共に生きる

 2002年4月19日、東京都豊島区立千登世橋中学校にて全校生徒に対して1時間ほどの講演をしました。テーマは「共に生きる」です。ここにその要約と使用した写真を掲示します。

 1994年にアフリカに行きました。私が書いた漫画の原作が『別冊フレンド』に採用され、その舞台となったケニアのツァボ公園を取材するためです。

 1948年にツァボ国立公園が開園されました。そこの監督官デービッド・シェルドリックは何年もかけて国立公園を作る準備をしました。当時はアフリカに象は150万頭いたのですが、次第に象牙を目的とした密猟のために頭数がみるみるうちに減っていきました。

 密猟をなくすためにいまでもケニア・ワイルドライフ・トラストが草原のなかを監視しています。しかし、ツァボ国立公園はほぼ四国全体と同じほどの大きさです。なかなかすべてを見回ることはできません。しかも、密猟者たちは見つかれば重罪になるので死を覚悟で罪を犯しています。見つかると銃撃戦になり、密猟者もケニア・ワイルドライフ・トラストの人たちも双方共に死者を出してしまうことがあります。

 1989年7月18日、ケニアのモイ大統領が全世界に象牙の不買運動を訴え、回収した象牙を2000本以上、ナイロビ国立公園で焼き払いました。下の象の像はそれを記念して作られたものです。以来毎年7月18日は象の日となりました。

 ツァボ国立公園の初代の監督官の奥様だったダフニー・シェルドリックさんは、公園内で親を殺されひとりでは生きていけない幼い動物を預かり育てて、自然に返しました。はじめは必要に迫られてやっていましたが、そのうちにどんどんと預けられる動物が増え、ひとりではどうにもならなくなって動物孤児院を作ります。

 下の写真は動物孤児で育てられている動物たちです。

 いろいろな動物が動物孤児院に預けられました。ほとんどの動物は大人になって草原に返されました。しかし、象だけはなかなか返せませんでした。

 二歳以下の象は大人になれずに死んでしまいました。ダフニーさんはどうにかして二歳以下の子象も自然に返そうと必死に研究しました。しかし、どうやっても二歳以下の子象は死んでしまいました。象は非常にデリケートなのです。

 三十年以上かけて子象を育てるノウハウを蓄積しました。子象は下の写真のように母親のおなかのように広い毛布ごしにしかミルクを飲みません。ミルクも子象用に特別に調合しなければなりません。脱脂粉乳に米のとぎ汁、数種類のビタミン剤などを混ぜました。

 子象は慣れ親しんだ飼育係がいなくなると、それだけで食欲を失い死んでしまいます。なので一頭につく飼育係は少なくとも三人います。誰かひとりがいなくても子象が動揺しないように細心の注意を払います。

 こうしてオルメグという象がはじめて二歳以下から飼育されて大人になりました。

 子象は大人になったとしてもすぐに自然に返せる訳ではありません。象は非常に社会的な動物で、群れのなかには人間の知らないたくさんの掟があったのです。ある程度育った象を群れに連れて行っても、人間に育てられた象は象の掟を知りません。何度も辛抱強く自然に生きている象の群のそばに行き、象の掟を学ぶのです。動物孤児院と草原との行ったり来たりが彼らの最初の仕事です。

 子象たちは英語でしつけられています。何か指示をするときは英語を使いなさいと言われました。「はい」とは答えたものの、象に言葉が通じるとは思いませんでした。ところが、下の写真にあるように子象のイッペンジーがすごい勢いで私の方に駆けてきました。この写真を撮ってすぐに英語で叫びました。

「STOP!」

 するとイッペンジーはその場で立ち止まりました。

「Go away!」

 と言ってうしろにいる象の群を指さすと、イッペンジーはその言葉に従い回れ右をして群れのなかに入っていきました。私の英語が通じたのです。

 象は人に興味を持つと鼻を伸ばしてきます。その際に鼻先に息を吹きかけるとその象は一生その人のことを忘れないそうです。私も何頭かの子象に息を吹きかけました。きっと一生僕のことを覚えていてくれるのでしょう。

 この旅行のコーディネーターが10年前に動物孤児院で育てられた象のエレナに会ったことがありました。彼はもしそのことが本当なら、エレナは僕のことを覚えていてくれるのかなぁと言いました。

 下の写真は左から、私、ダフニー・シェルドリックさん、漫画家の湊よりこさんです。このアフリカでの体験をふまえ、後日講談社から『ひとりぼっちのケテイ』という漫画にして出版しました。

 象のエレナは『野生のエルザ』という映画にも出演し、有名な象だったのでケニアの様々な催事に呼ばれました。しかし、象はとてもデリケートな動物です。知らない人にたくさん会わされることがストレスとなり、弱っていきました。

 そんなとき、ダフニー・シェルドリックさんのところへエレナは預けられました。以来、エレナはすくすくと育ち、自然に帰りました。

 普通、象は一度自然に帰ると人間との接触を断ちます。しかし、エレナは草原に孤児の象を見つけたり、ライオンに襲われた水牛を見つけると彼らを動物孤児院まで連れてきました。

 私はケニアに行くことが決まり、どうしてもこのエレナに会いたいと思いました。しかし、私が行くのは雨期だったため、エレナがどこにいるのか、探してもまず見つからないと言われました。

 ツァボ国立公園内で二日間エレナを探しました。動物孤児院の飼育係に同行してもらいやっと森のなかを歩いているエレナを見つけました。大声で「エレナー」と叫ぶとくるりとこちらを向いてやってきてくれました。

 エレナは近づくとまず動物孤児院の職員に挨拶しました。そして隣に私や湊さんがいたにも関わらず、飛び越してコーディネーターに挨拶しました。彼は大感激でした。その後、私や湊さんにも挨拶をしてもらいました。

 ケニアで肉食獣を見つけるのは難しいことです。幸運にもチーターの親子に遭遇しました。

 一頭の肉食獣がいると、食べられてしまう肉食獣は年間で数十頭になるでしょう。数十頭の草食獣が食べられても絶滅せずに安定していられるためには恐らく何百頭という頭数が必要でしょう。何百頭もの草食獣を支えるためには非常に広い草原が必要です。

 肉食獣は我が物顔で草食獣を食べますが、視点を変えると、彼らは草食獣がいてくれるおかげで生きていられると言えますし、もっと言えば、広い草原があるから生きていられるとも言えます。

 私は今朝、目覚まし時計で起きました。朝食を食べ、電車に乗って目白駅まで来て、千登世橋中学校に到着しました。私は目覚まし時計を使っていますし、朝食は私の意思で食べました。電車もお金を払って乗りました。我が物顔でそれらを使ったり食べたりしていますが、視点を変えると、それらを作ったり、運行している人たちがいなければ私は時間通りにここに来られなかったでしょう。

 1995年にアメリカフロリダ州のキーウェスト近くにあるシュガーローフキーに行きました。そこにはイルカのリハビリ施設がありました。

「わんぱくフリッパー」というドラマがありました。イルカが湾岸警備隊の父親を持つふたりの男の子たちを助けるという1960年代のドラマです。そのドラマでフリッパー役のイルカを調教していたのがリチャード・オバリーさんです。オバリーさんは「わんぱくフリッパー」の撮影が終わり、イルカたちが悲惨な境遇に置かれてしまったことに心を痛めました。フリッパー役のイルカはオバリーさんの腕に抱かれて死んだものもいました。

 以来、オバリーさんはイルカの解放運動を始めます。

 いくつかの自然保護団体と共同でオバリーさんはアメリカ海軍を相手に訴訟を起こします。訴訟内容は「武器として飼育しているイルカを自然に返せ」というものでした。その裁判に勝ち、海軍から数頭ずつイルカを預かり、シュガーローフキーでイルカのリハビリをしていました。兵器として育てられたイルカたちは海に放してもすぐにはそこで生きていくことができないのです。

 人間は我が物顔で動物たちを利用します。人間は万物の霊長だと言って支配します。しかし、人間が人間としていられるのは他の存在のおかげです。もし他の生命がすべてなくなったら私たちは生きていけません。

 もし他の生命がなかったら私たちは人間になることはできなかったでしょう。言語を獲得することができないからです。言語を獲得できるだけ脳の能力を高めるためには、類人猿の祖先が様々な動植物を食べなければなりませんでした。樹上で生活することで手の能力を発達させなければなりませんでした。

 私は二年に一度バリ島に行きます。ニュピというお祭りに参加するためです。その日は「外出してはいけない」「食事してはいけない」「電気や火をつかってはいけない」「寝てはいけない」「働いてはならない」という日です。バリ全島がそれを守るので町中はとても静かになります。

 そのニュピの三日前から準備が始まります。人々はお寺でお参りをします。その際に「その場の神様」「祖先」「宇宙全体」と三回お祈りします。お祈りは「感謝」と言い換えるとわかりやすくなります。つまり「そこにいられることを感謝」し、「自分が生きていられることを祖先に感謝」し、「すべてを包み込んでいる宇宙に感謝」するのです。

 下の写真はニュピに入る日の真夜中、オゴオゴというお祭りの様子です。ニュピの前に神様の世界が清められます。そのために鬼のようなものたちが地上に降りてきます。それらをまた神様の世界に戻すための儀式です。

 私たちは目に見えるいろんなものと一緒に生きています。私たちはそれらをつい利用していると思いがちですが、視点を変えれば、それらがあるおかげで私たちが生きていられるとも言えます。現在の日本ではあまり「その場」や「祖先」や「宇宙」に感謝したりはしません。でも、そういう視点を持つことも大切です。

 もし、私の両親が出会うことがなかったら、私は生まれませんでした。同様に、両親は祖父母が出会うことがなかったら生まれませんでした。つまり、たくさんいる祖先の誰か一人でも違う人であったなら、私はここにいません。そう思うと祖先に対して感謝せざるをえません。そして、それだけの偶然に支えられた私という存在が奇跡的なものに思えてきます。私が奇跡的であるのと同様に、他人も奇跡的な存在です。私たちはここでこうして出会ったことが当然のようにも思えますが、何かひとつの要因が狂えば出会うことはできませんでした。するとこうして出会ってお話しできることが非常に大切なことのように思えてきます。

 私たちはいろんな人が従事しているいろんな仕事に支えられて生きています。私たちはついたくさんのお金が入る仕事がいい仕事と考えがちです。しかし、お金はさておいて、社会に必要な仕事はたくさんあります。そして、それらがなければ社会は機能しません。大人になるというのは、社会に対して自分が何を与えられるのかをきちんと自覚することです。この世界で出会った私が、あなたに何を与えてあげられるのか。それが私のこの世界にいる価値になります。与えてあげることは何もお金でなくてもいいのです。何かを感じることであったり、何かを思い出すことであったり、私たちは互いに影響を与え合うことができます。

 ダフニー・シェルドリックさんは動物孤児院を運営しても別に動物から何かをもらうわけではありません。リチャード・オバリーさんもアメリカ海軍を相手に裁判しても何か特別にいいものをもらえるわけではありません。しかし彼らは自然や社会に何かを与えることで、目に見えないものを巡り巡って得ています。

 共に生きるということは、共に何かを与え合うことと言えるでしょう。そして互いにそれらに対して感謝できることではないでしょうか。