■◇■僕が食べた旨いもの Vol.5     ベルギーのムール貝

 日本で食べるムール貝はゴムのような歯触りで、あれば食べるが、わざわざ探して

食べるほどのものではない。スパゲティに貝殻ごと入ってくることがあるが、しょう

がなく殻から出して食べる。カニの殻を割って食べるときや、エビの殻を取って食べ

るときのようなワクワク感がさっぱりない。貝殻の内側にある身をホジホジして食べ

る。日本のムール貝には「ホジホジ」という言葉がぴったりな一種の情けなさが漂う。

貝殻から出てきた身はクタッとし、味もなければ香りもなく、しばらく眺めるにはつ

らいものがある。

 しかし、ベルギーでのムール貝の人気は日本では想像できないほどのものだ。春先

になると旬の食材がレストランの前に色とりどりときれいに並べられるのだが、その

なかにももちろんムール貝が含まれる。食材のディスプレイにはたいてい小さな黒板

が添えられるが、そこには「採りたてムール貝、一皿いくら」なんてことが堂々と書

かれている。「ホジホジ」したりクタッとしたりする情けなさは微塵もない。

 さて、レストランに入るとたいていの人たちがテーブルの上にバケツを置いている。

何かの殻を入れるためのものかと思うが、よく見るとそのなかにはスープのようなも

のが入っている。一人旅だったのでじっくりと観察した。バケツのスープのなかから

スプーンとフォークでたくさんのムール貝を取り出して食べるのだ。テーブルの皿に

はいままで食べたムール貝の殻が山のように積まれている。僕でさえも食べきれない

ような量だ。その山がどこのテーブルの上にも築かれているのだ。

 店員が来て注文を取る。

「ムール貝などいかがですか?」

「いや、ひとりであれだけは食べられませんよ」

「日本人は小食ですからね。小さい器でお持ちしましょう」

「どのくらいの量ですか」

「あれの半分です」

 半分ならいいかと思ったが甘かった。バケツの半分である。やはり食べられる量で

はない。目の前に置かれたとたんに溜息をついた。小さなバケツからムール貝を出す。

しかし、このときの香りがたまらない。牛乳にバターを溶かし、数種のハーブと塩で

味を整えたスープはとってもトレビア〜ンなのだ。そのスープで煮られたムール貝は

歯ごたえにメリハリがあり、水気を含み、香りを含み、これまたトレビア〜ンである。

日本のムール貝の情けなさとはうって代わり、そこにはそこはかとなく色気のような

ものが漂うのであった。ただ黙って見つめていると頬を染めてしまうような恥じらい

と気品が貝殻のなかに眠っていた。

 殻を手で押さえ、身をフォークでつつくと、牡蛎よりは硬いがゴムのような固さで

はない、しっとりとした手応えが返ってくる。口に含むとミルクやバターや胡椒やタ

ーメリックやセロリの香りが鼻から抜ける。ムール貝を噛むとそこには噛むことへの

快感が歯と歯茎から伝わってくる。モッチリと言うか、ムッチリと言うか。グミを噛

むことへの快感を誰かが「乳首を噛むように」と言っていたが、グミよりもさらにエ

ロティックに感じられた。なにしろグミのように一本調子ではない。複雑に少しずつ

違う噛み応えが口の中に響きわたるのだ。官能のひとときはあっと言う間に終わる。

気がつくとバケツ半分を平らげていた。スープもバケツを持ち上げてゴクゴクと飲み

たいほど旨かった。おかげでフィレ・ステーキを残してしまった。ゲップ。

僕が食べた旨いもの

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