第五回国際イルカクジラ会議で考えた

『人はなぜ海に魅せられるのか?』

 僕たちダイバーは広大な海に包まれて水中に漂うことがなによりも大好きな人種だ。陸上でしか生きられない生き物であるはずなのに、どうして僕たちは海にひかれるのだろう。

 今年の五月三日から五日、ベルギーのブリュッセルで第五回国際イルカクジラ会議がおこなわれた。その会議に参加しながら、その疑問について考えてみた。

 国際イルカクジラ会議とは、国際イルカクジラ教育リサーチセンター(略してI・C・E・R・C、アイサーチと読む)の主催する2年に一度開かれてきた会議だ。2年前には江ノ島、小笠原、大阪でおこなわれたので、ご存じの方も多いだろう。

 この会議ではイルカやクジラに関するあらゆることについて講演をおこなう。その内容と前述の疑問に対しての僕なりの解答を絡めてレポートしよう。

    自然が感じる僕

 アイサーチ・ジャパンの代表、岩谷孝子氏にお話しをうかがった。

「なぜ、イルカやクジラが流行るのでしょう?」

「今、都会に住む多くの人が、なんか違うなって感じていると思うんです。それはまわりの人との人間関係であったり、自分のしている仕事に対してであったり。だからそのなんか違うなって感じを癒すために自然とのつながりを実感しようとイルカやクジラに興味を持つのだと思います」

 ダイビングをすると圧倒的な自然のなかに包まれることになる。都会では真上にあるわずかな空以外、見渡すものはほとんどすべて人工物である。たまに目につく緑さえ、実際には人の手によって植えられたものだ。そう考えるとダイビングは真上にある自分が乗ってきたボート以外、人工のものがほとんどない。「自然とのつながりを実感する」どころではなく、自然のなかで自分を感じる。主客逆転だ。つまり「自然を僕が感じる」のではなく、「自然が僕を感じている」くらいの感覚になる。ダイバーはこの感覚を味わうためにせっせと海にかようのではないだろうか。

 だから海のなかで他のパーティーに出会うと違和感がある。それは他のパーティーが単にうっとうしいからと言う理由からではなく、圧倒的な自然のなかで唯一人工を感じさせる存在となるからではないだろうか。ピッタリとしたダイビング・スーツ、重たそうなボンベ、キョロキョロと動くマスク。もし新宿のように人工物だけの街の真ん中で、キリンに出会ったらきっと違和感を感じるだろう。それに近いものを海のなかで出会う他のパーティーに感じる。もっとも向こうから見ればもちろんこっちがそう見えるだろう。

 話しがずれた。要はダイビングには自然と一体化する感覚があり、それが魅力となっているということだ。

    みんな違ってみんな良い

 会議のなかでは多くの方々にお話しをうかがえた。ダイバーのジャック・マイヨール氏、オルカの研究で有名なポール・スポング博士、イルカの脳や言語の研究をしているジョン・C・リリー博士、水中出産の権威ミシェル・オダン博士、音楽家ジム・ノルマン氏などなど。そしてそのなかで気がつくのは、「みんな違ってみんな良い」ということ。この会議に参加している人々はイルカやクジラに興味があるというだけで、社会的背景も地位もまったく異なる人々の集まりである。にもかかわらずアットホームな雰囲気に包まれている。それは心の深い部分で多くの人が、論争の相手さえも認めているからだろう。

 会議のなかでこんな一場面があった。パトリック・セント・ジョン氏が講演をおこなった。内容はイルカと泳いで自閉症を治すというものだ。講演とともに流されたビデオは、自閉症の子供がイルカとのふれあいによってコミュニケーションが取れるようになる過程を映していた。彼女の講演後、聴衆のひとりが質問をする。

「この会議の主旨はイルカを大事にするということで、人間の治療にイルカを使うなどということは、この会議にふさわしくないのではありませんか?」

 ジョン氏は答えた。

「私はここに招待されてきました。主旨にそわないことはないでしょう。もしそうなら私はここにいません。それにあなたはイルカと自閉症の子供とではイルカの方が大事だとおっしゃるのですか?」

 人間とイルカ、どっちが大事かなんてナンセンスである。両方大事。ただ、自分がたまたま人間だから人間の肩を持つだけだ。ところが社会にいると常にどっちが大事か正しいかと判断しつづけなければならない。「みんな違ってみんな良い」なんて言っていると社会からは取り残される。しかしダイビングしているときはまさに「みんな違ってみんな良い」を味わうことができる。

「あっ、こっちにはハタタテダイ、むこうにはウミウシだ!」「ここに来ればアケボノハゼだぞ!」などとのんきなことを言ってられる。

 僕の友人に地味なネクタイばかりじゃ嫌だと転職した男がいる。彼はある大手の銀行に勤めたが、スーツはこの色、ネクタイは派手ではならないなどの束縛が嫌で会社を移った。そこまでひどくなくても、多かれ少なかれ会社では「みんないっしょ」を強いられる。最近は以前より緩和されてきてはいるようだ。その点では近頃の若者は良い。多様性に富んでいる。渋谷や池袋を歩いているとタツノオトシゴやクラゲのような若者に会える。まるで海底散歩だ。

 また話しがずれた。つまりダイビングの良さは「みんな違ってみんな良い」を感じるところにある。

    胎児に帰る

 イルカクジラ会議でもっとも感動したのは人間の水中出産についての講演だ。あれだけ丁寧に水中出産の良さを説明されると、将来女房が出産するときには是非・・・、などとつい考えてしまう。説明された水中出産の良さの話しに「バース・トラウマの除去」というものがあった。

「バース・トラウマ」とは、出産時に子供が受ける心理的な傷のことを言う。普通の出産では生まれたらすぐにへその緒を切り、その段階で呼吸していないと、赤ん坊の背中を叩くなどして呼吸をさせるそうだが、それがトラウマになるというのだ。では、水中出産の場合はどうなるかと言うと、生まれてもしばらくはへその緒をつないだままにしておく。赤ちゃんを水からそっと出し、母親に抱いてもらう。しばらくすると勝手に呼吸をはじめる。それからへその緒を切るのだそうだ。一説ではバース・トラウマがあるかないかで、かなり違う性格の子供になるそうだ。もっとも科学的な研究はまだあまりなされてない。

 しかし、実際にそのようなトラウマがあるのだとすると、わずかにでも羊水のなかでの記憶や、出産時の記憶を僕たちは持っているかもしれない。広告代理店に勤める女性ダイバーがこんなことを言っていた。

「私、ダイビングしたとき、魚見るよりサンゴ見るより、水中でフワフワ浮いたような状態でいるのが一番幸せなの」

 彼女は羊水にひたっていた頃の記憶を感覚のなかで甦らせているのではないだろうか。

 かく言う僕も海の水に身体を浸し、ぽっかりと浮かんでいるのが好きだ。水を通して聞こえる音はなぜか気持ちがよい。これが羊水の記憶なのだろうか。

    人間の進化

 マイヨール氏は人間はホモ・ドルフィナス(イルカ人間)へと進化すべきだと言っている。夢のような話しに聞こえるが落ちついて考えると納得できる。人間は陸上で栄華を極めた。人間にとって陸上で行けないところはもうないと言っても良い。すると生命というものは新たな空間を求めて進化する。魚が陸に上がったように、今人間は陸から別の場所へと移動しようとしている。ひとつは宇宙へ、そしてひとつが海へ。宇宙への準備はNASAが着々とおこなっている。数年後には「二00一年宇宙の旅」で見たような宇宙ステーションが完成するだろう。そると人間はそこで生活するために進化せざるを得ない。身体の機構や機能が変わるのだ。無重力状態にしばらくいると骨や筋肉が退化する。その代わり別の器官が発達するだろう。それが進化だ。

 僕たちが海にひかれるのも、実はDNAの進化の欲求ゆえかもしれない。陸で発達した人類が宇宙へ、そして海へと分化する。これは生物の必然だ。人間が生命である限り、進化する。

     自然への希求

 いままで見てきた「自然を感じる」「多様性の受容」「胎児への回帰」「進化」、どれを取っても自然への願望の現れである。

 イルカやクジラがブームになるのも、精神世界の本が売れるのも、自然への願望と同じ延長線上の点同士という気がする。現状の社会、世界観、システムからの脱皮。これらを私たちは心の奥深いところで求めているのではないだろうか。

 ダイビングは楽しいからやるのであって、理由は必要ないと僕は思う。しかし、なぜ今、多くの人がダイビングを楽しいものと思いはじめたのか。そこに人間の自然への願望が見える。それは自然から離れていたから戻ろうとする現象ではなく、どんなに自然から離れていっても、結局自然のなかに生かされているということに、種としての人間が気付きはじめているからだ。人類はお釈迦様の手のひらから出ていけない孫悟空のようなものなのだ。

 僕たちは自然に包まれている、それを認めるしかない。そしてそこにダイビングの楽しさがある。

                        月刊ダイバー96年11月号掲載

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