評論アーカイブ








2004年までの「評論」です
『千と千尋の神隠し』
030124
この「評論」のコーナーは、もしかすると廃止(というか、作らない)かも知れない。だいたい「日記」に雑感を書けば済むことだから。
『千と千尋の神隠し』日本で一番収益の上がった映画。私と宮崎駿監督とのことを書き始めるととてもここでは足りない。「物語りのミレニアム」の中の「クリエイターインタビュー」を参照のこと。芸人になった原因の二つのうちのひとつである。
この映画は評論してもあまり意味がないかも知れない。自分が感じたことがすべてだし、理屈をつけたい人はつければよい。映画館で一回しか見ていないにも関わらず、ほぼ細部まで記憶通りだったというのは見て以来何度も反復していたからに違いない。
普通、宮崎アニメというと「泣く」のを楽しみにするのだが、この映画は違う。強いて涙が出たシーンといえば「今からそっちへ行きます」か、千尋の。百回みれば百回深まるという「無限チューイングガム」のような映画である。

またホラと思われるかもしれないが、私自身、映画とまったく同じ、記憶にはなく親から聞かされてそれが映像として残っている「溺れた記憶」がある。場所は白浜温泉だったそうだ。宮崎氏の作品には、ほかにも個人的な体験がそのまま重なるものが多すぎる。それは単に宮崎作品が普遍性をついているなどというレベルのものではない。

・・・・・・これって評論か?
『地球市場・富の攻防』(NHK)
030127
3/22の独演会に向けて、このシリーズにもアイデアを求めて行こうと思う。昨日、『講談ビル・ゲイツ』をやって実感したことは「ああ、ソフトといえども、汗水たらして新しいものを作り出していたのだなあ」ということだ。地球規模のマネーゲームは富を右から左へ動かすだけで何ものも作り出しはしない。つまり、富を偏在させることによって価値(もどき)を作り出している。「ゼロサム社会」という言葉が未だにまかり通っていることには軽い驚きを感じた。
次の独演会は幕末の話になるわけだが、『開国〜愚直の宰相・堀田正睦』(佐藤雅美)の中でも、江戸末期に「貨幣」として使われていた銀の価値を意図的に曲解することで日本経済を食い物にする「グローバリズム」が描かれていた。「世の初めから隠されていること」は貨幣による価値の隠蔽である。それは今も変わりはしない。この番組の上手いところは、ヘッジファンドによって左右される日本の財産が「年金」であるという見せ方だ。人は未来そのものをグローバルネットに乗せて賭けをする時代に来たのだ。
「我々が守るのは人類ではない、市場だ」(岩明均『七夕の国』)という台詞が思い出された。
『トーキョー・ボディ』(宮沢章夫 作・演出)
030129 
 お芝居である。かつて「アングラ」とか「小劇場演劇」と呼ばれたお芝居である。今はなんと呼ばれているのだろう。
 宮沢章夫といえば、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」なのかもしれないが、(私の)シティロード時代の「遊園地再生事業団」の活動の方が印象深い(それがご縁で「演劇ぶっく」の学校の講師もやらせてもらったし)・・・おっと、これを書いてしまうと、この後の文章がヨイショに取られかねない。
 無から有を生み出すことができないように、あらゆる作品にはモチーフがある。動機がある。この『トーキョー・ボディ』のモチーフは痛いほど判った。それ以上は、たとえばストーリーの要約などは虚しいほどに「演劇」であった。舞台を見ないと説明できない作品であった。
 それを承知で言うなら「リア王」と「近松門左衛門」と「博士の異常な愛情」(キューブリックの)を同時に素材とした舞台は初めて見たということだろうか。かつて年間100本近く小劇場演劇を見ていた経験に照らしても組み合わせがラジカルすぎる。作者は京都にも拠点を置いているので、客観的にとらえた「トーキョー」という街の不確かさ、猥雑さ、そしてかすかに残る素晴らしさがこれでもかと込められる。あと、作中で「死ぬな!」という絶叫がこれほど繰り返された舞台(映画もだ)また未見である。
 手元に台本がないので記憶に頼るが、「心中天の網島」よろしくトーキョーの果ての海まできた男女が、入水しようとすると、「劇作家」が叫ぶのだ。「船に乗れ!」。
 もう世界は瀬戸際まで来ていると思うひとびとがいる。海に還るしかないと思うひとびとがいる。だから「船に乗れ!」。ロジカル・タイピングからの「命懸けの飛躍」。まだまだ頑張れる!というメッセージと受け取りました。
 ・・・ああ、「らしい」ことを書いちまった・・・・。


(勇気を出して評論らしく<敬称略>です)   
『博士の異常な愛情/ または私は如何にして心配するのを止め
て水爆を愛するようになったか』
030130 
 昨日、『トーキョー・ボディ』で断片を見たと思ったら、今日テレビでこれを見ることになった。こういうのをシンクロニシティ(意味深い偶然)という。思えば38年前のこの映画と状況は私と関わりが深い。映画のモチーフとなったキューバ危機の年に生まれ、核戦争についての講談を聞いて講談師となり、自分自身『危険な講談2』ではラストに主題曲を使った。深刻な題材でありながらなぜこの映画は笑えるのか、そして必ず泣ける。自己犠牲(コング大佐)という最も気高い行為が人類を滅ぼしてしまうという徹底してシニカルな構図は秀逸で、ひょっとすると個人的ベスト・ワンかも知れない。
 思えば40年前の核状況は高度に宗教的であった(そのことは「危険な講談2」でも書いた)。ところが、現在の戦争はもっと日常的で経済的な運動性を持つ。つまり、「つまらない」。人はつまらないことには動かされない。特に芸術はそうだ。テロは大きく起これば題材にもするが一過的で普遍的な作品に結実しない。いっそ平和であればそれもまた税として受けるべき凋落なのだが。
 
『王城の護衛者』(司馬遼太郎)
030131 
 意外と読んでないなあ、司馬さんの小説。幕末関係の四本が収められていておトクな一冊。おトク、とか思うなら「お薦め」に入れればいいのだが、差異化するためにも「お薦め」には「ぜひ万人に薦めたい」ものに限ることにする。
 幕末という時代になぜ惹かれるのか。戦国時代は価値観が統一されていた。武において優れ、城を落としていけばやがて天下を取れる。だが、幕末においてはその価値観すら揺らいで「勤皇・佐幕」の二項対立ですらない。思想とともに「攘夷・開国」という行動の選択も迫られ、それが時々刻々と変化してゆく。これはある意味講談にしにくい複雑さで、単純に物語にするならば、どちらかの勢力に善悪を固定するしかない。所謂「司馬史観」はそれを排しつつ物語りの面白さを保っている。「面白さ」は力である。注意深く読んでいると「これは定説を<創出>しているな?」と疑うシーンがたくさんある。代表的なのは「坂本龍馬が千葉重太郎と勝海舟を斬りに行ってその場で弟子入りした」というものだろう。
 ・・・ああ、この本について書かないと「評論」でなく「日記」だな。
「人斬り以蔵」も面白かったが「加茂の水」の玉松操と錦旗のくだりは何となく知っていた知識にはっきりとした輪郭を与えてくれた。でも、これが「はっきりしすぎ」。大久保一蔵と祇園のおゆうとの会話なんて記録に残ってるハズもないのに(確信はないが)堂々と「見てきたように」書いてある。私が新作講談の手本と考えるはこれである。
『マトリックス』(1999)
030201 
 3年もしてから見たせいもあるだろうが、「感心せんな」。まず、見るまでこれがギャグシネマであることを知らなかった。でも、笑うところが少なすぎる。さらにちょっと高尚なことまで語ろうとする。娯楽映画として認めてもいいけど、それには絵面が人を殺しすぎる。だから感心せん。まあ、アメリカでヒットする映画の限界と言ってしまえばそれまでだが。
 人間の選択の重要性を描きながら主人公は何も選択したとは思えない。ただ気に食わない上司をスーパーマンに変身してぶっ飛ばしただけだ。現実と仮想現実の関係なら「胡蝶の夢」以来描かれ続けているし、もともとSFXにあまり興味がないので、まあ、DVDで鑑賞した点は大いに差し引くとしても新鮮味があるとは思えない。コンセプトもありふれているし、『風の谷のナウシカ』(ただしコミック版)に心酔するものとしては、どれもこれも宮崎駿が手作業でやったことを金かけてCGにした、としか思えない。
 ううむ、なんでこんなにケチョンケチョンなんだろう。ビデオ屋で一泊100円で借りたんだから、コストパフォーマンスはメチャメチャ高いのに、そう、マクドナルドの半額セット並に。ああ、そうか、ほぼ同じストーリー(言い過ぎ?)の『キッス・オブ・ザ・ドラゴン』と比べてしまってるのだろう。カンフーのシーンが格闘技の匂いを嗅いだことのあるものにはギャグにしか見えんのが大きいな。ハリウッドはカンフーアクションをブルースリー以前に戻すべき。
『幕末』(司馬遼太郎)
030207
 幕末期の暗殺を扱った12の短編からなっている。司馬自身、『竜馬がゆく』の終章で暗殺者に対する憎悪を述べているくらいで、暗殺者(今風に読みかえるとテロリストか)には好感を持っていない。暗殺は何事も時代の流れを変えはしない、と言いつつ、しかし「桜田門外の変」の歴史的価値を評価している点はあきらかに自家撞着である。ここには「暗殺だけは、きらいだ」という著者の個人的嗜好と、それを許せないという倫理的表明が残るだけだ。
 読んでみてなるほど、魅力的な人物は少なく心に残った章も見当たらない。ただ、姉小路少将だの、吉田東洋だのよく知った暗殺シーンも、やはり映像で見たものの方を文章の詳細が超えられなかったのは想像力の欠如によるか。それでもその枝葉が徐々につながりを持って大樹の姿を見せようとしている気にはなれた。
 余談になるが、これを読んでいる時、アイルランド(これも司馬氏の著作があるが、未読)ドネゴール海岸の城の写真を見て、フト、その城にまつわる血煙の上がったであろう時間に想いを馳せ
世界観というものがほんの微か、広がった気した。

『うさぎにもわかる経済学』(長瀬勝彦)PHP文庫・533円
030208
 これは「お薦め」に入れてもいいのかも知れない。薄い本でありながら気づかなかったことに気づけるという点でコストパフォーマンス抜群の本である。
 「学」とはなんと冷徹なものなのだろう。この本の中では「経済学的に」見ると、さまざまな犯罪を防止するには「売春を解禁し」「麻薬を公認し」「ギャンブルを開放すれば」良いと「書いてある」。いや、著者は否定するだろうが、全編に渡ってそういう「筋の通らない」結論が導かれている。コメの自由化反対や「陰謀史観」の幼稚さを叩くなど同世代の著者に限りなく共感するにもかかわらず、最終的には「経済学的に」正しいことに心を動かされる芯はない。そして、ここで大事なのはその「筋の通らない結論」を導く「学」を無視したままただ否定しても負け犬の遠吠え、いや、「成層圏から目薬」にしかならないということだ。
 常々「学」というものを心底では目の仇にしている(本当は「学」の前にいくつか付けたい漢字があるのだが、戦闘力がつくまでは隠しておく)。だが、「俺のいうことが正しい」「俺の感じることが一番正しい」←本当はこれが正しいのだが、説得力がないものを「独我論」といってゴミ箱に捨てることに世間ではなっている。
 世界はあまりに複雑で、理解するには根気よく勉強しなくてはならない(195P)その通りである。いまさら経済学の入門書など読んでいる段階で死ぬまでに「学」どもと戦えるかどうかはわからないが、たとえ腕立て伏せでも続けている限り「絶望」という名のスパイに命を奪われることはない。
 話がそれたが、一読して損のない本なので、爾後「お薦め」については出版社と価格を付記する。
『風雲児たち・幕末編』みなもと太郎
030212 
 でも、まだ龍馬はヒトコマくらいしか出てこないんだな。鼻たらしっぱなしの龍馬のキャラクターは魅力的。みなもと氏もまた、「歴史」のストーリーにとりつかれた一人なんでしょう。漫画とはいえ、勉強の量が半端に見えない。しかし、吉田松陰をあんな「ボー」とした顔で描く度胸は大したもの。それが悪意でないのがまたスゴイ。この『風雲児たち』のシリーズも、訳あってか、何冊かの雑誌を転々としている。江戸時代の一大叙事ギャグ。でも志はギャグではなさそう。しかし「作画グループ」の先生方は、聖悠紀の『超人ロック』といいどうして彷徨いが好きなのだろう。あ、超人ロックの方も私は「歴史漫画」だと思っています。
『永遠平和のために』カント
030213 
 行き詰まってますです。このままじゃ、新作講談「薩長同盟」の長州が北朝鮮で、韓国と組んでアメリカ倒すのかってハナシになっちまうんだよ、エライこっちゃ。こういう時には「教えて! エライ人」で、まさかキリスト様じゃ近代国家なんて知らなさすぎるだろうから一応、江戸時代の人でっわけでカント。
 いやいや、博学です。日本のことを「ジパング」じゃなくて、「ニポン」と呼ぶべきと。しかも、当時の日本の鎖国政策も細かいトコまで知ってて評価してる、さすがに哲学界の東照大権現と言われるだけのことはある(ちがった?)。
 200年前の本なのに「超大国が世界のためになるからと小さな国を飲み込むことなどあってはならない」とか、「戦争の理由を説明するより事後承諾の方が正当化がやりやすいと思ってるだろ? オマエ!」とか、まさに今、草ボウボウの某大統領に言ってやりたい文言の連続(こないだのドイツの代表はちゃんと読んでたのか?)。ダテに国際連盟の精神的生みの親になってない、空理空論と思われぬよう「筋」を通すことで押しまくっている。
 龍馬が批判した勤皇党の「暗殺活動」の是非、薩長が争うことで誰が得をするのか、すべてカントの「筋通し」で読み解けるといったらホメすぎだけど、いちおう大ヒントはここだった「商業精神は戦争とは両立できない」まさに。しかし、龍馬にカントを読ませるワケにもいかん・・・・かなあ。
 余談だけど、カントって「エマニエル」って名前なのね。じゃ、もし結婚してたら奥さんはエマニエル夫人・・・って、あの映画自体が「真面目の総本山」カントのパロだったのかしら。
    
 
『もののけ姫』(宮崎駿・監督)
030215
 30年来の宮崎駿ファンとしては、公開当時はそれほど感心しなかった。物語的なカタルシスのあるものは他にも一杯あるじゃないか、と。しかし、『風の帰る場所』というインタビュー集を読んで宮崎駿がいかにここに落ち着いたかを知ってみると、かなり違った印象を受けることになった。まあ、本来はバックステージから作品の評価が変わること自体褒められたことではないのだろうが。なるほど、「ここ」以外に行き着く場所はないのか、と。それにしたって「もののけ姫」自体に思い入れができないのはマイナスである。タタラ場の描写にしても、女性観の先鋭性は、予想するに、監督自身の職場における女性の比率を反映しているはずだ。どんなに見識が深くても、アニメの監督の生活の広がりは限定されるだろう、そこから肩ナメ(撮影用語、肩ごしにって意味か、だったらそう書けよ)に現実世界が捉えられている。
 うーん、なんか筆がノラないのは、やはり根本的には受け付けてないのかなあ。作品は評価するものではなく暴力的に巻き込まれるもののはずなんだがなあ。ラスト近く、太古から中世の闇と豊かさが取り払われ、近世から近代のある種かわいた明るさに取って変わられる時(シシ神に首が戻って「森」が「野」に変わる時)、「アサノ侍」の旗指物が風に巻きながら空へ飛んでいくのを見ながら、中東紛争を思い北朝鮮を思った。
 あと、大ラスの「馬鹿にはかなわん」。スタジオジブリの正面玄関に「馬鹿」という額が掲げられていたことを思い出す。この「馬鹿」は断じて「無知」ではないだろう。
『ベルリン・天使の詩』(1987)
030216 
 お薦めなのだが、パンフが手元にないので画像なし。ただ手放しに絶賛してもいいんだけど・・・。この頃にはまだベルリンの壁があった、そして人類は希望に満ちていた、いつか壁が取り除かれるという希望に。いや、政治の話はよそう、暗くなるだけだ。
 数年ぶりに見ると「もののけ姫」と同じくいろいろな事が違っている。人間になった天使とピーター・フォークの間には壁と言えないまでも柵があったり、あんなに騒々しく思っていたインサート・ミュージックがやたらソフトに感じられたり。シニカルになった。生れ死んだ(造語)時と場所が朝でなく曇りの日の夕方で、ベルリンでなく東京だったら希望など描けるかと。答=描ける。上野美術館前の広場と都心が歩いて行けないとでも言うのか。
 それにしてもこの映画は公開当時不思議なほどあらゆる階層に受け入れられたよなあ。それはなぜと言えば、「詩」(うたと読むが「し」)だからなんだろうね。原題は「ベルリン上空」だったはず。「詩」というと、一般に「詩っぽいもの」を想像するが(いわゆるメルヘンチックな語句の羅列)詩とは本来、見慣れた世界に線を引き直す作業のはずである。日常の風景に「人の心の声が聞こえる」という線を引き直しただけでも限りなく心を引かれる。さらに「コロンボ」である。まるで日本人向けに作られたような・・・・いや、実際によい作品というものはすべてオーダーメイドに見えなくてはいけない。なにしろ講釈師になった当時の宣言のひとつにしちまったくらいだからな。そんな映画はこれ以降「少女革命ウテナ」くらいしかねえもの。
 それにてしても好きな映画にモノクロが多いのはなぜだろう。
『幕末』(1970)『竜馬がゆく』(?)
030222
 え〜、あ〜、映画はビデオで観たバアイ、その魅力は半減すると思うのですが(ライブもの=演劇・演芸などは4分の1)それを承知で書きます。
 はあ。なるほど。「素材に自信がありすぎると」こうなるのですね。しかも司馬流「竜」馬の名シーンを、短い時間にこれでもか、これでもかと盛り込もうとすると・・・・。それに錦之助さんの「竜」馬への思い入れが冷えるのが待てなかったビールの泡のようにダーーッと吹きこぼれております。なるほど。最も自戒しなくてはならないところですね。勉強のために孫正義の扮装した龍馬もいっぺん見てみたいものだ(そういえば、立ち消えになったが、孫=龍馬で講談をやってくれという依頼が遥か昔にあったな・・・・あれが龍馬との出会いかも)。
 これは私に特別な感情ではないと思うが、どんなに「素晴らしい」と客観的に評価されているものでも、対象を目前に「すばらしい、スゴイ、ンバラシイ!」を連発されると「そうか?」と言いたくなってしまう。特に対象の所有者にやられると最高に鼻白む。映画にするということは一種の所有であるから・・・・・(コノヘンニシトコ)。
 繰り返すようだが、私は別に坂本龍馬信者ではないんです。個人的には桂小五郎とかの方が感情移入できる。ただ、4年前、月のない桂浜で龍馬に直接いわれたんだから仕方ない・・・・「日本を頼む」と・・・・(コノヘンニシトコ)。
 とにかく、土佐弁って、関西弁に似てるだけに、標準語とゴッチャにされると赤井秀和と鈴木サリナの標準語ラブシーン並に気持ち悪い。
  
「仮想報道」歌田明弘(週刊アスキー連載)
030225 
 私が雑誌のコラムで一番注目しているのが歌田氏。最先端の情報と足が地についた論評は(多分)世代が近いせいだろうが、共感できるものが多い。
 今回は「著作権」についての問題で、たとえば「ハッピーバースデー、トゥー・ユー♪」と歌うことも、家の中で歌う分にはいいが、レストランなどで歌うと著作権を取られかねない、という悪い冗談のような現実を取り上げている。たとえばアメリカは知的所有権が現在最高の輸出品なので、権勢にまかせてどんどん著作権の保護期間を延長している。さきの「ハッピーバースデー」などは、AOLタイムワーナーで法人だから2030年まで保護される。そして、たぶん、その頃には「あと20年、あと30年」と延期され、結局永遠に続くだろう、と。ミッキーマウスは永遠にミッキーのままで、多分、今後人類が何万年生きようとも、たぶん、ネズミの擬人化はミッキーで終わりだろう。何万年も死ぬことも生まれ変わることも許されなかったミッキーはやがて尻尾が八股に分かれ、目からは光線を出し、口からは炎のような舌をチロチロと出す怪物と化してゆくだろう。

  ・・・・後半は私の予想です。正直、私は「著作権」の否定論者なんです。本当は、講談一回やって、米と味噌を少しもらう、そしてそれが何の不都合も生まない、そんな社会が理想なんです。
『経済の読み方』末永徹
030227 
 右翼ぎみの友人が英会話を始めた。「敵を知れば百戦・・・」だそうだ。私にとってはそれが経済書なのかも知れない。『テロリスト大石内蔵助』を書いた時には「マネタリズムを用いた荻原重秀の元禄の経済政策」からグローバリズムを批判したつもりだったが、やはり力不足であった。「金が仇の世の中」の基本的な行動原理はやはり経済が握っている、しかし、それにを常に警戒し、(所詮下部構造の規定力に乗っかるにしても)批判を加え続けることが「物語り」の使命だと信じているわけだ。
 しかし、たとえば経済の外部性についての説明。環境問題を規制によるか税をかけるかで、課税に軍配が上がるのはつまり「環境汚染物質を100トン規制せよ」とするより「100トンにつき環境税何円節約できる」すなわち「トクをする」という動機の方が継続的であるということを明確にする「経済学」は、信じていたほどに「人間性」とかけ離れた学問ではないようである。
 人は何かのために生きている。経済もまたその指標のひとつであることは間違いない。そう、たとえば戦争が「非効率的な経済性」しかもっていない、といった命題が経済学によって証明されればヒューマニズムなどおよびもつかぬ最高の抑止力になるだろう。
 ただし、ただし、逆の証明もまたあり得るのだという危険も自覚しつつ。
『幾松物語』美原研
030303
 桂小五郎と、彼を助けた夫人・幾松との物語。予想通り、桂って、主役になってもかばいきれない「主役になりにくい」キャラ。ま、正しくは幾松が主役だが、亭主が情けないヤツってのはなかなか大変。だけど、芸妓から「参議夫人」にまで登り詰めるサクセス・ストーリーとしてはすばらしい。踊り(じゃなくて「舞」)から入って舞のシーンで終わる(「都おどり」の起源)構成も見事。史実との比率がよくわからないが、なるほど、維新を女性の立場から見守るとこうなるのか。
 小五郎が幾松を見初めるのに「舞」も「剣術」も同じ、と感心するあたり、女性という永遠の謎の一部を解いて「我が意を得たり」と「舞」いあがる男の愚かしさが出ていて面白い。でも、著者が男性っていうのは・・・・リアリティあるのかなあ。女性が講談にでもしたらキレイな話だと思うけどなあ。
 桂小五郎もエラいんだろうけど、どうしたって坂本龍馬や西郷隆盛や高杉晋作のイメージにかこまれると負けちゃうなあ。村田蔵六にも負けてる。そこがなんとなく愛おしくて、なんか幾松に感情移入しちゃった。でも、浮気相手の子供はおろさせるし、女性に人気の出るキャラにはなれんわな。龍馬ってこうするとナガシマさんかな。王貞治な中岡慎太郎とか、ノムラカツヤな桂小五郎にかこまれたおかげで「海はでっかいぜよ」っていってるだけで目立てる存在になれた。巡り合わせって大切。
『国際連合という神話』色摩力夫
030313
 今、まさに国連決議ムシでアメリカがせんそーしようという時。ちなみに、ニポーンも同調、の時。どこかで聞いたんだか「UNってのはまんま<連合国>ってイミらしい」と聞いて。しかも、まだ日本って「敵国」じゃん! 高座では憤ってみせたけど、別にいいよね、名目上のことなんて。
 とりあえず「生命絶対尊重」はくずしてないんだけど、「軍備は生命を奪うものだから必要ナシ!」という信念がここ半年で崩れた。理由はやっぱり「北」の問題だ。あと、古代史関係で井沢っちを読みすぎたこともあるだろう。しかし、アメリカでなく国連が「世界の警察」をやってくれるんなら、大いに協力して、世界的武装解除も夢ではない・・・・と祈念したが、それを「夢だ!」と断言するのがこの本。
 熱心に読んだんだけど、内容は別にそんなにどうでもいい。ただ終章のこのことばだ
 「理想主義はとかく<想像力の貧困>から生まれる」(オルテガ)。
そして、たぶん小学校の時から考えている結論がここにも書かれていた「戦争よりも合理的で実効的な国際紛争の解決手段」が必要なのだと。
 それを生み出すものもまた、想像力というものであろう。
『幕末の社会史』工藤恭吉
030313
 「徳川幕府が崩壊する過程で資本主義的経済はいかに芽生えたか?」っていうのがオビについてたから買ったが・・・・「的」って文字を見逃していたなあ・・・・いや、いいんだけどね・・・・。
 田沼意次の評価で全体の評価がわかってしまう気がする。もちろんそんな専門的な知識があるわけではないんだが、40年前に書かれたことを差し引いても、少し評価が低すぎる気がする。当然講談的には田沼なんて褒めるところはひとつもないはずで、その政策の否定のために現れた松平定信なんていうのは「正義としての記号」みたいなもんなんだけど。
 なんていうか、江戸時代の階層的社会を否定的にとらえるなら、かつての去年読んだ女性史みたいにテッテー的に書いてくれた方がありがたいんだけど。「水牢」の悲惨さがチロッと出たあとはひたすら分析、分析、分析・・・漢数字が並ぶ縦書きの本って、ちょっと読みにくいです。剰余価値は出てくるんだけど、マル経ってワケでもないし・・・・知識が足りないかな、私の。
 で、この本には書かれてなかったんだけど、江戸時代の三代改革っていうのは、武家社会が自己保身をしようとすくる運動と見たんだけど、それを検証することもこの本からはちょっと出来ない気がした。勉強、勉強。
『刑務所の中』(主演・山崎努)
030317
 花輪和一のマンガを崔洋一が映像化したもの。ひょっとすると、一度も腕時計を見なかった唯一の映画(宮崎駿を含めても)。だって、宮崎アニメだと、「あと何分でクライマックスか」が気になるんだもの。中年男が銃の不法所持で刑務所に入る、いや、「入ってるだけ」の話。何のクライマクッスがあり得ようか。たとえば、「懲罰房」つまり、独房に年老いた囚人がブチ込まれる、その描写そのものは悲惨だが、その理由が「クロスワードパズルに書き込んだから」この不条理さがなぜ失笑を、しかも愚かな優しさをたっぷり水びたしにした笑いを呼ぶのは何故だろうか。
 小心者(?それさえ描かれてるとは言えない)のガンマニアの山崎努は独房が好きだったりする、「たとえ一生ここにいろと言われても、三日もワンワン泣いたらあきらめがつく」と細長い、二畳ほどの日当たり良好の独房を見渡す。なぜ、そこに「虚無」のかけらも見えないのだろうか? 
 シューマンの「トロイメライ」が流れる。「子供の頃には、牢屋に入るなんて思ってもいなかった」。正月の食事の豪華さに「人の望みの喜び」が流れる。何の気力もない房舎での運動に「G線上のアリア」が流れる・・・・。窪塚洋介は人殺しであるが、「早く家に帰って子供を抱きてえな〜」と、泣きもせず、悪びれもせずにつぶやく。
  この危うさのない明るさは何なのだ? 人はもともと罪深く生まれついている、だから刑務所の中に入るいることが最も落ち着くのだ、と理屈をつけてみても掴んだ指の間からサラサラとこぼれ落ちる虚無とは違う砂粒は何なのだ? たぶん、「刑務所のメシ」がうまそうに描写されているからかも知れない。この映画は、ここ数年で最も優れた「癒しの」映画である。
イラクへの武力行使
030320
 いかに「評論」のページといえ、評論すべき事柄は選ばなくてはならない。少なくとも「講談師・神田陽司」のページ内である以上、いかに客観的に書いたとしても、限界がある。それはこういうことだ。
 故・藤山寛美先生は自分にとっての芸人ライフの原点である。そのコトバに「私はCMには出ません、CMに出たら、競争会社のお客さまに楽しんでもらえません」というのがある。まだ芸人になる決意のないハズの小学生の時からこのコトバは心に残っている。
 はとバスなどで、ちょっと政治ネタを挟むことはある。○首相の時は世間に乗じて悪口を並べてたら、地元の方がいて冷や汗が出た、なんてこともあった。だから、政治をネタにすることはあっても、政治的な立場を表明することはできるだけ控えようと思っている。
 しかし、「CMに出ない気はない」程度に確信のあることは口にしていく。ただ、それはあくまで「読み物」の中でであって、口先の「評論」をしたいのなら、さっさと政治家にでもなるべきだと思っている。
 イラクへの武力行使について。「人が死ぬのはいついかなる時にも嬉しいことではない」。これは、今回の誰かの何かについて支持するとかしないとかは別ものだ。ただ、思うことがある。たとえば、たとえばだが、今「反戦」を口にすることは精神的に良い効果を与えない気がしている。なぜならそれは、自分の無力感を確認する行為でしかないからだ。では、何をすれば良いのか?
 「世に生を受けたるは事をなすにあり」の「事」とはもともとビジネス、だったという。ビジネス、戦争ビジネス、というコトバがあることを知りつつも、ビジネスは「戦争」の対立概念だ。「戦争」は相手を排除することで損益を受け入れる。ビジネス、は相手と相互関係を持つことで利益を追求する。
 反戦とは、「仕事」をすることであると結論する。
『人をつくる教育、国をつくる教育』小室直樹、大越俊夫(日新報道)
030325
 ああ、つい出版社まで書いてしまった。どうも「国」とか「教育」とかの本を読むと「右か、左か」という色眼鏡をかけて読んでしまう。そして、「小室直樹」の名を見れば・・・・。ついでにこの本を読んだ理由が副題の「いまこそ、吉田松陰に学べ!」とくれば・・・・。
 色眼鏡をかけることは思考を狭く狭くする。枝葉の話だが、たとえば著者の一人が作っている不登校の生徒を教育する学校の母親の会を「エプロン会」と名付けている、という部分を読んだだけで、ある種の思想を持つひとは、この本の全体を判断してしまうだろう。自分は「そう判断してしまう人もいるだろう」という眼鏡までは外していないわけだが、とにかく素直に読んでいけば得るところが多くある本だった。
 私はまず「現場」の人を信頼する。不登校の生徒を引き受け、心の病や犯罪に陥ることを防ぎ、その成果を上げている人は間違いなくダレかに必要とされている。その「必要とされている」人の発言である以上、かならず有用な部分がある。逆にどんな良い考えを述べていても現実を満足に生ききれなかった人の言葉には逆に疑いをもってしまう(これも色眼鏡。しかし経験上、そういう人の方がより普遍的な真理を突いている場合が多い気がする)。その人があの「奇人」という印象のある小室直樹をまるで神の如くに信頼している・・・・ある種「出会わ」なければ読むはずのない本だったろう。
 一言でまとめると「連帯感をなくしたからオーム事件が起こった、そこに教育の荒廃を見る」ということだろう。この「連帯感」をも、色眼鏡を外してとらえれば、間違いなく真をついている、っていうか、自分が新作講談を作る時、いちおう考え抜いた結論がそのまま文章にされていたりする「何が正しいかを言い切ったから、子供たちはそれを信用してしまったのだ」と。
 さらに、ラストでは、半新作の持ちネタ『エジソン』のエッセンスの部分がそのまま引用されていたりする。驚くほど自分に近い本だったのだ。これは「出会った」本であった。龍馬のおかげ。
   
『千と千尋の神隠し』アカデミー賞受賞!
030325
 近々、他のコーナーは廃止して、この「評論」を「評論日記」として独立させるつもりです。
 宮崎駿という人は、私が「演出家」というものを志した時の原点である。最初に「表現の仕事」に興味を持ったのはマンガの赤塚不二夫と舞台の藤山寛美が同時くらいだと思うが、その後チャップリンとめぐりあい、にも関わらず「映画監督」を志したことはなかった。その時期の後『未来少年コナン』というアニメを見(コナンは「犯人はお前だ!」とかは言わない)原作を読んで(「残された人々」現在は「未来少年コナン」として発売かな、看板に偽りだ!)あまりのアニメとの差に驚愕した。その時「演出」というコトバを知り、「監督」ではなく「演出家」を志すようになったのだ。もともとオリジナルな世界を想像する力はない気がしていた、何か題材を自分なりに解釈して、最も「好み」に仕立て上げる・・・・そんな仕事ができないかと。藤山寛美先生も「役者」という立場から作品を解釈する、赤塚不二夫は、たとえばオー・ヘンリーやチャップリンを「マンガ」にする。これすべて「演出」という行為ではないかと。以来、アニメで覚えたコトバであるにもかかわらず、なぜか「舞台の演出家」を目指す時間が何年も続き、しかもそれが人生の進路を決める時期であったために・・・・・コンナコトニ・・・・。
 宮崎駿という人は「映像監督」とか「アニメ監督」とか紹介されるが、「映像作家」ではない。いや、作家というよりは、思想家たらんとしているのかも知れない。ミヒャエル・エンデ的なスタンスというか。自分がそれを指向しすぎると、「ヘリクツ講釈師」に終わってしまう。最も自戒すべき点である。
 思い出すのは「株価がどうこう、なんかより、子供たちが元気が無いって方が大問題なんですよ!」という宮崎氏の言葉。「経済が生活の基本」なんてことは千と千尋も承知でこれが言える、そうでなければ作品は作れないと思う。
 と、いうわけで、祝!受賞、なんですが、いろいろな事態が落ち着いた後の強烈なかの国への批判が早く聞きたいですね・・・。
『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦』
030329
 何人かに、見もせずにこの映画薦めた覚えがあります。すいません、私が間違っておりました。一応泣いたけど、少なくともテレビ画面で見た限り名作ではありません。映画館で見ればしばらくは名作と思ったかも知れません。
 なぜ「見もせずに」人に薦めていたかといえば、もちろんのこと、前作の『クレヨンしんちゃん モーレツ!大人帝国の逆襲』が名作だったからです。結局、作り手の限界以上に対象の世界を広げてもおっつかないということを証明してしまったようです。
 だいたい、気にいらなかったら評論なんか書かない方がいいのですが、いまさらどこかに『モーレツ!大人帝国』のことを書けないもんですから。昨年11月に『バック・トゥ・1973年』を高座にかけましたが、あれは「モーレツ! 子供帝国の逆襲」というサブタイが「心の中で」ついていたのでした。あの作品で、主人公のしんのすけは、「知らない」ということの強さを遺憾なく発揮しました。ノスタルジーに囚われる大人に対して、「過去を持たないことの強さ」をまざまざと見せつけてくれました。たぶん、その延長上に今作のコンセプトが立てられたのだと思います。限界だったと思います。戦という現実の力に対しては、どんなにアニメのフィルターを挟んでも、「知らないこと」の無限の力はたちうちできなかったように思います。努力はわかります。お恥ずかしい、戦国時代のことで勉強になったことが沢山ありました。たぶん、その世界観の構築のためにしんちゃんの力も奪われて、いや、吸収されてしまったのでしょう。と、いうわけで『モーレツ! 大人帝国の逆襲』は絶対の推薦です。
『THE MAKING OF お〜い!竜馬』
030403
 いわゆる武田鉄矢原作の『お〜い龍馬』のメイキング本。作画の小山ゆうとの対談形式になっている。作画の、と言ったが、かなりの部分小山氏の意見が入っているらしく、けっこう武田の方が愚痴っているところが意外。「武田さんは竜馬を好きすぎて…」というのはその通りだろう。ただし、小山氏も相当の竜馬ファンらしく、それをどう抑える描くか、というテクニックが勉強になった。たとえば最終回、武田氏は「竜馬がその後の日本にいかに影響を与えたか」をエンエンと述べたいところを、小山氏はたったひとつ、流れ星を描いて10年続いた連載をスパッと終わらせる。これはやはり作家として一日の長のある小山氏に軍配が上がるようだ。自戒せねば。
 あと、史実とフィクションの関係は二人とも多大な影響を司馬遼太郎から受けているようだが、なんといっても「はっきりウソをつきたくない」というあたりがいい。「あ! あの話、本当だったんだ」と資料などを読む読者が喜べるためにも、「虚実ギリギリ」のところというのは、たぶん、自分の新作講談と同じ思想。まあ、戦国時代の天気まで調べ尽くす司馬氏には誰も勝てないワケだが。
 それと「竜馬の魅力は長嶋茂雄の魅力。『竜馬がゆく』が売れたのと長嶋人気も時期を同じくしている」なるほどな〜。なんだかとってもシンクロニシティな話でした。
『数学嫌いな人のための数学』小室直樹
030413
 いや、驚いた。小室直樹氏の本は(対談以外でも)初めてではないはずだったのだが・・・・。驚いた。この人、大丈夫なの?
 ていうか、私がまだ編集者をやっていたら担当したくないな〜。現職の時、原稿依頼した一番コワイ人は中上健次だった。結局実現しなかったが、よく「火」をつかうとか「水」を使うとか、魔法使いみたいなウワサを耳にしていたものだ(詳細は秘す)。だが、小室氏の場合そういうコワサとは全然話が違う。「あの〜、この原稿、違う原稿なんですけど・・・」と言ったらどんな顔されるのだろうか? ていうか、現に出てるんですけど、そういう本が。
 この本は「数理経済学入門」といったタイトルをつけないといけない本だと思う。いや、「記号論理学の応用」というタイトルでもいいかも。とりあえず「数学の本」とはとても思えない。思えない読者が無知なのだ、と思わせるかも知れないところが恐ろしい。
 後半、「わかりやすくするために」(?)先生と生徒の問答形式になるが、生徒の方がイキナリ「理非曲直を同一視するとは、なんと無法至極な!」とか叫ぶ。いったい、何歳くらいの先生と生徒を想定してるんだろう? >(推定−生徒=100才、先生=超人ロックと同い年、くらいかな?)。
 さらに「途轍もない(途方もない)」と、ほとんど意味のない言い換えをしてみたり、同じ表現が平気で循環したり・・・・小室氏がどんなタイプの人であっても、とにかく編集を担当したくない。
 けれど、一番恐ろしいのは、にもかかわらず、途中で読むのをやめさせない点である。さらには「古典経済学は恒等式、ケインズ経済学は方程式」といわれて、両説が分かった気になってしまう点である。
 ああ、恐ろしい。
『MBA〜アメリカのビジネス・エリート』(和田充夫)
030415
 アメリカのビジネス・エリートといやあ、現代の地球で能力次第でなれる最高職ではないかな、思う(さすがに政治家だ大富豪だってのは運が要るでしょう)。MBAっコトバを最初に聞いたのは『サラリーマン金太郎』だった。金ちゃん結局MBA取れたんだっけ?
 企業の業績を上げるための専門家。戦争で言えば「参謀」ってことだ(司馬先生がキライそうだが、これは置いとくとして)面白かったのは、「日本の企業は戦略実行性が高く、アメリカの企業は戦略創造性が高い」 という点。つまり、なんのかんの言っても、日本の企業は強い!と、MBAの専門家に言われるとなんだか関係ないのに鼻が高くなりそうピノッキオ。だけど、91年に書かれた本で、21世紀の日本をけっこうバラ色に予想している。今著者はどんな思いでこれを読むだろう。そりゃ、「失われた90年代」が始まったばかりで、インターネットによるなグローバル化がこんなに早いとは予想しろというのが酷だろう。

 「企業の経営者は俳句をやるべきである」この一文のためだけでも、この本を読んでよかった。それは風雅などといいうものではなく、「人の気づかないことに気づく能力を養う」ためだという。いささか世知辛い気もするが、それが高度資本主義社会の求めるものだとしたら、高度資本主義も捨てたものではない気がした。少なくとも独裁や救えない貧困よりは−−−−−−。
『動物のお医者さん』(テレビドラマ)(原作・佐々木倫子)
030417
 驚くべきことは、テーマ曲に『朝日の中で微笑んで』を採用したことである。第一回を見たかぎりでは、この物語の秘密に踏み込んでいるとは思えなかったが、テーマ曲の選定から、可能性はあるかも知れない。
 この物語は「心地よい平行線」のドラマである。まず、登場人物には何の変化も起こらない、常春の国である。要するに人物が「劇」をしないのだ。主人公ハムテルの、ほぼ100パーセント感情を出さない表情がそれを象徴している。
 恋愛問題が持ち込まれない。もっとも身近にある「劇」だからだ。普通、恋愛を中心にしない原作でも、テレビドラマになればオリジナルで色恋沙汰を入れるものだが、それをすると、この物語が別のものになってしまうことでも前提が証明される。
 もっとも強く引かれた平行線はもちろん動物と人間の関係である。原作で見るかぎり完全に人間と同様の自我を持っているチョビたちは、家族として生活している人間たちとコトバを交わすことは(幻想のシーン以外には)ない。般若の顔のチョビがたびたび「女の子」と呼ばれるが、しかしハムテルは他の人間の誰かと恋愛するわけでもない。そこに、「平行線の断絶」を猫と人間の間として描いた『綿の国星』との決定的な差がある。
 このマンガがヒットした理由は明白である。それは『フーテンの寅さん』と同じなのだ。変化の拒否、進歩の否定、成長の無視。何よりもそれらへの「肯定」。もちろん、マンガにはそういう属性がある、サザエさん、こち亀、古くはうる星・・・・。その肯定の方法としての「動物」である点がより砂時計の砂の目を荒くしている。
 「宇宙の片隅でめぐり合えた喜びは、うたかたでも身をやつすわ」この荒井由美の、作品とは完全に正反対のベクトルをもつ歌詞を流す意味。それを知るスタッフがいる以上、このドラマには期待できる。一応。
  
『ガダラの豚』(中島らも・集英社文庫)
030500 え〜、出版社を書いてるものは、基本的に「オススメ」ってことで…。
同郷人にして「クスリ」で捕まったらも先生。愛山兄さんが何度も対談を申し込んだほどのアル中でもある。内容も本領発揮で、小学生にマリファナ吸わせるシーンがあったり、「覚悟できてんの?」ってカンジもある。
しかし、内容は文句無しに面白い。文庫は三冊分になっていて、私に言わせると、一巻目は「超能力などない」二巻が「あるかも」三巻が「あるとも!」というスタンスで書かれている。と、いっても「ある」という結論を導いているワケでもなんでもない。人間の理性がいかに弱いものか、という問題をギャグをまじえながら描いている。
『さとうきび畑の唄』(TBS)
030930(日付は放送日ではありません)

 誤解を恐れずに書こう。
「評論」のコーナーだけは、自分のオモテヅラを意識せずに書こう。

 沖縄地上戦の話である。何をどう描いたところで「戦争の悲惨」さを描き、反戦のメッセージを伝えることしか「できない」。他の描き方があるとしたら、それは「間違い」「欺瞞」と言ってもいいだろう。だが、「戦争の悲惨さ」を描くことは諸刃の剣である。どんなに無辜の人々の苦しみや悲しみを描いても、「だからこそこれを防ぐために」「必要な戦争」、というものをメッセージすることができる。だから、ある意味こんなに難しい題材のドラマはないのである。

 「何を描くか」ではなく「どう描くか」ということを学生時代の研究テーマにしていた。卒論の中で、当時評価の高かった「オレたちひょうきん族」の中の「兵隊コント」を取り上げた。それは「テレビにおける<特権的肉体論>」であった。明石屋さんまさんも取り上げたはずだが、あの時は山田邦子の「現地人」がポツリと語るギャクにギャグを超えたメッセージを聞き取ることができた。テレビに出ている「芸人」の存在はいわゆる「俳優」のそれとは全く違う。詳論ははぶくが、ごくごく簡単にいえば、「役所広司」が演じる戦争の犠牲者と、明石屋さんまが演じるそれとは、まったく違うものになるのだ。演技の上手い下手ではない、つまり、「芸人」さんまが兵隊を演じて殴られるのと、上手な俳優が「役」を演じて殴られるのとでは、視聴者の感じる「痛み」がまったく違うのだ。

ことに、今回の『さとうきび畑の唄』は、制作者自体がその事に非常に自覚的だったと思う。ともすれば違和感をもたらすさんま演じる「地上戦に参加した大阪弁の沖縄住人」という存在が、浮きながらもドラマを壊さなかったのは、「人を笑わすことが自分の使命」と自覚して活動するさんまさんを全面的に表に出したからである。深田恭子演じる現代のヒッキーの女の子が平和の大切さに目覚める、という件は意余って力足りずの感があったが、それでも十分に、このドラマを「描く価値のあるもの」として成り立たせていた。

 これらのことが最も顕著に現れたのが、戦場の現状を見て、さんま演じる写真屋が武器を捨てるシーンである。人を幸せにし、それを記録することを天命と感じる写真屋が、現実の暴力に自分の思想の無力さを感じ、戦場で「目を瞑り」武器を捨てる。作品全体の象徴ではない、さんまの肉体と一体化した「彼」の象徴シーンである。ドラマを見て泣くのは日常だが、目の奥が痛くなる泣き方をしたのは久々だった。

 テレビにおける「芸人」の「特権的肉体論」(出典は唐十郎)については、また改めて考えなくてはならないと思う。二十年前の論文に書いたことが目の前で展開されるという、貴重な体験をすることができた。
『新・ゴーマニズム宣言3 戦争論』
031009
 なんか、戦争モノが続くな。
 小林よしのり氏については語りにくい。ことに、戦争論については、何を語ってもヤヴァイ気がする。なにしろ現在もっともビビッドな言論人なので、評論することは、便所のラクガキに堕するか、正面切って論争できるか、どっちかの覚悟がないといけないと思う。
 そんなに面倒ならここにも書かなきゃいいのに、やはりホラ、真打だから(謎。
 小林氏と自分の立場を最初に明確にしておけば(もちろん私論だが)「おんなじように甘いモノが好きなのに、かたっぽは絶対ケーキ党、かたっぽは絶対和菓子党」というのが現在の認識である。え?ぜんぜん明確じゃない? おかしいなあ、すごいいいヒユだと思うのに。
 どっちがケーキでどっちが和菓子、という話でまったくない。「甘いものが好き」という点は完全に重なっている。「甘いもの」が何を指すかは大変に難しいのだが、あえて口にすれば「唯心論」というか、この世で価値のあるものは何か、という「結論」の部分なのだが。その「甘いもの」の口に仕方があまりに遠過ぎる。
 かつて『東大快進撃』の最終回に衝撃を受けた身としては、どこまでもゴーマンに突き進んで欲しいという気持ちと、もう少し自分の食べれる料理に帰ってきて欲しい、という気持ちが両方ある。

 うまく逃げた? か、な?
 
『講談ギコ』
040118
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以下引用
「壱逝つてよし(昭和八年五月五日 朝日新聞)」

容疑者壱、「弐ちゃんぬる(東京都)」なるヰンタネツト掲示板(仮想会合場)に古今未曾有のくそスレツド(話し場)建てり。
壱は定職にもつかず毎日(まひにち)/\上掲示板にくだらぬ書き込みをつゞけ、周囲の人間の嘲笑(ちよふしよふ)を買うもあきたらず、
つゐに自分で建てり。しかし壱では役不足、結局(けつきよく)嘲笑の書き込みすらされず「ダット逝き」さるるが、その直前に情けなくも自分で自分を励ませり。
またこの時わざと人の目にさらさるるやうに「あげ」と呼ばる邪法を用いる。

又、壱には不敬罪、治安維持法違反の容疑(やうぎ)も掛けられ宮内府、特高警察からの追及もさるる見込み。
壱の母親は「息子の不始末を悲しく思うも壱は潔く死ぬべし」と話せり。

社説:
今回(こんかひ)の壱のやうなばかやらふを人は「刺身」と云つてばかにせり。
このやうなことに陥ればもはや生きていく価値はなし(後略。
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         ∨
        ∧ ∧
        ( ゚Д゚) [|]  _
        < y~|⊃   |講|
      /旦 ̄ ̄ ̄ ̄\|談|
      ,| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ||擬|
      .|         ||古|
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

講談擬古【こうだんぎこ】
文語調で喋る講談師ギコ。ただそれだけの存在であるが、
その弁舌は数ある>>1攻撃コピペの中でも格調高い秀作として、
一部の通人からは高い評価を得ている。
ところどころ文法や仮名づかいがおかしいのも、しょせんはギコ猫ゆえ
ということで愛嬌というものであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑↑↑
「2ちゃんねる」という巨大掲示板(西鉄バス事件など、社会問題にもなることがある清濁合わせ呑むフリートークの場所)に登場したという「講談師」の姿。現代のインターネットのヘビーユーザー層の「講談」に対するイメージがよく現れている。講談と浪曲のイメージを混同するのはかなり一般的な間違いだがまず「立つ」と「座る」において「座る」落語と混同されていないところが、意外と的確なとらえ方をしているのかもしれない。しかし、認識は常に差異をもとに形成されるので「講談」を落語と峻別するために「立つ」イメージができたともいえる。
 あと「文語で喋る」という認識も面白い。これらのイメージに「講談」がより広い層に支持を得るためのヒントが隠されていると思う。
『日本大変』高橋義夫
 ふいー。骨が折れた。明治初期の三井を支えた三野村利佐衛門と小栗忠順の話。経済の「いろは」、銀行の「ABC」もわからない身としては、骨が折れる読書だった。
 どうしてか、なんとか「龍馬・勝・西郷」の「反対側」を見ようとしている。たとえば佐藤雅美の『調所笑左衛門』『開国 愚直の宰相・掘田正睦』なんかは、維新の英傑から見れば「裏」である(島津斉彬も否定的に書かれているし)。ある意味龍馬より好きな勝海舟の政敵である小栗忠順の業績も、やはり経済的な部分が大きく、確かに軍艦だの戦争の調停だのといった仕事に比べると地味に感じる。
 経済は難しい。だいたい、「物価が下がって困る」などという現実に面した記憶がない。講談にするにしても、「物の値段が上がって、貧しいものは困っております」なら一呼吸で表現できるが「物の値段が下がって民百姓が苦しんでおります」は話の4分の1くらいを費やさないと実感してもらえないだろう。
 龍馬だって経済をやっていたはずだが、所詮は前段階。「日本初の会社を作った」といったところで、業績は不運続きだったし、まあ総帥が殺されたせいもあろうが、結局明治の世の中に紛れて消えてしまった(フォークグループの名前以外な)。取引の上前ははねる、船は静める・・・・ロクな活動はできなかったのでは?。

 ひゃー。どんどん龍馬を英雄像から遠ざかって行くよ。しめしめ・・・。
 そうそう、この本の中では「三井」は江戸時代から、手代番頭といえど、数十段階に階級が分かれていたそうだ。その中でひとつひとつ位を上がっていくのはシンキ臭いだろうが、努力しても身分の変えようのなかった武士よりは生き甲斐もあったのかもね。
『フロイト先生のウソ』R・ゲーデン(文春文庫)
040121
 実を言いますと、私は「心理学科中退」いう経歴も持っておるのですが、いや実に心理学というのはコワイ学問で。と、いうかそもそも人間の心を対象として扱うこと自体にかなり無理があるのではないかと思うわけです。岸田衆さんほど懐疑的になるつもりはありませんが(そういえば、講演聞きに言ったな〜)やはり、「科学的に正しいのだから絶対正しい」みたいなことは人の心には摘要できないのではないかと。
 この本はフロイトにかぎらず、およそ現代の心理学(?)において常識とされているようなことを最新データでクソミソに叩いております。その矛先は心理療法に始まって教育、メディア、能力開発から臨死体験にまでおよび、むろん、いわゆる精神分析系はもうボロクソ。もちろん、心理学を認めない、という態度ではなく、「一般常識に照らしておかしいと思っても心理学的には正しい」みたいな「定説」の暴走に火花が出るほどのブレーキをかけているという感じ。私も前から疑問に思っていたのですが「多重人格」の存在も決定的に否定しております。この本自体も信じ過ぎるとキケンと思いつつも、いろんな意味で溜飲が下がります。

 いわゆる「トンデモ」を告発する本に近いんだけど、「宇宙人による誘拐」だの「山本五十六は生きている」だのじゃなくて「子供の頃の辛い体験は抑圧されて人格に影響する」みたいな「一般に信じられ始めた事実」のトンデモ性を暴く! うーん、快感。人間はもっと自分を信じていいんだと思わせてくれるところが単なるシニシズムでない。シニシズムって使い方これでいいの?
『パン屋のお金とカジノのお金はどう違う?』(廣田裕之)オーエス出版社・1500円
040222
 (ああっ! 新撰組の新作を書かなくてはならないこの時期に、こんな関係のない本を・・・・)。

 『モモ』『はてしない物語』を書いたミヒャェル・エンデという人は社会全体や経済の問題を深く考察していた。私が演劇を人生の目標にしていた時期に最も影響を受けたベルトルト・ブレヒトにも影響を受けていたことは『Zガンダム論』を『富野由悠季全仕事』(キネマ旬報社刊)に書いた時に知った。エンデ自身は訴訟してまで嫌っていたが、映画版『ネバーエンディングストーリー』で見た「虚無との戦い」こそが講釈師にとっての最終テーマであると今も信じている。
 それはさておき、そのエンデが考えていた経済論から「地域通貨」という反グローバリズムのための新しい動きのおそらく中心となっていくであろう手段の解説をしているのがこの本である。
 芸人は決して政治的な偏向をしない、する不利を負ってはならないというのが信念であり、故・二代目山陽が「中江兆民」の中で控えめに宣言しいているように「芸人は政治家より」形而上的な存在でなければならないのだが、この「地域通貨」に関してはその禁を犯してでも肩入れしたい心境になっている。自分自身の中では「NHKに出れる範囲で党派性を許そう」と考えているのだが、そのNHKで先年放映された『富の攻防』シリーズ、そこに受けた影響の延長といえるだろう。
 そういえば、エンデ先生には『アインシュタイン・ロマン』の時代から『危険な講談2』をパクらせて× >示唆をいただいたり○して
いる。
 「地域通貨」とは、一言で言えば「不労所得を作り出せない」お金のことである。つまり、お金のシステムを変えることによって、現在の「世界全体リッチを目指して鉄火場で大バクチ状態、かけるお金のない人はモク拾いでもしてて!」状態を打破しようとうするもの。現在の通貨にこれが取って替わると考えるのはあまりにもネバーエンディングなファンタジーであろう。
 だからこそ、芸人風情が考える問題なのだと信じている。
『「モモ」を読む』(子安美知子・学陽書房・660円)

040319
 なぜ「女性文庫」なんだろう?
 ここのことろ「評論」の更新がなかったのは、新撰組の文献ばっかり読んでたから。数はやたら読んだが、はっきり言って一冊読み通す気になれない。『燃えよ剣』『新選組血風録』『幕末新選組』下母澤寛の三部作くらいか・・・全部読んだの。正直心が暗くなる以外の何の効果もありません。
 で、この本。写真入りの本はおすすめだと言っていたが、題材であるミヒャエル・エンデの『モモ』を知らなくては仕方ないかも知れない。
 かつて書かれたことがあるはずのない思想的系譜。ベルトルト・ブレヒト>ミヒャエル・エンデ>宮崎駿>神田陽司、は確かに存在する。ブレヒトが社会体制の矛盾をテーマにしていたがそれは「虚無との戦い」というより形而上的でありながらより身近な問題に形を変えて言った。これらの系譜の方法論は「具体的であること」皆一様に「思想家」でありながら、かつ論を語りながらも、決して論を語ることを方法としない、むしろ、それを恥ながら語っているという身振りがそっくりである。

 ここまで書いて落とすようだが、実は肝心要の『モモ』を読んでいないのだ、私は。映画で見て、ラジオで聞いただけ。ところがそのふたつだけで全てを呑み込んだ気になっていた。そしてその解題である本書を読んで新しい発見をした訳でなく、自分が呑み込んでいたものが、間違いなく自分の理解通りであったと確認した。おそらくこれから『モモ』を読んでもそうであろう。
「つまり、話す声は聞こえるし、ことばは聞こえるのですが、話すひとの心は聞こえてこないのです」なんていうセリフは何やら芸談のようにすら思える。要するに、『モモ』というかエンデの思想が、一冊まるまる、一人まるまる、自分に重なっているということのようなのである。
 「灰色の男たち」ひとびとの生きた時間を奪い去って葉巻にして煙に消費してしまう男たち。観光案内のジジも、掃除人のペッポもすべて自分に重なるが、最も重要な「モモ」は話すことでなく「聞く」ことで最も大事なものを見つけ出すことができる。これを読んで口数が少なくなってしまった。
 意外にして大事なのが、エンデが「転生(生まれ変わり)」を信じているということを、自分が受け入れたということだった。いや、私は「論」を張る場合、神秘主義を徹底して排除する、そして神秘主義を排除するのは「灰色のあなたがた自身ではないか」とブレヒト風に沈黙で叫ぶ訳だが、エンデのこの思想もそれと同じと好意的に捉えたのだ。転生なんていうものが「証明」された日には法的な「所有権」問題は混乱を極めるだろう。だからこそ「転生」や「永遠の生命」などというものは否定されなくてはならない。そして、否定されなくてはならない社会そのものが糾弾されなくてはならないという結論に達する。いくら否定したと言っても、やはりエンデはブレヒトの弟子筋なのであり、神田陽司もそうなのだ、多分。

 あああ。最近別のサイトで「お前の文章はとにかく分かりにくい」と言われてしまった。本人としては「語り」を最高度に「易」に設定する分、書き言葉は徹底して「難」に設定することでバランスを保とうとしているのだが・・・・・今日のは「難」ではなく「独りよがり」ですね。すいません。すべて新撰組が悪いんです(笑。
『できるかなV3』(西原理恵子・扶桑社・952円)
040324
 あああ。しまった。この『評論』はエエカッコしいするためにも漫画の評論は避けてきたのに・・・。
 去年能登に仕事に行った時、西原さんのおともだちの勝谷さんとご一緒して感激したのに、誰に話しても感動を共有してくれなかった。と、いうくらい、西原(さいばら)ファミリーには憧れの念を抱いている。
 話が飛ぶが『だめんずうぉ〜か〜』の倉田真由美(これまた以前、同じ編集者の担当だった、私が)にサイバラ大姉が「あんたの道の先に私はいないよ」と言い切っていた。然り。最近、女性のマンガ家が「体当たり取材」と称して、時には風俗嬢までやったりしている。それは男性にしてみれば、カンボジアあたりで弾幕の下をくぐるほどの冒険に違いない。しかし、それでも、サイバラの前にサイバラなく、サイバラの後にサイバラなし! という真理を人にわかりやすく説明するにはこの一冊を読んでもらうに限る。

 舞台はキャバレー『ハリウッド』。知る人ぞ知る、『ハリウッド』は神田山陽(二代目)一門とは深い関わりがある。私自身別ルートでハリウッドで大道芸をやったりもした。そのハリウッドに、今や一億近い税金を払うまでになったサイバラ大姉が潜入レポート!・・・・ではないのである「就職して行った」のである。国一個買えるほどの大金持ちの○須先生や、新宿○こと北○先生がお客として尋ねてきてしまうのはご愛嬌としても、単なる「潜入」などではなく、その場に完全に同化するまでに自然な「年配ホステス」としての働きっぷりはそんじょそこらのションベン臭い娘っ子にできることではない。そして、その時見える風景についての描写。たとえ一億円の脱税をしていても(そのあたりも作品中に登場する)芸術家というものは、作品がある領域に達していれば許されるんだ、といいたくなるくらいの素晴らしさである。

 「女はいつも働きもんで、泣いたり笑ったり」このセリフがいかなるシークエンスの下に読まれるかを要約する力量はないが、サイバラ大姉には「聖と俗の詩人」という称号を贈りたい。
『ぼくんち』(西原理恵子・小学館)
040617
 本当に、「タイムリー」などという言葉を知らないような「評論」と私の生き方。 
 敬愛するチャップリンに「愛と勇気と少しのお金」という言葉がある。幸せに生きるために必須な要素である。ここには「正しく生きる」という含意がなされていない。その理由は「何が正しいかは自分で考えること」という宿題が残されている。たとえば彼の映画『キッド』の中でかりそめの親子が行う窓ガラス修理のビジネスはあきらかに違法である。子供が石を投げてガラスを割り、チャーリーが「偶然」修理屋として現れる。映画を見ていれば微笑ましいが映画館から家に帰ってガラスに石が飛んで来たらたまったものではない。
 『ぼくんち』で飛んで来るのは石コロではない、時には血まみれのヤクザ者であり、覚醒剤の売人であり、石を投げている子供自身がガラスを破って飛んできたりもする。そう、『ぼくんち』は、『キッド』の「濃縮還元果汁100パーセントジュース」の還元前原液をグツグツ煮詰めたものである。

 余談そのものだが、小生は(お、この表現気入った、今後「評論」では「小生」を使おう)おそらくはこのマンガの舞台となる浦戸湾を一晩彷徨ったことがある。静かな街でただ海が近くにあるというだけで心が落ち着く街だった。シチュエーションそのものはどう考えたって本来の故郷である「尼崎」の方が近い。言いたかないが「私娼窟」が半ば表看板を出している都会なんて日本にそんなに多くはあるまい。脈絡のない引用だが『ホットロード』(紡木たく)あたりの物語がゴロゴロしているのもわがふるさとである。

 どうして女性というのは(ここでは西原のこと・・・・・う、名字だけ書いてこのなんでもない名字を「サイバラ」などと違和感のある読み方をすることに初めて感じいった)こうも現実というもの現状のままに受け入れる強さがあるのだろうか。父親の違う弟のために夜の街で(ピンサロ、と書けばいいのに書かないのは何故だ?)働く姉が拾ってきた男に「いつかコロッケのお店がやりたい」と呟くと男は焦って金を盗み、結局消えてゆく。たぶん、基本的に男女の間で流れている時間そのものが違うのだ。それが単に文化的な規定なのかもっと植物時間的な(えーと、メルロ・ポンティだったかな・・・・「小生」なんて使うと衒学的になっていかん、ほほほほほ)差であるのかはここでは言わない。たとえば同じシュチュエーションを男が物語にした場合、「角度」を描くことしかできない。つまり、話の発端と終端で彼らの位置が何センチ何ミリ変わったか、ということしか見せられない。ところがたぶん、完全に同じ垂直高度のまま、物語は終っていく。いや、「続いていく」。そう、たぶん、男は「物語を終わらせる」ために存在し女は「物語を続けるために」存在しているのだろう。文中での問いにはこういう答え方にしておこう。

 『ぼくんち』を読んで世界観が変わる人は幸いである。 
FNS27時間テレビ
040725
 私は芸人なので、本来は「芸」に関わることの評論はしてはいけないと思っている。ただ、生来の性格がこうなので、いわばガス抜きのためにこれを書いている。
 「系列で一番バカなテレビ局を決める」という聞くだに悪趣味な企画になぜか魅力を感じてつきあって見てしまった。そのあげく、某放送局の社員が「サマー・ジャンボ・バカ」ということに決まり、全国的に宣伝される始末・・・・。
 ラストに「オレはバカだ!」と曲に乗っておもちゃのバットを振り続ける彼の姿に涙を流して感動してしまった。全国でも、たぶん、涙を流した視聴者はいるに違いないと思う。そして、自分の涙の意味がわからなのではないか? (今調べたら、いわゆる「巨大掲示板系」では「いじめ」だと言っていた、この解釈には大きな意味があるが)。

 私は・・・いやあ、いいだろそんな表向きな一人称は。オレは今回の企画に純粋に感動したのですよ。「お笑い」というものが唯一革命的な表現だということがハッキリした気がする。コンセプトを立てたのが岡村かFNSかはわからないが、たぶん、両者の目指すところの最大公約数としてできあがったのだと思う。
 多くの日本人はテレビの中に夢を求める。マスコミが大衆を操作するというが、大衆が求めないものはテレビの中には現れない。
 この「バカを見つける企画」は、系列局の社長も部長ももお笑い芸人の扮する「先生」のもとで学生服を身につけて五教科の試験を受ける。ここに視聴者が見ているのは何か? それは「平等」である。堅苦しい言い方になった。「自由」と言ってもいい、たぶん、江戸の昔には「粋」などと呼ばれていたものの(反論はあると思うが)本質である。これは「笑い」を触媒にしないと表現できないものである気がする。即ち、本来は雇用者と被雇用者であったり、現場の上司と部下であったりする関係を同列において学生を演じさせるなどという「威力」が他のジャンルでは行ない得ない。つまり、たとえばその場で怒り出したり、自分を上司として扱えなどと主張すると「野暮」という威力に否定されることをマトモな感覚の持ち主なら知っている。「これはお笑いのバラエティ番組です」という中に巻き込むからこそ、そこでは完全に普段の関係を払拭せざるを得なくなる。そして、その場を維持する力を生むものは維持する場を主催する「芸人」の力量そのものである。岡村の芸を(え? 芸歴どっちが・・・・関係ないか、今書いている俺は芸人じゃないよね。ただのシロウト評論家だよ)褒めているのではなく、そのコンセプトを執行できる力量に驚嘆した、というのが正確な表現だろう。

 さて、「俺はバカだ〜」のラストであるが、ワーストワンに選ばれた本人も、そこで彼の唄を歌う歌手(はなわ)も泣いていた。あの涙が何なのかは素直に笑ってみていればいいことだが、突き詰めると解釈の難しい問題である。先に書いた「いじめだ」という解釈を下す人は自分自身があの場の感動を素直に捕らえきれず、自分も「成績が最下位」というだけで本当に石を投げそうな危険な感性をしていると自覚すべきである。あの場は本当に感動的だったのだ。それは何が生み出す感動かといえば実は、実にこうである

 順列によって人間の価値は決まらない

 そんな大きなテーマを自分たちが体現し表現していることに二人は気づき、泣いたのである。テレビの前で、不条理に感じつつ涙を流した人は安心していい。その涙は正しい。安直にいえば『世界に一つだけの花』を聞いた感動と同種のものである。

  よく、ダウンタウンさん(いきなりさんづけか!)のコントを「差別ネタだ」と怒る人がいる。最近はとみにマイルドになってきたから見やすくなったが、一時期の後輩芸人イジメのネタは確かに見るのがツライ時もあった。だが、そこに表現されているメッセージは、何も援護的解釈でなく「日常において一番キツイことも、離れて見ればばかばかしい笑える出来事だ」・・・・言葉が足りないかなあ・・・・・・つまり「絶対的相対化」である。
 チャップリンは言った「貧しい男がバナナですべったら悲劇だが、裕福で恰幅のいい紳士がすべったら喜劇だ」と。所謂「庶民的な笑い」は実はダウンタウンと位相を逆にしているだけで方向は同じなのだ。与太郎がバカをやって微笑ましく笑えることが立場を変えれば「差別」によって笑っていることに自覚的になる必要はないが、実は「庶民的な笑い」というものは存在しない。庶民的な笑い、ということを感じる時、人は自分だけを庶民ち違う位置に置いているからだ。彼らの笑いはその、本来フレーム外にいる絶対者をフレーム内に見せているに過ぎない。

 話がそれた。「一番バカ」と決められ彼が今後どんな目に会うか知れないが、あきらかに番組の意図を消化できるだけの力量を認められて選ばれたことは明白であった。テレビ恐るべし。FNS恐るべし。岡村恐るべし。

 そして「お笑い」恐るべし。そのことは自覚しおきたい。  

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