・・・・・・このネタについて。
○平成十年、三月二十日、お江戸日本橋亭初演。と、いうかヘタすると一回きりの口演。
「阪神大震災」以来二回目の完全時事モノ。ブームから一月で「ハラダ」なんていえば、
下がりマユゲでもつけて、半分モノマネして、せいぜいが生年月日とか、少年時代のエピ
ソードを紹介して…。要するにテレビで見たイメージと、情報の断片を紹介するだけのも
のに…。あーー、やだやだ(誰かやってないだろうなあ)。だから時事ものはやらないこと
していたのですが、今回、あれだけ心動かされ、国民的な盛り上がりを見せた事件を語れ
ないとすれば、講談は、もう速報性は放棄したといわれても仕方ないでしょう。
雪降る中での雪辱果たす大事件、いわば、平成の義士伝(?)。ハラダの物語を、風化させな
い講談にと…。神田陽司の新作の、命がけの挑戦であります。





「新・五輪伝説」            

〜ハラダマサヒコ物語〜       





今を去ること三千年の昔のことでございま

す。長野にも似て山岳地方の多い、ギリシヤ

の国は、ポリスという小国に分かれ互いに血

で血を洗う戦を繰り返し、長い戦国の世に民

百姓は疲れきっておりました。      

そんな中、エリスという国の大名イフィー

トスは、天下の平安を祈念して、霊山たるデ

ルフォイの神殿へと向かい、七日七晩の祈祷

の後、そこで聖なる神託を受けたのでござい

ます。                 

「汝、大いなる祭りを行い、ギリシヤ全土の

戦を鎮ましむるべし」          

長い労苦の末、エリスは戦の調停役を勤め

ることとなり、やがてオリンピアのコロッセ

ウムで、ギリシヤ中の腕自慢を集めて武芸の

技を競う祭りが開かれることとなりました。

その祭りの前後三ケ月の間はギリシア全土の

戦が禁じられ、人々は平安の中に祭りを楽し

むことができるようになりました。これがオ

リンピックの始まりとなったのです。   



やがてキリスト教がローマ国教となった西

暦393年、異教徒の祭りであるオリンピッ

クは禁止され中断いたしましたが、フランス

のピエール・ド・クーベルタン男爵によって

再び始まったのが1896年明治29年。以

来百年に渡り、二度の大戦をはさみつつ、世

界中の若人が五輪の旗の下に集う「近代オリ

ンピック」が続けられてきたのでございます

日本はストックホルム大会から参加をはじ

め、86年の間に一〇一個の金メダルを獲得

して参りましたが、その中には、様々な人々

の思いがあったのでございます。本日は、そ

の記念すべき一〇〇個目の金メダルを獲得し

た「日本ジャンプチーム」の代表・ハラダマ

サヒコの伝説を申し上げることといたします





<昭和二十年2月19日、激戦の続く日本の

最終防衛線・硫黄島(じま)において、敵米

軍部隊から、大日本帝国陸軍・戦車第26連

隊に向けて奇妙な呼びかけがなされておりま

した。                 

「西男爵、西男爵、我々はあなたを知ってい

ます。ロサンゼルス・オリンピックで限りな

い栄誉を受けたあなたと戦うに忍びない。降

伏は恥ではありません。どうか投降してくだ

さい」。                

昭和7年8月14日、ロサンゼルススタジ

アム。大賞典障害・個人飛び越しの馬術競技

は難航を極めました。その中でアメリカ陸軍

・チェンバレン少佐が減点12の高得点を記

録、優勝は決まったかに思われた時、帝国陸

軍の西竹一騎兵中尉が、愛馬ウラヌス号をか

って見事な逆転優勝を果たし金メダルを獲得

いたしました。その華麗な乗馬術は国境を超

えて世界の称賛の的となりました。上官であ

る吉田重友少佐が棄権、さらに今村ヤスシ少

佐が障害を飛び越えられず失格となった後、

上官の汚名返上の責務を背負った西中尉が、

重圧をものともせず、自らの技をいかんなく

発揮した結果の勝利でございました。   

「西男爵、あなたはあの時も勇敢に戦った。

我々はロサンゼルスの英雄としてあなたを迎

えたい、どうか投降してください」    

再三の呼びかけにもかかわらず、戦車第2

6連隊長である西竹一は、最後までその任務

を全うして名誉の戦死を遂げました(自決で

はなく敵戦車を奪っての戦死である、という

のが真実のようです)。         

西竹一は、ベルリン大会でも期待されたメ

ダルを得られなかった時、こう話しました、

「メダルの獲得よりも、国民が馬術に興味を

持ち技術を進歩させることが重要なのだ」。

この時、伝説の英雄西竹一にとって、メダ

ルを取ることはあくまで個人の問題で、国と

国との栄誉争いは眼中になかったのです。し

かし…>。               

日本の二次大戦での敗戦は、やがて行き場



を失った悔しさとなって、選手にさらなる重

圧をかけ始めるのでございます。     

時は下りまして1960年代、朝鮮戦争の

後、高度経済成長が始まり、安保闘争の中浅

沼稲次郎委員長が殺され、新幹線開通、神田

陽司誕生と、日本にとって大変重要な事件の

続きました64年10月21日。     

千駄ヶ谷の国立競技場に、戦争さえなけれ

ば、本当は東京オリンピックが行われるはず

だった昭和15年に生まれた一人の若者が、

6万の大観衆の待ち受けるスタジアムへ、府

中から甲州街道を駆け抜けて参りました。ハ

ダシの哲人・アベベ・ビキラから遅れること

3分、陸上自衛隊・第6特科連隊所属の円谷

幸吉24才。              

それまでオリンピックが主催される国の国

旗が、メインスタジアムに掲揚されなかった

例はありません。が、東京オリンピックにお

いては、陸上競技で日本ははただのひとつも

メダルを獲得できていないのでございます。

観衆が、疲れ切り、フォームもバラバラに

なった円谷幸吉に向かって声援を送ります。

その真後ろから、ひたひたと間を詰めてまい

りますのは、4ケ月前に世界最高記録を出し

たばかりのベシル・ヒートリー。しかし、 

「どんな苦しい時にも後ろを振り向くな」と

父親から厳しく教えられていた円谷は、寸前

までヒートリーに気がつかず、第三コーナー

手前であっけなく抜き去られてしまいました

結果、優勝、アベベ、ヒートリー銀メダル、

円谷、三位で銅メダルとなりました。   

「次まであと四年あります。それまで練習を

怠らなければ、きっとメキシコでは金メダル

が取れるでしょう。それが国民との約束です 

同僚・君原健二にそう語った円谷は、しか

し、そのあまりの期待と重圧に押しつぶされ

、ムリな練習がたたりアキレス健を断裂。回

復が遅れ、メキシコオリンピックの行われる

昭和43年1月8日、陸上自衛隊体育学校の

宿舎で、手首にカミソリをあてて自らの命を

断ったのでございます。         

かの有名な遺書「父上さま、母上さま、三

日とろろおいしゅうございました。干し柿も

、モチもおいしゅうございました。約束を果

たせなくてすいません。…幸吉は、父母上さ

まの元でくらしとうございました」。   

東京オリンピックで日本陸上界の面目を保

ち、堂々の世界第三位の成績で銅メダルを獲

得した英雄である円谷幸吉が、何故わずか2

7才の若さで、自ら死を選ばなくてばならな

かったのでしょう。一体、金メダルを取るこ

とにそれほどの、どれほどの値打ちがあると

いうのでしょう。その疑問と、日本国民がオ

リンピック選手に課した軛を、晴らし、外し

てくれる選手に出会うまでには、それからさ

らに三十年という長い長い年月を待たなけれ

ばならなかったのでございます。     





その選手。ハラダマサヒコは、東京オリン

ピックに遅れること4年、昭和43年5月8

日、北海道、カミカワ町に生を受けました。

小さい頃から抜群の運動神経の持ち主でし

たが、剣道も、柔道も何をやっても長続きし

ない、しかし8歳の時、カミカワ町ジャンプ

少年団の、杉本コーチにその才能を見いださ

れました。生まれて初めて履いたジャンプ用

スキーで見事な跳躍を見せたハラダは、その

時から世界への道を歩み始めることになった

のでございます。            

やがて中学一年で全国制覇、中三の時には

最年少でジュニア日本代表へ…。順風満帆の

ジャンプ中心の人生の中でも、ハラダは、バ

ンドを組み、ドラムを叩き、決して普通の若

者の生活を犠牲にぜずに育ってまいりました

なぜなら、彼はジャンプを誰に命令された

のでもない、自分が好きだからやっている、

使命感とは無縁のフツーの若者だったからでざいます。

地元・北海道での札幌オリンピックの時に

はまだ3才ですから、覚えているコトは微か

でしょうが、五つの輪は長い間の憧れでした 

それが果たされたのは1992年・アルベ

ールビル大会。時はすでに平成に入り、ハラ

ダは初出場にしてイキナリの4位入賞を果た

しました。この強さはハラダがダレよりも早

く「V字飛行」を身につけることができたか

らだと申せましょう。          



<ここでV字ジャンプについて解説させてい

ただきましょう。これは今から10年前、ワ

ールドカップの覇者・スゥエーデンのボーク

レブが、いくら直そうと思っても、スキーの

先が開いてV字になってしまう。もちろん、

当時としては、不格好であると減点の対象に

なっておりました。ところが、他の選手が真

似をしてみると、確かに10メートルほど飛

距離が伸びる。そこで全体のレベル向上のた

め、V字でもキレイに飛べば減点の対象にな

らないよう、ルールが改正された。それをハ

ラダは日本選手団の中でもいち早く取り入れ

たのでした。何故なら、彼は何より遠くまで

飛ぶことが好きだったからでございます>。



オリンピックは4年に一度の平和の祭りの

はずでしたが、ベルリンの壁が崩壊してから

商業化がいっきに進み(古代オリンピックは

これで堕落したはずなんですが)冬期を夏の

大会と同じ年にやるより、テレコに2年ごと

にやった方が、宣伝などの収入もあがりやす

いというので、なぜか、次のリレハンメルは

たった一年おいただけの、94年に行われる

ことになりました。まあ、これがなければ、

ハラダの伝説もなかったわけでございますが

ハラダが道をつけたV字を取り入れて以来

、日本のジャンプは世界最強の道をつき進ん

でゆきました。現にノルディック複合はアル

ベールビル・リレハンメルとジャンプの力で

二連覇を果たし、さあ、期待がかかる純ジャ

ンプ。                 

個人ではあの岡部孝信のラージ4位が最高

そして迎えた団体戦は2月22日。西方、岡

部、葛西、そしてハラダと一回目は軽々K点

越えの大ジャンプ。二回め、先鋒西方・13

5メートル、中堅岡部133メートル、副将

葛西が120メートル…、あとは、あとは、

あとはハラダがフツーに飛べば、札幌以来、

あの笠谷、紺野、青地の日の丸飛行隊以来の

、悲願の日本ジャンプの金メダルが実現する

…。                  



「ハラダが100メートルを少し超えるだけ

で…決まりです、勝てます。風は…いいです

ね。さあ、ハラダ、日本中の期待を背負って

、金メダルに向かいます。さあ、スタート、

順調にスピードを上げ、踏み切った! ハラ

ダどうだ、高さはある、金メダルに向かって

、金メダルに…ドウダーーッ!! あっと、

落ちた! 途中で落ちてしまったーっ」  

今回、この話を書くにあたって、どんな資

料を調べても、近代オリンピックの百年、な

んて本を調べても、「五輪史上最大の失敗」

と書かれています…。あの日は、風のせいで

はない、確かにハラダは金メダルの重みに負

けたのでございます。          

着地地点にうずくまり、頭をかかえて動け

ないハラダ…。真っ白な雪のフィールドを、

鮮やかなオレンジ色のユニフォームに身を包

んだ3人の、仲間が近づき、岡部孝信が最初

に声をかけました。           

「何やってんですか、ハラダさん。やったじ

ゃないですか、銀メダルですよ。札幌以来の

銀メダルなんですよ」          

しかし、仲間たちに励まされて引き上げる

ハラダを待っていた、籍を入れたばかりの妻

・恵子さんとの無言の抱擁がすべてを語って

おりました。これからだ、これから、辛い戦

いの日々が始まるのだと…。       



その、夜のことでございます。ノルウェー

のスキーの都・リレハンメル。ノルディック

発祥の地。普段は人口2万あまりの静かな町

も今は、世界中からの来客でごった返してお

りました。その繁華な夜の町の一角に、静か

に栄光と悔恨に浸る日本ジャンプ・チームと

ハラダマサヒコの姿がありました。    

少し酒も進み、今回の結果の話より、まず

は今シーズンの残りのワールドカップを如何

に戦うか、明日への希望に皆の口も軽くなり

はじめた時でした。           

年頃五十そこそこでしょうか、日本から来

たらしい、中肉中背の、どこか疲れた表情の

ある酔っぱらいが、日本選手の方に親しげに

近づいて参りました。          

「や、どうも、どうも」         

ハラダを含む選手たちは軽く会釈だけをし

て応えましたが、男はかなり酔っているらし

く、一人で喋りはじめたのでございます。 

「大変だったねえ。まま、銀メダル獲得、ま

ずはおめでとうございます。どうです、一杯

、あけたばかりのボルドー・ワインですよ」

「あ、いや、結構です」と選手団の一人が応

えます。                

「あ、そうですか、じゃ、ま、私が…」  

「ふーう。しかし何だね、え? 惜しかった

ねえ。あの最後の一本、あの最後さえなきゃ

、金メダルだったのにねえ」       

選手団は一番奥にいるハラダを気づかって

気色ばみました。それを軽く手で押し止める

ハラダマ。               

「あ、いや、何、文句言いにきたんじゃない

んですよ。みなさん、よくやりましたよね。

長い練習してきて、みんなの期待を、背負っ

て…。ねえ、いや、ちょっとアタシも飲み過

ぎたようで、ま、明日は日本に帰らにゃなら

んのだ、ちょっと飲ましてくださいよ。ねえ

。実はあたしは皆さんを見に来たんだよね。

日本のジャンプ陣は世界一だって言うから、

金メダル取るとこをねえ…。いやあ、惜しか

ったなあ。大変ですよねえ。長い練習をして

きて…。ねえ、最後の一本で。ねえ、あれじ

ゃ、何のために練習してきたんだか…」  

「おい、何が言いたいんだ」普段は一番冷静

な岡部が声を荒らげました。       

「いや、別に…。そんなコワイ顔しないで、

一杯どうです?」            

「そろそろ行きましょう、ハラダさん」  

岡部にうながされ皆が席を立とうとすると

「あ、すいません。お気に触ったらすいませ

ん。いやね、私はね、ただもう、オリンピッ

クが好きで…。ね、分かってくださいよ。私

ね、貯金下ろしてきたんですよ。リストラで

明日の首もアブナイのに、貯金下ろしてここ

まで来たんですよ。皆さんの金メダル見るた

めにね…。ね、バブル崩壊だか何だえ知らな

いけど、ここんとこ景気悪いじゃないですか

ついコナイダまであーんなに良かったのに。

で、気がついたら損失補填だかなんだか知

らないけど、結局金のある奴が得してるだけ

じゃないですか。だからね、だから、金の力

じゃない、自分一人の力で、自分の力だけで

世界一になる、そんなあんたらを見たかった

んですよ…。分かってくださいよ」    

この時、ハラダは奥から前へ一歩進み出て

、頭を下げたのです           

「すいません、みんな私が悪いんです」  

この日から、天才ジャンパーハラダは、か

つて経験したことのないスランプに陥るので

ございます。              





その原因の一つに、ハラダ独自の飛び方、

踏み切りを強くして高く飛び上がる飛び方を

、もう一人の若き天才、船木和喜のように、

低く出てスーッと伸ばしていく飛び方に変え

ようとしたことがありました。自分自身を失

っては、勝負に勝つのは難しい。日本のエー

スハラダは、次の年には世界代表にも選ばれ

ず、地元でもくもくとトレーニングを積むこ

とになったのです。           



長い長い四年間でした。長野オリンピック

は予定通りやってきました。たとえ県知事が

アホだとしても、たとえ曙の土俵入が盛り上

がらなかったとしても、期待の選手が軒並み

予選落ちをしても、清水宏保の金メダルによ

って、東京オリンピック以来の盛り上がりを

見せました。              

ノーマル、ラージのことは多くは申しませ

ん。ただ、あの、「立て、立て、立ってくれ

」を絶叫した工藤アナウンサーは、ハラダの

15年来の知人であるとだけ申しておきまし

ょう。                 

そして、そして、2月17日火曜日。  

未明からの大雪のため、30分遅れの午前

10時、その時はやってきました。    

まずはリレハンメルのいぶし銀、岡部孝信

四人の中でもっとも低い飛行曲線で、グライ

ダー的に飛ぶ、反ハラダ型のジャンパー。追

い風という悪い条件の中、121.5m。2

人め、中学生の時からの岡部のライバル・斉

藤浩哉、絶好の向かい風にのり、130m。

日本断然のトップ! そして3人め…。  

リレハンメルの雪辱をと、四番めにとの声

もありましたが、なるべく実力を発揮できる

ようにと3番めに回されたハラダマサヒコ。

しかし、突如強くなった雪が行く手を阻む。

積もれば積るほど、スキーのスピードは落ち

て行きます。              

「さあ、四年前とは違うハラダがここにいま

す。さあ、厳しい条件の中、ハラダ一回め!

あーーっと、ハラダ、伸びません」描写が何

もないのは、すぐに下りてしまったからです

79m50。              

掲示板を見て引き上げるハラダ、たったひ

と言、「なんだよ、これ…」。      

続く船木もハラダの不調を引きずりトップ

から四位に…。             

日本とトップとの差は7m、暗く、重く、

苦しい空気が控室ち溢れました。ハラダはた

だ黙ってシュプールを見つめていました。 

相変わらず、卍巴と降る雪、二十分にわた

る長い中断の末、再開された時、しかし、4

人の心は一つになっていました。何故なら一

本めで中止、競技を終わろうという審判団の

意見を覆すため、危険な雪の中を日本のテス

トジャンパーたちが命がけで道を開いてくれ

たからです。そのテストジャンパーの中には

、四年前リレハンメルでハラダと飛んだ西方

もいました。控え選手の葛西はただ見守って

います。そして二人のシャツと手袋はハラダ

の元に託されていました。        

「いいよ、そんなこと、カッコ悪い…」  

「な、サッカーでもゴンがやってたじゃない

か、な、貸しといてくれよ」       

これこそ講釈師見てきたような、ですが、

キットハラダむりやり奪い取ってきたもので

しょう。                

「一本目、やる気にさせてくれる人がいまし

たからねえ」後に皮肉っぽく語っていた岡部

、二本め。               

「岡部スタート……さあ低い飛行曲線で行っ

た。伸ばしてくる、伸ばしてきた! 大ジャ

ンプだ岡部、大ジャンプだーっ!」137m

「さあ斉藤……あっと、横風だ。さあどうか

、こっから、こっから、こっから、K点を超

えてきた、流石だ、流石に巧いジャンプだ」

124m。




この時、二位ドイツ、あのリレハンメルで

負けたドイツとの差は、たったの、たったの

3mだけでした。ドイツのラストは、エース

トーマ。船木と差がつくとは思えない。もし

、ハラダがもう一度失敗したら、今度も、ま

た…。                 

ヘルメットを変え、折れたスキーを換え、

西方と葛西のシャツと手袋を身につけて、一

歩、また一歩とスタート台への登り、白銀の

シュプールと満場の観客を静かに見下ろす原

田雅彦                 




「(見下ろす)8才の時ジャンプを始めて、

俺は今日まで何をしてきたんだろう。20年

の間何を信じてきたんだろう。夢だったオリ

ンピックの舞台、だが、もう夢の時期は終わ

った。(シャツ)これからは夢を現実にしな

きゃいけないんだ。俺はこれから金メダルに

向かって飛ぶ。(手袋)でも、俺は自分のた

めだけに飛ぶワケじゃない。日本のためダケ

に飛ぶワケでもない。金メダル…そうだ、金

メダルは太陽なんだ…西方も、葛西も、観客

たちも…あの酔っぱらいも、みんなにとって

の夢なんだ。俺は太陽に向かって飛ぶんだ…

…何も迷うことはないんだ!」





●「今度は高いぞ、高くて、高くて、行ったー

、大ジャンプだハラダーー。ここ一番で大ジ

ャンプだ。また距離が出ない。別の世界へ飛

んで行ったハラダー!」国際スキー連盟事務

局長のカスパー氏をして、「クレイジーだ」

と言わしめた、ハラダマサヒコ2本め、  

137m最長不倒の大ジャンプ!     

「さあ船木、すべてこの人にかかってきた。

キレイな飛型で来た、伸ばしてくる、伸ばし

てきた、金メダルジャンプだ船木………、 

125m、日本、金メダルを獲得シターッ」



●「ハラダさん、おめでとうございます」 

「やった…、ヤッターーーアーーーー。やっ

たな、やったな…」           

●「一本め終わった時どんなお気持ちでした」

「辛かったよもお。。また、皆に迷惑をかけ

るんじゃないかと思って…。でも、屋ねつい

てないからね、しょうがないよ」     

●「これで、リレハンメルの悔しさを晴らせま

したね」                

「でもね、でも、ここはNAGANOなんだ

よ。みんなでね、みんなでタスキを渡して金

メダル取ったの。みんな最高だったよ。最高

だったよう。俺だけじゃないよ。みんななん

だよ、みんななんだよう」        

冬期オリンピック初、純ジャンプ団体の金

メダルは、こうして、こうしてニッポン10

0個めの伝説の金メダルとなったのでございます。





////////////////////////・・・シラバ・・・//////////////////////////

さても近代オリンピック、日本百個の金メダルいかにと見てあれば、

昭和三年アムステルダム大会の三段跳び

織田幹雄選手を初めとして、

鶴田平泳ぎ・義行、南部三段跳び・忠平、宮崎自由形・康二、北村千五百メートル・久寿雄清川背泳ぎ・正二、鶴田二百メートル・義行

宮崎八百メートル・康二、西馬術大賞典障害・竹二戦前最後のヒットラーの元なるベルリン大会は、田島三段跳び・直人、孫韓国のために走ったマラソン・基禎寺田自由形・登、葉室二百メートル・鉄夫、 前畑頑張れ女子初キンメダル二百メートル自由形・秀子、 ウサ八百メートル競泳・正憲…、
つづく東京大会は太平洋戦争のため中止となり、
戦後初参加は昭和27年ヘルシンキ、
石井レスリング庄八、古川平泳ぎ・勝、
笹原レスリング正三、池田ウエルター級・三男、
小野初のタイソウ鉄棒・喬、
ローマ大会キンメダルはすべて体操、小野喬、
相原信行、
昭和39年の東京大会いかにと見てあるならば、
日本のお家芸体操団体ローマに続く二連覇を初めとして、 体操個人は遠藤、早田、山下もひとつ遠藤、       レスリングは吉田、上武、渡辺、花原・各階級制覇、
正式種目となった柔道は中谷、岡野、ヤワラちゃん
ではないが猪熊、
桜井ボクシングバンタム級・孝雄、
三宅重量挙げのヒーロー義行、
「俺について来い」は流行語ともなった大松カントク率いる東洋の魔女悲願のキンメダル女子バレーボール、
メキシコ大会体操男子は三連覇塚原・塚原飛びそのまんまや光男加藤体操二連勝・沢男、中山体操三連勝・彰規、
三宅重量挙げ二連覇・義信、中田レスリングフライ茂雄、
上武二連覇レスリング洋次郎、金子正明、宗村宗次レスリング<これで半分>72年日の丸飛行隊如何にと見てあれば、札幌大倉山シャンツに飛んだ、笠谷「さあ笠谷」ユキオ、実は札幌大会のめだるは日の丸飛行隊のみ、関係ないがジャネット・リンが転んだのもこの大会。
一方イスラエル選手団宿舎をパレスチナゲリラが襲い血の大会と化したベルリン大会の金メダルはと見てあれば、
水泳復活ののろしを上げる平泳ぎ100メートルの田口を初めとして、
青木バタフライまゆみ、体操団体総合ケンモチ、
加藤、中山、塚原は3連覇、
加藤レスリング喜代美、同じくレスリング柳田、
関根柔道中軽量級/忍、川口、野村、
ミュンヘンへの道男子バレーボールアニメにもなった
松平カントクのチーム12人は多すぎるから省略、
モントリオール体操男子連覇も残念ながらこの年まで、
レスリング・柔道の戦士たち高田、伊達、園田、二宮、上村春樹、復活のバレーボール女子、12人のうちなぜか横山樹理だけ覚えているぞ名前がカッコいいから。
マジメに行こう、50年ぶりロサンゼルス大会はソ連ボイコットの中、                      具志堅つり輪の名手/幸司、森末テレビに出すぎちゃうか慎二
富山レスリング英明、宮原レスリング厚次、
柔道は細川、松岡、斉藤、そして山下国民栄誉賞・泰裕、
蒲生ライフルなんと48才の金メダル猛夫、
そろそろみんな覚えてるでしょソウル大会の金メダル受賞者はとながむれば、
鈴木バサロ泳法名前がいいぞ大地、小林小さいけど強いぞ孝至、

佐藤満レスリング、斉藤・俺も二連覇だ仁、
久々の冬期アルベールビルもう勝っていたぞ、
ノルディック総合荻原健司、
92年バルセロナ、岩崎生きてきた中で一番嬉しい恭子、
吉田秀彦、古賀トシヒコは涙の金メダル。
そしてリレハンメル、結局ノルディック総合のみ阿部、河野そして荻原。
アトランタ騒いだわりに実は三個だけ
柔道、恵本、中村、野村それでもお家芸守って立派、
最後だ長野、清水おっ母さんの首に金メダル宏保、
里谷帽子とらずにオコラレタ多恵、船木どう見ても船木一夫に似てるぞ名前も似てるカズヨシ、そしてジャンプ団体、
岡部孝信、斉藤浩哉、船木和喜、ハラダマサヒコ。
以上、日本キンメダルの百個、お疲れさまでした。


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長いものをお読みいただき、ありがとうございました。

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どうもありがとうございました。