取り合いが壊す地球〜当たり前への挑戦

 昨年十一月、シアトルでアジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれました。EC統合に対抗し、アジア・太平洋諸国が一つの経済プロックを作ろうとするものです。ここで主導権を握った国は、これから高い経済成長率が見込まれるアジアでのアドバンテージが期待されるため、様々な思惑が入り乱れた会議となりました。この会議の前提として、これからのアジアの経済的発展を見越し、各国ともここで主導権を握り、自国の景気回復の起爆剤にしようとしていることはいわずもがなです。しかし、もしアジア全体が欧米の生活水準を志向し、それを現実のものとしたならば、地球環境の悪化は加速度を増すでしょう。

「取り合う文化」「与え合う文化」

 話しは変わりますが、今、私たちの周りを見回すと、「それが誰のモノであるのか、限定できないモノ」は、空から降る雨や、川を流れる水くらいのもので、それ以外はみんな「誰のモノ」と限定できるモノばかりです。そのくらい私たちは所有に執着を持っていると言えるのです。ところがインディアンなどの先住民族と呼ばれる人々の中には、何かモノがあるとそれは「神の恵み」か、または「自然の恵み」ということで、最初に手にとった人に優先権があるものの、多くの仲間に分け与えようとする人たちがいます。このふたつの文化を端的に表現すると「取り合う文化」と「与え合う文化」というふうに言えるでしょう。

 私たちにとって「取り合う文化」はあまりにも当たり前なため、いったいそれがどういうものなのか、じっくり考えないとわかりません。そしてそうすることが、今までの私たちの歴史や、ライフスタイルを規定してきたために、それが「正当」で「当たり前のこと」と多くの人が考えています。この「正当」で「当たり前のこと」が、もっと大事なことを考えることを妨げています。

「正当」という目隠し

 アジア太平洋経済協力会議に出席している政治家に「アジアのGNPを上げて、地球環境についてはどうするのですか?」と聞けば、多くの政治家は恐らく当惑するでしょう。もちろん自分のやっていることがどのようなことを引き起こすかを知っているからです。しかし、現状ではそれをせざるを得ない。「世界的同時不況」から脱出するには多少の損失はやむを得ないからです。自国の利益を第一に考える、それが政治家の仕事だからです。彼らがやっていることは政治家として正当なことなのです。私たちは知らない間に「取り合う文化」を構築してきました。人は利益を得るために働くもの、活動するもの、生きるものと、暗々裡に同意をしています。

 ソクラテスは「国家」のなかで「勇気」について書いています。今、政治家はもちろん、私たちが持つ必要のあるものは「世界的勇気」です。世界的な善のためなら自らの物質的欲望を抑える「勇気」です。私たち個々人がそれを持たない限り、私たちから選ばれる政治家もそれを持ちようがありません。

 世界的に「与え合う文化」を実現させるにはまだまだ時間のかかることでしょう。しかし今、「世界的勇気」を持ち、政治、経済、文化を動かしていかない限り、人類の未来はもうないことは誰の目にも明らかです。地球という限られた恵みのなかで感謝をしあい、どのように生きるかを考え、「所有への執着」「正当という目隠し」を捨てることが必要です。

                  セブン・シーズ 1994年3月掲載