Let it be  心の話 Vol.9     埋もれた記憶
     
 部屋の模様替えをして以来、毎朝お香を焚く。窓を開け、朝の風を入れながら、そ
れでも部屋にとどまるかすかな香りを楽しんでいる。四、五年前に買った小さな香炉
に円錐形のお香を入れて楽しんでいる。
   
 ある日、ふと大きな香炉のことを思い出した。三本の長い足がついた高さ二十セン
チほどの香炉だ。それは親父の書斎にあった。そう、その香炉に高級なお香を入れて
焚いていた。当時僕は小学生、もしかしたら中学生だったかもしれない。以前うちに
はそんな習慣がなかったので、僕は驚いた。親父かそんなことをするとは思えなかっ
た。
   
 父の書斎には赤い絨毯が敷かれていた。ところが部屋には三方に書棚があるのだが、
そこには入りきらない本が足下に積まれていた。面倒くさがりの父はその部屋を母に
掃除させることすら嫌がった。赤い絨毯はビロードのようになり、本に含まれる湿気
が独特の臭気を放っていた。たまに父がその部屋を掃除すると、家中に書斎の臭気が
漂った。そんな書斎でお香を焚いていた。お香自体の香りはいいのだが、混ざる臭気
が嫌だった。
   
 僕の書斎は親父のほどひどくはないが、乱雑で手のつけようがないのに変わりはな
い。しかし、それをきれいに掃除して、隣の寝室もきれいにして、お香を焚くように
なった。それはあとから考えると、なんだかかつての親父の書斎の匂いのかたきを討
っているような気がした。
  
 以前にも書いたが(BUCHAN通信No.00063)、アイルランドでツイードのハンチングを
買った。買った後で思い出したのはかつて二、三歳の頃、ツイードのコートを着てい
たことだ。兄がその姿を見て「それに新聞記者がかぶるようなツイードの帽子をかぶ
ったらもっと似合ったね」と言った。そのことをはるか数十年たって実現させていた
のだ。
  
 お香もハンチングも、買った後で気づいたことだ。買っている最中は自分の好みで
買っているとしか思えなかった。僕の内側にあるかすかな感覚が僕の行動を決めてい
た。

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