「犬殿様」







時の権力と申しますものはいつの日も、自ら 

に都合のよい事しか残さないものでございま 

す。本日のお話は、その、消し去られた真実 

のお物語りでございます。         

「余は生まれながらにして将軍である」と宣 

言し、参勤交代を整え、鎖国を断行し、永き 

太平の礎を築きました徳川三代の将軍、家光 

公が突然息を引取りましたのは、慶安四年、 

1651年の四月半ばのことでございます。 

今でこそ家光には、三人の跡取りがいたこ 

とになっておりますが、実はそれは後年に書 

き直された記録でございまして、行年48で 

亡くなる時には一人のお子さまもございませ 

んでした。                

さあ、幕府は大変な混乱をすることになっ 

た。大坂夏の陣からまだ三十年、豊臣の残党 

がいまだ天下を狙っているやも知れず、また 

徳川家のうちにも紀州には東照大権現家康公 

の十子にして、南海の龍と呼ばれました徳川 

頼宣が虎視眈々として将軍の座を狙っている。

しかし頼宣公に天下を与えれば御三家筆頭、 

尾張徳川家が黙っていない、そうなれば、水 

戸には英明をもって知られる後の黄門さま・ 

徳川光圀あり、誰を指名しても天下は麻の如 

く乱れ、民百姓の苦しみが続くことになりま 

す。                   




ここは桜もすっかり葉桜と成り果てまして、

千代の松が枝分け出し、その名も千代田の城 

・江戸城中でございます。         

老中はじめ、若年寄、三奉行など、幕府の 

重臣たちは、西の丸評定の間に集い、額を寄 

せて油の汗をかきながら、お世継ぎ問題に頭 

をかかえることとなったのでございます。  

「困ったな」               

「まったくですな」            

「上様もお人が悪い」           

「いかに、お世継ぎがなかったと言え」   

「いかに将軍家のご威光を示すためと言え」 

「まさかこのような」           

「無理無体なご遺言を残されるとは」    

「どうなされます、保科どの?」      

と、名を呼ばれましたのは、妾腹ながら家 

光とは兄弟にあたります、信濃高遠藩から後 

の会津藩主、保科肥後守正之でございました。

「うむ、亡き上様のご遺言を今一度お伝えい 

たす。ひとつ、天下において権威なるものは、

将軍家をおいて他に無き事。京の禁中天子様 

と言えども従わざる事あたわず。次に世継ぎ 

は将軍家一人の事にて、大名諸公、評定衆、 

御三家に至るまで、口だしすまじき事。さら 

に、次期将軍には、必ずや、先代の意を得た 

る者を指名すべき事……」         

「そこまでお書きになられて、ポックリと」 

「そう、ポックリと…なあ」        

「保科殿、要するに、その、『先代の意を得 

たる者』というのが問題なのですな」    

「さよう、意を得たるもの。すなわち、亡き 

上様に最も気にいられていた者…だが、ご遺 

言はここで終わっておる」         

「ここはひとつテキトーにでっち上げること 

が肝要と」                

「…と言って、誰にすればよい? 御三家筆 

頭の尾張には適当な人物はござらぬ。水戸の 

光圀殿は英明と言えど未だ若輩、といって  

…」                   

「そう、紀州頼宣公に将軍家を継がれては、 

せっかく磐石になりつつある幕府と諸公との 

関係が台無しに…南龍公は、やることがハデ 

すぎますからなあ…」           

「と、言って、この正之を初め、幕臣・評定 

の者を選んだとあっては、ご三家が黙っては 

おるまい」                

「さようさよう、きっと難癖をつけてきます 

ぞ」                   

「と、申しても、ご遺言はこれひとつ。『意 

を得たる者』…となあ」          

「誰が名乗り出ても、天下麻の如く乱れるこ 

とになりまするなあ…」          

「ウーーーン」              

と、一同が、油汗をしぼる中、襖の外かけ 

たたましい、音と共に、一人の奥女中が走り 

こんで来たのでした。           

「万珍丸さま…万珍丸さまはおられませぬ  

か」                   

「これ、女、ここをいずこと心得る」    

「…これは、申し訳もございませぬ。ですが、

あの、万珍丸さまが…」          

「今、お世継ぎを決める大事な評定の真っ最 

中じゃ、後にいたせ」           

「しかしながら、今際の際の上様より、この 

おタカが命に換えてもお守りせよとのご遺言 

をいただきました万珍丸さま、もしもの事が 

ありましたら、私、命に代えてお詫び申さね 

ばなりませぬ…」             

「何、上様のご遺言とな?」        

「はい、この通り、書き付けもいただいてお 

りまする」                

「どれ、見せてみよ」           

と、奥女中が胸元から取り出した書状を食 

いつくように目で追う保科正之、目を輝かせ 

てそれを読み上げます。          

「……この万珍丸、我が意を得る事多く、そ 

れ故、我が亡き後も委細申し託すべく候…。 

みなさま方、おられましたぞ、上様の意を得 

た者が」                 

「いや、しかし、万珍丸とは…」      

「黙らっしゃい。これは間違う方なく上様の 

お手筋。これがあれば、頼宣公であろうと、 

水戸様であろうと、口出しすることなどでき 

ませぬぞ」                

「いや、そうかも知れん、だが…」     

「何を躊躇なされるのか? 将軍家のご威光 

は唯一無二でござるぞ」          

と、そこへ、襖をバリバリと破って飛び込 

んで参りましたのは、おのれの運命を知らぬ 

万珍丸でございます。           

「おお、おお、万珍丸さま、これへ。さ、明 

日から、イヤ、今日この日より、あなた様が 

将軍家でござりまするぞ。みなさま方、ご異 

存ございませぬな?」           

一同納得はしかねるが他に打つ手もなく、 

まあ、正之がそういうなら、やらせとけ、と 

いった風で同意をしたのでございます。   




そして数日の後、御三家を初め、大名諸公 

の集まりました、江戸城松の廊下奥にござい 

ます白書院。奥の唐紙が開きますと、重々し 

く入ってまいりますのは保科肥後守。一同が 

平伏をいたしておりますところ、      

「今日より亡き上様のお世継ぎとして将軍家 

を拝領された万珍丸様に対面を許す、皆の者 

表を上げよ」               

と声に応えて一同がゆっくりと頭を上げま 

した時に、白書院の上座に見たものは…、金 

糸縫いの小さな羽織に袖を通し、大きな絹織 

りの座布団の上にチョコンと座った、かわい 

らいし一頭のポメラニアンでございました。 

「アン!」                

事情を聞かされていなかった一同が、石の 

ように固まっているうちに、サッサと対面の 

儀式を終えまして、評定の間へ戻ってまいり 

ました幕臣たち。             

「しかし、保科氏、一体これからどうするの 

でござるか。よもやご政道をこの犬に任せる 

訳には行きますまいに」          

「これ、犬とは何じゃ犬とは、恐れ多くも四 

代の将軍家であらせられるぞ」       

「ワン!」さすが家光ご寵愛のポメラニアン 

逃げ出すでもなく機嫌よく、上座に大人しく 

座って、皆を見回しております。      

「頼宣公も、水戸様も、さきほどはアッケに 

とられて何も言われなんだが、すぐに文句を 

言いにきますぞ」             

「誰が何と言おうと、亡き上様、三代将軍家 

のご遺言にさからう者は謀叛人、すぐに兵を 

差し向け、討ち滅ぼしてみせましょうぞ。そ 

の際には、上様にも御自らご出陣をいただき 

ますぞ。のう、上様」           

「ワン、ワン」              

「しかし、保科氏…」           

「よろしいかな、皆様方。戦国の世が去って 

より五十年、豊臣が滅びて三十年。今が幕府 

にとって一番大切な時でござる。それを肝に 

命じて、いかな御三家、親藩諸公と言えど、 

決してご公儀誼の権威を忽せにせず、逆らう 

者はビシビシと取り締まってゆかねばならぬ。

そのためには、ためらいもなくご決断のでき 

る大胆英明なるご主君が必要なのでござる」 

「あのね、決断って、どうやって、この犬が 

…、イヤ、上様がご決断なさるのじゃ」   

この時正之ニヤっと笑みを浮かべ、    

「これを見られよ」            

保科正之が、取り出して参りましたものは、

二枚の半紙、重臣たちが見ますと、その一枚 

には、                  

『正之に従え』              

もう一枚には、              

『正之を罷免せよ』            

と書かれておりました。          

「何事も、委細は上様にご判断をいただく。 

それが将軍家の権威と申すもの。ささ、上様 

ご裁可を」                

と、いうと正之、二枚の半紙を万珍丸の手 

前に置きまして              

「(パンパン)さ、上様、ご決断を、ほれほ 

れ、上様、う〜えさ〜ま」         

と、万珍丸は、まごうかたなく、『正之に従 

え』を口に取りまして、          

「ワン、ワン」と尻尾を振りました。    

「おお、私めにお任せくださるか。ありがた 

き幸せ。これ、誰ぞ、上様にご褒美のホネを 

持て」                  

「なんだい、これじゃ、ドッグショーだよ」 

「驚かれましたかな。実はこれ、紙の一方に 

は甘い蜜が塗ってあり申す。これで、ご政道 

はすべて、我等の思い通り、御三家の方々に 

も文句は言わせませんぞ」。        

そして、これより、犬将軍の治世が始まる 

ことになったのでざいます。        




さて、収まらないのは南龍公。なにしろ、 

次期将軍の座を犬に奪われたのですから、当 

たり前。江戸城本丸中奥の、将軍控えの間へ 

と殴り込んで参りました。         

「肥後、肥後はおるか?」         

「これはこれは、紀州殿。たいそうな鼻息で 

ござるな」                

「無礼を申すな。だいたいその方、何の権利 

があって、ワシよりも上座に座っておる」  

「この肥後守正之、亡き三代将軍家より直々 

に、四代将軍の後見をするように言いつかっ 

ております。その事は生前より周知のハズ」 

「確かにな。だが、よりによって、イヌ畜生 

が跡目を継ぐなどとは、聞いておらぬぞ。だ 

いたい、イヌにしたって、もう少し勇ましそ 

うなのもいるだろうに、何だ、そのポメラニ 

アンは、愛玩犬ではないか。え?」     

「おひかえなされ、上様に向かって畜生とは 

聞き捨てなりませぬ。これ、お控えを、これ、

ほら、上様が怖がっておられる」      

「クーン、クーン」            

「あああ、もう、話にならん。とにかく犬の 

将軍などは承諾しかねる。この、犬コロが、 

この、この」               

「ウーッ、ウーッ」            

「ほらほら、南龍公、今度は上様がお怒りで 

すぞ」                  

「なんじゃ、神君・家康を父に、加藤清正を 

祖父にもつこの頼宣にさからう気か、この犬 

めが」                  

「アン、アン」              

あまりの頼宣の剣幕に、野性の血を刺激さ 

れましてか四代将軍万珍丸、ガーッと、飛び 

掛かってまいりました、ハッ、と袖でよける 

南龍公。これに四代将軍、ガブッと噛みつい 

てブラ下がる。これが犬と狼の違い狼は食い 

ついては離れ、食いついては離れますが、犬 

は一旦食いついたら離さない。「これ、放せ、

放さぬか」袖に噛みついたまま、振り回され 

るままになっております。         

そのうちに、ブリッ、と鈍い音を立てて袖 

が千切れました、中には、一枚の書状が入っ 

ております。               

「おや、これは?」と広い上げる正之    

「何々、三代将軍家亡き後、政情不安となり 

し折は、軍学の知恵拝借いたしく、ついては 

紀州へお出でを願いたい、由比正雪殿…」  

「そ、それは何でもないのじゃ」      

「そういえば、過日、駿府にて、謀叛を企て 

し一党が捕まったとの知らせが来ております 

るが、確かその頭目の名が由比正雪…」   

「肥後。つまらん新作講談でもあるまいに、 

そんな大事な書状を、ワシが袖に入れて持ち 

歩いていると思うのか? ご都合主義も甚だ 

しいわ」                 

「そこは、大胆不敵な南龍公、我々の考え及 

ばぬところかもしれませぬなあ…。さて、紀 

州殿。幸いここには小姓もおりませず、書状 

の内容を知るのも我等二人のみ」      

「ウーッ、ウーッ」            

「…と、上様のみ。ここは大人しくお静まり 

くだされ。さもなくば、上様をけしかけます 

るぞ」                  

「ウーッ、ウーッ」            

「そんな脅しに屈すると思うか」      

「おやおや、もし上様が食いついたら、どう 

なさるお積もりで。手を上げれば謀叛の門に 

て紀州家はお取り上げ…。ま、この書状をも 

ってすれば、より簡単でござるが…このまま 

お国元へお帰りいただければ、正之一人の胸 

に収めましょうぞ」            

「お、覚えておれよ!」苦虫を百匹くらい噛 

み潰して、青汁飲んだ後ブルーチーズを食っ 

たような顔で頼宣は退散して行きました。  

さて、それからの犬殿様と保科正之は、さ 

まざまな事業に手をつけ、その度に協力税を 

各大名から絞り取り始めました。それは幕府 

に対抗する諸藩・大名の力を衰えさせようと 

いう考えからのものでした。        

新田の開発、玉川上水の掘削江戸市中のゴ 

ミの永代島埋め立て…。そのおかげで江戸町 

人たちは                 

「今度の将軍様は、ありがたいねえ。俺たち 

江戸の町人のために、どんどんイイコトをし 

てくださる」               

「ああ、いい殿さまだ。犬殿様万々歳だ」。 

と、新将軍の人気はうなぎ上りに上がり、 

幕府の権威も安定していったのでございます。




ところが迎えて明暦三年、1657年の一 

月十八日、本郷丸山本妙寺から出た火事は、 

折からの強い西風にあおられまして、江戸の 

南半分を灰に致しました、俗に言う振り袖火 

事というヤツでございます。        

なんとか無事西の丸に難を逃れました犬将 

軍・万珍丸と保科正之でしたが、大きな問題 

に直面することになりました。江戸城の本丸 

天守閣が焼け落ちてしまったのでございます。

これを再建するのには莫大な費用がかかる、 

流石に幕臣だけでは決めかねて、西の丸大広 

間において、御三家や諸大名の代表を交えて 

の大評定が行われることとなりました。   

「さて、ご一同。今度の大火において、焼け 

落ちた本丸天守閣再建の事でござるが。天守 

は天下万民を収める幕府の象徴(みしるし) 

でござる。これなくば、人心に不安が起こり、

天下の統制に乱れが生じる元となり申す。よ 

って、まず第一に天守閣復旧を始めたいと存 

ずる。つきましては、諸藩の財政より、一万 

両づつのご協力を…」           

一同またか、と思いましたのは、四代将軍 

補佐役の保科正之が口を開けば、ふた言目に 

は天下万民のためと称して大名を絞りあげ、 

幕府を潤すことしか考えない。不服を言い立 

てれば、                 

「では、上様にご裁可願おう」と言っては万 

珍丸に紙を選ばせて採決し、結局は正之の言 

う通りになるので、不満が鬱積して、何とか 

一矢報いたいという不満が溜まりに溜まって 

爆発寸前になっておりました。       

本来は先頭に立って文句を言う筈の南龍公 

も何故か最近大人しい、誰も何も言えないま 

ま、衆議一決となるかに見えましたが…   

「保科様、お待ちを」と口を挟みましたのは、

英明を持って知られる水戸の徳川光圀、この 

時いまだ三十前後の黄門さまでございました。

「何か、水戸殿」             

「若輩ながら、この光圀、今日は父・頼房病 

のため代理にて参じましてございまする。只 

今伺いまするに、何よりも天守再建をと申さ 

れましたな」               

「如何にも」               

「保科様。天守は何の為にあるものかご存じ 

ですかな?」               

「これは異なことを。天守は城の守りの心の 

象徴ではござらぬか」           

「いやいや、こはただの心の象徴にあらず。 

天守は戦の時に一早く敵の動静を見張るため 

の展望をするもの。また、兵糧をとって立て 

こもり、敵の退散を待つ籠城のためのもの。 

よって、天守は戦のためのものにござる。天 

下太平の徳川の世に、欠くべからざるものと 

は思われませぬ」             

「それは…だが、いつ戦が起こるやも…」  

「その心配はご無用にござる。時の将軍家は 

江戸はじめ万民に信義厚く、その徳を広く知 

られておりまする。その住まいなる千代田の 

城を攻めようという者など誰もおりますまい。

のう、ご一同」              

大広間がザワザワッとざわめきました。諸 

大名は日頃から犬将軍と保科正之には搾られ 

ておりますので、何でもいいから一矢報いら 

れればいいやと、光圀の言う意味もわからな 

いでそうだそうだとうなづいております。  

「されば保科氏。ご天守再建の費用は、これ 

将軍家を慕う天下万民のため、特に今度の大 

火にて住む家を失った多くの町人たちのため 

に、新しく住まう家を作り、江戸の町の再建 

のためにお使いになってはいかがかな。それ 

でこそ、人望厚き将軍家のご意向にかなうと 

いうもの」                

「そうだそうだ−よくわからんけど、水戸様 

にサンセイ」               

たしかに、非の打ち所のないリクツでござ 

いますが、正之にして見れば、ここで光圀の 

意見に従っては面子が立ちませんので、   

「ウホン…では、いつものように、上様にご 

裁可を願おうではないか、これよ、支度に及 

べ」                   

腰元が二枚の紙をうやうやしく運んで参り 

ます、そこへ正之が「天守を再建する」「江 

戸の町を再建する」と書きまして、チョコン 

と座って舌を出している万珍丸の手前に置き 

ます。                  

一同は固唾を飲んで見守る。光圀には初め 

て見る光景ですが、不正がないかとジッと睨 

んでおります。              

「ウホン、では、上様、お願いいたします。 

(パンパン)上様、うーえーさま」     

「オン」と、一枚の紙を口にいたします。そ 

れを取り上げる保科正之、         

「これ、この通り、上様は、某の申した通り 

『町人の家を…』ん? 『町、町人の家を再 

建する』…こ、これは、いや、こんな」   

「いかがされました、保科氏。上様のご裁可 

は下りましたぞ。流石に天下万民に思いやり 

深い将軍家でござるな」          

一同オーーッと声を上げました。みなが口 

々に騒ぐ中、正之は腰元を呼び寄せ、小声で 

「どうした? まさか、蜜を塗り間違えたの 

ではあるまいな」             

「いえ、確かに、『天守再建』と書かれた方 

に蜜を塗りました」            

「ウーーーム? 一体どうして…」と不審が 

る保科肥後守。その心を知ってか知らずが無 

心に後ろ足で頭を掻いている、犬将軍・万珍 

丸。                   

こうして、江戸城天守閣の再建は見送られ 

その費用で再建された江戸の町は、今日の東 

京の原型となったのでございます。     




この後、保科正之の犬将軍を使った手はす 

べて裏目に出ました。幕府による諸大名から 

の人質の禁止、亡き主君を追って死ぬ殉死は 

廃止され、末期養子も認められ…幕府に取っ 

ては都合の悪い政策ばかりが、例の紙選びに 

よって決められました。ところが、この政策 

が諸公に評判が良く、進んで幕府にも協力す 

る大名が増え、四代将軍のご威光は増すばか 

り、江戸時代でも一番平和な時代が続いたの 

でございます。              

不審に思っていた正之や幕臣たちも、あの 

江戸の町再建の選択以来、         

「万珍丸さまは、本当に名君なのではない  

か」と思いはじめ、中には本気で尊敬しはじ 

めた者も増えてまいりました。       

一体、犬将軍は、本当に天下万民の事を考 

えていたのでしょうか? …実はこの時、万 

珍丸はハチミツの染みた紙ばかり噛ませられ 

たので、虫歯になっていて、野性の本能が自 

然と甘いものを避けさせたことを、正之は知 

っていようはずもございませんでした。   

しかし、よい時代というのは、長くは続か 

ないのが世の常でございます。       

…ある日のこと             

「何?? 先代のご落胤が見つかった?」  

「は、三代家光公のお名の入った書きつけと、

短刀を持参しております」         

「で、?おかしな坊主とか、ついて来てない 

か?」                  

「いえ、山野内イガの介もおりません」   

「大岡越前は何と申しておる?」      

「まだ生まれておりません」        

「そうか…」               

幕臣一同は、再び万珍丸の方を見やりまし 

た。                   

「ハッハッハッ」             

「……やっぱ、犬だもんな」        

「犬じゃなあ…」             

一同はうなづきました。         

結局、その現れたご落胤が五代将軍を継ぐ 

ことになりましたが、これがまあ、暗君もい 

いところで、将軍になった途端に、贅沢はす 

る、年貢は上げる、勝手な法律は作る…その 

ために、人心は荒れ果て、物価は高騰し、各 

地で一揆が起こり、天変地異が続き、八百屋 

お七は江戸に火を放つ…………。      

人々は犬殿様の治世を懐かしみましたが、 

後の祭でございました。          

やがて寛文12年、失脚し失意のうちに保 



科正之は「政り事は、人の手には余るものか 

な」とつぶやきながら、息を引き取りました。

その日、出来たばかりの両国橋の雑踏を、 

元気よく下総の国へ走ってゆく一匹の犬がご 

ざいました。道行く人々は、それがかつて千 

代田の城で過ごしたポメラニアンであったこ 

とは知る由もなく、その後の行方は杳として 

知れなかったそうでございます。      

これが「徳川実紀」から完全に削除された 

『四代将軍・万珍丸』のお話でございました。








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