胎児の不思議

ごま書房刊ムック「精神世界」の第一号から第五号(1998.11〜1999.4)に連載。

             

胎児の不思議

     出産と精神世界5

リード

胎児との瞑想で得られる感覚はヨガのマスターとの瞑想と同じ感覚。 Beのきずなをマタニティ・コーディネーターきくちさかえが語る。

  Beのきずなを感じるとき

去年の一月「イブの出産、アダムの誕生」というタイトルの本が出版された。著者はきくちさかえ。農文協刊で人間選書というシリーズの一冊として発行された。内容はきくちさんが現代の出産をリードする考えや体験を持っている人々を訪ねインタビューし、その人の印象や思想をまとめたものだ。産科医ミシェル・オダンからは水中出産について、アイヌの青木愛子からはシャーマニスティックなお産について、作家吉福伸逸からは誕生心理学について、文化人類学者松岡悦子からは通過儀礼としてのお産についてを聞いている。他にも「胎児の不思議」を楽しみにして下さる皆さんにはとても示唆的なお話がたくさんあるので、ぜひ読んでいただきたい。

きくちさんにお話をうかがった。

きくちさんはマタニティ・ヨガのインストラクターでもある。きくちさんは二十年にわたりヨガをしてきた。はじめのうちは瞑想というものがどういうものかよくわからなかったそうだ。ただなんとなく黙っている。それがきくちさんにとっての瞑想だった。ところがあるときからインド人の先生に習い、瞑想が何かがわかったそうだ。言葉にはできないある感覚を味わうようになったのだ。その感覚はいまではひとりでも味わえるが、かつてはその先生と瞑想するときにだけ味わえたそうだ。他の人とやひとりだけでの瞑想では味わえなかったのだそうだ。つまり先生との同調がそこにある。ところが妊婦を前にして瞑想するとき、まさにその感覚がやってくるそうだ。恐らく子宮のなかで瞑想状態に近い胎児と同調しているのだろうときくちさんは言う。

子供は子供なりに悟っている。胎児ならば胎児なりに。一歳児なら一歳児なりに。三歳児なら三歳児なりに。大人はそれぞれの段階の感覚と同調しそれを楽しむことが必要だという。大人は子供になんでも教えようとする。子供がその時々で必要とする感覚や価値観、モノの見方には無頓着である。ところが子供の発達にはその時々で大人とは違う感覚が必要なのだと考えられる。その時々で必要となる感覚や考え方を大人は邪魔しないことが大切だという。大人の与えようとする価値観は往々にしてHave的であったり、ちょっと進んでDo的であったりする。

Have的な価値観とは所有を中心とした価値観だ。知識はなければならない。お金は儲けなければならない。土地は持たなければならない・・・。人は何を持っているかで評価される。現代の社会はこのHave的な価値観に支配されていると言って良いだろう。

Do的な価値観とは活動を中心とした価値観だ。とにかく何かをすることに価値を見いだす。この価値観は社会的にはHave的な価値観の成熟にともない生まれてきた。Have的な価値観で生きていると常に何かを消費し続けたいと考える。しかし、消費し尽くしたとき、違和感を感じるようになる。どんなに消費してもそれだけではなにひとつ建設的なものは生まれない。そこで何かを作り上げることに興味を持ちはじめることになる。Do的な価値観のはじまりだ。

Do的な価値観は地球環境問題の意識の高まりと共に一般的になってきた。いわゆるボランティアに価値を見いだした人々はこのDo的な価値観を持った人と言えるだろう。何かをすることに価値を見いだす。この価値観は非常にパワフルで現代の価値観としては大切なものだ。

Do的な価値観の次に来るものがBe的な価値観だ。それはただ存在するだけでそこに価値を見いだす。季節を感じて感激したり、自然の音に感動する心はBe的な価値観に基づくものだ。

赤ちゃんの、または胎児の最初の価値観はBe的なものと言えるだろう。ただ自分が問題なく生きているだけで喜びを感じる。しばらくすると遊びを覚え、Do的な価値観へと移行する。何かをすることに喜びを見いだす。逆に言うと、何かをしていないとつまらなくなる。その段階の次に来るのがHave的価値観だ。自分が何を所有するかに興味を持ち出す。ここまで見てくると赤ちゃんの価値観の発達は社会の価値観の発達とはまったく逆だ。しかし、さらに時がたち人間として成熟していくともう一度Do的な価値観を持ち、それが成熟するとBe的な価値観を持つようになる。Be的な価値観とともに生涯を終えることができると、その人はきっと一生を楽しく生きたことになるのだろう。

社会としては現在Have的な価値観からDo的な価値観への脱皮を試みているところのように思える。このHave的な価値観やDo的な価値観を乳幼児に無理に与えようとするのは良くないことだろう。それぞれの段階を経てから次の段階に行くことが大切だ。

きくちさんは胎児との瞑想はBe的感覚を味わうことだと言う。そこで私は質問をした。胎児と瞑想をすると何が良いのですか?

「いまキレる子供が問題になっているけど、瞑想を十分体験した子供はキレるような子供にはならないような気がするの。やさしいというか、ふところが深いというか・・・。受容度の高い人間になれると思う」。

  母性の強要

きくちさんはさらに現代という時代について示唆的なことを話してくれた。それは現代が母性を強要する時代だと言うことだ。人間は地球に対し汚染を浄化することを一方的に期待する。親は学校に子供のしつけを期待する。男は女性に女性らしさを期待する。しかし、過度の一方的な期待は母性を破壊する。母性は何も強要しない。ただ受け入れるだけだ。

父性は教育したり、しつけたりする。一方母性はあるがままを受け入れる。父性は成長をうながす。母性は成長を見守る。母性は繊細な感覚なのだ。繊細な感覚を維持するためには感覚を能動的に保たなければならない。

感覚には能動的な感覚と受動的な感覚がある。私たちが普段感じている感覚のほとんどは受動的な感覚だ。外部に刺激の源があり、それに刺激されて脳が興奮する。受動的な感覚はすべての人が同じように感じることができるため存在が確認しやすい。一方能動的な感覚は、瞑想や思索、繊細に何かを感じるときに必要なものだ。これはすべての人が同じように感じるものかどうか確認しようがないもののため、あまり話題にならない。

瞑想をしている人のことを考えてみよう。彼はただ瞑想をしていることを選んで瞑想をしている。そこには何の理由も必要とはしない。極めて能動的な心の作用といえる。瞑想をしているすべての瞬間に彼は瞑想という状態を選んでいると言えるのだ。

人は多くの場合何かの理由があって選択をする。選択に際しては理由を探すように教え込まれたと言っても良い。しかし、理由があっての選択は選択の根拠が自分以外にあることになる。つまり理由がなくなれば選択も変わる。たとえば、瞑想をやせるためにするのだとしたら、いくら瞑想をしてもやせないとなったら瞑想はしないだろう。つまりその瞑想は「やせるため」という理由が瞑想をさせているので、本当の意味での瞑想はしていないのだ。瞑想が自分に根ざした選択ではないのだ。この状態は能動的とは言えない。

同様に愛情はきわめて能動的な心の作用である。愛するということは常にその状態を選び続けることだ。そこには理由を必要としない。理由から愛するのだとすると、その愛情は理由がもたらしている見せかけの愛情であって、愛情を持っている人の能動的な愛情とは言えない。

選択を強要されるとき、心の能動性を保持することが難しくなる。心の能動性が失われたとき、愛情は見せかけのものになる。母性や父性も成立しない。能動性が失われたとき母性や父性は「しなければならないこと」に堕する。

つまり私たちは心の自由を失うことによって、本当の意味での愛情、さらには母性や父性を失うのだ。

現代は受動的な感覚に満ちあふれ、受動的な感覚ばかりが問題にされる。能動的な感覚は存在が確認しにくいために「怪しい」感覚と混同されてしまう。

受動的な感覚で満たすことによって私たちは自らを社会的なマインド・コントロールにさらしているのかもしれない。

  価値のない大切なもの

きくちさんはミクロネシアのある小さな島へ行ったことがある。そこに産小屋があると聞いたからだ。産小屋とはその名の通りお産をするための小屋である。出産に深い関心を寄せるきくちさんはとにかくその小屋を見てみたい一心で、その小さな島へ入るための条件をすべて了承した。「写真は許可なく撮らない」「女は禁酒」「 メンズ・ハウスには近づかない」「漁をしてはならない」そして「裸で生活すること」。これらの掟をすべて守ると約束してはじめて酋長の入島許可が降りる。その島できくちさんは究極のターミナルケアを体験する。

その島できくちさんは癌の老人を見舞いに行った。ほかの島で治療を受けたが故郷に帰り、寝たままの生活をしていた。その老人を中心に毎日夕方四十人もの人が集まり、歌を歌うのだそうだ。きくちさんははじめて行った日には部屋のすみで眺めていたが、何日かたち、帰る日には一番前の席で老人を団扇であおぐ役になった。そして帰る間際、老人の手を握ってお別れを言った。すると老人は「また、くるか」と日本語でたずねてくれたそうだ。その後四十日間、そのターミナルケアは続き、老人は亡くなったそうだ。きくちさんはこの体験を通し、お金やモノに還元できない大切なものを感じたという。

私たちの社会ではお金やモノに還元できないものは「価値のないもの」とされがちだ。その結果人々は常に心の奥に不安を隠し、ストレスを抱える。
 受動的な刺激にさらされ、Have的な価値観に染められた現代において、Be的な価値感を今一度思い出すことが必要なのではないだろうか。

   ごま書房刊 ムック「精神世界」
      第一号〜第五号(1998.11〜1999.4)に連載

  

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