルほど北上したところにシュガーローフ・キーという島がある。そこにシュガーローフ・ロッジが経営する、シュガーローフ・ドルフィン・サンクチュアリがあった。

 もともとそこはシュガーローフ・ロッジが宿泊客をイルカショーで楽しませるために作った施設だった。はじめはシュガーとローフィーという二頭のイルカがいたのだが、やがてローフィーは死に、シュガー一頭だけが寂しく飼われていた。そこへある日オバリー氏が抗議に来たのである。イルカのような社会的な動物をたった一頭で飼っているなんて虐待だと。しかしロッジのオーナーはオバリー氏の抗議を認め、そこに飼育されたイルカたちをリハビリして自然の海に返すための施設を作ることに同意した。オバリー氏はそこをベースにアメリカ軍が兵器として育てたイルカを譲り受け自然に返すためのリハビリをイルカに施していた。

「イルカがほほ笑む日」では、そんなオバリー氏の半生が描かれている。

 彼の半生は破天荒である。イルカの柵を破ってイルカを逃がそうとして捕まり、それがきっかけで多くの人々に知られ、イルカ解放運動家として成功していった。たまの休日にはイルカの絵を描いている。今の彼の人生はイルカ一色といってもいいだろう。そのくらいイルカの解放にすべてを賭けている。そしてそれは彼の前半の人生、つまり百頭以上ものイルカの捕獲に関わり、そのうち何頭かは寿命が来る前に死なせてしまった事への懺悔なのだ。その懺悔を全うするためのイルカ解放運動である。

「たったイルカ一頭が死のうが生きようが関係ないだろ」という社会に問題を提起しているのだ。ここには強い志がある。

 日本にも志を持っている人はいる。

 東京、代々木上原に「キヨズ・キッチン」というレストランがある。ここのご主人はもともと整体師であり、いくら整体しても食べ物が悪ければ意味がないと、食材、料理法を研究、その成果を「キヨズ・キッチン」で実行している。だから彼は「自分の家族が毎日食べて健康でいられる食事しかうちは出さない」と言っている。ところが、この信念が災いして経営がいつも苦しい。なにせ原価率が高い。本当に食べて心配のない食材を手に入れるのはコストがかかるのだ。しかもそれらの食材をそこの従業員たちが丁寧に前処理をする。普通のレストランでは機械で洗浄され、適当にカットされた食材が運び込まれるのだが、ここではそんなことはしない。なにしろ野菜は自然農法、虫がついていても不思議ではないし、機械で前処理したら、大事な栄養素が逃げてしまう。だから野菜をいちいち確かめながら、手で洗うのだ。だから人件費もかかる。魚も仕入先の漁師から直接送ってもらう。肉や酒、卵、牛乳なども主人の厳選したものばかりだ。だから、ちょっと油断するとすぐに経営危機に陥る。しかし、信念は曲げない。これこそ志のある仕事と言えよう。

 普通の外食産業では、どれだけのお客を来店させるか、どれだけの顧客単価を取るか、どれだけ原価を下げられるかと、利益率をあげることが優先される。だからしばしば、そんなレストランでアルバイトした人は絶対その店で食事をしたりしなくなる。

 志の低い仕事は、いつか顧客に見放される。

「キヨズ・キッチン」は現在の外食産業に問題提起をしているのだ。

 人間はつい、欲で物事を計ってしまう。しかし欲ではなく、自分の信念と照らし合わせて行動することが大事だ。牽強付会に思われるかもしれないが、高校生が売春したり、サラリーマンが援助交際に金を払うのは、自分の信念や志というものを見失っているからではなかろうか。若い人たちが現代の大人を見て、信念を生み出すようなあこがれを抱くことができないからではないだろうか。

 オバリー氏の息子はリンカーンという。リンカーンは父親の活動をよくサポートする。ベルギーでおこなわれた国際イルカクジラ会議には、イルカのリリース作業でこれなかったリチャード・オバリー氏の代わりに熱弁をふるっていた。

 息子が誇れるような仕事を父親はしなければならない。

 これが父親が志を持った仕事をしているか否かの基準のひとつだ。