「ベニスの商人・改」          
                     
 本日は本邦初・・・とは申しませんが、記 
録にある限りでは約75年ぶりとなります、 
講談によりますシェイクスピアの名作、ヴェ 
ニスの商人、より「裁きの場」の一席を申し 
上げることといたします。         
 舞台となりますのはイタリアのベネチア。 
このベネチアがベニスであることすら最近ま 
で知らなかった私でございます。さらに申し 
上げれば、「ベニスの商人」というのが、い 
わゆるユダヤ人のシャイロックのことではな 
く、相手方で貿易商のアントーニオのことだ 
とも知りませんでした。つまり、シャイロッ 
クは「ベニスの金貸し」であって「商人では 
ない」というわけです。          
 原作は大長編でございますから講談に仕立 
てますにはかなりのスピードアップを必要と 
いたします。               
 また、カタカナ名での講談に違和感を覚え 
る向きもございますので、本日は昭和五年に 
西尾麟慶先生が上演した時の形を借りまして、
近年には珍しいそれぞれ日本名をつけて申し 
上げることといたします。         
 たとえば、シャイロックは「金貸しの賽六」 
アントーニオは「安藤仁蔵」バサーニオは「馬 
場幸雄」といった具合で。         
 よって本日は、75年前の形式どおり、場 
所はヨーロッパ、名前は和風という、和洋折 
衷、あんパンかヨシカミの洋食かという珍し 
い形でおつきあいを願います。       
                     
                     
一、ベニスの街角             
                     
 さてさて。イタリアはベニスの街に、安藤 
仁蔵という大商人がございました。この仁蔵、
歳こそ若いが誠に如才のない人物で、外国貿 
易でも大儲けをしておりましたが、近頃は不 
運続きでずいぶんと身上をすり減らしており 
ました。                 
安「さて、商売というのは難しいもんだ」  
 と思いながらもまだいくばくかの財産がご 
ざいましたので、ここで引いては商人の道が 
廃ると、その財産全部をつぎこんで一か八か 
の大勝負、各国へ手広く船を出していたので 
ございます。               
 ここはベニスの大通り、店から出てきた安 
藤のところへ、息せき切ってかけてまいりま 
したのは、安藤の幼なじみ、竹馬の友の馬場 
幸雄。まあ、旗本の次男坊といった味の男で、
上背があっていわゆる二枚目という奴でござ 
います。                 
馬「安藤屋、安藤屋」           
安「これはこれは、馬場殿ではありませんか。
ひさしぶりですな」            
馬「うむ、ひさしがぶりなら天井は鯖だな」 
安「なんでございますかそれは」      
馬「はっはっは、シェイクスピアの戯曲には 
言葉遊びはつきものだ(オーバーに)冗談は 
ともかく、金を貸してくれ」        
安「なんですかその神田陽司のような要件は」
馬「まあ聞いてくれ。お主も知っての通りお 
れは旗本の身分に胡座をかいて今日までロク 
に働きもせず身上をつぶしてきた。だが、改 
心した。身を固めてやり直すことにしたんだ。
実は二月ほど前のことだ。ベルモントという 
ところに星夜姫という類まれなる姫がおられ 
て婿を探しているという。見物がてらに見に 
行って、おれは一目ぼれをしてしまったんだ。
話してみると彼女もいたくおれのを気にいっ 
てくれた、だが、結婚を申し込むには亡き父 
上の遺言により持参金がいるのだ。星夜姫に 
は各地の豪族・長者たちが引きもきらず求婚 
を続けている。だからおれは連中よりも早く、
求婚をしなければ掌中の玉を逃してしまうと 
いう訳だ。という訳で金を貸してくれ」   
安「気軽にいうところも神田陽司なみでござ 
いますな。確かに馬場殿とは親の代からの深 
い縁、私にとっても実の兄弟のように思って 
おつきあいして参りました。そのあなたがい 
よいよ身を固められる。結構なことで、二つ 
返事でご用立てしたいところですが…」   
馬「なあ、安藤屋、おれは確かにお前とは竹 
馬の友、刎頸の交わりといいながらいろいろ 
迷惑もかけてきたが、だが少なくとも金のこ 
とで頼ったことは一度もなかった。…信じて 
もらいたい、此度こそは真剣だ。星夜姫に一 
目惚れ、いや話をしてみても見目麗しく情あ 
り、どうしても夫婦になりたい。こんな気持 
ちになったのは初めてだ。決して財産目当て 
などではない、どうか信じてくれ」     
安「いや、馬場殿の心根を疑っているのでは 
ありませんが…。実はいま、手前の身上はみ 
な海の上にあるのでございます。その船が戻 
ってこなければ一文の金もままならぬ、とい 
う大商の最中で」             
馬「ふーむ、つまり、遥か東にあるというジ 
パングという国の紀伊国屋文左衛門が江戸に 
蜜柑を運ぶ途中というわけだな」      
安「あれーは、イタリアー、ヤレコノ、安藤 
屋のサ、オリーブー舟じゃーえー」     
馬「いや、歌はいいから」         
 結局、無い袖は振れず、かといって竹馬の 
友の窮地を見捨てることもできず、ベニスで 
一番の金貸し、ユダヤ人の賽六のところへゆ 
くこととなりました。           
                     
二、賽六の店               
                     
 賽六という男は、なるほど金はたんまりと 
持っておりましたが、偏屈でしかも業突張り 
として知られていて、何よりまわりがほとん 
どキリスト教のベニスの町でユダヤ教を信じ 
るユダヤ人だからと人々に忌み嫌われており 
ました。安藤仁蔵とも何度も商売のことで対 
立をいたしましたので互いに憎み合っており 
ましたが、急場のこととて、他に頼れる金貸 
しもおりません。商人仲間は所詮商売敵です 
から、身上がない今借りることも難しい。で 
仕方なく賽六のところへ来たというわけです 
安「賽六殿、ひさしゅうござるな」     
賽「これはこれは。安藤屋さん。普段からわ 
れわれユダヤ人のことを金に汚い業突張りと 
呼ばわっておられるあなたが、この賽六のと 
ころへお運びとはまるで海風が山から吹いた 
ようでございますな」           
安「まあ、そう皮肉をいわれるな、賽六どの。
確かに普段は商売のことでいろいろと揉め事 
のあるわれわれだが、今日のところはそれを 
忘れて金を貸していただきたい。と、いうの 
も、こちらにいる馬場殿の婚儀が決まりそう 
で、そのためにどうしても持参金が要りよう 
なんです」                
賽「いかほどで」             
安「三百両」               
賽「ほ…気軽にいわれる。まるで神田陽司」 
安「そのギャグは三回までにしとけよ」   
賽「安藤さん。私は忘れちゃいませんよ。あ 
なたは裏で表で、私どもの商売のことをやれ 
高利貸しなど阿漕なものだ、畑でものも作ら 
ず金槌ひとつふるうでなく、ただ金を転がし 
て高利をとって人を追い詰める没義道な商売 
だとさんざんに仰っているのをね。半月ほど 
前に大通りですれ違った時にも、こちらが挨 
拶申し上げているのに知らん顔で、しかも聞 
こえよがしに<金貸しなんてあってもなくて 
もいい商売だ>とまで仰っていたたじゃあり 
ませんか。その私に何です、今日はお仲間の 
婚儀のためだから金を貸してくれと、そりゃ 
また御勝手なふるまいじゃあありません   
か?」                  
安「まあ、そう言わずに…。いや、まあ仕方 
ない。いかにも私はお前さんの商売をよいも 
のと思っていないのは確かだ。よし、こうし 
よう、今日はお前さんの好意に甘えにきたの 
ではない、あくまでも商売の話だ。お前さん 
のそのご立派な売り物を買わせてもらおうて 
んだ。どうだ、利息は相場の二倍、二倍払わ 
せてもらおうじゃないか。それで文句はない 
だろう」                 
賽「いや、もちろん、都でも名をしられた安 
藤屋の仁蔵旦那のお申し込みだ。手前も商売、
お断りする理由なんぞありゃしない。いえい 
え、二倍といわず、利息は相場通りでけっこ 
うでございますよ。…ただね。あたしにも商 
人、いや、お前さんのいう業突張りの高利貸 
しとしての面子ってものがある。あのユダヤ 
の賽六は、ふだん馬鹿にされている相手にも 
僅かなあがりのために犬みたいにシッポをふ 
ると思われて癪に障る。そこで、どうですね? 
ひとつ私の酔狂につきあってもらえますか  
ね」                   
安「どんな酔狂だね」           
賽「へえ、こりゃもちろん、安藤屋さんが三 
百両ぽっちの金焦げつかせる訳がないとわか 
った上で、どうですね、もしものもしも、万 
万が一にも、期日になっても金の返せない時 
には……安藤屋さんの、体から肉一斤、利息 
としていただくというような酔狂で…」   
 肉一斤、というと600グラムのことです 
から、一ポンドの453グラムより多くなり 
ますが…まあ、ここのところ円安がサブプラ 
イムローンのせいで円高に進んでおりますの 
で…ちょっと割高になっております。    
 そこまで、安藤の後ろでばつが悪そうに話 
を聞いておりました馬場幸雄が、「肉一斤を 
利息に」と聞いて             
馬「おいまて賽六、そんな法外な証文がある 
か?肉一斤なんて、そんなものを切り取った 
ら安藤屋の命がないではないか。たかが三百 
両と引き換えに命を取るつもりか」     
賽「おやおや、たかが三百両、その借金を申 
し込んだ張本人が何をおっしゃる。そんなふ 
うに借金を軽く考えるからサブプライムロー 
ンで世界同時株安になるんです」      
馬「その話題は自分で突っ込めないからよせ」
賽「とにかく、ベニスのご定法においては、 
借金の利息は互いに納得づくで証文を交わす 
とになっている。何、いいじゃありませんか、
この業突張りの異教徒の、ちょっとした酔狂 
ですよ」                 
馬「安藤、やめよう。そんな証文を交わして 
は。お前の命をおれの都合で賭けてもらうわ 
けにはいかん」              
安「いやいや馬場殿、これは商人同士の話で 
すよ。これでもベニスの都でほっぺたぐらい 
は売れてる、いや、地中海でも少しは顔とい 
われたこともある安藤屋仁蔵だ。このくらい 
で商売で切っ先を鈍らせたとあっちゃあ今後 
の商いにも差し支える。なに、大丈夫ですよ、
期限は三月、二月もすれば航海に出ている船 
の何艘かは千両箱をいくつも積んで港に戻る 
ことになってる。何の心配もありませんよ。 
さあ、賽六さん、証文を」         
 馬場幸雄が止めるのも聞かず、安藤仁蔵は 
相手がいう通りの証文に署名をしようといた 
します。さて賽六の心のうち        
賽「ふふ……安藤の野郎め。俺はいつか、俺 
の商売を蔑み、悪しざまにしてきたやつらを 
酷い目に合わせてやろうとこういう機会を待 
っていたのだ。そのために作っておいた特別 
の証文だ。万万が一、その万に一つが起こる 
ことをわしは天の神に、いや地獄の鬼にも祈 
ることにするぞ……。少々お待ちを。いま、 
奥で証文を作って参りますので……」    
 こうして安藤仁蔵は、竹馬の友、馬場幸雄 
のために、期限までに金が返せぬ時にはその 
身の内から肉一斤を利息として賽六に支払う 
という恐ろしい証文に署名をしてしまったの 
でございます。              
 にしても、賽六は何故そんな無体な条件を 
持ち出したのでしょうか。         
 実は賽六には安藤や馬場たちに尽きせぬ恨 
みがあったのでございます。賽六はつれあい 
を早くに亡くしまして、ひとり娘の「お鹿」 
と二人で暮らしておりました。       
(えーと、原作をご存じのかた、シャイロッ 
クの娘の名前を覚えてますか? そう「ジェ 
シカ」です。それが「お鹿」って…実はこれ 
は75年前の西尾麟慶先生のネーミングのよ 
うで…あるいはその前におやりになった川上 
音次郎先生のアイデアかも知れませんが…あ 
んまりにも素晴らしいので使わせていただい 
ております。               
 とにかく、そのお鹿が安藤屋の出入りで親 
しくしている戸野廉造とともに駆け落ちをい 
たしました。安藤たちにしてみれば、お鹿を 
業突張りの金貸しの異教徒から救い出してキ 
リスト教徒に改宗をさせた、いいことをした 
と信じておりますので恨まれる筋合もないと 
思っております。             
 しかし、娘がいなくなった賽六は気の狂っ 
たように町を探し回りました「娘は…お鹿は 
どこだ、お鹿やあい」しまいには道でこども 
たちに「やあい、町中で鹿を探してる、号つ 
く賽六、気がふれた」と石を投げられる始  
末。……なにより、キリスト教徒に改宗した 
のでは、もういっしょに暮らすこともできま 
せん。ですから安藤たちが思いもせぬほどに、
賽六の深き恨みは骨髄に達していたのでござ 
います。                 
                     
三、星夜姫の屋敷             
                     
 さて、一方、話しの発端となりましたベル 
モントの大長者の娘の星夜姫でございます。 
侍女の織江とともに、ここは父から受け継い 
だベルモントのお屋敷。このたびの縁談につ 
いて侍女のネリッサ…じゃなかった織江と話 
しをしております。            
織「お嬢さま……。あの、どうして?」   
星「何が」                
織「どうしてあの、大勢の豪族・長者の殿さ 
まが引きもきらない中で、あの、馬場幸雄な 
んて貧乏旗本を婿に迎えることにしたんでご 
ざいます? まあ、確かに背が高くていい男 
だとは思いますけど」           
星「だって、一目見た時にビビビッときちゃ 
ったのよ。ていうか、まあ妥協よ妥協」   
織「妥協?」               
星「そーよ。だいたい、どこの若さまが来た 
ところで父上が残した財産より多いとこなん 
てないんだから。そりゃまあ、イタリアの王 
さまがくるってんなら別だけど、どうせせい 
ぜいが田舎大名。そんな堅苦しいとこにお嫁 
にいって財産を勝手に使われるより、貧乏人 
のいい男を婿に迎えて思い通り暮らす方がマ 
シってものよ。イザとなったら離婚しても慰 
謝料くらいたかが知れてるわよ」      
織「お嬢さま、自由すぎます。……さすがに 
墓の下でシェイクスピアさんが怒ってるんじ 
ゃないでしょうか。キャラが立ちすぎでござ 
います」                 
星「キャラが立ってたって、総理大臣にすら 
なれない世の中なのよ。<<君たち、キャプ 
テン翼って知ってる?>>かまやしないわよ、
シェの字だって、当時の有名な話をまるで自 
分が書いたように発表しただけなんだから」 
織「もしかして、ただモノマネがしたかった 
だけですか?」              
星「とにかく、馬場さまがいいったらいいの。
なんていうか、オーラを感じるのよね。財産 
目当てでないのがいいわ。それに…もうでき 
ちゃったの」               
織「は?」                
星「そうなの、いわゆる出来ちゃった婚よ。 
アメリカじゃ<ショットガン・マリッジ>っ 
ていうのよね。つまり、娘が孕むとオヤジが 
相手の男にショットガンを向けて結婚を迫る 
のよ。だからショットガン結婚。よく言った 
もんよね。日本じゃさながら<親がコレでし 
た>婚よね」               
織「あの……いちおう、ベルモントの姫君と 
いう設定なので…」            
星「大丈夫よ。馬場さまが来たらちゃんと女 
らしくするわよ。ちゃんと手なづけるまでは 
ね。ま、<じゃじゃ馬ならし>みたいなもん 
ね。ガガガガガ」             
織「……シェークスピアの子孫がいたら完全 
に訴えられますね」            
 そこへ訪ねてくる馬場幸雄        
馬「愛しい星夜姫、三カ月の無沙汰をいたし 
ました」                 
星「まあ、馬場さま。どうして三カ月もお姿 
をお見せにならなかったの。私が昼咲く花な 
らばもう夕べの前に枯れているところです。 
夜咲く花ならばその花びらを閉じて朝が来る 
まで耐えもしましょうものを」       
織「急にカマトトぶったなこの女」     
星「え? 何かおっしゃった? 織江さん?」 
織「イタタタタ…いーえ、よろしゅうござい 
ましたね、お嬢さま」           
馬「しかし、悲しいことに実はすぐにもベニ 
スへ戻らなくてはならないのです」     
星「どうして? あなたのおみ足は、野をか 
ける馬のように草原を求め続けるの? それ 
とも天の鳥のように空を求めてやまないの… 
あー疲れる。式あげたらもうネコかぶるのや 
めよ」                  
馬「いや……実は……あの、先月、婚約の日 
に持参した三百両の持参金。あれは実は…… 
親友の安藤仁蔵から借り受けたものだったの 
です」                  
星「えーーーー! マジかよ。貧乏だとは思 
っていたけど、まさかローンつきだったのか 
よ。こりゃ人選あやまったかなあ……」   
馬「もちろん、その金は安藤にちゃんと返す 
つもりだった。だが、その金は安藤があの、 
評判の悪い高利貸しの賽六から借りたものだ 
ったのだ。そして、安藤は外国に何艘も商い 
に出していた船をあてにして、一月も前には 
すっかり返せるはずだった。ところが、いつ 
まで経っても船は返らない、期限が迫っても 
大丈夫とタカをくくっていた。ところが、い 
よいよ期限という時に、知らせが届いたのだ 
……安藤の船は、どの国へ向かっていたもの 
も、ことごとく嵐にあって、海の<もずく> 
と消えはてたのだ」            
星「いや、細かいギャグはいいから」    
馬「ああ、まさかすべての安藤の船が沈んで 
しまおうとは。これも地球温暖化の影響か。 
ああエルニーニョ、ああ、北極グマの絶滅」 
星「そういえば、地球が温暖化すると、この 
海上都市のベニスも海面上昇の影響を受けて 
海の底に沈んでしまうのよ…豆知識終わり。 
落ち着いて、落ち着いてください。とにかく 
安藤さまのお借りしたものは、私がお支払い 
いたします」               
馬「おお、すまない。式もあげる前に新妻の 
財産に頼ることになろうとは…」      
星「……ふっ、これでもう、明日からでもネ 
コかぶる必要はねーな……。とにかく、急い 
でこのお金を持ってベニスへお戻りになっ  
て」                   
馬「わかったよ、そうするよ、では愛しの君、
しばらくまたごきげんよう。愛〜それは〜甘 
く〜」                  
織「……お嬢さま。本当にあの人と夫婦にな 
られるのですか?」            
星「だからしゃーねーじゃん、出来ちゃった 
んだから。いいのよ、あの人のイケメンで身 
長180センチの遺伝子だけもらえば……っ 
てなわけにもいかないわね……。なにかやや 
こしいことになっていそうだわ……。わたし 
たちもベニスへ急ぎましょう」       
 二人はすぐに支度をいたしますと、馬場幸 
雄を後を追いました。なぜいっしょに旅立た 
なかったか、それはあとのお楽しみでござい 
ます。                  
                     
                     
四、ベニスの法廷             
                     
 さて、ベニスは商業都市で国際都市、毎日 
のように大小さまざまの事件が起こってはお 
りますが、ベニスでも大看板である安藤屋の 
安藤仁蔵がこれまた悪名高い高利貸しのユダ 
ヤの賽六に金を借りた。その担保がなんとそ 
の身の肉一斤。さすがにこれは話題になりま 
した。毎日のよう人々の噂になる、瓦版は取 
り上げる、ワイドショーは殺到する…そろそ 
ろマジメに参りましょう。         
                     
 ここはベニスの中央法廷、いわゆるお白州 
でございます。当時のベニスでは公爵、ま言 
ってみればお奉行さまを立ち会いといたしま 
して、法廷が開かれそれを法律家が検討する 
ということになっておりました。      
 大勢の見物人が集まります中、奥の唐紙が 
サット開きますと…じゃない、観音開きの扉 
がバッと開きますと、ベニス奉行が高いとこ 
ろに御着座いたしまして、それをとりまく役 
人たち。これは言ってみれば民事ですから、 
縄を打たれるわけではなく進み出て参りまし 
たのは、一方からは安藤仁蔵と馬場幸雄たち、
また一方からは賽六でございます。     
奉行「一同のもの、表を上げよ」      
一同「いえ、別に土下座はしておりませんが」 
奉「これを言わないと、お白州の感じが出な 
いではないか……。本日は金貸しの賽六より 
の訴え出でにより、借金証文の文言について 
の吟味をいたす。安藤仁蔵、はどこじゃ」  
安「ここに控えております。手前が安藤屋の 
主、安藤仁蔵でございます」        
奉「その方、いまより三カ月前、これなる金 
貸し、ユダヤ人の賽六より金三百両を借り受 
けたとあるが、誠か」           
安「はい、相違ございません。竹馬の友、馬 
場幸雄の婚礼費用として借り受けたものにご 
ざいます」                
奉「その際、これなる証文に署名をした。こ 
の署名はその方のものに相違ないか」    
安「相違ございません」          
奉「では、ここにある、三百両の返済の期日、
一日たりとも遅れたる時は、貸主・賽六にそ 
の身の内より肉一斤を与える、という文言も 
承知の上だと申すのじゃな」        
安「はい…。ただ…署名いたしましたる時に 
は単なる酔狂、ということでしたので」   
賽「お奉行さま!」            
奉「なんじゃ、賽六」           
賽「手前、金貸しを生業といたしますもので、
商売を始めてこの方、ただ証文と利息と担保 
を頼りに世を渡って参りました。その大事な 
証文について<酔狂>などといった覚えはご 
ざいませんな」              
馬「なにおっ!」と馬場が叫ぶ       
賽「…仮に、もし何かのはずみで<酔狂>と 
言ったとしてその証文に関わりがありますか 
な? ベニスのご定法通りの書式でご定法通 
りに署名をされ、指輪の印までつかれた証文 
が、軽口で反故になりますかな?」     
奉「うむ、賽六の申す通りじゃ」      
賽「さればこそ、手前はベニスのご定法に従 
い証文通りのカタをいただきたい、と申して 
おるのでございます」           
奉「左様か…なれば、奉行がその証文を認め 
ぬ道理はないな……ないが……。のう、賽六 
よ、此度の裁きはこのベニス開闢以来の騒ぎ 
となり今日も町方の見物人が押し寄せておる 
が…皆はおそらくこう思っておる、またこの 
奉行も思いは同じ…知っての通り安藤屋は此 
度の大嵐で商いに出しておった船がことごと 
く沈みいまや明日も知れぬ身に落ちぶれてお 
る。その哀れな男から金でなく命を奪うなど 
という慈悲も哀れみもないことを、いかに異 
教徒のお主とて、いたすはずがない。きっと、
裁きの場にて証文の大事さを天下に知らしめ 
たのちは、哀れみをもって安藤屋の命を救っ 
てやるのだろうとな。さればベニスのみなら 
ず、近郷近在のものはみな、あれ賽六、見上 
げたものよ漢の鑑よとほめたたえるであろう 
とな。さすれば評判の悪い金貸し業のみなら 
ず、異教徒の評判もあがり、今後の商売にて 
もお前に敬意をあらわすものも出るであろう。
の、そうではないか? よい返事を期待して 
おるぞ」                 
賽「お奉行さま。恐れながら、お奉行さまは 
どこの町のお奉行さまでございまするか?」 
奉「なんと?」              
賽「このベニスは商業の町、イタリアの表店 
とも呼べる町にござりまする。手前を始めと 
して多くの異教徒・外国人がゆきかい、証文 
を許として商売をいたしておりまする。その 
商人の町たるベニスで、その商売の許の許な 
る証文を、勝手な慈悲や憐憫で軽んずるよう 
になったらどうなりましょう。金を借りたが 
返せない。さて哀れみをさてあれは酔狂、軽 
口のたぐいと、そんなふうに取り下げさせて 
は天下のご政道に乱れが生じ、ひいてはベニ 
スの町の衰退にもつながりましょう。手前は 
証文を正しく書き、安藤屋はそれを認めた。 
手前は証文どうりのカタをちょうだいしたい、
それだけでございます。          
 それで手前を業突張りの守銭奴のとお責め 
になるのは勝手でございますが、それなれば、
まずは天下に一人の商人もいてはいけないこ 
とになりましょう。安藤屋にしたところで、 
金貸しを蔑むなどといいながら、自分でも船 
を使って遠い国で安い仕入れ値で手に入れた 
品物を余所に持って行って高い金で売って暴 
利を貪っておるではありませんか。手前一人 
に哀れみを見せろというなら、ベニス中の商 
人から商売で利益をあげるのをやめさせたら 
よろしい。さあ、証文通りのカタを」    
 なるほど賽六の理屈には一点の間違いもご 
ざいません。実際、この頃のベニスの商業は 
まさしく後の資本主義の走りともいうもの、 
実にかのイギリス東インド会社が設立された 
のは、なんとこのベニスの商人が書かれてわ 
ずか2年後のことなのでございます。豆知識 
おわり。                 
奉「……金は? 安藤仁蔵の方にはいまも返 
済の金はないのか」            
馬「いえ、ございます。ここに、元金三百両 
の二倍、六百両、耳をそろえて用意がござい 
ます」                  
賽「その六百両の倍の千二百両、いや、その 
また倍の二千四百両でも受け取りません。証 
文通りのカタを」             
馬「さあそれは」             
賽「さあ」                
馬「さあ」                
賽「さあさあさあ」            
奉「しばらく、両者しばらく。この裁きはな 
にしろベニス開闢以来の難事であるから…当 
法廷はその道に通じる者を招くこととした。 
これ、博士をこれへ」           
 お奉行が他のものの意見を聞くとは珍しい、
安藤、賽六の双方が驚いておりますと、下役 
のものに招かれまして入って参りましたのは、
助手を連れ法服に身をつつみました年若な美 
青年。口ひげを蓄えてはおりますが、お肌も 
ツルッツルとしてで……まるで、どこかのお 
姫さまが男装をしたような風体でございます。
奉「当法廷ではローマで名高い寺尾博士をお 
招きいたした。奉行は委細、寺尾博士にこの 
先の裁きをお任せするといたす。では博士」 
「ウム」と奉行の席につきました博士の声の 
高いこと。                
寺「あー。あー。(これヒゲが取れそうだな)  
本日は当ベニス法廷にコネを使って。ではな 
い、たってのお招きによりまかり越した。寺 
尾と申すもの。これ両名、表をあげよ」   
馬「だから、別に土下座はしてませんて」  
寺「うむ。賽六というのはその方か」    
賽「はい、手前が賽六で」         
馬「そして、そのほうが安藤仁蔵であるな。 
いままでの裁きを聞くに、その方は証文の文 
言については委細承知するのであるな」   
安「はい。もうこの後におよんで異存はござ 
いません」                
寺「では…やはり、賽六、その方が慈悲を見 
せねばなるまいぞ。最前よりのその方の言い 
立て、最もではあるが、慈悲は人に求められ 
てほどこすものではない。天より下る雨の如 
きものじゃ。だいいち証文通り証文通りと申 
しても誰一人得をするものはないだろう」  
賽「はい。確かにそんな痩せ男の肉一斤いた 
だきましても何の特にもなりゃしません。し 
かし証文は証文なんで」          
寺「のう、お前も商人ではないか。商人は利 
を取るものだ。二倍の金を払うと言っておる 
のだ」                  
馬「当方は三倍でも、四倍でも結構でござい 
ます」                  
寺「あ…そう…。どうだ、三倍…だそうだが」 
賽「四倍でも」              
寺「はいはい…四倍の千二百両。これを受け 
取ってわしに証文を破らせてはくれぬか」  
賽「いえご定法にのっとり証文通りのカタを」 
寺「では、この男のために医者を呼んでやる 
がよい。できればブラック・ジャック並の腕 
のものを、それくらいの費用はお前の方で持 
つがよい」                
賽「それは証文に書いてございますか」   
寺「いや、書いてない」          
賽「では無用に願います」         
寺「どうしてもか」            
賽「どうしてもです」           
寺「安藤、そのほうはそれでよいのか」   
安「もう、結構でございます。どうぞその外 
道の言う通り、お裁きを」         
寺「そうか……。では、証文の通り、賽六は 
安藤屋仁蔵の体より、肉一斤を借金のカタと 
して取るがよい。法廷がこれを認め、これを 
許す」                  
賽「おお、名奉行だ。名奉行、大岡さまの再 
来だ。まったくだ、大岡さまだ」      
寺「いや…ベニスで大岡さまというのは…」 
賽「いや、オーカ・ダニエル様という方がい 
たのだ。さあ、安藤、胸を開け」      
 懐から切れ味のよさそうな小刀を取り出す 
と、逆手に持ち、役人が両手をおさえる安藤 
仁蔵のところへと近づきます。       
賽「今日までわしの商売と宗旨を足蹴にし続 
け、その上わしの娘まで奪った異教徒め。お 
前たちは世界の主人だとでも思っておるのだ 
ろうが、一皮むけばわしと同じ守銭奴なのだ。
この世に罪を犯さずに生きる術などない。わ 
しはいま、お前たちに蔑まれたものたちの代 
表として、この刃を突きたてるのだ」    
馬「安藤、すまん、こんなことになるとは。 
お前が死んだら俺もあとを追うぞ」と馬場幸 
雄も小刀をおのが身に突きたてる準備をする。
寺「いや、早まらない方がよろしい」    
馬「なにをこの、異教徒の手先め。おれは、 
おれ自身も、俺の女房の命までかけてもいい 
と思っているのに」            
寺「……」                
賽「さあ、覚悟しろ、この偽善者め」    
 あわれ安藤屋仁蔵のその胸に刃が突きたて 
られようとしたその時、          
寺「待て! 賽六」            
賽「何でございます。すでにお裁きは終わり 
ました」                 
寺「いや、待つのだ。この証文、確かに安藤 
仁蔵より肉一斤と書いてある。だから肉一斤 
はお前のものだ。だが、血を流してよいとは 
書いていない。だから、もしお前がここで血 
を流せば、その時は……」         
「……(ニヤリ)書いてございます」    
「は?」                 
「書いてございますよ。その証文に」    
「え? え?」              
「証文の…裏側の…一番下に……<ただし、 
血を流すのも可、肉の目方の少々の違いは仕 
方ないものとみなす>」          
「エエエエエエ!…………ちょ、ちょっと、 
織江、虫眼鏡もってきて!」        
 かたわらにいたやはり女のような顔だちの 
助手が大きな天眼鏡を持って参りますと   
「………アーーーーッ! 書いてある! こ 
ーーーんなちっちゃーーい字でえええ!」  
 博士はびっくりした、奉行もびっくりした 
私もびっくりした。でもたぶん、一番びっく 
りしたのは、お墓の下のシェイクスピア。私 
の〜お墓の前で〜あやまってください〜。  
賽「………よろしいか。世の中が自分が正し 
いと思っている時ほど危ういことはないのだ。
自分たちがまるで正義の化身の如く思い、他 
者を省みず横暴に振る舞っているその時こそ、
まさに足元の石に躓くのだ。そのような能天 
気なる正義を世の中では偽善と呼ぶのだ。さ 
あ、覚悟しろ、金貸しを卑しみながら、おの 
れの所業を省みぬ偽善者め!!」      
 ブスリー!               
                     
                     
五、裁きのはてに             
                     
 と……この時賽六の刃が貫いたのは、なん 
と、寺尾博士の法服でございました。    
「待ってください」法服の下にはそのまま女 
の衣装、さらに取れかけていた付け髭も取り、
まとめていた髪をパッとおろしますと。証人 
席の馬場幸雄が叫ぶ            
馬「星夜姫!」              
星「そうです。私は星夜姫だったのです!」 
 傍聴席の市民たちは「いや、知ってました 
が」「ヒゲつけただけだもんなあ」…。   
星「賽六さん。わかりました。あなたがどう 
してもこの安藤さんを許せないという気持ち。
それが長く虐げられてきたものの思いだとい 
う気持ち。しかし、この人が死ぬと夫となる 
馬場幸雄も命を断ちます。だから、私も口先 
だけでなく、命に値するものを賭けましょう」 
賽「ほう、なんでございますかな。命に値す 
るものとは」               
星「私の……全財産です」         
織「お嬢さま!」             
 さあ、今度こそ法廷は騒然となった。いま 
の裁きで出てきた金の単位は三百両だ千二百 
両だ、大金ではございますが所詮は端金。ベ 
ルモントの大富豪・星夜姫の全財産となれば 
数十万両、町がひとつまるごと買えるほどの 
財産なのでございます。          
星「さっき、あなたは三倍でも四倍でも受け 
取る気はない、と申しましたね。額の問題で 
はないと。しかし,私の先祖伝来のすべての 
ものを賭けると申しているのです。どうです 
か? 心は動きませんか?」        
賽「それほどまでに、婿殿の命が大切か?」 
星「確かにそう、馬場幸雄は私の夫です。け 
れど、人の命と、どんな大きな額でもただの 
お金と、どちらが大切か、そのくらいのこと 
はわかっています。あなたはわたしたちを偽 
善者と言いましたね。それが本当かどうか、 
試してごらんなさい」           
賽「で? 賭けとは?」          
星「これから三つの箱を持ってきます。これ 
はもともと私の父が私の婿選びのために残し 
た謎です。遺言には<私の絵姿を入れた箱を 
選んだものを婿に>と書いてあったけれど、 
ジョーダンじゃない。自分の夫を自分で選べ 
ないなんて、と完全に無視してました」   
織「お嬢さま…自由すぎます」       
星「いま、ここにその金、銀、銅の三つの箱 
を持ってこさせます。そして、あなたは、私 
の、絵姿の入っていない箱を選んだら、私の 
全財産を受け継ぐことができます。もちろん、
安藤さんも、夫も好きにしてけっこう」   
馬「え? おれも? お前は」       
星「あのね、私はここに子供がいるのよ、あ 
なたが張本人でしょう!」         
馬「……はい………反論できない……」   
星「つまり、当たりクジはみっつにふたつ。 
とてもいい条件だと思うのだけど、いかが?」 
 賽六はあっけにとられておりましたが、し 
ばらく考えて、ハッと何かに思いあたったよ 
うに                   
賽「わかりました。二言はございませんな。 
姫さまの全財産に加えて、安藤屋と、馬場殿 
のお命も、ですな」            
星「そうよ!」              
賽「では、勝負することといたしましょう」 
星「三つの箱をこれへ!」         
 まあ手回しがいいというかなんというか、 
ベルモントからついてきた従者たちがゾロゾ 
スと出て参りますと、法廷にならべられまし 
た金、銀、銅の三つの箱          
賽「この三つのうち、ひとつに姫さまの絵姿 
が、そして、それを<当てなければ>いいの 
ですな」                 
星「そうよ、勝負は一回よ」        
 三つの箱にはそれぞれに文字が彫られてお 
ります。                 
 さてその前で吟味をいたします賽六の心の 
うち                   
賽「はは…はは…はははは。やはり、やはり 
まったく本の通りだ。ジェスタ・ロマノーラ 
ム、ローマ人行状記の第三十二話にこの話が 
書いてあった。ふふふ、箱の文字もそのまま 
だ」                   
 法廷中が手に汗を握る、安藤仁蔵、馬場幸 
雄、星夜姫に織江はもちろん、ベニス奉行も 
見物人たちも……賽六は近づいては手をのば 
して止まり、近づいては止まる       
賽「まず金の箱には<私を選ぶものは全世界 
を得るであろう>銀の箱には<私を選ぶもの 
は自分にふさわしいものを得るであろう>そ 
して銅の箱には<私を選ぶものはすべてを投 
げ出さなくてはならない>……この箱選びを 
お決めになったのは、お父上ですな…なるほ 
ど立派なお父上だ。愛しいもののためにはす 
べてを投げ出さなくてはならない…そういう 
婿こそが一番だ……ですから……、あなたの 
絵姿が入っているのは……銅の箱……そして、
あとのふたつは空箱……」         
 聞いていた織江が「ああ」と嘆く     
賽「どちらでもいいが…<光るものすべて金 
ならず>古の賢人もいった、絶対に入ってな 
いのは、……この箱だ……!」       
 賽六が、おもむろに、その箱の重いふたを 
持ち上げた! そこには!!!       
 な! なんと! 金の箱には!      
 ・・・・両手でブイサインをした、星姫の 
絵姿が!                 
賽「そ! そんなバカな! ジェスタ・ロマ 
ノーラムによれば、姫の絵姿は銅の箱に入っ 
てるはず」                
星「私が入れ替えたのよ! バッカじゃな  
い! 私の絵をそんな地味な箱に入れるなん 
て信じらんない!」            
織「お嬢様! 自由って、自由って素晴らし 
い!」                  
星「欲をだしたわね、賽六。あなたがジェス 
タ・ロマノーラムを読んでいたことなんて、 
まるっとお見通しよ」           
織「いや、いま言ったのを聞いてたんでしょ」 
賽「……仕方ありません……そちらの申し出 
通り、四倍の千二百両で今日のところは引き 
下がってやりましょう」          
馬「この業突張りめ、さあ、これだ」    
星「おおおっと。幸雄さん、私は認めてない 
わよ……賽六、お前はさっき<ベニスのご定 
法に乗っ取って>といいましたね。ベニスの 
定めでは、外国人・異教徒でベニス市民の生 
命をおびやかせしものは、何人といえど、財 
産の半分を被害者に与え、残り半分をお上が 
お取り上げになるものとする……はっきりと 
そう書いてあります。ね? ベニス奉行さま」 
奉「う…あ…そうだ、その通りだ」     
賽「そ…それがご定法でございますか」   
奉「そう、間違いなく、それが定めだ」   
織「(だったら箱関係ないじゃん)」    
星「(私の出番が見せ場がないでしょ)」  
賽「……気分が……急に目の前が暗くなって 
参りました。……今日のところはお暇させて 
いただいてよろしいでしょうか」      
奉「まて、わしの見せ場も作ってくれ…ベニ 
ス奉行としては、格別の温情をもってお上お 
取り上げの分から、その方の暮らし向きにつ 
いては月々手当てとして与えるものとする」 
賽「ありがとうござい……ます」      
星「まって、賽六さん。駆け落ちしたあなた 
の娘のお鹿さん、お鹿さんは、実は旦那の連 
象さんといっしょにうちで面倒を見ているの、
会いたくなったら、いつでも来てね」    
賽「……失礼いたします……」       
馬「やれやれ…欲をかかなければよかったも 
のを」                  
星「ちょっと、幸雄さん。もとはといえば、 
あなたの借金がもとなのよ。夫婦になっても 
私の財産はぜんぶ私が取り仕切りますから  
ね」                   
馬「とほほ…生きるべきか、死すべきか、そ 
れが問題だ……」             
奉「だが、あの賽六をただせめるわけにはゆ 
くまい。あの男は利を追うことに憎しみを乗 
せてしまったのだ。いつか利を追うことがま 
さしく理に叶う世の訪れることを祈って、本 
日は一件落着といたす。たちませーい」   
「いや、だれも座ってませんて」      
 こうして一幕の喜劇が幕を閉じることとな 
りました。安藤屋は再び儲けた金を正当な利 
息をつけて賽六に返し、賽六は高利貸しを辞 
めて情け深い質屋を開いたということでござ 
います。  
「ベニスの商人・改」の一席。