生命のリサイクル (生と死を考えよう)



火の鳥

 もし、永遠の命を買うことができるとしたら、あなたはいくらで買いますか?

 買った後、永遠の命をどのようにお使いになりますか?

 故手塚治虫のライフワークに「火の鳥」があります。幼い頃に近所の友達と感動しながら読んだのを覚えています。そのなかで登場人物たちは永遠の命を求めて火の鳥を探し求めます。しかし、ストーリーが進むにしたがい、永遠の命を求めることがいかにむなしいかがわかってきます。それは永遠の命が手に入らないからむなしいということではなく、もし永遠の命が手には入ったとしたら、とてつもなく厄介なことになってしまうからです。『火の鳥・未来編』で主人公のマサトは永遠の命を手に入れます。しかし、ちっともうれしくありません。「死ねない」という恐怖がマサトを襲います。

 自然界にある、ありとあらゆるものはサイクルを持っています。生命のサイクルは生と死です。そのサイクルを拒絶するのはナンセンスです。しかし、それを知っていながら「死」について考える機会がないのはもったいないことではないでしょうか。

式年遷宮

 昨年十月に伊勢神宮の式年遷宮が行われました。式年遷宮とは二十年に一度、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)のほか、内宮の別宮十社、外宮の別宮四社において社を建て直し、神様にもとの御殿から新殿へうつっていただくとともに、装束、神宝と呼ばれる宝物をもとのものと同じ様式で、それぞれの時代の美術工芸の粋をつくして作りなおすというものです。千三百年ほど続くこの儀式により伊勢神宮は、建築物として常に新しい状態で残ったのみならず、伊勢神宮に関わる多くの人たちに、伊勢神宮が伝承してきた技術、精神、形式を現代まで存続させました。ヨーロッパでは神殿を永遠に残すために石で造り、その形だけを現在に残したのに対し、日本では神殿を継続的に作り替えていくことによってその形と技術や精神までも残したのです。旧御殿があたかも死ぬことによって新殿が生まれる。それは生物が世代交代を継続することによって種を保存していることに似ています。

永遠のモノ

 私たちは永遠に残るモノ、自然の循環から見て永遠といってもいいほど長い時間存在するモノをたくさん作り出してきました。プラスチック、発砲スチロール、ビニール、PCB、核廃棄物など。循環をもちえないこれらのモノは、用途からはずされればゴミにしかなりません。死すことなく、澱み続けるこれらのモノがゴミでおさまるならまだましですが、なかには毒となるものもあります。

 現代の私たちは「死」について考える機会をほとんどもちません。「死」は生命のサイクルのひとつです。あたかも自分が永遠に生き続けるがごとく振る舞うことが自然のサイクルを傷つけることになってはいないでしょうか。

 私たち人間も自然のサイクルの一部です。ほかの動物が生まれて育って死ぬように、人間も生まれて育って死にます。科学がこれだけ発達した現代に必要なのは、自然に打ち勝ち永遠に存在するモノや思想ではなく、自然のサイクルと一緒に巡っていくモノや思想ではないでしょうか。「死」という自然のサイクルを無視したり、受け入れようとしない姿勢は人に、大きな苦痛を与えるのではないでしょうか。

                 セブンシーズ 1994年2月号掲載