イルカを海に還す男

 高等生物兵器(Advanced biological weapons system)、これが何を意味するかご存知ですか。アメリカ海軍で軍事的に利用されているイルカの名称です。イルカは敵艦に磁気爆発物を取り付けたり、鼻先に長い皮下注射針をつけ、敵の潜水工作員に圧縮炭酸ガスを注入して殺すように訓練されます。そんな訓練を受けたイルカにリハビリを施し、もとの自然な状態にして海へ解放しようとする男がいます。リチャート・オバリー。三十年ほど昔の人気テレビ番組「わんぱくフリッパー」でイルカの調教をしていた人物です。

イルカに会うなら海へ行け

「わんぱくフリッパー」の撮影中、フリッパー役のイルカは五頭いましたが、撮影の進むうちにストレスがたまり、反抗的になっていきました。出演者に向かって水をかけたり、脅かすようにすぐ近くを泳いでいったり。そんなイルカを心配しながらもオバリー氏にはなにもできませんでした。しかし、キャシーは例外です。キャシーはオバリー氏が捕獲から手がけたイルカで、お互いに深い信頼関係にあり、どの出演者に対しても優しかったのです。彼女はオバリー氏と一緒なら普通のイルカが決して入らない洞窟に恐がりながらも入りました。ヘリコプターで運搬される際もオバリー氏がそばにいるとおとなしくしていました。

 フリッパーの撮影後、オバリー氏の手から離れて育てられたキャシーは病気になり、ひさしぶりに再会したオバリー氏の腕のなかで息を引き取ったのです。以来、オバリー氏はイルカを捕獲するのは良くないことだと悟り、多くのイルカを解放しようと心に決めました。自然の状態なら一日に百キロも泳ぐと言われているイルカが数十メートルのプールにいること自体たいへんなストレスとなります。さらにプールに入れられているとイルカは独特の能力を失います。イルカが音波を発してその反射を聞くことによって何がどこにあるのかを知る能力をエコロケーションといいますが、まわりがコンクリートで固めてあるプールでエコロケーションを使うと音波が吸収されず全部反響してしまいます。何回も反射する音を聞き像を結ぶイルカは、壁の向こうに自分が見える。さらにその向こうの壁にも自分が見える…。あたかも人間で言えば全面鏡が張られた監獄に入れられているような状態に置かれるのです。その結果イルカはエコロケーションを使わなくなります。

兵器よさらば

 オバリー氏はドルフィン・プロジェクトを創設、イルカを海へと還していきます。ときには目的を遂行するために非合法なことをして逮捕されることもありました。しかし、そうなると「フリッパーの調教師、イルカを逃がそうとして逮捕される」などとメディアに載り、かえって賛同者が増えます。彼は二十年間信念を曲げていません。

 劣悪な状況下のイルカを次々と解放し、さらにオバリー氏がやりたかったことは海軍で兵器とされているイルカの解放でした。いくつかの環境保護団体と共同してアメリカ海軍を起訴、見事勝訴してイルカを預かり、自然に返すリハビリをしています。

 キーウェストから国道一号線を北上して十七マイル。そこに“シュガーローフ・ドルフィン・サンクチュアリ”があります。イルカが自然に還るためのリハビリ施設です。今そこではジェーク、ルーサー、バークという三頭の元兵器たちがリハビリを受けています。

 人間は自らの欲望に基づき行動します。その欲望の渦のなかにほかの動物も巻き込んでいるのです。

 自分の信念を行動にあらわしているオバリー氏に会って、私は人間とは何かを考えさせられました。

1995年 月刊セブンシーズ掲載