『伊勢屋多吉』

時は寛政の中ごろ、八百八町とうたわれま

した大江戸の片隅でのお話でございます。 

天下を治める公方さまのお城を南にながめ

ます界隈、水戸さま加賀さまのお屋敷から少

し下ったあたり、大名屋敷をはずれて大店の

多くなりました本郷一丁目の油問屋に伊勢屋

というのがございました。主人は久兵衛とい

う一徹もので、一代で財を成しましたがつれ

あいを早くになくし、今は娘のおみつの嫁入

りだけを楽しみに過ごしております。   

するとこの店の手代に多吉という男がござ

いました。歳は四十に近いがまだ一人者。い

まだに丁稚の一つ上の手代などをやっており

ますのは、普通商家というのは子供の頃から

丁稚奉公で勤めますが、多吉は八年ほど前に

居酒屋で久兵衛と知り合い、人柄をみこまれ

店に拾われて下働きから始めた変わり種だっ

たからでございます。          

ある一日のこと、多吉が店先で算盤をはじ

いて番頭の手伝いをいたしておりますと、す

こし足りない丁稚の金助がやってまいりまし

て、                  

「多吉っつあん、吉っつあん」      

「なんだ、金坊。こら、お前、二人の時はい

いがお店では、ちゃんと手代さんとか多吉さ

んと言えって教えたろう」        

「あ、ごめんね、多吉、さん。奥でだんださ

んが呼んでるよう」           

「たく、何べん言っても覚えねえやろうだな。

おメエももう五つや六つの子供じゃねえんだ。

『奥で旦那さまがお呼びでございます』と何

故言えないんだ」            

「だって、えーと。えー。奥でだんだんだ、

だんだんがおよびでゴザ引いてます」   

「ああ、分かった分かった…。じゃ、番頭さ

ん、ちょっと…」            

席を立ちますと奥へやってまいります。八

年の間、マジメ一方で勤めて参りました多吉

。あまり口数の多い方ではございませんが、

なぜか丁稚の金助とだけは、親しく口を聞い

て兄弟のようになっておりました。    

「へい、旦那さま。お呼びでございますか。

多吉でございます」           

「ああ、入んなさい」と声がいたしましたの

で、丁寧に障子を開けて中へ入りますと、普

段は温和で知られた久兵衛旦那、なんだか梅

干しのタネでも咬んで割ったような妙な顔つ

きで煙管をくゆらせております。     

「何の御用でございましょう」      

「ああ、ご苦労さん。(ポンポン)どうだい

、店の方は」              

「へい、あっしゃ番頭さんに言われた通りし

ているだけで」             

「嘘を言いなさい。今じゃ番頭の六蔵よりも

商いを知ってるってえ噂だ」       

「そんなことは…。で、御用は」     

「いやね。お前さんがあんまり働きがいいっ

てんで、番頭さんがね、お前の上じゃあ働け

ない、店を辞めたいと、こう言いだしたんだ

」                   

「ええ? そんな、こりゃあ、アッシが何か

出過ぎたまねを…。あの、番頭さんにはあっ

しからお詫び申し上げますんで、何でも、あ

の」                  

「はは、嘘だよ。六蔵さんにはね、暖簾分け

をしてやって、田町の方に店を構えさせてや

るんだよ。まあしばらくは様子見だが、何し

ろ金融ビッグバンとか2,000年問題でし

ばらく大変だからね…。そこでだな。お前さ

んにその後を引き継いでもらいたいんだ。さ

、確かにお前さんはまだ年期も十分じゃない

。だが、うちへ来てから八年というもの、盆

暮れや藪入りの休みも取らず、商いのことを

覚え店の事を覚え、口数こそ少ないが丁稚連

中にも信が厚い。だからまあ、見習いの番頭

という形で店のことを見てもらおうと思うん

だがね…」               

「旦那。おからかいになっちゃ困りますんで

。知っての通りあっしゃ八年前、旦那に拾わ

れてこちらへ来た、どこの馬の骨とも知れね

え無宿者ですぜ。こうして店に置いていただ

いてるだけでありがたくって…。そのご恩に

報いようとしてきただけで、とてもそんな」

「いやだから、その義理堅いところを見込ん

でるんじゃないか。何にせよ他に適当なもの

がいないんだ。明日からいや今日からでも引

き継ぎに入ってください。頼みましたよ」 

「へえ…。じゃ本当に。…分かりやした。こ

の多吉、命に換えてもお店(たな)の為に働

かせていただきますんで」        

じゃあよろしくと、久兵衛に念を押されて

出て参りますと、さっきの金助が立ち聞きを

しておりました。            

「へへ、多吉っあん。いい話だったかい? 

きっと多吉っあんは働きがいいんで、何かご

褒美がもらえるってんだろ。もらったらあた

いにもおくれよね」           

「ああ、いい話だったよ。だけど、お前みた

いに障子に隠れて立ち聞きしているようなヤ

ツにはやらねえよ」           

「へへ、きっと、いよいよあれだ。おみつお

嬢様と祝言上げようってんだな」     

「こら、何を言いやがる」        

「だって、多吉っあんは、おみつお嬢様とい

い仲なんだろ。こないだもお蔵の裏でふたり

でくっついたり離れたりしてたの見たぞ」 

「この野郎、またてめえ、仕事怠けて蔵ん中

で昼寝してやがったな。おメエは目を離すと

すぐそれだ。今だってこんなところで油売っ

ててどうするんだ」           

「だって、多吉っあん。うちのお店油問屋だ

ろ、油問屋が油売って何が悪いんだい」  

「このやろ、理屈だけは一人前だな。いいか

ら表の掃除でもしてろ、今度蔵の中で昼寝し

てんのみつけたら承知しねえぞ」     

いつものように金助を叱りつけて追い払っ

た多吉でしたが、口の端が勝手に上へ引っ張

られてどうにもしまりがありません。八年前

、久兵衛に拾われてこの店に来ましてから、

まるで何かに取りつかれたように働いてまい

りました。その心の支えには、本郷小町、今

弁天とうたわれました跡取り娘のおみつでご

ざいました。もちろん、身分違いの思いと諦

めておりましが、おみつがの方がいつまでた

っても嫁に行かないものですか、もしや、と

思って近づいて行ったところが、案の定、ま

あ、なるようになってしまったということで

ございます。              

その夜のこと、店じまいをいたしまして寝

るまでの間、いつもなら帳場でなにかと後始

末をしている多吉が、珍しく夜の街に出かけ

ようとしておりまして木戸をくぐりました。

ところへやってまいりましたのが、店の跡

取り娘のおみつ。夜がそこだけ明るくなった

ような上機嫌でございます。       

「多吉さん、お父さんから聞きました。番頭

さんになるんですってね」        

「こりゃ、お嬢様。いけませんよ、店のもの

にでも見られたら…」          

「あら、いいじゃない、お父っあんに認めら

れて番頭になるんだもの。ゆくゆくはこの店

の跡取りになるんじゃない」       

「まだ決まったことじゃありませんよ。旦那

さまも番頭の見習いからっておっしゃってま

すし」                 

「あら、じゃ、あたしと祝言あげるのがイヤ

だっていうの。そうなの」        

「そんなわけないでしょ。ものには順番ても

のがありますんで」           

「そんなこと言ってて羽賀健二みたいになっ

たらどうすんのよ。まさか何億も借金がある

んじゃないでしょうね」         

「そんな。アンナ。いや、なんでもありませ

ん…。とにしかく、しかるべき時が参りまし

たらあっしからお話いたしますから、それま

では…」                

「ほんとにほんとよ。じゃいってらっしゃい

」 と、落ちついたことを言ってはみたもの

の、この八年というもの日の登る前から人の

寝静まるまで、働きづめでございました多吉

にとっては、降って湧いた夢のような話でご

ざいました。加賀さまのお屋敷前からの坂を

下ってまいりますと、本郷も、かねやすまで

は江戸のうち、店からほど近いあたりに馴染

みの酒屋がございましたのが、仕事熱心のあ

まり長らく足が向いておりませんでした。虫

が飛び込むのを防ぐという、昔風の縄暖簾を

あげて中へ入りますと、店の中は一日の仕事

を終えました連中が、町人といわず武士とい

わず、わさわさと思い思いの憂さを晴らして

おります。               

「いらっしゃい、あら、伊勢屋の多吉さん、

お珍しい」               

「おう、ひさしぶりだな。熱くて白いのと冷

たくて白いのをくんな」         

「はいはい、癇とやっこね」       

普段は飲みになんぞこないで帳簿の見直し

なんぞをやっておりますので、馴染みの顔も

ございません。それでも今日の旦那の話をと

おみつとの行く末を思いまして、一人でチビ

チビと杯をあけていい心持ちになってまいり

ましたころ。同じく一人きりで奥の席で呑ん

でおりました巻羽織の同心と見える侍が、自

分の銚子を持ち上げたかと思いますと、まる

で頃合いを見計らったように多吉の隣に座り

ました。年頃五十そこそこといったところで

しょうか、目つきがどうにも良くございませ

ん。                  

「ちょっと失礼。ご相席願おうかな」   

「? はて、どなたでございます」    

「まあ、一杯やってくれ」        

「こりゃどうも…。前にお会いしたことがご

ざいましたっけ?」           

「いや…恐らく顔を合わすのは始めてだろう

。拙者、幕府御先手組、長谷川さま配下の有

馬千之助と申す」            

「御先手組…長谷川…ってえと? ひょっと

してそりゃ、いわゆる火付け盗賊改め?」 

「どうもその名前は人聞きが悪くてな。この

あいだ飯田橋で呑んだ折り名乗ったら店から

追い出されてしまった。それにしても、よく

知っておるな。御先手組が火盗改めであるこ

となど」                

今日は鬼平は出てまいりませんが、とにか

く江戸では鬼のように恐れられておりました

将軍直属の特別機動捜査隊、「火付け盗賊改

め」。その一人に隣に座られたのでは、少々

の酔いなんぞは普通の者でもイッペンに冷め

てしまいますが、どうみてもスネに傷のあり

そうなこの多吉、青くなってもおかしくない

はずなのですが、なにしろ何年かぶりに呑ん

だ酒でございます。五臓六腑に染み渡りまし

て、歯止めが効きません。        

「ン…。いや、こないだ人から聞いたんで…

」「ほう、誰から聞いたんだ? さ、もう一

杯」「ン…。いやいや、あっしゃ、あまり」

「まあまあ、よいでばないか。酒は久しぶり

なんだろう。伊勢屋多吉」        

「? 何で、何であっしの名前を」    

「教えて欲しかったら、ぐっといけ、ぐっと

」「よし…。呑んだら、教えろよ。グッ。さ

、教えろ」               

「さっき店の者名前を呼んでおった」   

「なんでえ、いいんですかい。お侍がペテン

にかけちゃ…」             

「だがな、俺は伊勢屋の多吉という男を捜し

ておったのだ。もしや会えないかとこの店に

も度々来ておったのだ。いや、今日は運がい

い」                  

「ンだ? なんであっしのことを…」   

「よし、ではもう一杯…よしよし。その前に

な、お前、いつから江戸におる?」    

「いつから…って。もう二十…いや、は、八

年前からだ」              

「そうか…。では、その頃の、天明の打ち壊

し騒ぎを覚えておるな」         

「ん…や、その後だったかなあ」     

「なんだ、年が合わぬぞ。まあよい。その頃

、騒ぎに乗じて荒らし回った『天狗党』とい

う盗賊の一味がおったのも知らぬか?」  

天狗党、と聞いて杯を持った多吉の手がピ

タッととまりました。が、そこで置いてはよ

けいに怪しまれると思い、つづけて開けまし

た。                  

「しらねえなあ。やっぱり、おれが来る前の

こったなあ…。お、俺はよ。甲斐の方の出で

よ。食いっぱぐれて出てきて、な、なんだっ

たら店の方に人別帳の写しだってあるんだ。

取ってまいりましょうか」        

「いや、いいんだ。このご時世だ、そんなも

のは金さえ積めばいくらでも手に入る。俺が

言いたいのはな。その『天狗党』、専ら『急

ぎ働き』の勤めをする一味で、手当たり次第

に蔵や金蔵が開けられてた。南蛮錠のついた

ところまでな。普通そういうのは型師が型あ

取って、鍵師につくらすから何日もかかるも

んだが、よほど腕のいいのが着いておったん

だなあ。盗まれた店の話じゃ、見る間に鍵を

開けていたそうだ。そのせいで天狗党の一味

は一人も捕まらなかった」。       

夜も更けてまいりました店の中はどなり声

を上げるものや、流行りの戯れ歌を歌うもの

、仲間同士が言い合いを始めるものまでいて

喧しいことこの上ないのですが、多吉には、

この目の前の同心・有馬の声しか聞こえてい

ないようでした。            

「へーっ。そうなんですか。知らなかったな

あ」                  

「まあ、いいさ。とにかく、一味は『世直し

』と称して勤めを続け、泥棒三ケ条を守る本

格の義賊を気取ってやがったがな…。ある時

を境に、ただの押し込みになった、人もあや

めるようになった。で、俺はな、その、腕の

いい鍵師が抜けたせいじゃないか、と踏んで

るんだよ」               

「そんな話、なんで、あたしなんかに」  

「いやあ、一味はその後、チリジリバラバラ

になったようなんだが、最近、またまとまっ

たって話が耳に入ってな。俺はその当時から

、抜けたはずの鍵師を捜してる…八年も捜し

ているのに捕まらなねえな、と、こう愚痴が

いいたかったのさ。おう、勘定だ」    

有馬千之助、多吉の分まで払ってやりながら

。「明日からは、店の方にも顔出すかも知れ

ぬぞ」                 

言い捨てるように縄暖簾をくぐって出てい

く有馬千之助。後に残された多吉は、しばら

く暖簾の揺れるのを眺めておりましたが考え

ておりましたが、思い切って席を立ちますと

外へと走り出て参ります。        

江戸の夜のだだっ広い空に冷たく冴えた満

月の下、先を行く有馬千之助の後ろから。 

「おい、あんた。何だい。何だって俺をつけ

まわすんだ」と有馬は目線を外したまま、 

「いやあ、清水門の役宅で使ってる油が悪く

てな、他に卸の店を捜しおるのだ」    

「うそつけ」              

「うそ? おいおい、拙者は嘘なんか…」 

「お前は、何も知らないンだ。天狗党が何だ

ったか、何をしたかったのか」      

有馬千之助、すぐには答えず、まるで初め

て見るようにしげしけと月をを眺めて腕組み

をして、ゆっくりと多吉の方を向き直り、 

「ほう? 天狗党は何をしたかったんだ」 

「天明の飢饉この方、世の中が苦しいのはみ

んな同じだ。だのに今の老中はなんだ。侍が

困ったからって、侍の借金を棒引きにするお

触れを出しやがった。そりゃ侍はよかったろ

う。だけど、棒引きにされた商人はどうなる

。困るか? 困りゃしないさ。その分、売値

を上げて稼ぐだけだ。だから結局いつも、一

番下のものがしわ寄せを食うんだ。だから、

天狗党は、その商人どもから取り返しやった

んだ。ビタ一文、自分たちのためには使わね

え。みんな長屋の連中や物乞いに分けてやっ

たんだ。だけど、そのうち、いくらやっても

世の中は変わらねえ、そう思うようになった

んだ。そのうち、貧しいものに分けてやるの

も、馬鹿馬鹿しくなっちまって、ただの盗人

になっちまった」            

「それで…仲間を抜けたってワケか。そうそ

う。その一味の鍵師な、『からくりの多助』

という名前のはずだで、お前さんが多吉か…

」                   

多吉、やっとのことで我に返りますと、有

馬から目線をそらし、          

「…てなことを、考えてたんじゃないですか

ね、天狗党の連中は。どう思います? お役

人さま」                

「…さあな。だがな、だからって誰も彼もが

盗みを働いたら世の中はどうなる。それこそ

悪党の天下だ。それにな、あの時、天狗党を

何度もとり逃がし続けた責任を負って、俺の

親父が切腹した、ということだけは言ってお

こうか。では、またな」         

どこからともなく、犬の遠鳴きが響いてま

いります。明かりのない道を、湯島の方に有

馬の黒い羽織が溶けていったのでございます

。                   

次の日から、手代の多吉は番頭としての仕

事に追われることになりました。伊勢屋はそ

れほど大店というわけではございませんが、

いくつもの大名屋敷と商いがあって、商売も

上々、店先にも活気があふれております。 

「おい、裏手のタルは近江屋さんが引き取り

に来るから誰か運んどいておくれ。あと、加

賀さまのとこの掛け売り分、取りに行ってる

のか。え、六蔵さんが行ってる。おい、金助

、金助、しょうがないね、またどっかで怠け

てやがるな」              

「おいらなまけてないよ、ちゃんとここに。

いるよ」                

「何やってんだ。ほらほら、箒は丸く掃いち

ゃいけない…ていうか、お前、同じところを

グルグル回っているだけじゃないか」   

大騒ぎになっなおりますトコロ、表の暖簾

越しに見えましたのは、昨日の有馬千之助の

姿です。                

「金助、お前は…しょうがねえな。帳場の机

でも綺麗に磨いていな」         

「あーい」               

暖簾をくぐって出て参りました多吉、精一

杯の営業スマイルを作りまして、     

「ええ、昨夜はどうも。有馬さま…確か、清

水役宅の油がよろしくないそうで…」   

「ほう、さすがに良く覚えているな」   

「はい、手前も今日から番頭見習いというこ

とですんで」              

「そりゃあけっこうだ。いやな。昨日の別れ

際の話が面白かったんで、続きでも聞こうか

と思ってな」              

「はあ…あいすいません。あの時は随分と回

っておりましたので…。何を言ったものか、

とんと覚えておりませんので…」     

「ご老中がどうとか言ってたな。ありゃ立派

てお上へのご諫言申し上げってやつだ」  

「いや、まさかご老中・松平定信様も、酒の

席の軽口までお責めになるとは思われません

が」                  

「ふん。知っての通り、俺は盗賊改めでな。

それで、盗人にも一部の理とやら、それを知

っておこうと思ってな」         

「いや、手前は盗人ではありませんので」 

二人睨みあっておりますところへ、飛び出

してきた金助、             

「多吉っつあん…じゃない、番頭さん。机、

綺麗に磨いたよう」           

「あ、ああ、じゃ、今度は裏だ、蔵の前でも

掃除してきな」             

「あーい」               

再び有馬に向き直りまして、多吉    

「今のは、うちの丁稚で金助ってんですがね

」「ふん」               

「ありゃ、天下に身寄りの一人もねえ、あっ

しと同じ身の上で妙に気があっちまってるん

ですがね。どっかのボテ振りの小伜だったら

しんで。可哀相にこのご時世で一家心中した

らしんですよ。一人死にそこなって、長屋の

持ち主だったここの旦那さまに引き取られて

…いつまでたっても智恵がつかねえのも、そ

の時のせいじゃないかって言われてましてね

。結局、盗人が盗んだ銭配っても、後が続か

なきゃどうにもならない。それよりは、立派

な商人が、大勢を養っていく方が本道じゃな

いか。そう思ったら、盗人なんかやってられ

ない…そうは思いませんか?」      

「それで商人になったか」        

「だから、あっしの話ではございませんので

」 そこへ、娘おみつをともないました、主

の久兵衛が出て参りました。       

「じゃ、行ってくるからね。おや、多吉、じ

ゃない、これから日本橋へね、おみつの晴れ

着を買いに行ってきます。なんだか昨日から

機嫌が良くてね、急に娘らしい着物が欲しい

なんて言いだしてね…」         

「だって、もう長くは着られないかも知れな

いし、ね、多吉さん」          

「は、はあ…」             

久兵衛は、有馬に気がつきまして、   

「これはこれは、お客さまでしたか。手前は

これからでかけますが、この男に任せておけ

ば大丈夫でございますんで…。じゃ、多吉あ

とは頼んだよ。六蔵さんも出かけてるからね

。あと、今日は出し入れがないから蔵も閉め

といたからね。帳簿だけ念入りにね」   

「へい、いってらっしゃいませ」     

おみつの目配せを残して。二人は出かけて

行きました。              

「なるほど、信用されておるというわけか。

では、またな…」            

「油のお入り用は…」          

「いらん。見せかけの改心した盗人なんぞに

油を売られてはいつ火がつくかわからんから

な。確かに『天狗党』は、鍵師のいるあいだ

は一人もあやめることはなかった。だが、罪

を犯したものがのうのうと暮らせると思うな

」                   

やがて昼を過ぎまして、店の方も一息つき

ましたころ、多吉の方はいっそう動きが慌た

だしくなって参りました。与えられた自分の

部屋の畳を剥がし、いつか、昔の稼業の時に

使っていた道具、装束、すべてを大きな浅黄

の風呂敷にまとめますと、どこか移すところ

を考え始めました。有馬千之助の並々ならぬ

疑いを知って、一刻の猶予もならないと思っ

て考えたのでしょう。一番いいのは焼き捨て

てしまうことですが、装束はともかく、さぐ

りと呼ばれる針金、騙し鍵、ヤスリなど、燃

え残る道具が沢山入っております。では土に

埋めるか…。いっそ海まで行って捨ててくる

か…思案をしておりました、八つ頃おい…。

「火事だーー」             

大声があがりました。         

見ると、南の方から煙がもくもくとわき出

ております。これが、やがて麹町から芝にい

たる江戸の町をあらかた消失させました、寛

政六年の、桜田火事でございます。    

多吉はその風呂敷包みを箪笥にしまいます

と、慌てて店先へと出でまいります。   

「あ、多吉さん、旦那も番頭さんもいないん

です、どうしたらいいでしょう」と、丁稚の

一人が答えました。           

「火の手はどのへんまで来てる」     

「いえ、まだ駿河台の向こうですけど、なに

しろ風が強くて、火の粉が飛んできてますん

で、いつ油に火か回りますか…」     

「よし、樽やなんぞはどうでもいい。とにか

く、奉公人をみんな、店の前へ集めろ、それ

から手をつないで広小路の方へ逃げるンだわ

かったな。あと、帳簿だ。金箱は溶けてなく

なるわけじゃない。大福帳をぜんぶ、年上の

新公と善公にまとめさせて運び出せ」   

さすがに元・天狗党の鍵師・からくり多助

、この上ない確かて指図でございます。丁稚

などには教えられない大事な帳簿や覚え書き

などを、店中かかってかき集め、店の外に集

まっている奉公人の前に出た時には、金色の

火の粉がチラチラとりはじめておりました。

ご近所のどの店もみな、集まって逃げ出すと

ころでございます。           

「じゃ、新吉と善三、みなと手エつないで、

はぐれないように、西の方へ逃げてな…、火

よけの寺は分かってるだろうな…じゃあ」 

「多吉さん、多吉さん、あの、金助がいませ

ん」                  

「なんだって? 店の中よく見たのか。どっ

か使いに出てるんじゃないのか。ああ、分か

った、俺が捜しておくから、じゃ、新公、善

公、しっかりな。火が回らなかったら夕方に

は戻ってこい。アブナイようなら大円寺さん

まで移るんだ」             

そろそろ煙色のついた風吹いて参りますな

か、再び店に入りました多吉       

「金助、金坊、いねえのか。いたら返事しな

」 時折、長い黒い煙が頭の上を通りますと

一瞬真っ暗になります。         

ところへ、走り込んできましたのは、  

「からくり多助、神妙にしろ」    

「あ、有馬さま。今それどころじゃねえん

で」「黙れ、この火は火付けである。天狗党

が世直し称し、江戸城桜田門前の屋敷町に火

付けをして回たのとの調べである。それに乗

じて貴様も盗人に戻るのであろう」    

「だから、それどころじゃねえんで。金助が

いないんで」              

「何? あの、さっきの小僧か?」    

「へい、旦那もご一緒にお探しください」 

「いわれなくても、貴様から目を離すわけに

はいかぬわ」              

「金助〜、金坊〜」「どこだー、返事をせー

い」大声で捜し回りますうちに、裏の蔵の方

へ出て参ります。            

「おーい、金助〜」           

「…たきっつあーん」「何か聞こえるぞ」 

「…たきっつあーん」          

ハッと気づきました多吉。大きな油蔵の天

窓へ回りまして、声をかけます。     

「金坊、そこかー」           

「たきっつあーん、こわいよー」     

「馬鹿野郎、また、蔵の中で昼寝してやがっ

たな」                 

「たきっつあーん、煙いよーゴフゴフ」  

「金助、風上の窓を何かで塞ぐんだ、火の粉

が入って油に移ったら、アッという間だぞ」

「わかったよー」            

再び蔵の表へまいりますと、有馬が   

「いたか?」              

「はい、こん中に…。しまった鍵がねえ」 

南蛮錠と申しまして、一抱えもあるような

大きな錠が鉄の坊に通って蔵の扉を守ってお

ります。火かき坊で叩いたくらいでは、とて

も歯が立ちそうにありません。      

「多吉、鍵はいかかいたした、もう、火の

粉が降り注いでおるぞ」         

「鍵は…さっき、旦那さまが…」     

「何? では如何するのじゃ、もう火が湯島

の坂まで来ておるぞ」          

ガバ、と蔵の扉の隙間にとりつく多吉。 

「どうだ、金助、窓は塞いだか?」    

「ふさいだら、真っ暗だよー、こわいよー、

なんか苦しいよー」           

「待ってろ、待ってろよ金坊」      

血の出るほどにクチビルを噛みしめました

多吉、目を見開いて有馬の方を向き直り、 

「有馬さま、屋根に火の粉が取り着かねえよ

うに、水をかけていておくんなさい」   

「水、水はどこじゃ」          

「表の天水桶から組んでくるんですよ」  

「あいわかった、その方は、こら」    

逃げ出すのかと思っておりますと、多吉は

店の中へ飛び込んで行きましたので、有馬も

表から出れば分かるだろうと、天水桶の方へ

と参ります。              

なんども行ったりきたりしておりますうち

、多吉が店の中から飛び出してまいりまして

、その手には、あの、さっきまとめた浅黄の

包み。                 

「まってろよ、金坊、今、出してやるからな

」 ズラッと並べました鍵の手の道具。それ

を見た有馬は手の桶をその場に取り落とし…

「うー、多吉、そ、その方。やはり、天狗…

拙者の見込んだ通り…この道具が動かぬ証拠

」                   

「いいから、水をかけてろ」       

気迫に押されて水を汲みに走る有馬千之助

。 すっかり昔の顔に戻りました多吉。さぐ

りと言われる針金を入れますと、鍵穴の中の

仕組みを読み取り、形を読み取り、それに合

う合鍵を手持ちの中から捜す、合わない時は

、ヤスリで形を整えます。だんだんと当たり

が炎で熱くなってくる、ビッショリと汗をか

いた多吉は、一心に錠と戦う。      

「こう、こう、こりゃ、いけねえ螺旋錠だ」

螺旋錠とは、西洋から入ってきた堅固な鍵

、どんな名人でも半時はかかるといわれてい

る。多吉は『さぐり』を放り出すとこんどは

『蛇』と名付けた道具を取り出し、目を閉じ

て一心に鍵の中の掛け金を捜します。   

「おい、多吉、もう炎がそこまで来ておるぞ

」「黙って」              

再び水汲みに走る有馬。        

やがてコトリ、と音がいたしますと、蛇を

ゆっくり引っ張ります。ガリガリっと音がい

たしまして、バチン、と錠が開きました。 

「金助っ」中へ入りますと熱気でもうもうと

した中に金助がうつ伏せに倒れている。  

「さ、もう大丈夫だ」          

腕に抱えますと、表へ走り出す、蔵の扉か

ら火の粉が入ったかと思うと、中の油に火が

ついて、ゴーーーッ、ゴーーーッと風の音と

共にいっきに炎を吹き上げました。    

「有馬さま、参りましょう」       

「おお」と桶を投げ出して続きます。   

ドーン、という音とともに、当たりに一面に

火がまわり、多吉らが西側の広小路まで出た

時には、ガラガラと音を立てて町中が崩れ落

ちたのでございます。          

夕景になりまして大円寺には店のものがみ

な逃げ疲れて座り込んでおりました。   

「金助は?」              

「ああ、生きてるよ、すぐ気がつくだろう」

丁稚たちに金助を預けますと、一緒に逃げ

て参りました有馬の前に頭をうなだれて…。

「お手数おかけしました。何もかも、元の木

阿彌で。けど、あっしゃね。最後に金坊を救

えたことで、この道をきたこと、悔いるとこ

ろはございません。どうぞ、どうぞお縄を」

両の手を前に差し出して、目を閉じました

多吉顔を、妙な目つきで眺めました有馬千之

助。                  

「…誰だ、貴様は。拙者、今、火盗改めとし

て天狗党の一味を捜索しているところだ。貴

様なぞ相手にしておる暇はない」     

「旦那…」               

「…すっかり燃えらまったな。何、江戸の火

事なぞ珍しくもない。すぐに元通り、このあ

たりも賑わうだろう。では、御免」    

「旦那…」               

後見送って涙にくれる伊勢屋多吉。   

伊勢屋多吉の一席。          








「伊勢屋多吉」の感想をお聞かせください↓↓↓。


長いものをお読みいただき、ありがとうございました。

読んでみていかがでしたか?

おもしろかった まあ、ふつう いまいちだった


どんな新作講談を読んでみたいですか?(いつくでも)

事件もの 文芸もの how to もの 哲学もの 政治もの

●ご自由に意見をお送りください(辛口歓迎!!)






どうも、本当に、ありがとうございました。