『走れ! イシマツ〜馬鹿が行く』         






東海道一の大親分とうたわれた清水の次郎

長。その代貸二十八人集の一人が遠州森のイ

シマツ。これは、そのイシマツの、まだ両の

目が開いていた頃のお話でございます。  

生まれた時からその頭の先が石のように固

いことからつけられた名前が遠州森のイシマ

ツ。母親は早くに亡くし、残った親父とたっ

た一人の妹の心配をよそに、子供の頃からの

ケンカ三昧。そのあげく、博打打ちに身をや

つしての渡世暮らし。まだ立派な親分にも恵

まれず、東海道を西へフラフラ、東へウロウ

ロ。江戸の近くまで出ばって来てたりしてお

りましたが、風の頼りに、親父が死んだ後、

この世にたった一人の肉親の、妹の祝言が近

いと聞いて、箱根の山を超えて三島、富士、

蒲原…。清水、焼津、大井川を渡り、掛川の

宿を後にして、近道をしようと掛川の西北の

道をまっつぐに、今、故郷森まであと山二つ

ほどの、白草という宿場町を、足早に通り過

ぎようとしたその時でございます。    

街の真ん中ほどまで参りますと、街道を外

れているにしては人の多い町の、一本しかな

い道が大勢の人でごった返して前へ進めませ

ん。で、はるか向こうの方には何か役人らし

き連中が集まっている。それを取り囲んで人

だかりができております。        

「ありゃりゃ、前に通った時にはこんなトコ

に関所なんてあったけっけなあ? おうおう

、何でこんなに人が詰まってるんだ? おい

、前のにいさん、ちょっと聞くがこりゃ一体

何の騒ぎだい?」            

「え? ええ…。ちょっとお仕置きがあるん

だそうで…」              

「何だいこんな町中でお仕置きとは?」  

「新しいお代官のお達しで、何でも、見せし

めにするんだとかで…」         

「ずいぶんヤなトコに巡り合ったもんだな。

一体何やらかしたんだい?」       

「さあ…。わたしゃ何にも知りませんので…

」 イシマツが声をかけた若い男はキマリ悪

そうにソッポを向いてしまいました。   

「なんでえ…。おい、じいさん、何があっ

たのか、知ってたら教えてくれ。ヤロウ、何

悪いコトやったんだい?」        

年頃七十すぎほどでしょうか? 町人態の

年寄りが、               

「いや、たぶん悪いことは何も…。運が悪か

ったんじゃろ…この半年でもう十人目じゃ…

」                   

「なんでえ、どいつもこいつも、歯の奥に新

香の詰まったようなコト言いやがって…。し

かし十人とは随分多いな。どれどれ、はい、

御免、はい御免…」           

前の人をかき分けかき分け、人込みの一番

前までくると、なるほど竹矢来もない、ただ

下役の侍が人を止めているだけの真ん中で、

急ごしらえの磔柱を立てて、今まさにお仕置

きの真っ最中です。           

磔柱の上、白装束を着せられて、髪をサン

バラに両手両足を縛られて、覚悟を決めてお

りますのは、目鼻だちのしっかりした若い男

でございました。            

「ああ、あれが…。まだ若い野郎じゃねえか

、大方火付けか人殺しでもやりやがったんだ

ろうな…どんな顔…おっ? ありゃあ…」み

るみるウチにイシマツの顔が変わって参りま

す。                  

「長吉、おい、長吉じゃねえか、おい!」 

「おい、そこ、あまり前へ出るな」役人が捕

まえようとするのを、さっと脇へ流してイシ

マツは、磔柱のすぐ下まで進んでまいります

。                   

はじめのうち、あらぬ方に目をすえていた

罪人は、足の下まで進んできた顔に目を向け

て、                  

「石、おめえ、森の村のイシマツかい?」 

「はは、やっぱり、おめえ小便んたれの長吉

だ。ひさしぶりだな、十年ぶりくれえか、い

やー、懐かしい…。で、お前こんなトコで何

やってるんでえ?」           

「…イシ、見ての通りよ。今お仕置きになる

間際だ」                

「間際だって…。お前、何やったんでえ? 

まさか小便タレ…」           

「あほう。そんなことでお仕置きされてたま

るもんか」               

「じゃあ……、痛エエ!!」       

イキナリ両の手を後ろ向きに捩じり上げら

れました、               

「な、何しやがる!」ふりほどいてかかって

行こうとするところを、今度は取り棒でした

たかに腹をドンッ、と突かれました。   

ウッ、と呻いてその場へガックリと膝をつ

く、その前にヌックと立ちはだかりましたの

は、白草郷のお役について半年の代官・松野

日向守。「役目の邪魔をいたす不逞の輩、何

者じゃ」                

「…痛、イキナリ何しやがる。オレは遠州森

の生まれ、イシマツってんでえ。覚えときや

がれ」                 

「この無礼者め、お代官に向かって何を…」

「待て待て…。面白き奴。その方、この、磔

になる男と知り合いか?」        

「知り合いも何も、こいつは同じ森の村の生

まれの長吉って小便タレ…まあ、そりゃあ餓

鬼の時分のこったが。俺はこいつとは、竹輪

、じゃねえ竹馬の友ってヤツで。家も隣同士

の兄弟同然の仲なんで。こいつはクセの悪い

ところもあったけど、マジメで親孝行なのは

村中に知られてたんだ。お役人さま、一体こ

の長吉が、何をしたってんです?」    

いかめし気に陣笠をかぶり、何事にも大層

な物言いをいたします、新任の代官は松野日

向守。                 

「されば改めて一同の者にも聞かせてやろう

。この森の村の生まれ長吉なる者、御禁制の

南蛮渡来の薬草を盗み出し横流しして儲けを

企みしこと明白である。その罪軽からず、お

上より頂いた裁量を以て磔刑に処するもので

ある」                 

「違います、お代官。何度も申しましたが、

あれは旅の商人から金三十両にて買いました

もので」                

「黙りおれ、あの薬草は紛れもなく御公儀の

本草所から盗まれたものじゃ。なるほど、そ

の、方は知らずに買ったのかもしれん。…だ

がな、何よりも許せんのは、その薬草を寺島

の湯治場にて療養する父親に届けるためと嘘

をつきこの代官を愚弄したことじゃ」   

「本当でございます、本当に、寺島の湯治場

には親父さまが…」           

「黙れ! 郡代奉行所に問い合わせたが、そ

の方の父親はとおに死んでおるハズじゃ。ま

だこの上余を愚弄するか?」       

「ちょっ、ちょっ、待ってよ待ってください

よ。そりゃお代官さま、ムチャってもんじゃ

ねえんですか? 盗んだものを知らずに持っ

てたくらいで磔とは、見た事も聞いたことも

ないでしょう」             

「その罪は半分、後半分は虚偽申し立ての罪

である」                

「いや、いやいや、いますよ、長吉にゃ、ち

ゃーんと父親がいますって。あっしゃ四、五

年前にあってやすから。なあ、親父さんての

は、あの源兵衛さん、のことだろ? おめえ

んとこは双親いねえから、何かと気いかけて

くれたもんなあ。あっちも、一人息子が悪い

病で死んで身寄りがねえから、実の親子みた

いになったもんなあ。源兵衛さん病気なのか

い?」                 

「ああ、二年前から不治の病で。おらあその

恩返しのために、十年奉公して貯めた金で、

やっとあの薬草買ったってえのに、こんなこ

とに…。俺が湯治場へ戻らなきゃ、源兵衛親

父さん、どうなっちまうか…」      

「ちょいと、代官、いや、お代官様。お上に

も情けってえものがあるんでしょ。こんな親

孝行もの磔にしたら、そりゃ下手の三味線だ

よ」                  

「何じゃ、下手の三味線とは」      

「バチが当たってキズがつく」      

「下らぬことを申すな。お上に嘘偽りを申し

立てるれば重い罪になることは知っておろう

」                   

「いや、嘘じゃねえって」        

「黙れ。実の父ならいざ知らず、義理の父の

ために十年分の惜しげもなくつぎ込み、身を

捨てて尽くす者などおるはずがない」   

「それは、お代官さま。人情でございます。

長年の義理を果たすためでございます」  

「黙れ、黙れ黙りおれ。義理だの人情だの、

そんなことは下々の絵空事じゃ。黒船この方

の親が子を貪り食う世の中に人の情けなど信

じられるものか。人はみな、己のことで精一

杯。恩だの義理だの、そんな形のないものは

この世にはないも同じ。余がこの白草に来て

より半年のうちに、親のためた子のタメだ、

妻のためだと、嘘八百をならべたものは、す

べて見せしめにここでお仕置きしにした。信

じられるのは形あるものだけじゃ。よって定

法通り男は磔に処する」         

町のものたちの口が重かったのも道理でご

ざいます。実際、日向守がお仕置きした罪人

の半分以上が罪もない人々で、皆そのことは

分かっておりましたが、代官怖さに口を閉ざ

していたのでございます。        

長いこと、まるでキツネつきでも見ている

ように、代官の顔をしげしげと眺めておりま

したイシマツがやっと口を開きます。   

「ははあ…、お代官。お前さまは、可哀相な

人だねえ」               

「何? ワシが可哀相だと」       

「そうともさ、人の情けがまるで分かってね

え。そりゃ、情けに触れたことがないからだ

。義理人情に感じいったことがねえからです

」                   

「ブ、無礼者。まだそのような絵空事を言い

おるか」                

「義理人情は絵空事じゃねえ。なあ、長吉。

おめえ、俺のお袋が死んだ時のこと覚えてる

か。長い日照りで、食い物なんぞどこにもな

くて、村中でバタバタ死んでった年だ。あん

時、あの、今おめえの親父になった源兵衛さ

ん、てめの家にも食い物がねえのに、病人は

早く弱るから、自分らはまだ元気だからって

、毎日少しづつ食い物分けてくれたよなあ。

結局お袋は死んじまって、村中でムダなこと

をした、あの源兵衛はお人好しだって言われ

たよなあ…。血はつながってなくても、お前

にも源兵衛さんの心が生きてるンだな。あの

時の恩は忘れてやしねえぜ。その源兵衛さん

が不治の病でお前を待っている…。今を置い

てその恩返しはできねえ。さ、お代官、義理

と人情ってえのを見せてやる。この長吉の代

わりに、この俺を、煮るなり焼くなり好きに

しろい」                

この時下役の役人が「馬鹿を申せ、そんな

ことができると思うのか」と、イシマツを打

ち据えようといたしましたが、日向守、この

時ニヤリ、とほくそえみ。        

「待て待て…。随分と面白い男だな。その方

、自分が何を言っておるかわかっておらんな

?勢いだけで喋ったな? 神田ヨウジみたい

な男だな? その方、今、『煮るなり焼くな

り好きにしろ』と言ったのだな? その男の

代わりに、磔になってもいいと申すのだな?

」「磔…。あ、ああ言ったとも。てめえみた

いに人の情けの分からねえ代官がいたんじゃ

、この後何人殺されるか知れたもんじゃねえ

。だから、このイシマツ様が、身をもって義

理人情てえのを見せてやるっていってんだ。

さーあ、殺せー」と大の字に寝転がりました

。 すると柱に縛られた長吉は気色ばんで、

「お代官さま、お代官さま。石の、その男の

言葉はお忘れくださいませ。その男は、子供

の頃から勢いだけでモノを言います。神田ヨ

ウジです、ありていにいえば、バカです」 

「おいおい、長吉そりゃねえぞ」     

「とにかく、その男の無礼はお許しください

ませ。私はお裁き通りこのままお仕置きくだ

さってかまいません」          

「おっと、そうはいかねえ、こっちだって、

乗り掛かった船だ。どうせそのうち渡世の出

入りで散らす命だ、さあ、代官、長吉の縄を

ほどきやがれ…」            

「バカ、イシ、オメエ、おつゆさんのことは

どうするんだ? え?」         

「おつゆ?……と、あーーっ! しまったい

。そういやおつゆの祝言に帰ってきたんだっ

! 俺がどうせいつ死んじまうか分からねえ

から、亭主になる奴に威しをかけるつもりで

急いで帰ってきたんだ…。ね、お代官、お代

官さま、代ちゃん」           

「代ちゃんとはナンダ」         

「さっきの言葉だけど、五日、いや、そうだ

、三日でいいや、三日だけ待ってくれ。妹の

祝言見届けたら、きっと戻って来ますから」

再び下役の役人が「この、さっきから勝

手なことをほざきおって、オイ、こいつを牢

に連れて行け!」と、イシマツに縄を打とう

といたします。このとき、松野日向守。  

「ふ、ふふふ。ハッハッハ。なるほどのう。

随分威勢のいいことを言っておったと思った

ら、なるほど、妹の祝言か…。はっはっは。

いやなかなかどうして、バカどころか、よく

よくアタマの良い男ではないか…」    

「な、なんでえ、お、俺が嘘ついたってえの

か? フザケルねえ。ホントに俺は、バカだ

から忘れてて、妹の祝言をだな…」    

「よいよい、分かった分かった。ふふふ。三

日、だったな? 三日でよいのか? よしよ

し、では、三日だけ罪人・長吉のお仕置きを

待ってやる。それで、お前は、三日後にはこ

こへ戻って来て、代わりにお仕置きになると

いうのだな…ふふふ」          

「なんだよその顔は、ああ、きっと戻ってく

る、だから…」             

「よし分かった。おい、長吉を柱から下ろせ

て。…よいな、三日後の日暮れ、ここでもう

一度お仕置きを行う。お前が戻ってくれば、

必ず長吉は助けてやろう。戻ってくれば、な

。…いや義理と人情というやつじゃな、はっ

はっは」                

何がおかしいのか、代官はニヤニヤにやけ

っぱなし。柱から下ろされ縄を解かれた長吉

は、イシマツの元へ駆け寄ります。    

「バカ、イシ、よけいなことを言いやがって

。ありがとよ、おかげで三日だけ命が伸びた

」 長吉は、懐にからお守りを取り出し、イ

シマツに手渡すと、           

「せめて俺が死んだらこれを源兵衛親父さま

に届けてくれ、いいな、お前は、決して…戻

ってきちゃならねえぞ」         

「何言いやがる。俺はきっと戻ってくる。俺

なんぞつまらねえ命しきゃ持っちゃいねえ。

親孝行のオメエ、それに源兵衛さんの恩に報

いられなら本望よう」二人シッカと手を握り

しめ、それを照らすは沈み行く夕日…。  

イシマツは、夜の山道をかけりに駆けまし

た。山を超え、谷を渡り、道のない所に道を

作り、懐かしい生まれ故郷、森の村に帰って

来たころには、日は高々と頭の上まで来てお

りました。走るイシマツの後ろから、かつて

顔なじみの婆さんが、          

「まーま、イシさんじゃないの」     

「おー、婆さん、まだ生きてたか? そりゃ

口聞いてるんだから生きるわな。そんなこと

より、聞きてえんだ。おつゆと祝言上げるっ

てのはダレなんだ?」          

「ホントにねえ、ろくでもない兄貴を持った

わりにはいい縁談だったねえ。搗き米屋の若

い衆で、清吉って、ホラ、イシさんがよくイ

ジメてた、あの」            

「えっ? あの清公が、おつゆの亭主かよ。

クソ面白くももねえやろうだが、仕事だけは

マジメだったな、義理の弟にゃ釣り合いが取

れてるか。ありがとよ」         

走りながら礼を言いますと、さっそくに搗

き米屋を訪ね、熱心に帳簿などつけている清

吉のエリ上掴んで、店の前へ引きずりだしま

す。                  

「あ、ろくでなしのイシマツ、じゃない。へ

へ、お兄さん、どうも」         

「ったく、この女たらし、よくもおつゆを…

。じゃねえ、この度はお日柄もよろしく、じ

ゃねえ…ええい、めんどくせえ、おめえら、

明日中に祝言挙げろ!」         

「ちょっと、いくら兄さんでも、そりゃムチ

ャですよ…」              

「ムチャも番茶もねえ、てめえ、明日中に祝

言あげねえってえなら、おつゆはやらねえぞ

」「そんなこと言ったって、仲人さん、庄屋

さんにもまだしばらく先だって言ってあるん

ですよ」                

「やかまして、形だけでもなんでもいい、明

日ったら明日なんでえ。仲人は、ああ、本家

のごうつくばりか、で、庄屋は…ああ、皆話

しはつけてきてやる。やい、店の主人はいる

か?」                 

「へいへい、手前が清吉をあずかっておりま

す…」                 

「名前なんぞどうでもいい。やい、明日は清

吉は祝言だから休みをもらうぞ。いや、いっ

そ店ごと休みにしやがれ。ついでだから、み

んな呼んでやらあ。やい亭主、店休みにしね

えってえと、米ん中に毒混ぜてやるから覚悟

しやがれ」               

「そんなムチャクチャな」        

こんな調子でイシマツは、方々を回って、

時には犬威しの道中ざしまで振りかざして、

説得…というよりは脅迫して回ったのでござ

います。事情はわかりませんが、とにかく皆

勢いに押されてとうとう明日の祝言が決まっ

てしまいました。            

やっと最後に村はずれのおつゆ一人がすむ

、イシマツの生まれ育った懐かし家へ戻って

参りました時にはもう日暮れ時でした。  

「おつゆ、俺だ、開けろ、こらおつゆ」  

「まあ、おにいちゃん…」        

ひさびさの再会に浸る暇もなく、イシマツ

は土間から上がりこむと、奥にかざってある

小さな位牌に熱心に手を合わせ。やっとおつ

ゆの方を振り向いて、          

「おつゆ、おめえの祝言、明日に決めてきた

からな」                

「何なの、五年ぶりに帰ってきたと思ったら

。聞いたわよ、清吉さんのお店や庄屋さんの

トコに押しかけたって、あたしにだって都合

が」「やかましい。たった一人の妹の祝い事

夜の目も寝ないで帰ってきたら、清吉のヤロ

ウ、まだ日にちも決めてねえっじゃねえか」

「それにしたって、明日っていうのはあんま

りよ。いきなり村中を回って…」     

「善は急げ、急がば回れってえじゃねえか、

とにかく、明日だ、俺が明日ったら明日なん

だ。な、おつゆ、分かったなあーーーあ。ド

ターン、グーッ、グーッ」        

夜の目も寝ないで十数里の山道を走り続け

、村中を脅迫して回っていたのですから疲れ

たことでしょう。そのまま白河夜船の高いび

き。                  

あくる日目をさましますと、とにかく形だ

けでも祝言をあげなきゃ、あの暴れん坊のイ

シマツだ何するかわからない、ささやかなが

ら支度が整っておりました。イシマツは終始

清吉の横で睨みっぱなし、三三九度の杯まで

自分で注いでやり、           

「てめえ、おつゆを泣かしやがったら、地獄

の底からでも戻って来て取りつくぞ」   

「は、はい」と、いう始末。       

それでも何ででも、祝の杯を飲み干して、

賑やかに宴の続く中、安心したイシマツは、

泥のように眠り込んでしまいました。   

とうとう、三日めの朝が開けました。イシ

マツが雨の音に目を覚ましますと、妹夫婦の

姿はすでになく、祝言の席にはイシマツと同

じようち酔いつぶれた村の若者が大勢寝っこ

ろがっておりました。          

あるものは避け、あるものは蹴っ飛ばしな

がらイシマツが表へでると、外は土砂降りの

雨でした。               

「いけねえ、これじゃ、何時かわからねえ、

おつゆたちに別れを言ってるヒマはねえな」

戻ってくるとイシマツは、寝ている若い衆

の一人をひっぱたいて気付かせ、     

「おい、起きやがれ」          

「フア…もう飲めねえ」         

「寝ぼけてるんじゃねえ。いいし、よく聞け

、おつゆにな、兄貴のイシマツは、たとえど

こに居てもお前らを見守っている、こう言う

んだ、分かったな?」          

「なんだい…イシさん、また旅に出るのか?

」「ああ、今度ばかりはちっと長えかもな」

言いおわると、イシマツは、雨の中を、裾

を膝まではしょって一散に駆け出しました。

ここは俺の生まれた家だ、あっちは親父に

閉じ込められた土蔵だ、こっちの川じゃ魚を

取った、こっちの神社の鳥居にゃ小便して怒

られたっけなあ。            

音のするほどの勢いのある雨の中をイシマ

ツは、ひとつ、ひとつ子供の頃を思い出しな

がら走りました。村を抜ける道の丘の上まで

来ると、もう一度振り返り、       

「…あばよ」ひと言、もう二度とは振り向く

ことはなく走り始めました。       

「なんだって、こんな時に雨なんぞ降りやが

る、涙なんぞ隠す気もねえ。それよりもっぺ

んお天道さまが見てえや。今夜限りの命…、

磔になるために走っている。…考えてみりゃ

馬鹿馬鹿しい、長吉を、牢屋から助けだしゃ

あ済むことじゃねえか。こんなことなら四日

といっとくんだった、そうすりゃ今晩、闇に

紛れて牢破りを…。まあいい。とにかくあの

代官は、皆の前で約束したんだ、長吉が助か

りゃお袋の恩のある源兵衛さんも助かる。そ

れにあの代官が義理人情に感じ入って改心す

りゃ、これからも多くの罪のねえ人が助かる

。そんな大勢と引き換えに、命投げ出すんだ

、涙なんぞ、涙なんぞ見せてたまるか…」。

イシマツは、篠突く雨の中、決して振り返

ることなく一心に走り続けたのでございます

。                   

一時ほど走りつづけますと、だんだん雨が

弱くなってきました。また半時ほど走ります

と、雲が晴れ、日がさして参りました。  

「あーあ、良かった。お天道様も見れたし、

まだ日は高けえ、日暮れにはまだまだ間があ

るぜ」                 

やっとの思いで山ひとつ超え、里を抜け、

あと一つ、この峠を超えていけば白草に着く

。休みも取らずにイシマツは、ただ山道を駆

けつづけました。ところが、       

「なんてこった、今朝の雨か」山崩れで、一

本しかない峠の道が、埋まってしまったいる

のでございます。他を通るヒマもないけれど

、考えているヒマもございません。    

からげていた着物をもとに戻すと、   

「ええい、南無三方」反対側の目もくらむよ

うな崖を、お尻からすべりおりました。そう

して、体中キズだらけになり、川の岩場を歩

いてすっかりダメになった草鞋を脱ぎ捨て、

足の裏を血だらけにしながら、谷底の道なき

道を歩き続け、走りつづけ、なんとか、もと

の上の道の続きまで戻ってまいりました。 

「いけねえ、もう日が沈む、待ってくれ、も

う少し待ってくれ、きっと間に合う待ってく

れ」もう、足の痛みも感じないほどに、それ

でもイシマツは走り続けました。     

やっと下り坂、峠の角を曲がると、突然、

木陰に潜んでいた男が四、五人、腰のものを

抜きはなつと、バラバラッと、イシマツを取

り囲みました。             

「なんでえ、テメエ等、物取りなら後にして

くんな。おれはこの通り、命ひとつしきゃも

っちゃいねえ。その命もいま捨てに行くとこ

ろなんでえ」              

「狙いはその、命よ」          

いきなり切りかかって参りますのを、サッ

と体をかわしてイシマツは、男の手をねじり

挙げると獲物を取り上げ、        

「さてはテメえ達、代官の」       

「問答無用」右から、左から、斬りつけて参

りますが、流石はイシマツ後の清水二十八人

衆のひとり、生まれついててのケンカ上手は

、光るものを持たせても変わりません。一人

、二人と討ち果たしてゆきましたが、これが

多勢に無勢というやつ、背後に気を感じて振

り向きざまに、             

「アーーッ」斬りつけられたを避け損ない、

右の目の上からバッサリ、        

「ヤロウ」と、それでも気丈に突き返し、残

る一人は、谷の底へと突き落とす。    

「ちきしょう。目の前が夕焼けだい」   

それでも、イシマツは走りつづけましたが

、疲れの上に出血で、目の前がクラクラした

かと思うと、そのままバッタリと前のめりに

倒れ込んだのでございます。       

「もう少し、もう少しなんだ、ちきしょう」

砂を掴んでイシマツは、もう一歩も進めな

い。                  

「きしょう。きしょう…。もう動けない、も

うだめか。…勘弁してくれ、長吉。俺は俺な

りに頑張ったんだ。許してくれ、許してくれ

るよな…。長吉、それに源兵衛さん。いいだ

ろ、な、いっぺんはおめえらの命と取り換え

た。ウソじゃなかったんだ、ホントにここま

で戻ってきたんだ…。          

……あの代官は笑うだろう、やっぱり戻って

来なかった。義理の人情のと能書き垂れたが

オノレの命が惜しいのよと。だけどその通り

だ、現におれは、こうやって寝っころがって

、遅れて行こうとしている。       

長吉、お前が死んだら俺も死ぬか、いや、

そんなことしてもムダなこった。おめえは極

楽おれは…地獄か、謝ることもならねえか…

。                   

ゴロッとイシマツが寝返りをうつと、背中

に回っていた、あの長吉のお守りが、ちょう

ど肩のあたりに周りました。       

「長吉、お前だって、『戻ってきちゃならね

え』そう言ったもんな…。戻ってきちゃあな

らねえ…。戻ってきちゃあ…(泣く)悪いな

、俺は生来、ヘソ曲がりなんでよう」   

己の流す涙が口にはいった途端、まるで神

がかりのように、イシマツの体に力が戻って

まいりました。             

「もうすぐだ、あとは下りだ、待ってろよ、

長吉、いま、この馬鹿が行くぞーッ」   

一方、白草の街では、三日前にも増しての

人だかり、すでに長吉は磔柱の上にありまし

て、観念した様子で目を閉じておりました。

その下には松野日向守。        

「長吉、残念だったな、イシマツとやらは来

ぬようだな」              

「はい、三日前、私が戻らぬようにと申しま

した。親父さまへの形見の品が託せただけで

満足でございます」           

「強がりを言うな。…それにしても、イシマ

ツというのはヒドイヤツよの。三日待って結

局こないのなら、早くお仕置きをしてやるべ

きであった。これでは長吉は生殺しではない

か。誠、義理人情など信じると、ヒドイ目に

あうものよのう」            

街の人々は、ああこれでまた、代官がのさ

ばるのだろうと、目を伏せ、憎々しい言葉を

聞いておりました。           

ボーン、遠い山寺の鐘が響きます。   

「刻限じゃ」              

「ハッ」と応えて下役が、長吉の目の前で槍

を合わせます。             

再び目を閉じ瞑目する長吉、その耳に、 

「……〜い、お〜…い。待てーイ」    

「イシ、イシか?」           

まずは磔柱にくくられて、目線の高い長吉

に、そしてそれを見上げるみなの目に、入っ

てまいりましたのは、ほとんど下帯一つにな

って、顔から足から血だらけになって、それ

でも足ひきずって走ってくる、イシマツの姿

でございました。やがてイシマツは人込みを

かき分けかき分け代官の前へ、      

「待て、待て、待て待て待て。約束通り、戻

ってきたぞ、戻ってきたぞーーっ」    

一言も発することのできない、白草村代官

、松野日向守、そのうちに、人々から   

「助けてヤレーッ。二人とも助けてヤレーッ

」「そうだそうだ、助けてヤレーッ」今まで

の不満が溜まっていたのでしょう、いまにも

暴れ出さんばかりの勢いです。      

「…長吉を下ろせ」           

柱から下ろされ、縄を解かれました長吉は

、イシマツの前にその身を投げ出し、   

「イシ、本当にオメエは、馬鹿だな」   

「長吉…、小便たれめ」         

喜びあう二人の背後に立った松野日向守。

「ワシの負けじゃ。此度のことは余の裁量を

以て許しつかわす。二人とも、どこへなど行

くかよい」               

「ほ、ホントですかい。や、ホントはお代官

さまも、いいひとなんですね」      

「たわけたことを言うな。ただ町人どもが騒

ぎそうだから許すまでじゃ。余はまだ人情な

ど信じてはおらぬ。お前も、あまり人を信じ

るとロクなことにならぬぞ」       

「そりゃおおきに、ご忠告ありがとさん」 

こうして二人は放免され、寺島に源兵衛を

見舞った後、イシマツは、また、東海道を東

へと旅立ちました。そして今度こそ次郎長と

出会い、杯を交わし身内となりましたが…。

やがて二十八人衆の一人となりながらも、

日向守の言ったとおり、宮古鳥三兄弟を信じ

たばかりに百両の金を取られた挙げ句殺され

てしまったのは皮肉な話。しかし人を信じる

ことをやめなかった、森のイシマツ、本日は

「走れ イシマツ、馬鹿が行く」の一席。 














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