『マドレーヌ市長』Html


レ・ミゼラブル〜マドレーヌ市長       




私の最初の師匠であり、この方なくば講談の世 

界に入ることは考えられなかった二代目・神田山 

陽は、初代山陽、大島伯鶴、一龍斎貞山から多く 

の読み物を受け継ぎましたが、自らも多くの新作 

を残しております。              

かのビクトール・ユーゴー原作、黒岩涙香訳に 

よります「噫無情」ことレ・ミゼラブルの講談化 

もまた、後世に残る大きな仕事のひとつでござい 

ましょう。                  

現在のところまで、「ジャン・バルジャン」「フ

ァンティーン」「コゼット」と三部作になってお 

りますが、本日はその四作目。非才ながら私・神 

田陽司がその翻案を引き継ぎまして「マドレーヌ 

市長」におつきあいを願います。        

さて、このお話は、コゼット、の続きという訳 

ではなく、実際には第二作の「ファンティーン」 

から、第三作の「コゼット」の前に挟まるいわば、

第二・五話とでもいうべきエピソードでございま 

す。                     





お話は、パリから遠く離れた地方にあるモント 

リウルという街で始まります。このモントリウル 

にはろくな産業もなく、街はさびれ、人々は長い 

間不景気の貧しさに苦しんでおりました。しかし、

数年前から街には大きな工場ができて人が集まっ 

てきて、豊かになりました。そのあたりの事情は 

あとでお話するといたしまして。 人が多くなる 

と犯罪も増えますから、中央警察から新しい警察 

官が赴任して参ります。その中の一人にジャベー 

ルという警部がおりました。まだ赴任してから二 

年ほどでございますが、街の悪党どもでその名前 

を知らないものはございません。なぜならこのジ 

ャベール警部、いかなる小さな犯罪も見逃さない、

冷徹な法の万人で、ちょっとした盗みも不正もビ 

シビシと取り締まっていたからでございました。 

ま、それだけなら警察官としては立派な行いで 

ございますが、ジャベール警部の融通のきかない 

ことといったら、石部金吉金兜、なんぞという程 

度では済みません。いわゆる「お上にも情けはあ 

る」なんていうことがこれっぽっちもない。相手 

が子供だろうがなんであろうが容赦しない。とに 

かく法律を少しでも破るものはすべて極悪人とし 

てどんな哀願にも耳を貸さなず牢屋に入れようと 

した、ほどの冷血漢でございました。「法の番犬」

とでもいうような人間でございました。     

ある一日のことそのジャベールが通りにかかり 

ますと、大勢の人が馬車を取り囲んで騒いでおり 

ました。そしてその真ん中の馬車は、ぬかるみで 

滑って車輪がはずたのでしょうか、足を折って倒 

れた馬と一緒に横倒しになっておりました。   

ジャベール警部が近寄って人の輪の外にいた者 

に聞きました                 

「何があったんだ」              

「あ、こりゃ、ジャベールの旦那。どうもこうも、

馬車がすべったんで。で、のっていた馭者が馬車 

と地面の間に挟まったンでさあ。いま馬車を引き 

起こす道具を取りにやらせてるが、それまで下敷 

きの男が持つかどうか」            

ジャベールは職務に忠実に人の輪をかきわけて、

「私は警官だ、みな、そこをどきなさい」と輪の 

中に入ってゆきました。なるほど、ぬかるみに車 

輪をとられたのでしょう、馬車が横倒しになって、

運悪く泥の中に落ちた男が馬車と地面の間に挟ま 

れて、胸から上だけを出して          

「助けてくれ、だれか、助けてくれ」と呻いてお 

ります。                   

しかし、道路が悪くてひどいぬかるみですから 

近づくこともままなりません。         

「これは、テコや起重機がないととても助けられ 

ないな」とジャベールは冷静に判断しました。男 

を助けるにはぬかるみにはいって、馬車と地面の 

間を広げてやるしか方法はありません。しかし、 

それでは男と一緒に下敷きになる危険があります。

その間にも馬車はギシギシと音を建てながら馭者

にのしかかって参ります。           

「死んじまう、だれか、助けてくれ」と悲鳴をあ 

げますが、手を出すものはありません。     

すると、人ごみの中で、体格のいいものに次々 

に声をかけている者がありました。年頃五十かっ 

こうの立派な外套をはおった紳士です      

「おい、君、手をかしてくれないか。一緒に馬車 

を持ち上げよう」               

「冗談じゃない、馬車はどんどん沈んでるんだ、 

あんなとこに入ったら、一緒に潰れちまう」   

「手を貸してくれたら俺をしよ。50フラン、い 

や、100フランでどうだ」          

「いくらもらってもダメだよ、ありゃもう助から 

ないよ」                   

「では200フランだ、いや、300、ええい、 

400だ。どうだ、手をかしてくれ」      

400フランといえば何年か遊んで暮らせるほ 

どの大金ですが、それほどに危険だということを 

あらわすばかりで、誰も手を出す者はおりません。

ジャベールが近づいて顔を見ると、必死に手助 

けを求めている紳士は街の有力者のマドレーヌ氏 

でした。町一番の工場の社長ですから出す金額に 

ウソはないでしょう。             

マドレーヌ氏はジャベール警部を見つけると  

「ああ、あなた、確か警察の方ですな。どうか手 

を貸してください。もちろん、お礼も差し上げま 

す」                     

「マドレーヌさん。あの馭者はあなたのお知り合 

いですか?」                 

「いえ、顔も見たことはありませんが…」    

「ならお止しなさい。あの馭者を救い出すには泥 

に入って馬車の下から押し上げるしかありません。

つまり、一旦馬車の下に入るしかないのは見ての 

通りです。危険すぎます。命にかかわります」  

「しかし、このままでは」           

また馬車はギシギシと音を立てながら傾いてゆ 

きます。                   

「助けてくれ!」               

「わかりました。誰も手を出さないなら、私が行 

きます。警部さん、上着を預かっていてください」 

「およしなさい。下から馬車を持ち上げるほどの 

力持ちなんてめったにおりません。私だって、か 

つて一人見ただけです」            

外套を脱ぎながら、マドレーヌ氏は      

「ほう、どこで見たのですかな」        

「ツーロンの刑務所で…力持ちの囚人がおりまし 

てね」                    

「いまからその人を呼ぶわけにもいきませんしね」 

というが早いか、ドロの中へ膝までつかって馬 

車の下に入ってゆきました           

仰向けになって呻いている馭者の横にならぶと 

「しっかりしろ」               

「痛い痛い、胸が潰れそうだ、早くなんとかして 

くれ」                    

「ヨシッ!」                 

マドレーヌ氏は馬車の下で四つんばいになり、 

ドロの中についた両手に力をこめ背中で     

「ウッ」と馬車を押し始めた。これが人間の出せ 

る一番の力の入れかたでありましょう。     

ほんの少し、馬車の屋根がゆれたかと思うと馭 

者の上にのしかかった車体が浮き始めた     

「は、早く、早く出るんだ」          

「ダメなんだ、足が折れちまってるんだ」    

「誰か、誰か手を貸してくれ、早く、早く」   

見物人たちは、マドレーヌ氏の己を省みぬ行動 

に動かされ、数人がドロに入って馭者の手をひっ 

ぱり上げた。つづいて、浮き上がりはじめた馬車 

を数人がかりで持ち上げ、四人乗りの大きな馬車 

がギシギシっ、ドーンと起き上がって大きな音を 

立ててたち直りました。      ドロの中か 

ら出てきたマドレーヌは            

「この人を病院に連れていってくれ。費用は私が 

持つ」                    

そういうとマドレーヌ氏はジャベール警部のと 

ころへ戻ってきて               

「外套を…」                 

「ああ…しかし、驚きましたな。マドレーヌさん 

があんなに力持ちとは。以前どんな仕事をなさっ 

ていたのですかな?」             

「なに、若い時はなんでもやりましたよ…。さ、 

私も病院につきそいますんで、失礼」と泥だらけ 

ですから外套ははおらずに手に持って、さっさと 

行ってしまいました。             

ジャベール警部は目の前で起こった出来事に動 

揺するでもなく「何か法律に触れた行為はなかっ 

たかな? 馬車の交通違反はなかったかな」とあ 

たりを調べておりましたが、やはり心の中では、 

「町一番の工場の社長であるマドレーヌ氏が、な 

んであんなことを」と疑問でありました。    




いま、自らの命をかけて見ず知らずの馭者を危 

機から救ったマドレーヌ氏とはそもそも何者であ 

りましょうか。このマドレーヌ氏はこの町の人間 

ではございません。ほんの数年前にズダ袋ひとつ 

下げて町にやってきた流れ者でした。年頃五十か 

っこうといったところでしょうが、体格もがっし 

りとして、後ろ姿はまだ若く見えました。その時 

たまたま火事があり、命がけでそこに飛び込んで 

助けた二人の子供が町の憲兵隊の隊長だったので、

普通はヨソ者は出身や経歴をネホリハホリ聞かれ 

るところを、隊長の計らいで住むとこも世話され 

てマドレーヌという名前で住み着いたのでござい 

ました。                   

このモントリウルという町は最初に申し上げた 

通りもともと大した産業のない貧しい町でしたが、

このマドレーヌ氏が職人として働くうち、黒真珠 

によく似た装飾品をガラス玉で安く作る技術を考 

え出し、自ら工場を起こしたところが大繁盛で、 

町もすっかり見違えるように豊かになりました。 

その工場が町や国にもたらした富は莫大でしたが、

社長は決して贅沢をせず、粗末な家に住んで、財 

産のほとんどを、病院を建て、学校を建て、貧し 

い人のために使っておりました。        

ために町の風紀はよくなり、ひとびとも善良な 

暮らしを送れるようになってゆきました。しかも 

このマドレーヌ氏の善行、はそれだけに留まらず、

時間があるとポケット一杯にお金を詰め込んで町 

を歩き、帰ってくる時にはすっからかんになって 

いる、つまり貧しい人にほどこしをして歩いてい 

るのでございました。             

やがてマドレーヌ社長は、国王から命じられて 

町の市長になるようにすすめられました。さきほ 

どの馭者を救ったのもそんな頃で出来事でござい 

ました。                   

このこともまた社長がみなの尊敬を集めるきっ 

かけともなり、さらなるの命令を断り、勲章も断 

り続けていましたが、あまり何度もすすめられる 

ので、断りきれなくなり、「それでは、町と国の 

ために一身を捧げましょう」と市長職につくこと 

となりました。                

これが、マドレーヌ市長について知られている 

ことのすべてであります。           

<ちょっとおいしそうですね。黒岩涙香先生は斑 

井市長、としております。講談では名前は覚えや 

すいのが一番ですから斑井と日本ふうでもよかっ 

たのですが、マドレーヌ、も覚えやすいのでこれ 

でいくことにいたしましょう>         




さて、マドレーヌ市が市長になってから数年が 

過ぎました。                 

あいかわらずジャベール警部は町で情け容赦な 

く犯罪者を取り締まっておりましたが、その犯罪 

者の多くは貧しさゆえに仕方なく罪をおかしたも 

のたちですが、そんなことは考えに入れません、 

彼にとっては法律を守るだけがすべてなのです。 

そして始末に悪いのは、彼は正義感から法律を守 

っているのではなく、法律が自分他人を見下すた 

めの手段だから守ろうとする、まさしく「法の番 

犬」なのでございました。           

だからこそ、「ファンティーン」という哀れな 

女が町の男から馬鹿にされ、凍てつく冬の最中に 

背中に雪を入れられたことからケンカになって警 

察にしょっぴかれた時にも情け容赦をしませんで 

した。                    

「お願いです、警部さん。お許しください。私が 

牢屋に入ったら、私の仕送りだけを頼りにしてい 

る娘のコゼットが死んでしまいます。今病気なん 

です。どんなことでもしますから、牢屋だけはご 

勘弁を」                   

「だめだ。おまえは卑しい仕事をしていながら、 

市民に対して暴力を振るったのだ、おい、つれて 

いけ!」                   

そこへ、慈善のために町を歩いていて、ケンカ 

の一部始終を見ていたマドレーヌ氏、いや、今は 

マドレーヌ市長が割って入って、        

「市長権限として、この女を釈放しなさい」   

「しかし市長閣下。法律では」         

「法律もクソもありません。それならば市長の権 

限としてあなたを罷免いたしますぞ。お下がりな 

さい」としてとうとう、ファンテーンを釈放させ 

てしまったのでございました。         

とにかく、警察署の、部下の前で大恥をかかさ 

れたジャベールは、前々から快く思っていなかっ 

た市民に人気のある市長を憎むようになりました。

そして、数年前のあの、マドレーヌ氏がぬかるみ 

の中で馬車を持ち上げた事件を思いだしたのでご 

ざいます。                  

「あの時からずっと考えていたんだが…まてよさ 

っきの俺を睨んだ目つき。確かに覚えがあるぞ。 

そうだ! あんな怪力のある男にはいままで一度 

しかあったことがない。その男は…いや、まさか。

そうだ、あの目つきは、間違いない、ツーロンの 

刑務所で…19年の罪を言い渡され、足に思いク 

サリを繋がれていた…ジャン…そう、ジャンバル 

ジャンという男だ!」             

その日から、ジャベールはマドレーヌ市長の過 

去をさぐりはじめたのでございました。     

あわれなファンテーンを助け、病院にも足しげ 

く通っていたマドレーヌ市長は、いままで通りの 

慈悲深い市長としての仕事につとめておりました 

が、ひとつの心配事ができました。       

「あの、ジャベールという男は、数年前に、そん 

な力持ちはツーロンの刑務所でしか見たことがな 

い、といっていた。気になって調べると、確かに 

あの男は、短い間だがツーロンの刑務所につとめ 

ていたのだ。そうだ、私がまだ今の名前になる前 

の姿をきっと見ていたにちがいない。だがずいぶ 

ん前のことだ。あの頃とは姿形もずいぶん変わっ 

た。何より、私は心の中が変わった。刑務所を出 

てからも、天を恨み世を恨み、人を恨んで生きて 

きた。しかし、あの日、ミリエル大司教閣下と出 

会って、私は目覚めたのだ。先日もあわれな女の 

ために、あまり顔をあわせたくないジャベールと 

言い争いをした。何かを思いださなければよいが 

…」                     




この頃の法律について解説いたしましょう。一 

度刑務所に入ったものは「放免囚」として、一生 

黄色い監察をもって生きなくてはなりません。ど 

この町に行っても、まず役所でその監察に判をも 

らわなくてはいけない。しかしそうすると、すぐ 

に町中に知られてしまい、仕事につくどころか、 

宿屋ですら泊めてくれない、ひどい仕打ちに会う。

マドレーヌ市長ことジャンバルジャンも、刑務所 

から出て寒い中を野宿をしようとしておりました。

そんな時、優しくして泊めてくれたのがミリエル 

大司教でした。大司教でありながら、貧しいくら 

しをして、すべての財産を貧しい人に捧げていた。

しかも、その大司教から6枚の銀の皿を盗んで連 

れ戻された時にも、罪を問わず、さらに二本の銀 

の燭台を与えてくれた大司教。         

「この銀の燭台で、あなたの悪い心を買い取りま 

しょう。今後、けっして神にそむくようなことを 

してはいけません」と諭され目覚めたのでした。 

しかし、どこの町へ行っても仕事も宿もままな 

らない。ところがこのモントリウルに来た時、た 

またま火事の中で憲兵隊長の子供を助るとき、身 

につけていた監察が燃えてしまったのをいいこと 

に、過去をすべて捨てて「マドレーヌ」として第 

二の人生を歩んですべてがうまくいったのでした。

いってみれば、執行猶予中に失踪してしまった 

もので、当時の法律では、今度捕まれば終身刑、 

一生牢屋に入れられるかも知れないのです。 し 

かし、工場の社長として今は市長として、あのミ 

リエル大司教のように、すべての財産を貧しい人 

のためにつかっている。きっと自分の正体はバレ 

ないよう神の加護があるに違いないと信じており 

ました。                   

そんなある夜のこと。市長の住まいとは思えな 

い、質素なマドレーヌの家のドアを叩くものがご 

ざいました。                 

「誰だね」と戸口までマドレーヌが迎えると   

「市長閣下、ジャベールです。警察署のジャベー 

ル警部です」                 



こんな夜に家を訪れなど、普通では考えられな 

いことでした。マドレーヌは、いや、ジャン・バ 

ルジャンはいやな予感がしましたが、普段でも夜 

の訪問者も断らないことは知られていますので、 

疑われぬためにも中に招き入れました。     

「どうぞ」                  

「失礼いたします」              

ジャベールの様子がいつもと違うのにすぐ気が 

ついたジャンバルジャンは、仕事が忙しいので早 

くしてくれといった様子で書類などを手に取りな 

がら                     

「ご要件は?」                

「は…市長閣下。今日は大事なお話がございまし 

て」                     

イスをすすめましたが、ジャベールはそれを断 

り、立ったままで話はじめました。       

「実は…覚えておられましょうか? いつか、馬 

車がぬかるみに落ちた、市長が、いや、あの時は 

まだ社長でしたが、そこから馭者を救い出された 

のを」                    

「ああ、そんなことがありましたね」      

「あの時、こんな力持ちは今まで一人しか見たこ 

とがない、ツーロンの刑務所で、と申し上げまし 

た」                     

「さあ…よく覚えていませんな」        

「実は、このあいだ、市長と、例の街の女のこと 

で言い争いをした後、思い出したのです、市長に 

よく似た、その力持ちの囚人を」        

「ほう」ジャンバルジャンはつとめて冷静に話し 

を聞こうとしましたが、全身からスーッと血が引 

いてゆくのを感じておりました。        

「その男は…名前を忘れていましたが、わざわざ 

ツーロンまで行って記録を見て思い出しました。 

その男は、十九年の刑で足にクサリをつけられて 

いた、凶悪犯のジャン・バルジャンでした」   

市長はゆっくりとイスに座りました。凶悪犯… 

とんでもない。自分は親がわりだった姉の子供た 

ちに何か食べさせてやりたくて、たった一斤のパ 

ンを盗んだだけだ。それが脱獄を企てるためにど 

んどん刑期をのばされ、たったパン一斤の罪で1 

9年…                    

「ジャン? なんです? よく聞こえませんが」 

「ジャン・バルジャンです。しかも調べてみると 

この男は、出所後、監察の携帯義務を怠って姿を 

眩ましました。さらには、大司教の家に盗みに入 

り、子供から小銭を巻き上げるという罪を重ねて 

おります」                  

「そうですか。それで…私がその、ジャン・バル 

ジャンですか? その男だという証拠が見つかっ 

たとでも」                  

「はい。証拠をあつめたつもりで、パリの中央裁 

判所に起訴状を送りました」          

悪夢の再来とはこのことか。もう何年も忘れて 

いた、牢屋でのひどい仕打ち、足に、時には首に 

クサリをつけられた時の絶望、重労働、すべての 

記憶がいっぺんに戻ってきて、アタマがクラクラ 

して気を失いそうになる。そのことにそなえてイ 

スに座っていたのでした。           

しかし、次のジャベールの言葉は意外なもので 

した。                    

「申し訳ございません。市長閣下。私が今夜参り 

ましたのは、虚偽の告発、市長閣下の名誉棄損の 

罪で、警部職を辞職して地方への転任を願い出る 

ために参りました」              

ジャベールは深々とアタマを下げました。ジャ 

ンバルジャンには一瞬何のことかわかりませんで 

したが、次のひとことはさらに驚くべきものでし 

た。                     

「と、いうのも、ホンモノのジャンバルジャンが 

捕まったのです。市長閣下へのご無礼、ひらにお 

許しを願います」               

ジャン・バルジャンはどこにいるのか。間違い 

もなくここにいる。マドレーヌという仮の名はつ 

かっているが、俺は間違いなく、放免囚であるこ 

とを隠して逃亡中のジャンバルジャンだ。それで 

は、捕まったのは、ダレだ?。         

「ここから馬車で二日のアラスの町で。本人はち 

がう、俺はジャンバルジャンではないと言ってお 

りますが、証人も三人もおります。一人はツーロ 

ンの刑務所からわざわざ連れてきた証人で。私も 

直接見ましたが、老いぼれてはおりますが、鋭い 

目つきで、確かあんな顔だったと思います」   

「……その男の裁判は?」           

「はい、明日の夜です。なにしろ逃亡囚ですから 

間違いなく終身刑になるでしょう。…市長、ここ 

に辞表を書いてまいりました…」        

ジャン・バルジャンはアタマの中が真っ白にな 

りましたが、事務的に辞表を受取り、しかし「こ 

れは預かっておきますので、もう一度考えなおし 

てください」とジャベールを送り出したのでござ 

います。                   



一人部屋に残ったジャンバルジャンは考えまし 

た。                     

「俺の代わりに、誰かがジャンバルジャンになっ 

てくれたのか。いや、ならされたのか。このまま 

黙っていればその男が終身刑だ。そして俺は無罪 

放免だ。いままでも、ときどき正体がバレルのを 

恐れた。ふたたび捕まる悪夢にもうなされた。け 

れど、もしその男が俺だと裁判で決まれば、もう 

心配することはない。この先、逃亡放免囚として 

つかまることはなくなるのだ。 ああ、これは、 

神の導きなのか。この町にきて、マドレーヌとな 

ってから、一日も休まず祈りを捧げてきた。ミリ 

エル大司教さまが亡くなったと聞いた時には一カ 

月間喪に服した。ぜいたくもせず、貧しい人々に 

すべてを与えてきた。・・・俺がもし、いなくな 

れば。その、どこの馬の骨とも知れぬ男と交代に 

刑務所に入れば、この町はまた貧しくなく、ほど 

こしをするものもいなくなる。俺の作った病院や 

学校も、元通り荒れ果てて困る人が増えるのだ。 

だから神さまは、俺の代わりに身代わりをたてて 

くれたのだ、そうだ、そうに違いない。そうと決 

まったら、やるべきことはひとつしかない」   

ジャンバルジャンは床板をはがし、厳重に釘付 

けをした木箱を取り出しました。そこには、昔の 

服や杖、この町にきた時のズダ袋、小僧からくす 

ねた銀貨までが丁寧に詰め込まれていました。箱 

を暖炉の前にもってくると、次から次へと炎の中 

に投げ捨てていきます。バチバチと地獄の業火の 

ように、乾いた古い衣服が音をたてて燃え続けま 

す。                     

「これは当時の財布だ。これは帽子だ、これは鑑 

札をいれていた忌まわしい袋だ…」       

暖炉の中でジャンバルジャンの証拠が音をたて 

て燃えてゆく、心のなかでは「これでよい、これ 

でよいのだ、自分はマドレーヌとして、身をささ 

げてこの町で善行をなすのだ。貧しいにほどこし 

をするのだ。それこそが、神が俺に与えたもうた 

役目なのだ」                 

古いものをほとんど暖炉になげこみ、あらかた 

のものが燃えてしまいました。その時、暖炉の薪 

がとぼしくなり、部屋がすうっと暗くなりました。

部屋が暗くなってそれでも、「もうないか?  

俺がジャンバルジャンであった証拠はもう残って 

いないか?」と考えいた時、目の前の壁に自分の 

影が大きくゆらゆらと大きく揺らめきました。  

ハッ、と気がついたジャンバルジャンが、その 

かげを作っていた机の上のロウソクを見つめる。その 

ロウソクの下には・・・確かに自分がジャンバルジャ 

ンであった証拠が。あの、盗みをして憲兵につか 

まえられ、大司教の家に連れ戻された時、それを 

許すばかりか、やさしい面差しで「これであなた 

の悪い心を買いましょう。二度と神さまにそむく 

ことをしてはなりませんよ」と手渡された、あの、

二本の銀の燭台がありました。「ああ・・・・・ 

・これは・・・これを燃やすことが・・・できよ 

うか」                    

ユラユラと燃え上がるロウソクの火に照らされて、 

ジャンバルジャンは二本の燭台の重さをズッシリ 

と感じ続けるのでござました。         




モントリウルから遠く離れたアラスの町の裁判 

所では、今しも、逃亡放免囚、ジャンバルジャン 

の裁判が執り行われておまりました。前の裁判が 

長引いたせいで、夜にかかっておこなわれたその 

お裁きは、裁判長はじめ、カンタンに住むものと 

思っておりました。              

被告席に立たされているのは60かっこうの歳 

よりも老けて見える男で、体格は悪くありません 

が、目の前の自分の裁判を、あっけにとられてま 

るで他人ごとのように見ておりました。 次々に 

証人がでてまいります。ジュネ、バイユ、ブル、 

といった、ジャンバルジャンと牢屋で一緒だった 

ものばかりです。中にもブルなどはまだ懲役中で、

モントリウルより遥か彼方のツーロンの刑務所か 

らわざわざ呼びつけたもので、手にはまだ収監中 

のクサリをつけているくらいでした。      

みな、被告席の男の顔を見ると、さも得意気に 

「ええ、間違いありません、この体つき、ずるそ 

うな目つき、まちがいなく、ジャンバルジャンで 

す」と口をそろえました。           

裁判長が被告席の男に対して、        

「どうだね。まだ、自分がジャンバルジャンでは 

ないと言い張るつもりかね?」         

男はあいかわらず、まるで他人事のようにうわ 

の空で話しはじめました。           

「・・・へえ、なんどもいいます通り。わしっし 

ゃマシューといいまして、田舎から出てきて長年 

パリで車大工をやっていたものです。女房も娘も 

死んじまいまして、この歳になって、身寄りの一 

人もございません。けんど、けっして、ジャンバ 

ルジャンなんて名前のものではありません。警察 

にもなんどかお世話になりましたが刑務所に入れ 

られたことはありませんで、そちらのお三人さん 

も、今日はじめてお目にかかった次第で」    

「身寄りがなければ、おまえをマシューと認める 

ものはいないのか」              

「それも、何べんも申し上げましたように、パリ 

の車大工のバルー親方んとこで働いてましたんで、

バルー親方に聞いていただければわかりますん  

で」                     

「裁判所で調べたが、バルーの店はもう何年も前 

に潰れて行方しれずとのことだ」        

「じゃあ仕方ないですね。まあ、どうせあたしの 

ことをマシューなんて名前で呼ぶやつなんかいな 

い。若い時には小僧と呼ばれ、歳とってからはジ 

ジイと呼ばれるだけでしたからねえ。へえ、車大 

工以外の仕事についたことはありません。寒い冬 

に、外で鉄をうつのは辛い仕事でねえ。親切な親 

方なら家の中でうたせてくれますが、なんだかそ 

の打つ鉄みたいに冷たい親方にばっかり使われま 

してねえ。女房は早くに新島って、娘は洗濯女を 

やってました。これも冬は辛い仕事で、で、今度 

は機械式の大きな洗濯工場につとめたら、熱い蒸 

気の中の仕事で、朝から晩まで働いてて、けっき 

ょく体壊してしんじまいました。おとなしいいい 

子だったんですがね、親父のあたしの甲斐性がな 

かったのが悪かったんでしょうね。それでひとり 

ぼっちになっちまって…ですから、バルー親方し 

か、あたしがマシューであることを知ってる人は 

ねえんで」                  

男の態度はもうどうにでもしてくれ、なにを言 

ったって聞いてはくれないんだ。終身刑なら終身 

刑でかまわない。どうせ生きててても死んだよう 

なもんだ、といわんばかりのなげやりさでした。 

無理もありません。ある日とつぜん、おまえは逃 

亡囚だといわれて、見知らぬ人がみんなお前をジ 

ャンバルジャンだと言い張るのです。自分が誰か、

半ばわからなくなっていたのでしょう。     

「被告人、ほかにいいたいことはありますか」と、

裁判長がこれまた面倒くさそうに訪ねました。  

「へえ、このたびのことは、たまげたもんだ、と、

それくらいで」                

「では、結審いたします。被告人を、逃亡放免囚 

人、ジャン・バルジャンと認め、逃亡および窃盗 

の罪で、ツーロンの刑務所に送ることを…」   

その時でした。               

「お待ちください」              

と声がしたのは、一般傍聴席の方ではない、裁 

判長の側ち儲けられた特別傍聴席、ここは裁判中 

でも自由に出入りのできる、証拠を検討すること 

もできる、公職の身にあるものしか入れない特別 

な席でした。                 

判事たちの一人が立ち上がり、見覚えのあるそ 

の声の主に声をかけました           

「マドレーヌ市長!」             

かつてモントリウルに出張裁判にいった判事は、

町の名士である市長の顔を覚えていたのでござい 

ます。                    

「裁判長。あらたな証人を連れてまいりました」。

裁判長が判事から説明を受け、これが有名な、 

国王からも直々の要請で市長職についたマドレー 

ヌ市長と聞いて安心して発言を許しました。   

「どうぞ、なんなりとおっしゃってください」「判 

事ならびに傍聴人のみなさま。みなさまはここで 

正義が行われることを信じて裁判を行っておられ 

る。もちろん、多くの裁判は公平に行われること 

でしょう。しかし、ただしかるべき正義の神も時 

として目がくらむことがあるのです。人は悪人と 

して生まれてくるのではありません。貧しさや、 

惨めさや、さまざまな不幸が人を悪に導くので 

す。刑務所に入る時にはただの貧乏人でも、出て 

きた時には極悪人にされていることだってあるの 

です。まず、よく心にきざんでください。そこに 

立っている男。その人は天地神明にかけて、ジャ 

ンバルジャンではありません」         

法廷中がザワザワと騒ぎはじめました。    

「マドレーヌ市長閣下。なぜ断言できるのです。 

どうかその、あらたな証人をおつれください」  

「左様。あたらたな証人。重大にして確実のその 

その証人とは、この私です。私自身が証言をいた 

します」                   

あっけにとられているのは、三人の証人、ブル 

・ジュネ、パイユたちも同じです。自分たちの知 

っているジャン・バルジャンはやはり、被告席の 

男であり、立派な背広をきた、特別証人席で喋っ 

ている男ではないはずでした。         

「私は、この裁判を知って、二日の旅程を飲まず 

くわずで馬車を飛ばしてきたのです。今、その証 

拠をお目にかけましょう」           

市長は裁判長の方から証人席に向き直り、   

「おう! てめえら! ひさしぶりじゃねえか! 

なんだ、ブル、しけたツラしやがって。ハハハ、

おめえ、まだムショにはいってやがるのか! マ 

ヌケめ。おめえ、ムショじゃまだ、あの茶色の縞 

のズボン釣りを後生大事につかってやがんだろ  

う! な? おう、ジュネじゃねえか。お前の背 

中の17針の傷跡、あれは大喧嘩でついたってい 

ってたけど、ホントは階段から落ちたんだったな。

それ知ってるのは、ムショにも3人しかいねえん 

だよな。マヌケめ。              

それと、パイユ、おめえは左腕に、ナポレオン陛 

下の記念日に自分で掘った彫り物があったよな。 

左の腕の肘の内側に。ヘッタくそな字でよう。確 

か、1815年、3月1日って青い彫り物だった 

な!」                    

横についていかた警務官がおもわずパイユの左 

腕をまくりあげると、間違いなくそこには181 

5年、3月1日、と書かれていた。       

「裁判長殿! 確かに入れ墨がありました!」  

「そういうわけです。被告人はジャンバルジャン 

ではありません。なぜなら、ホンモノのジャンバ 

ルジャンはこの私だからです。さあ、その男を釈 

放しなさい。終身刑の罪人としてとらえるのなら 

この私です!」                




こうして、車大工のマシューは釈放され、ジャ 

ン・バルジャンはふたたび、二度と出られぬツー 

ロンの獄につながれることとなりました。 しか 

し、この物語はこれでは終わりません。この世に 

良心にそむいて生きなければならない、あわれな 

人々のいるかぎり、千載の後までも語り伝えられ 

るであろう、ビクトル・ユーゴー先生原作の「レ 

・ミゼラブル」の物語。本日はジャンバルジャン 

・転じてマドレーヌ市長、あるいはマドレーヌ転 

じてジャン・バルジャンの一席。これをもって読 

み終わりといたします。