「坂本竜馬〜岩崎弥太郎 燃える三菱」   
                     
 現在何かとウワサの三菱でございますが、 
あの有名なスリーダイヤのマークは、土佐の 
山内家の家紋の中に創業者岩崎弥太郎の三階 
菱の家紋を入れて作ったものだそうでござい 
ます。本日はその岩崎弥太郎と龍馬とのお話 
を申し上げることといたします。      
 江戸時代もほとんど終わりの頃。日本の、 
外国との窓口は長崎でございました。各藩の 
出張所が立ち並び、外国人も多く住み着き、 
商業の都となりました長崎の街。そこで頭角 
を表して参りましたのが坂本龍馬。薩長同盟 
を密かにまとめた後は妻のお龍と供に長崎に 
移り住み、本業である貿易の仕事で東奔西走、
その名は長崎中に知れ渡りました。やがて故 
郷土佐藩からも脱藩を許され、協力を求めら 
れることとなりました。ここに天下晴れて、 
日本最初の総合商社『海援隊』が成立したの 
でございます。              
 時は慶応三年四月十九日、ついに海援隊専 
属の蒸気船が船出をすることとなりました。 
今日をはじめとくり出す船は、稽古はじめの 
『いろは丸』。総トン数160トンのいろは 
丸の前には西洋の船員服をまとった海援隊員 
がずらーっと並びます。その前に立ちますの 
は、相変わらず黒紋付きに袴姿の海援隊隊長 
坂本龍馬。                
「ウホン、諸君、海援隊の諸君。今も〜きご 
える〜あのオフクロの声〜、コラ! 鉄矢!」
「隊長、まじめにお願いします」      
「おお、すまんすまん。ああ〜、諸君。いよ 
いよ、わしら『海援隊』として初めての航海 
に乗り出す運びとなった。このいろは丸はわ 
しら海援隊が自由に使える初めての持ち船じ 
ゃ。・・・ここに来るまではいろんなことが 
あった。海難事故で、馬関の戦で、何人も命 
をおとした。その多くの犠牲の上に今、わし 
らの船が手に入ったがじゃ。これからは日本 
の、いや、世界の海をまたにかけて、ジャン 
ジャンバリバリやるぜよー」        
 おおーっと。乗り組み一同意気が上がって 
おりますところへ、            
「隊長、隊長、大変です」と、やって参りま 
したのは、龍馬の片腕で、後に明治の外務大 
臣となります陸奥陽之助宗光。       
「なんじゃ、陸奥、人がせっかく盛りあがっ 
とる時に」                
「それが、我々の船出だと言うに土佐藩が費 
用を出さんというのです」         
「おいおい、出航はもうすぐぜよ。どうなっ 
とるんじゃ」               
「こいつが、このソロバン侍が」と、陸奥の 
後ろから引っ立てられるように龍馬の前に連 
れてこられましたズングリムックリ、目だけ 
がギラギラッっと光りました男、土佐藩の長 
崎出張所、土佐商会の主任会計係の、    
「なんじゃ、岩崎の弥太郎か。どがいしたん 
じゃ。わしゃ家老格の後藤象次郎から海援隊 
隊長の給料として三百両もらう約束になっち 
ょる。それが今回の渡航費用じゃ、はよ持っ 
てこんかい」               
「その事ですが、坂本先生」        
「その先生ちゅうはやめい。お互い土佐の郷 
士の出やないか」             
「いえ、私は郷士の下の地下浪人ですから。 
それに、薩長に同盟を結ばせ、今海援隊の隊 
長となられた坂本さんです。先生は当然です」
「ほうかのう? なんじゃ講釈師の先生みた 
いじゃのう」               
「とにかく、坂本先生。確かに隊長の給料と 
して三百両という約束は聞いております。し 
かし、海援隊の隊員たちが、隊の公務だなん 
だと前借りにつぐ前借りですでに予算が赤字 
になっております。それでその分は坂本先生 
の給料から引かしていただきました」    
「なにー。なら俺たちが、隊長の給料使いこ 
んだというのか」             
「その通りです。陸奥さん。あなたも随分と 
前借りがあります。ええと・・・二十一両三 
分二朱六十六文・・・。ああ、そっちの長岡 
さんは、二十二両、とんで八文・・・」   
「なんじゃと。天下のために走り回っとりゃ 
あその位の銭はかかるわい」と他の隊員たち 
がいきり立つ。              
「まあまあ、皆こらえちくれ。のう、弥太郎、
この船、わしらのいろは丸が処女航海を終え 
て大坂から戻ったらこじゃんと金が入るき、 
初の船出を祝おうて、こまいこといわんと三 
百両出してくれんかねや」         
「そうですか。では、一日一分の利息をつけ 
て返済してください。あと借用書を」    
「こら! いちいちケチつけやがって。わし 
ら海援隊は天下国家のために働いとるがやぞ。
会計係風情がこんまいこというな! このソ 
ロバン侍!」               
「みなさん、あらためて言っておきます。土 
佐藩がみなさんに仕事をお願いしたのは、あ 
くまでも利益をあげてもらうためです。ふた 
言めには天下国家のためと言われるが、そん 
なことは私の仕事とは関係ありません。どう 
しても費用が必要なら、何か担保でも置いて 
いってもらわなければ、五十両は貸せません。
ゆすりたかりみたいな物言いは控えてくださ 
い」                   
「なに! もういっぺん言うてみい!」   
「まあ待て・・・。岩崎、今、よう聞こえん 
かったが、わしらのことをゆすり、ゆうたが 
か? あ?」               
「ちと言い過ぎました」          
「わしら海援隊はゆすりたかりか! ほなゆ 
すっちゃろ。のうー弥太郎ー」       
「な、な、な、何をするんです、坂本先生」 
「ううーん、いけずー。担保はこのわしじゃ 
ー、この坂本龍馬、払えん時にはわしの血で 
も肉一貫目でも何でも持っていきゃいいき」 
「そ、そんな、べ、ベニスの商人みたいなこ 
と言われても、困ります」         
「おおーん、さすが昌平校の安積艮斎門下の 
大秀才、シェイクスピアも読んどるがか。学 
問があるちゃー。のうー、弥太郎ー」    
「わわ、わかった、わかりました。わかった 
から、やめてください」          
「すまんち。恩にきる」          
「あたた・・ムチウチになる・・・ではこの 
借用書に一筆願います」          
「おお、なんぼでも書いてやるぜよ、いかに 
しても返し候、坂本龍、と」        
 弥太郎持ってきた銭箱の中から小判の包み 
を取り出して手渡す。           
「弥太郎よ。金の勘定が達者なのもいいが、 
夢がないと人生つまらんぜよ。さあ、皆、費 
用も下りた。いよいよ新しい船出にレッツ・ 
ゴーぜよ」                
 こうして、いろは丸は海援隊初の商業航海 
に、意気揚々と長崎の港を船出いたしました。
 ところでこの岩崎弥太郎、若い頃江戸にも 
留学したほどの学問好きでしたが、龍馬と同 
じく土佐藩の低い身分の生まれのため、本来 
は土佐の国許で下っぱの役人で終るところ、 
家老の吉田東洋、そして参政の後藤象次郎に 
引き立てられ、長崎の土佐商会の主任、いわ 
ば支店長格に大抜擢されました。しかし、当 
時すでに莫大な赤字をかかえていた土佐商会 
の主任といえば聞こえはいいが貧乏クジ。し 
かも商会の中でも弥太郎の身分が低いため部 
下も言うことも聞かない、一方下請け会社と 
もいえる海援隊の荒くれどもからはソロバン 
侍とののしられ、さんざんな毎日からすっか 
り頑になっおりました。          
 さて、意気揚々と大坂へ海援隊としての処 
女航海に出たいろは丸、ところが、船出をし 
て四日めのこと、馬関の関を後にして、瀬戸 
の内海はや越えて、讃岐国、箱ノ岬にさしか 
かった真夜中、甲板に出た龍馬、夜の霧が深 
くこもっております。           
「おお、陸奥、夜中まで見張りご苦労じゃ、 
今夜はええ霧やの。夜霧よ今夜もありがとう」 
「隊長、絶好調ですね」          
「ほらほうじゃ。黒船を見てから14年、人 
生の半分使うてやっと自分の黒船を持てたが 
じゃ。これが喜ばずにいられるか」     
「実はちょっと気になることがありまして。 
海に詳しいものが、様子がおかしいというの 
です」                  
「嵐でも来るか、嵐を呼ぶ男?」      
「いえ、それが・・・潮の流れが妙だという 
のです・・・あ? 隊長、あれは何でしょう、
デカイです、近づいてきます、アーッ」   
 その瞬間、ドカーンと船が地震のように揺 
れ二人はつんのめりました。それもそのはず、
濃い霧の中から突然あらわれた大きな船が、 
いろは丸の右脇腹に突っ込んできたからでご 
ざいます。とたんに大きな穴が空き、水が入 
り始めました。              
「総員退避ー、ぶつかった船へ飛び移るがじ 
ゃー」と、ピューッと縄をかけますとぶつか 
ってきた大きな船に乗り移る。       
 大船の名は名光丸、徳川御三家・紀州藩の 
持ち船で、いろは丸のなんと六倍という大き 
さでした。龍馬のとっさの判断で海援隊乗組 
員総員三十四名は避難が間に合い一人の犠牲 
者も出ませんでしたが、あわれいろは丸、龍 
馬の長年のあこがれの「自分の黒船」が沈ん 
でいく・・・。              
「隊長、船が、わしらのいろは丸が」    
「ちゃちゃくちゃじゃ」          
 いろは丸は龍馬たちの目の前でその姿を波 
間に消したのでございます。        
 さて、当然追突事故ということで賠償の交 
渉が始まりました。しかしなにしろ相手は徳 
川御三家、紀州五十五万石の御用舟、こちら 
は土佐藩の徴用とはいえ、浪人集団海援隊の 
船、交渉は難航を極めます。        
 瀬戸内の鞆の港に留まって交渉を続けてお 
りましたが埒が開かず、結局、交渉は紀州明 
光丸の目的地、長崎までもつれ込むこととな 
りました。                
 この時、龍馬は長州の三吉慎三にほとんど 
遺書とも言えるような手紙を書いております。
「「此度一筆仕り候はご存じのことに候、我 
これより紀州藩と一戦まじえ、刺客に狙われ 
る身となるべく候。万一の事ある時は、愚妻 
儀本国に送り返し申すべく候。本国に至るま 
で愚妻の事、よろしく申し託すべく候。五月 
八日 拝稽首 龍馬            
三吉慎三 さま」」            
「ちょっと」               
「なんじゃ、おりょう」          
「この<愚妻>っていうのはうちの事どすか」 
 お龍は薩長同盟の後、龍馬と長崎へきて夫 
婦となっております。           
「こりゃ、人の書いとる手紙をのぞくな」  
「愚妻って、おろかな妻、ちゅうことですや 
ろ」                   
「こりゃ慣用句じゃ。自分を拙者、つたない 
もの、ちゅうのと同じじゃ」        
「せっかくやったら、<愛する妻>とか、< 
美しい妻>とか気の効いたことかけんのどす 
か」                   
「人にもの頼む手紙にそんなのろけたような 
事書けるかや」              
「ほなうちが書きますえ。ほら、とても、気 
のきく、かしこい妻、月琴も上手、女子十二 
楽坊なみ・・」              
「ああ、好きに書いちょけ」        
「・・・・龍馬はん」           
「なんじゃ」               
「万一の事、なんか嫌どすえ」       
「万一ちゅうたら、万に一つちゅうことじゃ。
との九百九十九は大丈夫、ちゅうことじゃ」 
「あと・・・・今回抜かした、うちらの新婚 
旅行のエピソードも講談にしておくれどす  
え」                   
「わかった、わかった」          
 ・・・まあ、お龍については二十回にわた 
る龍馬本編が終ったあとに外伝を用意してお 
りますので・・・。            
 さて、いよいよ運命の日、紀州藩代表との 
交渉の日となりました。場所長崎銭座町の聖 
徳寺。時は慶応三年五月十五日。      
                     
 紀州側よりは明光丸艦長・高柳楠之助をは 
じめとする乗り組み九名、海援隊・いろは丸 
側からは隊長・坂本龍馬をはじめとする八名 
でございました。まず口を開いたのは紀州側。
艦長、タカヤナギクスノスケ。       
「さて、互いの航海日誌の記録を照らし合わ 
せたところ貴艦いろは丸の操縦間違い、不注 
意による衝突であったことはあきらかと思わ 
れる。わが紀州藩としては藩主より特別のご 
好意をもって見舞金一千両、また、貴艦の窮 
状を鑑み、一万両の貸与をくだし置かれるも 
のとする」とは明光丸艦長・高柳楠之助、い 
かにも親方日の丸、じゃなく、親方三つ葉葵 
というものいいでございます。       
「またれよ。わがいろは丸は船価三万両、積 
み荷数万両、それを沈めた見舞金が一千両と 
はなんですか。それに一万両を「貸してやっ 
てもよい」とは・・・」          
「されど、貴艦には船上に国際規約に基づき 
たるマストランプの灯火なく、非はそちらに 
あり。当方には賠償の責これなく・・・」  
「マストランプの無しとの証拠、いずれにあ 
りや」                  
「当方航海日誌によれば、衝突の際、貴艦船 
員に問いただせし所、いやろ丸にはもとより 
マストランプこれなく候との証言あり」   
・・・つまり、いろは丸にはランプがついて 
いなかった、衝突はすべてそっちが悪い、と 
いう証言でございます。          
「おい、ランプがついてなかったち、言うた 
船員は誰じゃ?」             
「・・・さあ・・・・」          
「その船員の名をお聞かせ願いたく」    
「当艦の士官・前田、岡崎の両名その証言を 
聞きしが、不覚にも貴艦船員の姓名を聞くを 
忘れたり、遺憾に存ず。私に悪いトコロがア 
リマスカー」               
「お前は橋本総理大臣か」         
 とにかく紀州藩はこちらは悪くないの一点 
ばり。相手が土佐藩でなく、どこの馬の骨と 
もしれぬ海援隊という烏合の衆と知ったので 
居丈高になって参ります。         
 結局一日目は平行線、一旦もの別れになっ 
て戻って参りました。ここは長崎は西浜町の 
海援隊本部。この時、陸奥陽之助が。    
「隊長、お願いがあります、隊を抜けさせて 
ください」                
「なんじゃ? 陸奥、不甲斐ないわしに愛想 
尽かしかや。もうちっとつきおうてくれんか 
ねや」                  
「違います。このまま押し切られればわが海 
援隊は数万両の損害です。壊滅です。そうな 
る前に、あの高柳楠之助を切って、自分も腹 
を切ります」               
「アホいうなや。高柳一人切ったところで何 
がどうなる訳でもないぜよ」        
「しかし・・・あの、紀州藩を背中に背負っ 
た居丈高な態度、許せんのです」      
「わしもです」              
「わしらも同じ気持ちです」        
「まああま・・・困ったねや。いずれ幕府を 
倒そうちゅうモンが、御三家ひとつにこない 
手を焼くとは情けない。それにしてもあいつ 
らあんなに交渉が上手とは思わなんだ」   
「なんでも、ウラには大坂の鴻池善右衛門が 
ついてるちゅうこってす」         
「どうします。このままじゃわしら・・・」 
 皆で切り込むという隊員をなだめ、一人残 
りました坂本龍馬。さすがに出口のない交渉 
に疲れはててしまいました。        
 そこへ訪ねて参りましたのが、土佐藩土佐 
商会の岩崎弥太郎。            
「おう・・・弥太郎か」          
「この度は大変な災難でしたね」      
「ああ・・・災難も災難じゃ。大災難じゃ。 
わしら海援隊のはじめての黒船、いろは丸、 
それがはじめての航海で沈んだ。いや、船だ 
けやない、あそこにゃ長崎で仕入れたばかり 
の最新式のミニエール銃が三百九十丁も積み 
込んであったがじゃ。一丁十五両として・・ 
・なんぼじゃ」              
「五千八百五十両です」          
「ああ、ほうか。とにかく、ちゃちゃくちゃ 
の損害じゃ。しかも紀州藩は自分らに責はな 
いという。こっちの不注意じゃ、こんまい船 
が避けるのが当然じゃちゅうて金払う気もな 
いんじゃ。もう、何もかんも嫌になってしも 
うた」                  
「しかし・・・坂本先生お得意の『万国公法』 
はどうしました。先生はかねてから、剣より 
も銃、銃よりも法律、と言われておられたで 
はないですか。万国公法に照らして交渉され 
たらいかがですか」            
「やったぜよ。けんど相手はそんなもん知ら 
んというし、第一万国公法には船の衝突のこ 
んまい決まりなんぞ書いとりゃせんのじゃ」 
「それは・・・困りましたね。長崎奉行所に 
訴えては」                
「ちゃちゃ。あかんあかん。力衰えたりとい 
えども相手は御三家。長崎の奉行所を抱き込 
むことくらい朝飯前じゃ」         
「そうですか・・・では、坂本先生のご人脈 
に頼られては。長州の桂どのか薩摩の西郷吉 
之助どのにご相談でも」          
「あかんあかん。皆自分のことで手いっぱい。
いよいよ幕府を倒すというならともかく、御 
三家を相手に争うとるヒマはないちゃ」   
「じゃあ、どうします」          
「・・・どうするもこうするも。もうどうと 
もなれじゃ」坂本龍馬というひとは今でこそ 
英雄として名を残しておりますが、上がった 
り沈んだりの激しい人でした。このときはた 
ぶん一番の底でございます。        
「あのな、おまんごと会計係にはわからんか 
も知れんがな。わしゃもともと黒船で海に乗 
り出すのが夢だったんじゃ。そのために海軍 
塾にも入った、戦があると面倒やき長州と薩 
摩の仲も取り持った。けど、いざ自分で船持 
っていよいよ海に乗り出そうちゅう時にこれ 
じゃ。天の神さん、よほどわしに意地悪しち 
ゅうじゃないがかな。わしゃ不運な男じゃ。 
こと船のことは次から次と裏目がでよる」  
「ほう・・・では、海援隊の隊長が、交渉を 
放棄すると、そういうことですか。坂本先生」 
「放棄するとは言うとらんが、どもならん」 
「ああ:まあ、この際そんなことはどっちで 
もいいことです。海援隊が紀州五十五万石に 
勝とうが負けようが。私は、こないだの三百 
両さえ返してもらえりゃそれでいいんです」 
「ほたえな。今この海援隊が何万両の損害を 
抱えとると思うんじゃ。たかが三百両・・・」 
「銭を計るものさしにたかがというのはあり 
ません。それでは、先日の借用書をタテに取 
らせてもらっていいですか?」       
「なんじゃ」               
「この借用書。坂本龍の、血でも肉でも担保 
にすると、ちゃんと裏書きもしてあります」 
「ああそうか。おまん、噂通りのソロバン侍 
じゃな。こんな時に証文が大事か・・・ああ 
そんなら、この坂本の、血ぃでも肉でも持っ 
ていったらええが。ほれ、どこなともってい 
きゃれ」                 
 龍馬ヤケになってしまいまして、腰のもの 
を抜くと弥太郎に押しつける        
「ほれ、おまんの腰のものは竹光じゃろう、 
わしのはよう切れるるぞほいほい」     
「坂本先生・・・ちょっと待って」     
「先生はやめちゅうに、ほれほれ」     
「ほな・・・坂本!」           
「な、なんじゃ、大きな声出して」     
「おまんがセンセはやめちゅうたろが。こら 
坂本! なんじゃ、おまん。それでも海援隊 
の隊長かい」               
「な、なんじゃと」            
「おい坂本。今なんちゅうた。<おまえの如 
き会計係にゃわからん>誰に向かって言うと 
んな。おまんら海援隊のムチャな要求に、書 
類作って稟議書作って、藩の上役にかけ会お 
て予算もって来てやっとるのはその会計係じ 
ゃ。それをいつもソロバン侍、ソロバン侍と 
バカにしくさって。だいたいお前らいつもそ 
うじゃ。何が天下国家じゃ。好きなように脱 
藩して、好きなように飛び回って、好きなよ 
うに会社作って、ちと事故が起こったららも 
う止めたか。そりゃちと無責任すぎやせんか。
たがが三百両の銭の返せんヤツらに天下国家 
が動かせるか。おまん、あのいろは丸が走る 
までにどんだけの犠牲があったか、いうとっ 
たやないか。大洲藩の国島六左衛門どのはお 
まんにそそのかされて、いろは丸買うた責任 
取って腹切った。それと、おまんがユニオン 
号の取引の時死なせた近藤長次郎、ワイルウ 
ェフ号で難破した池内蔵太、二人とも土佐で 
わしの開いた塾の生徒じゃ。知っとったか」 
「いや、知らんっかた」          
「二人とも、地に足のついた真面目なヤツじ 
ゃった。おまんの夢みたいな話に騙されて命 
を落としたんじゃ、おまんにはあいつらの分 
もやらなならん義務がある、夢を見せた分の 
責任がある。それをなんじゃ。血いでも肉で 
も持っていけ、情けない。情けない。それで 
も土佐んいごっそうか」          
「・・・・弥太郎・・・・」        
「わしはな。おまんのことを羨ましいと思っ 
ておったんじゃ。わしは学問はできたが剣術 
はできん。漢文と国学しか知らんき英語も話 
せん黒船も動かせん。家や親や土佐藩を捨て 
て飛び回る度胸もない。だいたい・・・おま 
んは郷士株を買ってサムライになった裕福な 
才谷屋の息子。わしは逆に郷士株を売って地 
下郎人に落ちた貧乏人の小伜じゃ。何がツイ 
とらんじゃ。おまんはわしにないもんを皆持 
っとるやないか。何もかも持っとるおまんが 
頑張ってくれんと、わしらもやる気になれん 
じゃないか。いつか自分も、いつか自分も、 
海に乗り出す、そんな夢が持てんやないか。 
ぜいたくいうな! このショータレコキ」  
「・・・わかった。弥太郎。わしが間違うて 
た。明日は紀州藩との最後の交渉じゃ、すま 
んがタノム、力かいてくれ」        
「わかりました。坂本先生」        
「ほな、まずは明日の交渉のための記録を洗 
い直してくれんか」            
「承知しました」             
                     
 二日目の交渉、聖徳寺の本堂に場所を移し 
ます。高柳楠之助はもう勝った気でおります 
ので、余裕シャクシャク          
「いかがであるか。貴艦としては見舞金一千 
両を受け取って交渉を終えるが最善の策と存 
ずるが」                 
 ほとんど交渉は終わりとして席を立とうと 
する紀州藩                
「お、お待ちくだされ」          
「何を待つのか? 交渉は終わりでござる」 
 龍馬の隣の隊員たちは、交渉決裂の際には 
刺し違える覚悟をしている。もう龍馬にも止 
められそうにありません。         
「まだか〜」               
と、そこへ飛び込んで参りましたのは、目を 
真っ赤にして手に書類を持っております岩崎 
弥太郎。                 
「? 誰じゃ。昨日は見なかった顔だが」  
「拙者、土佐藩・土佐商会会計主任、岩崎弥 
太郎と申すものにて候。聞き及ぶに昨日の交 
渉明光丸側は九名、こちらは八名、不公平な 
れば助っ人としてまかりこし候。されば、明 
光丸のお歴々。ご提出いただいた航海日誌に 
ござるが、お手許の写しを見られよ。まずい 
ろは丸より明光丸にうつりしもの四十有一人 
とござるが、こは三十四人の間違いならずや」 
 ざわざわと、明光丸側がざわめきます。  
「そのような些事を何故あげつらうや」   
「些事にはございませぬ。証拠能力の有無の 
確認にございます」            
「訂正いたす」              
「さらに、いろは丸進路をオーストンソイト 
すなわち東一点南、とありますがオーステン 
ノールトすなわち東一点北の間違いにあらず 
や」                   
 ふたたびざわめく。           
「・・・そ、それは間違いのようであるな、 
訂正いたす」               
「さらに・・・」と、弥太郎は、書類の不備、
矛盾点を数カ所に渡り指摘を続けました。  
「もうよい。そのような些事は事務方で話し 
合えばよい」               
「では、最後にひとつだけ。最初にいろは丸 
より明光丸に最初に乗り移りしは、以前紀州 
艦にも働いていた水夫・デン伝五郎、このも 
のの顔を知っていたことにより、乗艦許可を 
出したとある」              
「いかにも、わが方の当直士官が許可したも 
ようである」               
「確かでござるか」            
「確かじゃ」               
「ここには明光丸の士官は全員集まっておら 
れるな。それはそなたか? そなたか?」  
「いえ、拙者では・・・」明確な答えがない。
「ええいわしじゃ」とタカヤナギ。     
「確かにござるな。伝五郎が縄をつかんで上 
っていたのでござるな」          
「左様」                 
 この時弥太郎、ニッコリと笑い。     
「されば、伝五郎は前夜より足を痛めて病床 
にあり、綱を上れるはずなし。こは当方の陸 
奥陽之助が背中におぶって乗船せるものなり。
すなわち」                
「何だというのだ、そんな細かいことを」  
「当夜、最初に明光丸に乗り移った船員を誰 
も見ていないということは、即ち、明光丸の 
甲板には、当夜、当直の士官が一人もいなか 
ったということになりますな」       
「それは」竜馬がたちあがり        
「何と、夜中の航行に、当直士官を一人も置 
いていなかったと! それは万国公法に則っ 
ても、間違いなく違反でございますな」   
「それは」                
「さあ」                 
「さあ」                 
「さあ」                 
「さあ」                 
「さあさあさあ」             
「よって、この航海日誌は事実を記さず改竄 
されたものと認められます」        
「だまれ! 商人ばらめが」        
「商人ではござらぬ。拙者、土佐藩御留守居 
役、岩崎弥太郎。これな証拠を長崎町奉行、 
および仲裁役である、長崎来航中の英国海軍 
提督に提出してもよろしいな。さすれば、紀 
州藩の日本での、いや、世界での評判いかな 
ることになりまするかな」         
 高柳も絶句する。完全に形勢逆転でござい 
ます。                  
「よろしいか。商業が戦と異なるは規則でご 
ざる。商業とは恐ろしきもの、西洋の商人、 
グラバー、オールトの如きは敵味方を問わず 
武器弾薬を売り申す。ひとつ間違えばおのれ 
の国をも滅ぼしかねぬもの。それが商業でご 
ざる。さればこそ、規則を守ることが絶対に 
必要なことでござる。商売とは、公明正大な 
る天道のしたの戦でござる。輸送船の航海日 
誌はそのすべての国際商業の安全の基となる 
もの。それを改竄し、事実を隠すとは、武士 
の、商人の、いや、人間の風上にもおけぬ行 
為でございますぞ」            
「・・・なんだかお前にだけは言われたくな 
い気がする・・・」            
 とうとう、紀州側は非を認め、いろは丸に 
全面的な謝罪と賠償を行うこととなりました。
この時、ウワサでは紀州側の裏にいた鴻池善 
右衛門と岩崎の間に秘密の取引があったそう 
でございます。・・・この岩崎と鴻池の協力 
関係が、140年後のUFJすなわち鴻池三 
和銀行と三菱銀行の合併につながった・・・ 
かどうかは知りません。          
交渉が終りまして海援隊本部。       
「弥太郎、いや、岩崎どの。此度は誠に世話 
にあいなった」              
「いえ、こちらこそ。坂本先生のお役に立て 
て嬉しゅうござった」           
「ははは、固いのはヌキにしようちゃ」   
「そうですろう」             
「弥太郎、おまんの仕事の細かさにはほんに 
頭が下がる」               
「いやいや、坂本さんという引き舟あってこ 
その仕事にございます」          
「こんど京から帰ってきたら、わが海援隊の 
会計係、いや、支配人、いやいや、そうじゃ、
共同経営者になってもらいたい」      
「ほんなこつですか」           
「ああ、約束する。待っちょってくれ。二人 
して世界の海に乗り出そうやないか」    
「楽しみにしてます」           
 二人がっちりと手を組みました。     
                     
 慶応三年、六月九日、龍馬が後藤象次郎と 
ともに長崎を出航した日の弥太郎の日記には 
「「余および商会の一同、これを見送る。余、
覚えず流す、涙数行」」と漢文で書かれてお 
ります。                 
 その後も賠償金の支払いを渋り、たびたび 
の減額を要求してきた紀州藩でしたが、やっ 
と七万両の支払いに応じたのはその歳のもう 
十一月を過ぎた頃でした。         
 そして、ちょうどその日、岩崎弥太郎の元 
に、龍馬が京都近江屋二階で、中岡慎太郎と 
共に何ものかに暗殺をされたとの報せが入り 
ました。犯人はこの裁判を恨みに思った紀州 
藩士の反抗という説は今でも有力であります。
 岩崎は目の前に積まれた七万両の千両箱を 
前に、                  
「坂本さん、わしゃこれ、どうしたらええで 
すか」と立ち尽くしたと申します。     
 やがてこの七万両のうち四万両が土佐商会 
の預かりとなり、その運用資金をもって独立 
した岩崎弥太郎は、九十九商会、三川商会、 
そして「三菱商会」立ち上げ、アメリカの汽 
船会社に席巻されつつあった日本の海運業を 
によってはねつけ、戦とは違う形で日本の海 
を守り抜くことになったのでございます。  
 岩崎弥太郎と坂本龍馬、いろは丸事件の一 
席。