■◇■僕が食べた旨いもの Vol.10     ピータンと杏仁豆腐

 大学へは自転車で通っていた。目白通りを練馬から高田馬場へと走っていく。通り

沿い、江古田のあたりになぜか気になる中華料理屋があった。

 入り口にかかる赤いビニールの日除けに「中国家庭料理 白龍」と書かれていた。

大学を卒業して就職し、ある日気になる白龍へ行った。ごま塩頭のおじさんと、太っ

ちょのおばさんが黙々と切り盛りしていた。おじさんが料理を作り、おばさんはウェ

イトレスをしていた。おじさんもおばさんも黙々と働く。声をかけるのが悪いかなぁ

と思ってしまうほどだった。

 厨房は客席から丸見えだ。時たまバァーッと中華鍋から炎が上がると客席まで明る

くなった。

 当時はカウンターの足下にまで食材が置かれ、あまりきれいとは言えない店内だっ

た。でも味は良かった。セロリとレバーの炒めものなどは僕のセロリ嫌いを直してし

まうほどだった。

 それから何年かたち、僕は白龍のあるビルの五階に住むことになった。毎週のよう

に白龍に通った。黙々と働くおじさんおばさんとも仲良くなり、口を利いてもらえる

ようになった。

 白龍の料理は薄味が多い。麺類などはスープの味が足りないと思うほどだ。味の足

りないと思う人のためにテーブルの上ににんにく醤油が置かれている。ラーメンには

それを入れると味がちょうど良くなった。しかし、慣れてくると、にんにく醤油を入

れない薄味のままの方がおいしく感じられるようになった。

 白龍にはたくさんのうまいものがあるのだが、僕が必ず頼むものがふたつある。ひ

とつはピータン。そしてもうひとつが杏仁豆腐だ。

 ここのピータンには表面に杉の葉のようなアミノ酸の結晶を見ることができる。高

級品の証だ。日によるがピータンの黄身はトロトロのことがある。これも高級品の証

だ。ふたつの証がそろってしまうと、それだけで幸せになれる。しばしうっとりとピ

ータンを眺める姿はきっと はたから見たらひどく妖しげであろう。

 添えられた細切りの葱とにんにく醤油をからませ口に運ぶ。黄身がトロトロだと、

うまく口に運べないことがあるので、その際には口を皿の上で箸につまんだ葱とピー

タンのところへと持っていき、アーン。白身の部分は寒天状。黄身の部分はピータン

の濃厚な香りと味を放って口腔内を粘っていく。噛むと、葱の味と香りがにわかに広

がり粘っているピータンの味と混ざり、歯触りには白身の寒天も絡んでくるからもう

恍惚状態になる。寒天状のプルンと葱のシャクシャクと黄身のネットリだ。どうだ、

まいったかってなもんだ。プルンシャクシャクネットリのハーモニーを堪能した後に

ゴックリと飲み込む。プルンシャクシャクネットリは喉から胃へと落ちていく。しか

し、ここで油断してはならない。このピータンを味わい尽くすためには、まだ口に味

が残っているうちに生ビールを飲まなければならない。

 白龍の生ビールはジョッキが凍るほど冷やされているので、注いだばかりを飲むと、

シャラシャラとビールの一部が凍っている。そして、ピータンを食べた後に、そのシ

ャラシャラなビールを飲むと、口のなかのピータンの味が、なぜか甘くまろやか〜に

なるのだ。理由はまったくわからない。不思議なほど甘くなる。ビールは苦いし、ピ

ータンはまったりとした味で決して甘いものではない。なのになぜか両者が混ざると

甘くまろやか〜になるのだ。僕は前菜のようにピータンを頼むが、決して人には分け

てやらない。独り占めにする。

 その後には「にんにく揚げ」とか「海老巻き揚げ」とか「清龍麺」とかうまいもの

がたくさんあるが、それらの解説はいつかということにして、いきなりデザートへと

進む。杏仁豆腐だ。

 ここの杏仁豆腐は僕の杏仁豆腐の概念を覆してしまった。蜜と豆腐しか入っていな

いのだ。たいていどこの高級中華料理店でも、杏仁豆腐にはフルーツが入っているの

が当たり前だ。黄色のパイン、薄い色の葡萄、たまにはライチー、そして必ず入って

いる真っ赤なチェリー。これらが味を複雑にして美味しくする。ところが、それらが

一切入っていない。はじめて白龍の杏仁豆腐を見たとき、正直言って、手抜きか? 

と思った。ここの杏仁豆腐は唐辛子のないキムチか? ライムのないコロナビールか

? と思った。

 ところがさにあらず。蜜と豆腐だけで十二分にうまい。いや、一時間二十分三十秒

にうまいってくらいだ。芝漬けに唐辛子がいらないように、ギネスビールにライムが

いらないように、白龍の杏仁豆腐にはフルーツはいらないのだ。

 まず豆腐はミルクをゼラチンで固めたものにとても似ている。かつて僕が幼かった

頃、母がよくミルクゼリーを作ってくれた。ミルクにゼラチンを混ぜ、少しの砂糖を

足して冷やすのだ。この味にとてもよく似ている。しかも、この豆腐は普通のゼリー

のようには甘くない。ここがひとつのポイントだ。そしてこの豆腐を浮かせている蜜

が曲者である。

 この杏仁豆腐の蜜が何からできているのか、残念ながら僕にはわからない。まず、

この蜜は甘い。そしてじっくりと観察するとほのかに赤紫色である。しかし、注意し

て見ないとわからないほどの色だ。ぱっと見には無色透明な蜜である。この蜜には微

妙な香りがついている。この香りが杏仁なのだろうか? 何かの花の香りのようだ。

杏仁とは辞書によればあんずの種の中身なんだそうだ。

 豆腐はさっぱりしているのだが、蜜が甘い。この二者の割合によって、口の中での

味が変わる。豆腐が多ければミルクゼリーの味が強くなり、蜜が多いと花の香りの甘

さが広がる。しかも、ゼラチンのゼリーだから、舌の体温でスルスルと解けていく。

この解け加減がなんともかんとも気持ち良い。

 白龍の五階に住んでいたとき、風邪を引いて寝込んだ。何も食べる気がせず、おば

さんにお願いしてどんぶりに一杯、杏仁豆腐を食べさせてもらった。うれしかった〜。

 白龍は四年ほど前に改装し、店内もとてもきれいになった。夕食時には行列ができ

ることもある。目白通りを車で走ると江古田のあたりでトマトの看板が見える。白龍

の名物はトマトタンメンだ。このトマトタンメンって奴がこれがまた・・・。

上でご紹介した白龍トマト館のホームページができました。こちらをご覧下さい。

http://www.tomato-tanmen.com/

僕が食べた旨いもの

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