『ノムラカツヤ物語〜球界の月見草』    







本日は、球界に咲いた月見草、ノムラカツ 

ヤ監督についてのお物語を申し上げます。  

お客さま方の中で「野球には興味ない」と 

いう方もいらっしゃると思いますが、野球を 

見たことも聞いたこともない、という方はま 

さかいらっしゃらないでしょう。ま、簡単に 

申しますと、九人ずつ二組に分かれて、ピッ 

チャーがタマを投げて、バッターがそれを打 

ち返す。打ち返されたタマが取られたらアウ 

ト。取られなければ、そのタマが戻って来る 

までの間、打った選手は走ることができる。 

で、ぐるっと回ってホームまで戻ってくれば 

1点入る、それを攻撃と守備に分かれて9回 

ずつ繰り返す…と、まあそんなゲームなんで 

すが…。                 

(センス)だいたい野球場というのは、上 

から見るとこういう形をしております。この 

時、丁度この扇の要を守っているのが、捕手、

キャッチャーというワケなんですね。このキ 

ャッチャーというのは、変なポジションなん 

です。味方の中でただ一人、敵と同じ方向を 

向いている。それでまたカッコウが変。野球 

の選手は、やはり人気商売ですから、テレビ 

で映すにしても顔がよく見える方がいい。と 

ころがキャッチャーだけは、顔にヘンなマス 

クをつけてて、顔が見えない。マスクだけじ 

ゃありませんで、プロテクターとか、レガー 

ズとか、戦国武将の鎧みたいなものをつけな 

ならん。他の選手がスマートなユニフォーム 

で颯爽と動いてるのに、一人だけ、合戦から 

逃げ後れた大将みたいにノッシノッシ動いて 

いる。                  

しかも、野球の試合といえば3時間くらい 

あるのに、その半分くらいは、そんな重い鎧 

をつけて中腰ですわ。私なんか、正座でも3 

0分しか持たないのに…。要するに、他と比 

べてものすごく重労働な「役目」なわけです。

しかし、キャッチャーというのは、試合中で 

も「しまっていこーぜ」とか言って全員のま 

とめ役になる。現場の指揮官としてチームを 

動かすやりがいのある仕事でございます。そ 

のキャッチャーに生涯をかけ、多くの選手が 

30ちょい過ぎで体力に限界を感じて引退し 

ていくプロ野球界で、なんと45才までこの 

重労働を続けた、野村克也という方のお話で 

ございます。               







「サチヨ、サチヨ…、おい、サチヨ。カツノ 

リは寝たか?」と問いかけておりますのは、 

後にヤクルトから阪神監督となり、日本中に 

深い感動を与えますノムラカツヤ。     

「何よ、今日は試合があって疲れてるんじゃ 

ないの? その気になっちゃったの?」応え 

ておりますのは、後にサッチーと呼ばれ、日 

本中に不快感を与えることになります、ノム 

ラサチヨ。当時まだ49才、        

「アホ、そんな話やない。もっと大事な話が 

あるんや。ちょっとその、人さまから借りっ 

ぱなしで返してない花瓶なんか磨いてんと、 

こっち座って話聞いてくれ。大事な話なんや 

…」                   




時は1980年、昭和55年9月28日の 

夜のこと。所は目黒区緑ケ岡。3年前にサッ 

チーとの不倫騒動で南海ホークスを追われ、 

ロッテを経て、西武ライオンズに移ってまい 

りましたノムラカツヤ。プロ野球選手として 

働いてなんと26年めのシーズンのお話でご 

ざいます。                

「大事な話…って何よ。アタシの学歴の事? 

だから、コロンビア大学卒業ってことにしと 

きゃいってて言ってるでしょ。わかりゃしな 

いわよ。別に参議院の選挙に出るわけじゃな 

いんだから…」              

「ちがうちゅうとんのに。マジメに聞いてく 

れ。実はな。わし、もう今期限りで引退しよ 

うと思うんや……」            

さすがのかつての江川卓・後の松阪大輔以 

上の「怪物」と言われたサッチーも、この言 

葉には驚きました。            

「エッ? イキナリどうしたのよ。今日はス 

タメンで使ってもらえたし。ライオンズは優 

勝争いの真っ最中でこういう時こそオレみた 

いな超ベテランが必要なんや、て言ってたじ 

ゃないの」                

「いや、もう決めたんや。ワシは今年で引退 

する。長島が引退してからもう6年もたった。 

一緒にやってきたモンで残ってるのは、もう 

ワシたった一人や。もうええやろ、もう、え 

えんや……」               

「どうしたのよ。一体何があったのよ? 体 

がボロボロになるまでマスクをかぶって、い 

つかひっそり忘れ去られるまで現役でいるっ 

て、いつも言ってたじゃないの? 今日の試 

合で何かあったの?」           

「ああ、実はな…………」そして、野村克也 

は静かに話し始めたのでございます。「生涯 

一捕手」草柳大蔵が禅宗の「生涯一書生」と 

いうコトバから野村に送ったこのコトバを貫 

き、監督からもとの一選手に戻ってまで26 

年という前人未到の現役生活を続けてきたノ 

ムラ。かつての南海ホークスの捕手兼監督兼 

四番打者。記録においては長島茂雄はもとよ 

り、あの世界の王さえも上回るノムラ。日本 

野球史上まぎれもなくベスト・ワンキャッチ 

ャーであるノムラカツヤが引退を決めた理由 

とは……そのナゾを残しまして、ノムラカツ 

ヤの生い立ちから説き起こしていくこととい 

たします。                







思えば日本の「野球」というのは不思議な 

スポーツです。アメリカから輸入されたもの 

でありながら明治時代からの大人気。あのバ 

カデカイ甲子園球場ができたのが大正年間。 

そして職業野球が始まったのは昭和九年、い 

わずと知れた東京巨人軍がその先駆けでござ 

いました。続いて昭和十年、奇しくも後に救 

世主として招かれることになる阪神タイガー 

ス、当時の大阪タイガースが生まれたのと同 

じ昭和十年の6月29日、丹後ちりめんで知 

られる京都府竹野群網野町に、野村克也は生 

まれました。普通、関西人というと、あの瀬 

戸内海の日本の地中海性気候のカラッとした 

空気の中に生まれるのですが、ここは日本海 

に面した、雪深い、言ってみれは「関西の東 

北」といった風土のところでございました。 

みっつ違いの兄のあと、野村家の次男とし 

て生まれたのは昭和十年。実家は「野要(の 

よう)」野球の野に要と書いて野要、という 

名前の食料品店を営んでおりました。    

野球のペナントレースならば、毎年4月、 

一線にならんで平等の立場から、ゼロから優 

勝を競い合いますが、人生という名のレース 

はそうはいかないもので、カツヤが生まれて 

三年後の昭和十三年、日中戦争に招集されま 

した父親は、中国・漢陽の病院で病に倒れ、 

あえなく戦病死してこの世を去ったのでござ 

います。                 

後に残されましたのは、六才の兄と三才の 

カツヤ。そして三十四才で幼い二人の子供を 

抱えることになりました母おやふみ女手ひと 

つで残された店を切り回し、幼い二人の子供 

を育て上げていくのでございますが…。物資 

不足のおりから店はあえなく潰れ、住み慣れ 

た家を出て、親子三人六畳一間の仮住まい…。 

それでもふみさんは、出征兵士の遺族や時に 

は伝染病の病人を世話する「訪問婦」の仕事 

をして一家の生活を支えてまいります。   

これだけ聞いても、ああ、ノムラ監督は、 

苦労して来たんだなあと実感するわけでござ 

いますが、不幸はそれにとどまりませんでし 

た。                   




戦争がいよいよ激しさを増してまいります 

昭和十八年、元看護婦だったふみさんは、自 

分が「子宮ガン」であることに気がつきまし 

た。戦火激しい中で遠く伏見の病院に入院す 

るしかなくなった、ふみ。滋賀県から嫁入り 

したふみには頼りになる親類もなく、幼い二 

人の子供は、亡き夫の友人の元へ預けるしか 

なくなったのでございます。戦国の昔、徳川 

家康は五才にして今川義元の下で人質となり 

ますが、それでも家康は武家の名門。ノムラ 

カツヤ少年は、誰の頼りもないままに、他人 

メシを食う人生の船出となったのでございま 

す。                   

小学校に入ったカツヤ少年は、いそうろう 

の己が身を養うため新聞配達を始めることに 

なります。冬の朝の新聞配達の辛さはやった 

ものでないと分かりません。しかも、日本海 

に面した雪深い網野町……。なにしろ子供の 

働きですから、人の二倍働かないとちゃんと 

した稼ぎにならない…。夏はそれに加えてア 

イスキャンデー売り…。小学生の子供が、自 

分では決して食べられないアイスキャンデー 

を、暑さで溶ける前に必死になって炎天下で 

売り歩く…。まるでチャップリンの映画を地 

でいくような少年。ノムラカツヤのネバリ強 

さはまさにこの少年時代に培われたものでご 

ざいました。               




「そらもう、楽しいことなんか何もない、苦 

労の連続やった。けど、結局それを励ました 

んは母親やったな…。お前は今貧乏してるけ 

ど、何も金持ちの子に負けてるわけやない。 

い。負けたらアカンで。負けたらお母ちゃん 

も笑われるんやで、て見舞いに行くたんびに 

言われたわ。結局母親は、放射線治療の後遺 

症で寝たきりみたいになってしもた。それで 

も内職やなんやで必死に働きよった。ワシは 

とてもかなわん。強い母親やった……」   

「そうねえ。私は会ったことないけど、あな 

たの話を聞いててもあのお母さまには勝てな 

いと思ったもんねえ。たとえアサカミツヨに 

勝っても、デビ夫人に勝っても、渡辺エミに 

勝っても……」              

「おい、サチヨ。今まだ昭和55年やいうこ 

とを忘れとんとちゃうか?」        

「あら、ごめんなさい。あらあら、カツノリ 

が起きてきたわよ」            

「まま、おしっこ」            

「一人で行きなさい。今、お父さんと大事な 

話してるトコなんだから。オシッコくらい一 

人でできないと、野球選手になってもどっか 

の息子みたいに、すぐ引退してお笑いタレン 

トになっちゃうわよ」           

「サチヨ、お前は予言者か?」       




閑話休題。               

とにかく、昭和二十年に終戦を迎え、やっ 

と親子三人で暮らせるようになりましても、 

寝たり起きたりの母親をかかえて苦しい暮ら 

しに変わりはございませんでした。新聞配達、 

キャンデー売りに加えて、子守までやりなが 

ら、カツヤ少年の生きるための戦いは続きま 

す。そんな中、勉強もキチンとして学校にも 

ちゃんと通っておりましたが、行けるハズも 

ない修学旅行が近づくと、さすがにいたたま 

れなくなって、サボることもございました。 

でも、戦後すぐのことでございます。日本中 

がシンドイ思いをしている時のことでござい 

ます。                  




「そーよね、アタシもずいぶん、シンドイ思 

いをしたわよ。東京の新橋第一ホテルで働い 

て…。言っとくけど変な商売はしてないわよ。 

ウエイトレスをやってたのよ」       

「サチヨ、今日はワシの話なんやから、もう 

ちょっと静かにしとってくれ」       




そんな、カツヤ少年の、唯一の心の希望が、 

戦後復活した職業野球、いや「プロ野球」だ 

ったのでございます。戦争が終わって、荒れ 

果てたニッポンには食べ物はありませんでし 

たが空き地はイヤというほどあった。しかも 

進駐軍もベースボールはアメリカを受け入れ 

るためのよいスポーツだと思っておりました。

もう、憧れるべき軍人さんもいない、チャン 

バラは野蛮だといって禁止される…日本の子 

供たちにとって。戦前と戦後とで、憧れるも 

ので唯一変わっていなかったのが「野球」と 

いうものだったのでございましょう。    

当時のプロ野球といえば、なんと言っても 

「打撃の神様」と呼ばれ後のV9・9年連続 

日本一という、今だに前人未踏の偉業を達成 

しました、巨人軍の赤バット・川上哲治。  

「しんどい毎日の、心の支えが巨人軍の活躍 

やった。その頃、『野球界』ちう本があった 

んやけど、買う金がないから、立ち読みで、 

たまーに小銭があると川上のプロマイド買う 

たりなあ…。その時、同級生に熱烈な南海フ 

ァンがおってな、巨人の悪口いいよったから 

『なんじゃ、南海なんか、王者・巨人の方が 

強いにきまっとるわい』ちゅうて殴り飛ばし 

たこともあったなあ…。タイガース? さあ、 

覚えとらんなあ…。それで、どうしても野球 

がやりとうてな。母親に、中学出たら、ちり 

めん屋へ方向に出るから、中学だけは野球部 

に入れてくれ、て泣いて頼んだんや」    

新聞配達を続けながら、それでもカツヤ少 

年はバットを握りプロマイドのフォームを真 

似て研究に打ち込んみました。天分はもちろ 

んあるわけですから、中学二年でレギュラー 

になりました。ポジションはもちろんキャッ 

チャー。バットもグローブも、ユニホームす 

ら満足に買えない自分を、見下す先輩たちを 

自由に動かせるキャッチャーという役目が面 

白くて面白くて、どんどん野球というものに 

のめり込んでいったのでございます。    




「お母ちゃん、ぼくなあ。どうしても高校い 

かれへんか。そら、家が大変なのはわかって 

る。そやけど、高校行きたいんや。これから 

は高校くらい出てなアカンてセンセも言うて 

はる。なあ、高校行っても朝晩働くから、高 

校行かしてくれへんか」          

「うちにはそんなお金はないけど……。実は 

な、実はヨシアキ兄ちゃんがな。自分は就職 

するから、カツヤを高校に行かせたってくれ、 

ゆうてんねん」              

「ええ? ヨシアキ兄ちゃんが? そやけど 

お兄いちゃんは、中学高校と、ズーッと学年 

一番で、峰山高校始まって以来の秀才言われ 

てるのに。奨学金かてもらえるか知れんのに」 

「お兄ちゃんかてホンマは大学行きたいやろ 

うけど、お前のためにガマンしてくれるんや」 

「ほんまか…ほんなら、僕高校行けるんか?」 

「ああ、そやけど、お兄いちゃんの代わりに 

勉強しに高校いくねんで。野球はアカンで」 

「………うん。野球は、あの、うん、一生懸 

命勉強するから、高校行かしてくれたら、一 

生懸命勉強するから」           




ノムラカツヤは峰山高校へ進み、一年から 

打順3番、レギュラーキャッチャーという地 

位につきました。ところが、ある日家へ帰っ 

てくると、野球の道具一切がありません。  

「カツヤ! お前、ウソついたんか! 高校 

で勉強する、言うたんはウソやったんか?」 

「……そやから、ぼく、野球の勉強を…」  

「言い訳しな。野球は野球やろ」      

「そんなことないで、野球も勉強いるねんで。 

特にキャッチャーは、打つ時にも守る時にも、 

相手のこと調べて、勉強せな勝たれへんねん 

で」                   

「何言うてんねん。野球なんか、体が大きく 

て、足の早いもんが勝つもんや」      

野村ID野球も母親には理解されなかった 

ようで…。結局、母親にはクラブを辞めたと 

いうウソをついてまで、カツヤ少年は野球を 

続けたのでございます。昭和四三年に母親が 

亡くなるまで孝行息子で通したノムラカツヤ 

の、一番親不幸な時代だったと申せましょう。 




「あら、(言わないとわからないわね)サチ 

ヨよ。あーら、あなたもウソついてたの。ダ 

メよ、ウソなんかついちゃ、ウソはいつかは 

バレるものなのよ」            

「お前も、まだ昭和55年わかったら、急に 

強気になったな」             




打率四割二分、十二試合で十九盗塁という 

成績は、確かに高校生としては素晴らしい成 

績でございましたが、まわりのレベルを考え 

れば、プロどうこうといえるレベルでありま 

せん。ところが運というのは向いてくるもの 

で、当時の峰山高校野球部の部長先生は野球 

の「や」の字も知らないシロウトだったので、 

「んーん、ノムラ君は素晴らしい、きっと野 

球の天才に違いない」と一人で舞い上がって、 

恐い物知らずで、当時のプロ野球の三人の監 

督に手紙を出しました。鶴岡一人・南海監督。 

湯浅ヨシオ・毎日監督。そして松木謙治郎・ 

タイガース監督。この時、反応してくれたの 

が、南海の鶴岡監督一人であったのが、まさ 

に後のプロ野球界の運命を変えることとなっ 

たのでございます。            

いろんな伝説があります。甲子園にも出な 

かったノムラが、なぜ南海ホークスに入団で 

きたのか。監督のきまぐれ、球拾いのかわり、 

…面白いのが入団テストの昼休みに、カレー 

ライスが出て、なにしろカレーライスなんて 

食べたことないから、緊張でガチガチになっ 

ている他の選手を尻目に、一杯、ニ杯、三杯 

めまでお代わりした。鶴岡一人監督は    

「こいつは大物になる」といって入団を許可 

したとか……ま、これこそ「講釈師見てきた 

ようなウソをつき」ですけどね。      

新人がシゴかれるのは当たり前ですが、特 

にまだ戦後間もない昭和二十年代、毎日毎日 

倒れこむように疲れて帰ってくるのは窓のな 

い三畳一間の寮。しかし、母の反対を押切り、 

兄の進学を犠牲にしてプロに入ったノムラカ 

ツヤには音を上げているヒマなどありません 

でした。                 

人より一時間早く起きて走り、人より一時 

間遅く寝てキャッチャーの勉強。このバッタ 

ーのクセは何か。ピッチャーにどこに投げさ 

せれば打たれないか……ノムラカツヤ、26 

年の現役時代に残した大学ノートが何十冊と 

たまってのですが、この研究熱心さは、兄の 

大学進学を犠牲にしたことへの後ろめたさが 

あったゆえかも知れません。        




必死の努力の甲斐あって、テスト入団のノ 

ムラカツヤは一軍の試合にも出してもらえる 

ようになりますが、九試合に出ただけで、捕 

手としてもバッターとしても失格の烙印を押 

され、次の年は一塁手にコンバートになりま 

す。コンバート、というのはいってみれば、 

電車の運転手としてJRに入ったのが駅の中 

の店でお惣菜を売らされるようなもので、ノ 

ムラカツヤにとっての問題は、一塁には当時 

の名選手がレギュラーで入っている。自分の 

出番がない…実際、次の年の「一塁手」ノム 

ラカツヤは一度も試合に出番がありませんで 

した。いよいよクビと思うと、故郷の母の、 

兄の顔が浮かんで夜も眠れません。それでも 

ノムラは諦めませんでした。歩く時にはゴム 

マリを握って握力を高める、寝床にも砂を詰 

めた一升瓶を置いて腕力を鍛える、まさに一 

秒たりとも努力をおしまない。       

「野球は、9回裏、ツーアウトからでも逆転 

できる。それが野球なんや」        

後に監督となったノムラが「再生工場」と 

呼ばれ、キャッチャーの飯田を外野にコンバ 

ートしたり、あるいはピッチャー失格になっ 

た遠山をピッチャーに戻したりするのは、コ 

ンバートされる辛さ、慣れない仕事をやる辛 

さ以上に、「自分の出番がない」といをこと 

の悔しさを二十歳の時に知ったからなのでご 

ざいましょう。              

早く一流選手になって、金を稼ぎたい、早 

く母親に楽をさせてやりたい。そのためには 

キャッチャーでなければだめだ、自分の力を 

活かせるポジションはキャッチャーしかない 

……。その念が通じてか、あくる年には再び 

キャッチャーに戻され、ついにレギュラーの 

座をつかんだのでございます…。      




「サッチーよ。あの時はノムラはすごいツイ 

てたのよね。ライバルはトレードになったり、 

ケガしたり…。まあ、まさか裏でなんかやっ 

たとは言わないけど、やっぱり悪運が強いの 

よね。ま、一番の運はワタシと一緒になれた 

ってことだけどね。ね、あなた。マスコミで 

も黙ってないで、ひと言言ってちょうだい」 

「そうやな、ま、お前ととの結婚は『悪運』 

ちゅうより、『運』がなくて『悪』だけかも 

しれんな…」               

「何、もいっぺん言ってごらんなさい。ブタ 

って言ってやるわよ」           

「人生は、重き荷を背負って坂道を登るが如 

し。ワシがここまでこれたんは、お前という 

重荷のおかげやで…」           




再び閑話休題。             

レギュラーになっても、チーム内での争い 

は続きます。キャッチャーというのはなんと 

言ってもケガの多い役割。ホームに滑り込む 

選手は一点を取るために体当たりをしてきま 

す。スパイクで蹴られて足に穴があいて腐っ 

てきても、デットボールが頭に当たって耳か 

ら血が出た次の日も、ノムラカツヤは絶対に 

試合を休みませんでした。一日でも休めばレ 

ギュラーう取られる、毎日が戦いでございま 

す。そして、このころ、スターとして将来を 

約束された長島が、子供の頃からの憧れだっ 

た巨人に入団。以来、二人の40年に渡る一 

方的なライバル関係が続くことになるのでご 

ざいます。                

その後の活躍は、ご年配の方ならばご記憶 

のことと思います。いつも長島監督との対比 

がとりざたされますが、実際のバッターノム 

ラは、あの、世界の王貞治とイッキ打ちを演 

じてきたのでございます。しかし、世界の王 

が600号を打つ時には観客は4万人、ノム 

ラが打つ時は、観客7000人。一事が万事。 

子供の頃、新聞配達、アイスクリーム売り、 

そして子守をしながら憧れ続けてきた巨人の 

活躍を、同じプロ野球に身を置きながら見つ 

づけてきたノムラの心境いかばかりでありま 

したでしょうか。やがて昭和40年、戦後ニ 

リーグ制初の三冠王に輝くのございます。3 

冠王てのは、ホームラン王、打率王、打点王 

……。つまり、棒に当たったタマが、「遠く 

とぶ」「いつでも飛ぶ」「大事な時に飛ぶ」 

あの長島ですらやったことのない大記録なの 

でございます。さらに捕手兼監督兼四番打者 

という、ダレもやったことのない重責を担う 

……。                  




あの苦しい戦中戦後の日々を育ててくれた 

母ふみは、そんなノムラカツヤの絶頂の時、 

昭和四三年になくなりました。       

「そのすぐ前の年、おふくろと初めてふたり 

切りで旅行にいったんや。もう体も弱っとっ 

たけど、喜んでくれてなあ。その時にな…… 

あの気の強い、口では絶対に負けんあのおふ 

くろが、こう言うたんや。『ワタシの人生、 

なんもええことがなかった、病気と二人三脚 

で何のとりえもなかったけどな、ただ、子供 

にだけは、恵まれてたな…。カツヤ、野球や 

って良かったな、輝いて見えるで』最期の最 

期までなんとか親孝行ができたのも、ホンマ、 

野球のおかげやった…」          




この時はサッチー、鬼の目にも涙…。   

「そのすぐ後、ワタシと出会って、南海をク 

ビになるのよねえ……」          

「わしも、母親が死んで、気が動転してたか 

らなあ…」                

「何か言った?」             

「いや、何でもない…」          

「とにかく…とにかく。話を始めに戻すわよ。 

そんな大事な野球を、どうして、どうして引 

退するていうのよ」            

「今日の試合、代打を出されたんや。三塁に 

ランナーがおる。犠牲フライならお手のもん 

や、26年打ってきたんやから。ところが、 

根本監督が『代打・鈴木ハルヒコ』というた 

んや。ワシは自分の耳を疑ったで」     

「じゃ、若い者と変えられたから、それだけ 

のことで、引退するの?」         

「イヤ……イヤそうやない。その後や、ベン 

チに下がった後や。ワシはな、ワシは、その 

ワシに変わった鈴木がアウトになるのをみて、

喜んだんや。『ざまあみろ、ワシに打たさん 

からじゃ。こんな試合、負けてしまえ。西武 

なんか、負けてしまえ…』26年間、自分の 

チームが負けることを願うたことなんかイッ 

ペンもなかった…ワシはチームを、野球を裏 

切ったんや。その時ワシは、もうやめよう、 

そうおもうたんや…どや、サチヨ」     

「……長い間、本当にお疲れさまでした」  

恐らく、初めてみるサッチーのしおらしい 

態度に、ノムラカツヤも、あの、26年間身 

につけてまいりました、重いプロテクターの 

鎧をを外すことができたのでございます。  







やがて約十年の浪人のあと、ヤクルト監督 

に就任、低迷ヤクルトを優勝に導き、以来4 

度の優勝、3度の日本一に輝き、昨年退団、 

そして、電撃の阪神タイガース入団となるわ 

けでございます。そして、選手との初顔合わ 

せ…。                  

「ええ、今日、君達と初めて顔を合わせるこ 

とになった、監督の野村です。まあ、顔はヤ 

クルト時代からイヤというほど合わせ取るが 

な……。今日から君らと阪神を建て直すにあ 

たって、言うとくことがある。まず初めに、 

和田君。チームリーダの和田豊君、ちょっと 

立ってみ?」               

指名されましたのは、今年36才、私と同 

じ年ですが年収が百倍多い、10年後の監督 

候補生、和田豊二塁手でございます。    

「君は……、新聞のインタビューに答えて、 

『監督が変わっても優勝できるとは思いませ 

ん。選手のやることは変わりませんから』と 

言うとったそうやな」           

「いや、それは…。いままでと変わらぬ努力 

をするということです」          

「いままでと変わらんでどうするんや。変わ 

らんで、また去年みたいに一番下でええん  

か? ワシは去年まで敵として君らを見とっ 

たで。ちょっと点取られたら、『ああ今日も 

負けや』『もうアカン、今年もドベや』そん 

な態度が手に取るようにわかる。やりやすい 

チームやったわ。君ら、みんな、チーム全体 

が、そうや。何であきらめる? 何でアカン 

と思うんや。君らは野球を知らん。野球ちゅ 

うのは、他のスポーツとちがう。何点負けて 

ても、何十点負けてても、9回裏、最後の最 

後、ツーストライク取られて最後の一球まで 

勝てる可能性が残ってる。そういうスポーツ 

なんや。金がなかったら工夫して、力がなか 

ったら頭で、才能がなかったら努力で、最後 

の最後まであきらめないことを教える、最後 

の最後まで、どうやったら自分が輝くことが 

できるかを教える。そんなスポーツなんや。 

君らは…君らは野球の素晴らしさを知らん。 

それは、人生の素晴らしさを知らんちゅうこ 

っちゃ。それがわからん人はどうぞ、辞めて 

ください。それを分かってくれる人と、ワシ 

は今年、野球の素晴らしさを分かち合いたい。 

以上」。                 

そして阪神タイガースは変わりました。ヤ 

リ玉にあがった和田選手も、今は必ずノムラ 

監督の前に座り、すべてを吸収しようと勤め 

ています。そして今日も。ノムラカツヤの人 

生をかけた、人生を輝かすための戦いが続い 

ているのでございます。          

球界の月見草。太宰治の『富嶽百景』には 

こう書かれています。           

「3778メートルの富士の山と、立派に相 

対してミジンも揺るがず。ケナゲに立ちつづ 

ける、富士には月見草がよく似合う」    

ノムラカツヤ物語。これを持って読み終わ 

りといたします…。