「密教を生きる」

  中村 公隆著  春秋社刊

 1993年4月17日から23日、京都の国際会議場でグローバル・フォーラム1993が開催された。その会議は世界中の政治家、科学者、文化人、宗教家などが一同に会し、地球環境について様々な視点からフォーラムをおこなうものだった。私はその会議にボランティアとして参加、メディア担当ということでいろんな方にお目にかかれた。一番印象に残っているのはゴルバチョフ氏だ。ゴルバチョフ氏はその会議で緑十字憲章の構想を発表した。

 その会議に参加することを知った私の友人が、ある人を紹介してくれた。その人と一緒にあるお寺の住職に会いに行くといいと。ところがグローバル・フォーラムの会期中にその方のご親族が亡くなり、急遽住職との面会に立ち会えてもらえなくなってしまった。グローバル・フォーラム閉会後、その会議の感動を味わいながら「ひとりでもそのお寺に行ってみよう。たとえ住職に会えなくても、何か意味があるはず」と思っているところに、会議中仲良くなったおばさんが声をかけてきた。

「つなぶち君、これからどうするの?」

「ええ、お寺にでも行こうと思っているんです?」

「どこのお寺? 私もこれからお礼参りにお寺行くんだけど、一緒に行かない?」

「いいですね。でも行こうとしているお寺があるので」

「なんてお寺?」

「鏑射寺というとこなんですけど」

「あら、私もこれから鏑射寺に行くのよ。なんで鏑射寺に行きたいの?」

「中村和尚に会いたくて」

「あら、これから中村和尚に会いに行くところよ」

 偶然にしてはできすぎだった。そのおばさんはグローバル・フォーラムの無事の開催を中村和尚にお願いしていたのだ。

 それ以来、何度か中村和尚にはお目にかかる機会を得た。その度ごとにとても不思議な体験をする。たとえば、はじめてそのおばさんと鏑射寺に行ったとき、着いたのはもう夜だった。山の中にあるお寺のため、まわりは真っ暗でなにも見えない。私はライターをつけて明かりとした。ところがあるところへ来るとそのライターが消えるのだ。そこではいくらつけようとしてもつかない。二、三歩戻って火をつけるとつく。ところがその消える場所に来ると、ふっと消えてしまうのだ。私はそこに二酸化炭素でもたまっているのだと思い、中村和尚にお目にかかったとき、その話しをした。すると和尚は、きっとそこが結界の境目だったのでしょうと言う。話しには聞いたことがあったが、それほどはっきりとしたものだったとは知らなかった。

 ほかにもいろいろあるが、私自身自分で体験しなかったら信じられないような話しばかりなので、みなさんも興味と機会があったらご自分で体験なさるのがいいでしょう。

 私は何人もの霊能力者や超能力者に会ってきたが、中村和尚ほどの方は滅多にいない。そのすごさというか素晴らしさは実際にご本人にお目にかからない限りわからなかった。その片鱗は「密教を生きる」を読めば感じられるかもしれないが、私はそれでも片鱗でしかないと断言する。中村和尚自身、文字という物は本質を伝える物ではないと語って下さった。実際に会って交わされる言葉は、その言葉を一字一句間違えずに文字にしても、文字では伝えられないものを伝えていると言う。こんな風に書くとどんなに凄い人かと思われるかもしれないが、会うとただのお坊さんである。凄さをまったく感じさせない。では、何が凄いかというと、中村和尚としばらくお話をすると、こちらの心のなかにやる気が湧いてくるのだ。そしてまっすぐものを見るようになる。たとえこの方がどんなにすごい神通力を持っていたとしても安心できる、そんな感覚を持つようになるのだ。そして、自分もなにかこの世に生をうけたお礼として、なすべきことをなさなければとの思いを持つようになる。そんな和尚だから、お目にかかっても、なにひとつ不思議なことを目の前で起こしてくれる訳ではない。た

だ、自分の心に奇跡が起こり始めるのを私は感じた。

 和尚の不思議な能力について、本には書かれているし、ご本人にお目にかかってたずねればあたかも当たり前のようにして答えて下さる。しかし、大事なのはそのような能力ではない。能力があるにせよ、ないにせよ、自分をこの世界でどのように生かしていくかだ。

 中村和尚は語って下さった。

「人間には誰しも、超能力と言われるような不思議な能力を身につける素質があります。でも、それはある段階を過ぎると自然に身につくもので、それに執着してはいけません。執着するとその先へと進めなくなる。そんなものは気にせず、生きていきなさい」