癒しの時代の向こう側

  癒しとは何か

「癒し」や「ヒーリング」という言葉が流行っている。書店へ行けば「癒し」をテーマとした精神世界や心理学の本が平積みにされている。ヒーリング・ミュージックが音楽産業のなかにしっかりと根を下ろした。そしてヒーリング・グッズと銘打たれた商品が出回っている。

 たとえば、この分野に八七年「バシャール」という本を出した株式会社ヴォイスの代表喜田見龍一氏は、八六年にその本を自費出版で千冊作り、本屋に直接持ち込み、あっという間に売り切った。そのため会社を設立、その後は取り次ぎを通して同書を二十万部も売り上げるロングセラーにした。その後出した続編も加えると四十万部のヒットになる。また、ヒーリングやリラクセーションのためのCDを専門に扱っているプレム・プロモーションは、平成三年度六万枚の売り上げを平成八年には二十万枚まで伸ばしている。なぜいま「癒し」が流行るのであろう。

 神奈川県川崎市にあるスピリチュアル・ショップ「ラブランド」の店長、石崎洋一さんによれば、このところ精神世界的な品物全般が売れるようになったそうだ。現代社会では距離的にはそばにいるのに、気持ち的には離れていると感じている人が多い。それを埋めるために精神世界的なもの、癒しのためのものが必要とされるという。

「ラブランド」には水晶など美しい貴石類が多数展示されている。お客様のなかには、これらの石にどんな癒しの力があるのかを聞いてくる人もいるそうだ。それぞれの石にどのような効能があるのかを著した本もある。しかし石崎さんは、石に力があるのではないという。

「癒しは誰かにパワーをもらってされるものではないでしょう。誰でもがその内側に持っている力ですよね。その力が他の存在とのコミュニケーションを通じてつながりを感じたとき活性化されるものだと思います」

 東京工業大学上田紀行助教授は、その著書『癒しの時代をひらく』で癒しとは存在全体に関わる言葉だと書いている。

 存在全体を精神・身体・社会・自然環境と分類してみる。するとそれぞれのパートが密接な関係を保ち存在していることに気づかされる。身体は精神に影響を与え、精神は社会に反映され、社会は自然環境を変化させ、自然環境は身体を左右する。これらの関係のなかで存在全体は、どのように癒しとの関係を形作っているのだろうか。今回は特に精神と社会の関係に的を絞って考えていきたい。

   パーツとしての自分

「会社勤めをしていた頃、ちょうどバブル全盛期はもう必死に働きました。当時は社内でトップになるつもりでしたからね」。そう語るのは、東京都渋谷区でヒーリングガーデンを経営する喜田圭一郎さん。

 ヒーリング・ガーデンでは音楽と共に振動する手のひら大のバイブレーターBRS2 (ボディーソニック・リラクセーション・システムの略 2は改良型であることを示す)を用い、体のつぼへヒーリング・ミュージックを送り込むというヒーリングをおこなっている。

 喜田さんはサラリーマンをしていた頃、体を壊した。会社で手がけていた仕事は全部止まってしまうと思ったが、回復して出社するとどの仕事も先に進んでいた。そこで喜田さんは気がつく。「会社のために体を壊してまで働くのはなんか違うな」と。そこで人の勧めに従い、社内ではその会社の体質から進めにくかったプロジェクトを実現させるため、独立して会社を興し、ヒーリング・ガーデンを作った。収入はサラリーマンの頃におよばないものの、自らのアイデアと努力で会社を運営することはお金に換えられない喜びだそうだ。

 工業化時代を迎えて以来、人はまるで機械のパーツのように考えられた。自分の個性というものは極力排除され、統一された規格品を生みだし続けることが求められた。かつてはそれで充分だったのだろう。しかし、現代のようにさまざまな情報が氾濫し、何を自分の価値観とするかが複雑になってくると、マニュアルのようにひとつの価値観や考え方を与えるような指示や教育では、人間は動かされなくなってきている。

 ひとりの人間がいきいきと働くためには、その人自身が自分の価値観と与えられた仕事について深く考える必要があるのではないだろうか。

 本当に創造的な人間が増えてくると、従業員に工業的マニュアルを与えている経営者は途端に恐怖心を抱かざるを得ない。社員が言うことを聞かなくなるのではないかと。しかし、案ずることはないだろう。喜田さんにとって「癒し」とはどのようなことかを聞いてみた。すると人が癒される生き方は天命にしたがうことだ、と言う。

「人の天命はいろんなものがあると思います。お蕎麦屋さんならどれだけうまい蕎麦を作ることができるかがその人の天命でしょう。タクシーの運転手なら、いかにお客様を安全に気持ちよく目的の場所へと連れていくかがその人の天命。自分が今できることを心をこめて楽しむ、それがその人の表現方法であり、天命だと思います」

 経営者として生きることが天命の人もいれば、従業員として働くのが天命の人もいるだろう。社会のなかで自分を取り戻すためには特別なことをする必要はないのかもしれない。たとえマニュアルがあっても、ただそれに従うだけでなく、自分のいま与えられている仕事を丁寧にやる。それもひとつの創造であり、自らの「癒し」への入り口だ。

   デジタル・ヒーリング

 ニフティ・サーブは日本最大のパソコン通信ネットワークである。そのなかに「マインド・ステーション」と呼ばれるステーションがある。そこは悩みを持つ人々が自由に書き込んだり、運営者がカウンセラーの紹介をしたりしているステーションだ。マインド・ステーションの運営をしている花山勝清さんにお話しをうかがった。

 花山さんがマインド・ステーションをはじめた理由は、いかがわしい宗教やセミナーに頼らなくても心のケアができるようにするためだ。いまの社会は複雑にからみ合っているため、親しい人との間でもなかなか自分の弱みを見せられない場合が多い。そんなときでもネット上なら、本名で相談する必要もなく、まったく別の人格で相談することもできるという。そこに参加している会員たちは相談したがりの人もいれば、相談にのりたがりの人もいる。会員同士お互いにコミュニケーションを取るうちに多くの場合は本人が、どう自分の問題を解決したらいいかに気がつく。極端な話、悩みを文章にするだけでも問題点が整理され、答えが見えてくるそうだ。

 子どもが学校や友達とのできごとを親に話さない。親は夫婦同士、互いの仕事に関して会話をしない。本当に身近な人と深く感情に関わる会話ができないというのは、社会のなかでの人と人の関わりが歪んでいることの証拠といえるのではないだろうか。

 社会が複雑になり、互いに相談し合えない話が多くなるにしたがい、個人が抱える問題はより個人的なものとなる。価値観が多様化し、相談事が普遍的な問題ではなくなりつつあるということが、身近な人に相談できない原因のひとつだろう。そのような社会のなかで花山さんは人々が互いに癒し合う場を作ったのだ。ネットワークを通じて相談をするというのは、相談相手を探すのには大変有効だ。

 一方では人間関係が稀薄になり、また一方では新たな人間関係を作ろうとする。これは窮屈な人間関係から、快適な人間関係へと移ろうとする試みだろう。

「遠い親戚より近くの他人」と言われたが、現代は「同居の家族より話のわかる他人」とでもなるのだろうか。

   癒しとカルト

 岩井軽さんはオウム真理教の出家信者だった。もちろん今はオウムとの関係を断ち切った。『私が愛した「走る爆弾娘」菊地直子へのラブレター』という著書をコアマガジンから出している。

 岩井さんはこう語る。

「オウム真理教にいた人たちは多かれ少なかれ、今はやりのアダルト・チルドレンだったと思います」

 オウム真理教に入信する人の多くは、厳しい親や家族から逃げるようにして入信する。ところが親を離れて入ったところは、親などからは想像もできないほど厳しい呪縛のなかなのだ。オウムでは自己の自立が目的ではなく、麻原彰晃にどれだけ依存できるか、これが目的なのだ。なぜそのようになってしまうのか、その理由を岩井さんはアダルト・チルドレンと関係づけている。

 アダルト・チルドレンは自分に自信がないために自己肯定をしようと「絶望的なまでの愛情と承認への欲求を持つ」。この性質をオウムは利用したと岩井さんは指摘する。つまりオウムは厳しい修行の末に解脱という仏陀が到達した人間最高の状態を得られると宣伝した。そして麻原から認められれば認められるほど教団のなかでは立場が強くなる。アダルト・チルドレンはあたかも自分の力が大きくなっていくという強い幻想を持つ。この幻想こそ信者たちにとって「癒された」と感じる経験だったのだろう。

 アダルト・チルドレンはアダルト・チルドレン・オブ・アルコホリックス、つまりアルコール依存症の親に育てられ成長した大人という意味だ。アルコール依存症の親を持つと、子どもはかなりのストレスにさらされる。そしてそのストレスの結果、子供は「自己評価を極端に低くする」「愛と同情を混同する」などの特徴をもつようになる。そしてついには「絶望的なまでの愛情と承認への欲求を持つ」ようになる。

 親がアルコール依存症でなくてもアダルト・チルドレンの症状が出ることがある。たとえば父親がワーカホリック※であったり、母親が共依存※であったときだ。

 さてここで注意しなければならないのは、日本人の多くがアダルト・チルドレン的な性格を持っている可能性だ。ほんの一0年から二0年前までは、日本人労働者の多くがワーカホリックだったと言える。一九五0年代から七0年代日本が驚異的な経済成長を遂げたのは、日本の労働者がどれだけ働いてきたかを象徴している。そのなかで育った子どもたちが現在大人となりアダルト・チルドレンの特徴を持っていても不思議ではない。

 オウムの事件はこうしてみると、現在の日本人の心のありように注意をうながす事件だったと言えよう。

 オウムのようなカルトは日本人の弱みにつけ込み、財産はもちろん思考や感情までも奪っていく。ではそのような日本人を癒すためには何が必要なのだろうか。

  haveの文化とbeの文化

 社会心理学者エーリッヒ・フロムはその著書「生きるということ」のなかで、現代の資本主義社会をhaveの文化※と表現している。

 自分というものを表現するとき、多くの人は何を持っているかを表現し、自分自身が何を考え、どんな行動をしているかについては何も語らない。どれだけの財産を持っているのか、どんな車に乗っているのか、どんな家に住んでいるのか、学歴はどのようなものなのかなどを語ることによって自分を表現したと考える。つまり自分自身に価値があるのではなく、何を持っている自分であるかがその人の価値となっている、そんな文化をhaveの文化と書いている。

 この視点で現代のマスメディアを見れば社会がその性質に染められていることは明らかになる。マスメディアはほとんどが広告に支えられている。その広告が訴えるものは常に「あなたはこれを買えば生活が豊かになる」「これを持てば尊敬される」など、商品を持つことへの欲望の喚起だ。つまり広告の多くは何かを持つことへの礼讃なのだ。そのようなコミュニケーションにとっぷりと浸かった私たちはいきおい何かを持つことへの欲望をかき立てられ、何かを持たないことが恥ずかしいことと感じるようになる。

 しかしすべてを持つことはできない、常にあれやこれをいつか持ちたいという欲求不満を抱えることになる。

 このような文化と対立してフロムが考察しているのはbeの文化だ。つまりそこに存在する、そのこと自身が価値であり、素晴らしいことであると考えることだ。一杯の水を飲むとき、他にもおいしい飲み物がたくさんあると考えて飲むのか、それともここに一杯の水があることを喜んで飲むのかでは、同じ水でも味わいが違う。

 私たちはいままで常に、「ここにある一杯の水よりうまいものがあるはず」と思わされるような文化に浸っていた。そのように思わされることによって消費が促進され、経済活動が活発になる。そのような文化のなかで生きるより、これからは「ここにある一杯の水によって私はとっても嬉しい」と感じることができる文化が必要とされるのではないだろうか。これがbeの文化だ。これは些細なことのように思えるがそこから生まれてくる人の感情や行動には大きな違いがある。

 haveの文化ではいかに自分が欲しいものを手に入れるかが目標となる。一方beの文化ではものを持とうとか買おうとか所有欲がうすくなる。なぜなら自分が生きていられるという事実に価値を見いだすからだ。必要以上のものを持とうとすることなく、いまあることに喜ぶ。または互いに分与できることを喜ぶ。そのような文化が少しずつ近づいてきていると私は考えている。その文化の到来が本当の癒しをもたらすきっかけとなるだろう。

  効率優先社会から何かを作り出す社会へ

 beの文化の象徴として思い出すものはボランティア活動である。阪神大震災でも北陸のタンカー原油流出事故でも、多数のボランティアが活躍した。彼らはなぜ、自分の利益とはならないような活動に身を挺したのだろう。それはhaveの文化からは見えない価値観が、彼らのなかにあったからではないだろうか。阪神大震災の復興にあたり、ボランティアの指導的立場として関わった曹洞宗国際ボランティア会の市川斉さんはボランティアに参加する価値をこのように答えた。

「ボランティアは他人のためにするのか、自分のためにするのかと問われることがあるのですが、その両方だと思うんです。手のひらに裏と表があるように、ボランティアにも他人のためである部分もあり自分のためである部分もある。たとえば阪神大震災のときなどは現場は完全に非日常の世界ですから、そこに来たボランティアのみなさんはふだんの生活とは一切関わりを断って救援活動をします。そのとき心にあるのは、生きているという実感ですね。普段の生活ではやることが決まっていて、その役割を演じ続けなければならないのですが、救援活動では一分一分が変化の連続なんです。人と人との関わりが急速で伝播的な変化をもたらすんです。そのとき感じるのは人間は個で生きているのではないという感覚ですね。作られた道を行くのではなく、自分が他の人たちと一緒に道を作っているという感動です」

 重要なのは、癒しを与えられるのを待つのではなく、癒しに対して積極的に参加する姿勢だ。それは何も難しいことではない。人の相談に乗ったり、地域社会のボランティアに参加したり、人によっては家族と一緒に旅行することかもしれない。癒しは一部の能力のある人が行うものだけではなく、私たち自身が生活のなかで人と関わり楽しむなかに生まれてくるものだ。私たちはhaveの文化のなかで効率ばかりを優先させ、「楽しみ」「会話」「一緒に何かをすること」についての価値を見失ってしまったのではないだろうか。

 多くの人が自分のまわりにいる人とともに真実を語り合い、楽しむようになれば、きっと意義ある行動も見えてくる。その行動を実際に始めたとき、haveの文化のなかに生まれてくる、カルト的な癒しのビジネスはもういらなくなるだろう。

 

    日本を癒す

 日本にはかつて多くのコミュニティが存在した。そのなかで今と比べれば濃密な感情のやりとりがあったと考えられる。しかし現代、ヒエラルキーのなかでの人とのつきあいは形骸化し稀薄となり、濃密な感情のやりとりが少なくなった。行き交う情報は個人に対して愛情や親しみをしめすものではなく、商品を売るための情報であったり、見ず知らずの人の一方的意見の押しつけであったりする。かつてのようにガキ大将を注意する大人もいなければ、親しみの持てるご隠居もいない。

 家族は分断され、家庭でのコミュニケーションはテレビを中心としてなされるようになった。年輩者は時代のあまりにも速い、めまぐるしい変化に対応できないと思うようになり、自信を持って意見を言わなくなった。若者は年輩の方の意見を時代遅れのものとして耳を傾けない。耳を傾ける先は巨大なメディアだ。

 では、メディアは何を語るだろう。メディアの語るべきはものは、資本主義社会では商品の宣伝が中心とならざるをえない。そしてついには愛情につながる出会いやコミュニケーションまで、商品として売られるようになった。このような愛情もどきを商品として売らざるを得ないほど、私たちの社会は他人との関わりを稀薄にしてしまったのだ。

 癒しがもてはやされるのは、私たちの社会に不足してきた心の会話を取り戻そうとする働きだと私は考えている。

 資本主義は搾取の論理、haveの文化で成り立つ。その論理があるからこそ、現代の社会の発展があった。それは認めるし否定はしない。しかしこれだけ長い間搾取の論理が優先されることによって、私たちは搾取すること自体、普通のことと思いこむようになってしまったのではないだろうか。そしてついにはかつて感情のやりとりのなかでおこなっていた営みさえ、「癒し」という名の商品としてしまった。

 私は癒しを職業としている人を責めているのではない。そのような人たちが必要となるほど、私たちは大事なものを見失っているのではないかと思うのだ。

 本当に癒しを行おうとする人は、搾取の論理で成り立つ社会のなかで途方に暮れるしかない。いくら癒しを与えても、与えきれない。無力感と戦い続けるしかないのだ。そしてその代価として、癒し続けるためにお金を得る。

 癒しという概念を専門家に委ねるだけではなく、自分の他人との関わりのなかに当たり前にある、そんなふうに考えない限り、新たな「愛情もどき」「癒しもどき」が増えるだけで、私たちの精神は、身体は、社会は、自然環境は、永遠に満たされないのではないだろうか。

 今回は精神と社会について考察したがいつか機会を改めて、自然環境と身体、社会と自然環境についても論じてみたい。

※ワーカホリック

 仕事中毒。この結果引き起こされる「過労死」は英語にもなっている。

※共依存

 共依存とは「愛という名を借りて他者を束縛する」こと。母親のなかには子どもが自立すべき年齢になっても過剰に面倒を見ようとする人がいる。いわゆる親離れ子離れができないという現象だ。このような場合子どもはアダルト・チルドレンとなりがちである。

※haveの文化とbeの文化

 紀ノ国屋書店発行、佐野哲郎訳「生きるということ」のなかでは<持つこと>と<あること>などに訳されているが前後関係からわかりやすく表現するために<haveの文化>と<beの文化>と言葉を変えた。

                   週刊金曜日 97.12.19掲載

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