(キネマ旬報社・刊/260ページより)


現実認識のためのアニメ「Z」




1999年現在、時代は混沌としている。

だが、存在の連続の背景を「時代」と捉える

ならその本質はいつだって混沌のはずだ。だ

からこそ人は常に従うべき物語を求める。勢

い人は易きにながれ、安直な物語に満足する。

戦後日本の物語をリードしてきた映画に代わ

るものが同じ映像作品でもアニメに移り、そ

の中で易きに流れることに真っ向から挑戦し

た作品。それが『Zガンダム』であった。




〜何故『Zガンダム』は分かりにくい?〜




「ガンダム」シリーズは従来になかった「リ

アル」なアニメだとよく言われる。だが、そ

のリアルさとはどういうものなのか? メカ

ニックの設定が詳細だとか、科学的考証がし

っかりしているとか、そういう「ハード」的

な部分ではなく、ストーリィ部分・ドラマ部

分に注目してみる時、『Zガンダム』はそれ

までのアニメが当然のごとくに取っていた 

「主人公に感情移入をして、その目を通して

世界を見てゆく」という方法論を超えようと

しているという事に気づく。       

「Z」にとって前作にあたる『機動戦士ガ

ンダム』のファーストシーン、アムロ・レイ

が予期せぬ戦闘に巻き込まれ、マニュアルを

片手にザクに迫られた時、観客は同じコクピ

ットに座り、手に汗握りながら「武器はない

のか?」とボードを捜した。だが、Zにおい

てカミーユ・ビダンが同じく「マークII」に

乗り込んだ時、無条件に感情移入できただろ

うか? 名前のことでジェリド・メサに悪口

を言われ、MPに殴られたことの恨みを晴ら

すために、開発者の息子という特権を半ば利

用して巨大兵器に飛び込んだカミーユ・ビダ

ンに。前作の「続編」を期待して再びその世

界に飛び込もうとした観客は、前回とは似て

非なる主人公との間に距離を置いてしまった

ろう。このファーストシーンが意図的であろ

うと仮になかろうと、Zという作品を象徴し

ていると私には思える。百人が見れば百通り

の解釈があるといわれるZの、ドラマにはど

んな特徴があるのか?          

ガンダム以前、日本のアニメが「子供向け」

の属性を遵守していた頃、主人公は常に目的

をはっきりと持っていた。世界観は安定し復

帰すべき秩序を持ち、一時的な混乱が生じて

もその回復までがドラマとなっていた。だか

ら少なくとも主人公とその属する側の人間は

間違いを犯さないか、間違いを改めずに終わ

ることはなかった。それは『機動戦士ガンダ

ム』においてさえも例外ではなくアムロと連

邦軍・少なくともホワイトベースのクルーは

「善」(側)であり、回復すべきは地球連邦

の支配であり、ジオン公国とシャア・アズナ

ブルはシャアの動機に納得できる理由がある

にせよ、「悪」であり「敵」(側)であると

いう構図をかろうじて保ち続けていた。  

ところがZは前作の「続き」でありながら

連邦軍は少なくとも二つ以上の勢力に分裂し

ている。「敵」であったシャアもクワトロ・

バジーナと名前を変え、それが過去との完全

な訣別を意味するものでもないままに新しい

主人公を指導し共に戦うことになる。   

しかも今回の「敵」でありさまざまの非道

のふるまいを行うティターンズに、前作での

「マチルダさん」にあたるような主人公の憧

れの女性・レコア・ロンドは寝返ってしまう。

さらに「敵」勢力はジュピトリス、ネオ・ジ

オンと増えてゆき二分法による安直な理解は

用をなさなくなる。その世界に「魂をひかれ

た」観客は、ただ主人公・カミーユを通して

の判断ではなく世界全体の構図を意識し続け

探り続けねばならない。言ってみれば主人公

の「主観カメラ」を通して物語を楽しんでい

ればよかった従来のアニメと異なり、常に考

えることで「参加」をしなければ作品につい

てゆけない、それがZの最大の特徴である。

その際従来のアニメを見ている時とは違う心

の働きを要求されるが、それは現実の生活に

より近い。その緊張感を観客は「リアル」と

感じているのである。          

これは困難な方法である。現実に近いもの

を提示して、そこに魅力がなければ人はそれ

をわざわざ現実の時間をけずって見るべき 

「作品」とは認めないだろう。前作の人気も

あろうがそれ以上に「細部に至るまで緊張感

を連続させる力技の世界創造」がなければ維

持不能のドラマである。矛盾がないとは思え

ない。長丁場には無理もある。だが前作を繰

り返さず否定せず敢然と乗り越えて行くため

には、この大胆さが必要だったろう。「ニュ

ータイプによる人の革新」に代表される壮大

なテーマと世界観、それを観客に伝えたい、

押しつけるのでなく自主的な判断をうながし、

感じさせたいという強烈な意思がなくては実

現しなかったはずだ。少なくともこの手法の

範は既製のアニメには求められなかったに違

いない。実際、類似した作品群が数現れるま

でに少なくとも数年を要した。Zを論じる困

難はその驚異的な先駆性にあるのだ。   

試論を承知でのべれば、かつてB・ブレヒ

トが用いた「叙事的演劇」に比すべきか。き

わめて政治的な意図を持って画策されたその

演劇は、アリストテレス的なカタルシスの理

論を退けた。つまり演劇を「見終わって満腹

になるもの」ではなく「見終わって空腹にな

るもの」に再構築しようとした。これは不満

が残るという意味ではない。見た後さらに多

くを求めたくなるという観客への影響力の強

さを目的としている。手法としては、多くの

エピソードを省略をまじえながら詰め込み 

「感情を喚起→判断を喚起」「体験を伝える

→認識を伝える」「場面は蓄積される→場面

は独立している」「結末だけへの興味→経過

への興味」「不変の人間を描く→変わりゆく

人間を描く」……これら後者に重点を置く。

カミーユ・ビダンを素直にアムロ・レイに

変わる主人公として認められない観客は、「何

故この少年がガンダムの主人公なのか?」と

考えながら作品に入る。なぜシャアが味方な

のか? なぜアムロが幽閉されているのか?

エウーゴの規模や財源、シロッコの真の目的

……本来はもっともカタルシスがあるはずの

戦闘シーンにさえ、作中人物にすら漠然とし

ている「ニュータイプのあり方」など考えた

くなる課題は山と用意されている。しかもそ

の背景に続々と登場する新型モビルスーツ、

それに乗ったままでのラブシーン、生硬すぎ

るセリフ、突出する戦場での肉声の議論。「こ

れは、何だ?」と(ブレヒト流に言えば「異

化」されて)感じさせながらストーリィは展

開してゆく。問いの答えは観客自身が出して

ゆかねばならない……。まさに「叙事的アニ

メ」と呼び得る作劇術にZは挑み続けて行っ

た。もちろんこれは「叙事的演劇」を優位に

置いて制作意図を探偵するものではない(現

にミヒャエル・エンデなどはブレヒトに師事

したが後にこの方法から離れた)。ただ言い

たいのは仮になぞらえればこれほどの挑戦を

詰め込みながら、全体としての魅力で観客を

引き込み続けたZはまさに「アニメのニュー

タイプ」を実現してきたということ。その意

義は計り知れないほど大きい。




〜「Z」に影を落とす現実〜




ではZで観客を引き込み続けた「魅力」と

は何だったのか? これこそ百人百様だろう。

その後のガンダムシリーズの長期化をみれば、

ガンプラという商品の確立やOVA市場の拡

大という外的要因もあったろうが、単一の要

素では不可能だったと推測できる。ここでは

再び「リアル」ということを述べたい。

作劇法として観客に現実に似た緊張感を起

こさせたとしてもその内容が空疎では意味が

ない。ガンダムシリーズはSFであり人の革

新をテーマにしていることから、その制作時

の現実を反映するにも絶好の鏡である。前作

がイラン革命やソ連のアフガン侵攻の最中で

放映され、Zもまた米のスターウォーズ計画

推進時期に当たっていた。もちろんそれらの

知識は色濃くにじんでいる。だがそれ以上に、

人が戦いに駆り立てられる局面でのリアルな

感情、特にそれまでのアニメで描かれること

の少なかった残酷さ、卑劣さがなどが普遍性

を突いて、突きすぎているために放映後の現

実すらも逆上ってZを再認識させてしまうほ

どだ。

85年の放映から現在までに、我々の体験し

た事件はまさにSF的といえる連続だった。

放映中にスペースシャトルが空中爆発し、す

ぐ後チェルノブイリ事故があった。湾岸戦争

がテレビ放映されるのを見た。ソビエト「連

邦」の分裂崩壊、それに連動したゲリラ運動

の激化。兵器条約は破られ、権力の数だけ正

義がある。Zに照らして本質を考えたくなる

事件を上げるのにこと欠かない。阪神大震災、

百時間目に神戸に入った私は生き延びた子供

たちの「毎晩空が落ちる夢を見る」という言

葉を確かに聞いた(15話のロザミア・バダム

のセリフだ!)。それが半分は天災にせよ半

分は無理な巨大建築とさらに手抜き工事によ

る「人が人の手によるコロニー落とし」以外

の何ものであったろう。私兵、毒ガス、拉致

監禁、「子供には手を出さないで!」という

叫び(18話)。人の精神を白紙に戻し特定の

目的に奉仕させる「強化人間」という手段…

…。「これでは人に品性を求めるなど絶望的

だ」(49話)とシロッコに言われても返す言

葉がない。

「だいたいこの船には規律というものが無

さ過ぎるんだ」「ウォンさん。アーガマのそ

ういう部分が、これまでの戦いを切り抜けさ

せてきたとは思いませんか」(34話)パソコン

等の技術革新が、新しい世代の発想から生み

出されている流れが確かにある。だが、部分

において力を持てば持っただけ、「あなたは

戦いに吸い寄せられていく、それでは全体的

なものの見方はできない」(17話)状況がや

ってくる。しかもその中で、状況も自分自身

も変わって行く。「わからない、何が正しい

のか」(37話)というセリフにおいてやっと、

観客は作品の中に自分たちの立場を見いだす。

しかし、敵・ティターンズのアジス中尉をそ

うつぶやかせ寝返らせたダカールでのシャア

の演説が、現実に何をさすかは観客の判断に

ゆだねられるのだ。それこそが監督自身の言

った「現実認識の物語」の本質だと私は思う。

そして前作のガンダムで「あれは憎しみの

光だ!」とアムロに全否定されていたコロニ

ーレーザーは、エウーゴの手に落ち敵殲滅の

ために(無反省に?/果敢な決断で?)使用

されてしまう。人の革新は遠い。




〜カミーユは何故、崩壊したのか?〜




再び物語の主人公カミーユ・ビダンに視点

を戻そう。感情移入が難しいと論じてしまっ

たカミーユだが、話が進むうちにその傾向は

薄まってゆく。特にフォウ・ムラサメとの悲

劇的なストーリィ以降、カミーユは作品中で、

状況においてではなく普遍的に正しいことを

口に出して主張するキャラクターに変わって

ゆく。変わり行く現実を認識するための物語

の中で「何が正しいか」を絶対的に主張する

ことはできないし意味がない。だが、カミー

ユという不安定なキャラを通すことにより何

が正しく「あって欲しいか」が叫ばれること

になる。自分で状況に応じ判断するしかない

複雑な現実の中で常に正しくあって欲しいこ

と、それは生命についての主張であった。

「命は力なんだ、命はこの宇宙(そら)を支えているものなんだ。それをこうも簡単に

失ってゆくのは、それは、酷いことなんだよ

っ!」カミーユは目前の敵・ヤザンに叫ぶ(49話)。

作中のストレートな主張においては「ニュー

タイプ能力」の発動が目印となる。なぜなら

「ニュータイプ」とは(登場人物、観客双方

の)誰にとっても正しくあるためにわざと曖

昧に置かれた指標そのものだからだ。ヤザン

はカミーユ(Zガンダム)を包む攻撃を跳ね

返す謎の光におののき、破れる。あくまで新

しい「センス」とされているニュータイプ能

力が媒体(ファンネルなど)を通さず物理的

な力として働くのはこの時とラストのシロッ

コとの戦いの時だけである。       

ラストの戦い、Zの中で最も衝撃的なカミ

ーユの崩壊。何故死ぬのではなく崩壊、あり

ていに言えば発狂でなくてはならなかったの

か。詳論できないがZのテーマに男女の問題

があり(それは発端が「女の名前と間違えら

れた」だけで戦いに巻き込まれたカミーユに

現れているはずだが)シロッコは女性を利用

することで力を得た。その戦いが最終決戦に

なるのは理にかなっている。シロッコは「精

神による直接の完全な相互理解」というニュ

ータイプとしての覚醒した能力を持ちながら、

それを自ら遮蔽し、本心を隠し、「ウソをつ

く」ことで人を支配する。人の革新の流れの

中で、新しい力を持ちながら、古い手段を駆

使して古い目的を達成しようと望む。   

「わかるはずだ、こういう奴は生かしてお

いちゃいけないって。みんなにはわかるはず

だ」作品中で何の意味もなくバイザーを外し、

素面をさらして叫ぶカミーユの言葉はいわば

舞台で客席に正面きったセリフだ。そして、

ニュータイプの能力をも超えて、ほとんど「念

動力」を発してシロッコのジ・オの動きを止

めて勝利する。新しい力のみを持った若者が、

新・旧の力をあわせもった強大な敵に思いの

強さだけで勝利してしまう。それはあまりに

現実的でない。現実認識の物語にふさわしく

ない。死が描かれすぎた物語の中で、命を捨

てて勝つだけではこのファンタジックな結末

が成立してしまう。だからカミーユ自身の存

在に、勝利に疑問符をつけて物語を閉じるた

めにはこのラストしかなかったのである。

戦いの後、カミーユは微笑みながらつぶや

く。全天周囲モニターの中で彼は、宇宙にた

った一人で浮かんでいるように見える。「暑

苦しいなあ、ここ。出られないのかなあ……。

おーい、出してくださいよ、ねえ」(50話)。

86年当時、このコクピットはゲーム機の普及

による世界のシミュレーション化の象徴に見

えた。だが今、ネットワーク社会の中で、人

々がどんどんつながり、同時にどんどん孤立

してゆく姿に見える。そのとめどなく強固に

なってゆく個人のシェル(殻)は、命を落と

すことくらいでしか破られない。Zの中では

いつもそうだった。そこから自ら出ようとす

るカミーユはもはや主役から下りるしかない

のである。現実の時の流れが作品に別の容貌

をみせてこそ、現実認識の物語は成立する。

カミーユはそのための犠牲であり天使である。







カミーユの悲劇が惨劇にならずとどまるの

は、続編のガンダムシリーズにニュータイプ

たちの存在が受け継がれていくからである。

そのひとつ『逆襲のシャア』では完全に絶望

し地球のロックアウトを試みるシャアの、Z

時点での判断とそれに応えるカミーユの言葉

に現在を託して試論を終わりたい。

「彼らは宇宙(そら)にこそ希望の大地があ

ると信じた。自分たちを空に追いやった地上

のエリートを憎むより、その方がずっと建設

的だと考えたんだ。地球の重力を振り切った

時、人は新たなセンスを身につけた。それが

ニュータイプへの開花へとつながった。そう

いう意味では確かに宇宙に希望はあったんだ」

「よくわかる話です。僕もその希望を見つけ

ます。それが今、僕がやらなくちゃいけない

ことなんです」(38話)。



1999年、時代は混沌としている。だが

それは「時代」というものの本質だ。たぶん

そのZ(終わり)まで。







<リード>

「Zガンダム」の分かりにくさは、「現実」という物語の分かりにくさに呼応している

鋭く真実を射抜いたその悪夢たちは、時間の経過をものともせずメッセージを吐き続ける

●神田陽司(かんだようじ)講談師。神田山陽に入門して9年、寄席の高座を勤めつつ「講談ビル・ゲイツ」「阪神大震災」など新作講談を発表している。元・情報誌シティロード副編集長。

URL:http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy

訳注

●ブレヒト

ベルトルト・ブレヒト(1898〜1956)ドイツの劇作家・演出家。高校の時から劇作を始め、マルクス主義の影響を受け、弾圧から国を転々とした。代表作『三文オペラ』(「マック・ザ・ナイフ」などの楽曲が映画版でも有名)『ガリレイの生涯』など。

●エンデ

ミヒャエル・エンデ(1929〜1995)児童文学者。『モモ』『ネバーエンディング・ストーリー』(ただし映画版は意図に反するとして訴訟を起こした)の作者。ミュンヘンの演劇学校を出てブレヒト理論に基づいた創作に励んだがそれを捨てて児童文学を書いた。