・・・・キネマ旬報社ムック「高畑勲」に書いた文章です・・・・・「高畑勲論」

原作にないセリフ・描写

講談師・神田陽司





海が青いのは空の青さを映しているからだ

と知った時、人は海の偉大さを疑うだろうか。

高畑勲という映像作家がいる。手がける作

品はほとんどアニメである。だが彼は動画も

原画も描かない、キャラクターのデザインも

しない。そのことが海の青さの意味を見えな

くしている。

児童文学のテレビ長編アニメ化を定着させ

た『アルプスの少女ハイジ』。今このタイト

ルを聞けば高畑の演出した「あのハイジ」を

思い浮かべる人が世界中に何億人かいるはず

だ。そして彼らがあらためて原作を読めば「あ

あ、思った通りの世界が広がっている。して

みるとやはりこの原作が良かったからあのア

ニメがあったのだな」と結論するだろう。『赤

毛のアン』然り、『セロ弾きのゴーシュ』然

り、『じゃリン子チエ』然り、『火垂るの墓』

然り……。ここで気づいて欲しい、『母をた

ずねて三千里』。放映一年に渡る長編作品だ

が、実は原作は新書にして60ページしかない。

クライマックス近くのエピソード「輝くイタ

リアの星一つ」にはそのうちの6ページを費

やしているから単純計算すれば原作は10話分

しかない。つまり残りの40話は高畑の創作と

いうことになる。逆に『じゃリン子チエ』で

は原作20話分408ページを二時間足らずの

フィルムにほとんどドラマの省略なしに収め

ている。




あるいはこんな数字はどうか。『赤毛のア

ン』の長い物語の中でも特に印象に残る、育

ての親マシュウが心臓発作で急死してから葬

儀が終わるまでのシーンは文庫で2ページに

足りない。それがアニメでは二話にわたり正

味32分の映像に仕立てられている。しかも元

のセリフは六行、たった五つに過ぎないので

ある。                 

「私が一人で居たいと言っても誤解しないで

くれるわね、ダイアナ…今度のことがあって

から一度も一人きりになったことがないの。

だからそうしたいの…マシュウが死ぬなんて

ことはあり得ないって気がするかと思うと、

それはもうずっと昔のことで、それ以来こん

ななんとも言いようのない鈍い痛みに悩まさ

れてきたように思えたりするの…」新たに書

き起こされた、あまりの悲しみに泣くことさ

えできないアンのいかにもアンらしい吐露。

むやみにエピソードを増やすのでなく、登場

人物の内面に沿ってひとつひとつ、ピンセッ

トででも扱うように細心にセリフが与えられ

いく。あるいは最終話、原作ではただの描写

になっている部分を「手紙に書かせる」こと

によってアン自身の声で読ませる。原作を損

なうことなく補完し、余すところなく作品と

して立ち上げるその方法論はまさに演出家の

完全な作品把握と創造力の賜物といえるだろ

う。




もちろんそれはテキスト量の加減による尺

合わせの問題にとどまらない。『ハイジ』の

「ゆうれい騒動」。アルムの山を離れフラン

クフルトに連れてこられ、山を恋しがるあま

り夢遊病になってしまったハイジを床につけ

たお医者さまが「それは、起きている時と同

じくらいはっきりした夢だね?」と聞き、ハ

イジは、「ただ、ここの所(首あるいはリン

パ節? を押さえて)が大きな石で押さえら

れてるみたいなの」と答える。原作にはない

このセリフと描写には最新の精神医学の知識

が反映されている。それに呼応するように、

アルムに帰り着き、おじいさんとの感動の再

会を果たした後の嬉しい夕食の時にすらこん

な対話が付け加えられている。      

「だが、フランクフルトには山にはない御馳

走が一杯あっただろう?」        

「うん…ほんとうにいろんなものが一杯。で

も、おいしく感じないの。フランクフルトに

は山もないし……自由に飛び回れる野原も林

もないわ、ヤギもいないし、タカも、大きな

ツノの旦那も…(だんだん激してきて)ヨー

ゼフも! シロも! クマも! おじいさんも!!」

                 

「もういい、もういい、ハイジ!」    

目を見開いて視点を固定したまま叫び続け

るハイジに都会での抑圧の強さが溢れ出てい

る。ハイジとアルムの山との関わりがどんな

に大事なものだったかが裏打ちされて痛いよ

うに心に響いてくる。          




たとえば歌。先述の「かがやくイタリアの

星一つ」。三千里をはるかに超えて消息の途

絶えた母親を訪ね捜し歩くマルコ・ロッシが

アルゼンチンはロサリオの町で路銀を使い果

たし、街の者に乞食あつかいされ、途方に暮

れつつ400キロ先(!)のコルドバまで歩

いて行こうと決心する。しかし偶然出会えた

イタリア移民の知り合いに止められ、連れて

ゆかれた移民の集まる酒場「イタリアの星」

で、回された善意の帽子にコルドバ行きの汽

車賃のカンパが山のように集まる。そしてマ

ルコを囲んで勇気づけのために合唱される故

郷イタリアの歌の歌声の力強さ。これも原作

には何も描写がない。

「ありがとう、みんな……ありがとう……僕

……(涙)」              

「いいんだ。いつかお前さんもどこかできっ

と今夜の恩返しをすることになる」    

この歌とセリフが加わることによって、人

の善意を通して民族や社会の問題にまで思い

をめぐらせることになる。        

(余談になるがもともと高畑作品と原作を比

較しようと思ったのは、このシーンとほとん

ど同じ場面を江戸を舞台とした古典講談の中

に見いだしたからだった。もしや高畑氏がそ

れを聞いて取り入れたのではないか、と。も

っともその講談の中では回されるものは帽子

でなくザルだったが。結局シーンそのものは

原作にあり、普遍的な物語は通底するという

ことが実感されたに過ぎなかった)。  




たとえば場所。『じゃリン子チエ』の中で、

バクチ狂いの父・テツを養うためホルモン屋

を経営する自称「日本一不幸な少女」小学生

のチエが、別居中の母親と父を仲直りさせる

ために日帰り旅行に出る。道中でチエはなん

とか二人を打ち解けさせようと涙ぐましい努

力をするのだが、その行く先が原作では金閣

寺なのが遊園地に変更されている。これも先

述の通り、両親の仲が一通り落ちつくまでの

長いストーリーを詰め込むため、本来なら中

心となる金閣寺の重厚な風景が間引かれ、し

かし様々な遊具のある「遊園地」に行くこと

によってテツが心を開く契機が増やされ、結

果三人が心を一つにする過程をムリなく速め

ている。そして多くの観客に最も共通した幼

児体験として深い郷愁を引き起こさせる役目

も果たす。同時にセリフの方は原作の完成度

が高いことを見て取って主要な部分は一字一

句の改変もせず、それらすべてを時間内に収

めてしまう手腕は賛辞としての「職人芸」と

呼ぶに値するチカラワザである。     

(しかもこの作品は声優のほとんどが吉本興

行の個性のカタマリのような「芸人」たちに

よって占められていた。戦後もっとも気難し

いと言われていた故・横山やすし師匠にまで

アントニオJr.という重要な猫のキャラク

ターの役をあて、ほぼ完璧な形で声の演技を

実現させた監督の手腕がチカラワザでなくて

何であろうか)。

そしてその演出力の結果、原作を忠実にア

ニメとして立体化するにとどまらず奥に潜ん

だ見えざるテーマを引き出すことまでやって

のける。                




『火垂るの墓』のラストシーン。終戦を迎え

てから命尽きたことが哀れさ重なる四才の妹

・節子を大豆の殻と特配の炭で荼毘に付した

中学生の兄・清太。小さな骨を拾いドロップ

スの缶に納め、幻となって駆け寄ってくるオ

カッパ頭を膝に抱えてたたずむ丘の向こうに

は、昭和二十年八月の荒廃した風景でなく現

代の光まばゆい高層ビルの街が広がってゆく

……。普通に考えれば悲惨極まる戦時と平和

で豊かな現代とのコントラストということに

なのだろうが……?

その寸前にあるもうひとつのコントラスト。

幼い兄妹が孤児となって惨めに暮らした湖の

側に掘られた横穴と、それを見下ろす高台に

立てられた高級住宅。そしてそこに疎開先か

ら戻って蓄音機で「埴生の宿」のSP版をか

ける三姉妹。清太らの父も海軍大尉であり戦

時にもまともな暮らしを立てていた様子から

必ずしも階級的な対比とは思われないが……? 

謎の答えは三姉妹の服の色、白・黄・緑に

あった。ノルウェーの画家・ムンクの『桟橋

の少女たち』という1901年の作品にこの、

後ろ姿で並んで佇む白・黄・緑の服の少女た

ち、というものがある(正確には黄色は帽子

の色になるが)。配色の他にお下げ髪、麦藁

帽が各一人ずつという配置からとても意図的

でないとは思えない。ムンクの絵の方の解釈

は「三人の服の色が違うように、彼女らはそ

れぞれの運命を歩む」というのが定説である。

つまり三姉妹と、清太、節子の兄妹の差は運

命という名の偶然の差であって、あやうい選

択の上に乗って流れる人の命もまた、明滅す

る蛍の姿同様はかないものである、それは戦

時も現代も同じ人生の実相である。というの

が反戦平和、共同体との齟齬といったものの

背後にあるより大きなテーマとしてにじみ出

してくる……。さすがにこれは深読みに過ぎ

るかも知れないが、それを可能にするほどの

奥深さが『火垂るの墓』というアニメの中に

は構築されていた。それだけは間違いないと

確信する。







もちろん、ここに記したのはごくごく一部

の例に過ぎない。原作の表面にあるものは残

らず映像化し、深層にあるものまでもベクト

ルを変えることなく増幅して作品化する。多

種多様な原作に向き合ってきた高畑作品にそ

んな芸当ができるのは、繰り返しになるが高

畑勲という希有な映像作家の比類なき理解力、

把握力、消化力、創造力によるものである。

コップの水に青空が映っていてもコップの

水が青いとは誰も思わない。海が青いと思わ

れているのは、海に空を映すだけの広大さ、

豊かさがあるからなのです。