His Diary

1999年4月〜2000年3月

 

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2000年3月24日(金)        懲りない奴

 

先週の日曜日は、高尾山へ行った。
遅咲きの梅を見に行ったのでは、ない。
なんと、ランニングの山岳トレーニングへ行ったのだ。
僕は、いくつかランニングチームに所属しているのだが、
今回、高尾山へ一緒に行ったチームは、ことのほかレベルが高い。
あるハーフマラソンの大会では、優勝してしまうくらいの人もいる。
みんな月間300キロは、軽く走っている人たちだ。

こんな実業団レベルの人に交じっての山岳トレーニングは、
ちょっと無謀というもの。
おまけに花粉症の時期である。
花粉の真っ直中に、なぐり込みに行くような感じである。
でも、その日の幹事になった方が、ゆっくり走るから・・・という温かい言葉に、
つい参加する気持ちになった。
なにしろ、4月の頭に長野フルマラソンをひかえているので、
ぐーたらランナーの僕も、少しは、練習しないといけないと思ったのだ。
それに、山登りは、慣れているし・・・・。

でも、甘かった・・・・
高尾山の山頂まで、ロープウェイなど、もちろん使わずに、下から走る。
やはり歩くのと走るのとでは、全然、負荷が違う。
一気に汗が吹き出る。
それでも、なんとか高尾山頂までは、みんなと一緒に到達できた。
喜びもつかの間、更に尾根伝いに奧の陣馬山まで行くことになっている。
大丈夫かなぁ。

尾根伝いといっても、かなりアップダウンがある。
足が重くなってくる。
ちょっとした勾配でも、走って登るのが、これほどたいへんなものか。
あえぎあえぎ前に進む。

みんなより、少し遅れて、折り返し点の陣馬山に、やっとのことで到着。
ベンチにへたりこむ。
持ってきたおにぎりを食べて、ポカリスエットをドバーッと飲む。
また、来た道を戻るかと思うと、ゾッとする。
すでに足は、つりそうだ。
他のみんなはといったら、涼しい顔をしているのだ。
ほとんどダメージなんかない感じだ。
やはり、凄い人たちなのだ。
まぁ、そんなわけで、足をひっぱってしまっても悪いので、
先に行ってくれと頼んだのだけれど、
脇道に迷い込むとたいへんだからと、
一緒に走るという。
トホホ。
しかたない、やるしかない。
たったの15分休憩しただけで、
再び来た道を引き返す。

あぁ、もうそれからは、悪夢。
登りなど、とても走れない。
早足で歩くのが精一杯。
それでも、行きよりは登りが少ないので、
つりそうな足を騙し騙し走った。

そして、ゴール。
合計32キロの山道を、5時間弱で走ったことになる。
幹事さん曰く、
「次に走るときは、もっと楽になると思うよ。毎月、企画するから、ぜひ参加してね」
オヨヨ。
毎月?冗談じゃない・・・と、その時は思ったのだが、
数日たったら、
また行ってみたい気になっている自分。
ホントに困ったものである。
懲りない奴。

明日から、タスマニア。
花粉がなさそうなので、それだけで嬉しい。

 


 

2000年3月12日(日)        記憶の束

 

「謝さん!?」
家の近所の駅のホームで声をかけられた。
先々週のことだ。
振り向くと見覚えのある顔である。
ここ数カ月の間に確かにお会いした女性の方だ。
でも、名前どころか、どこで出会ったかも思い出せない。
カメラマンのお宅でやった忘年会の時だったけなぁ。
通っているジムに来ている人だったかなぁ。

・・・と困惑しているうちに、話題がどんどん進む。
相手は、完全に僕のことを知っていて、
「最近、走ってます?」なんてマニアックな質問もしてくる。
ムムム、僕が走っているということも、知っている・・・誰だろう。
交わす言葉から、なんとか糸口をみつけようとする。
とりあえず、花粉お見舞い。
彼女は、どうも花粉症ではないらしい。話題が途切れる。
・・・う〜、焦る。

その時、ホームに急行電車が入ってきた。
彼女は、この電車に乗るらしい。
幸い、僕が乗りたかったのは、各停だったので、彼女を見送ることになった。
セピア系の色でまとめたセンスの良い服装の彼女は、ドアのそばに立っていた。
ドアが閉まり、すうっと、ドア越しの車内が移動していく。
彼女は、涼やかな目元を細くして、軽く僕に会釈した。
僕も、思わず会釈・・・。

それにしても、記憶がすっ飛んでしまっている僕は、なんて失礼なやつなんだろう。
しばらく、彼女は誰だったんだろうと気になっていた。

それが今日、家の近くをジョギングしていて、
見慣れた家並みの中で、突然、「あぁ!」と思った。
彼女は、編集者の奥さんだ。
その編集者のマンションは、僕のジョギングコースの途中にあるのだ。
たまたま一度だけ、ジョギングの途中で立ち寄ったことがあった。
その時、奥さんは、美味しいカルボナーラをご馳走してくれたではないか。
なのに・・・。
Mさんと奥さん、ごめんなさい。

それにしても、記憶の束は、突然ほどけるものである。


 

2000年3月7日(火)        風の姿

 

日曜日は、三浦ハーフマラソンだった。
このレースに参加するのは、3回目になるのだが、
気になる風景のことを去年も書いたと思う。(
99.3/8へ
丘の上の風力発電所。
大空にすっくと立つ2基の風車。
レース中は、走っていると左側に見えるのだが、
去年も一昨年もそのプロペラがまわっていたという印象がなかったのだ。
機能しているのかなぁ・・・・
と3年越しの疑問を今年こそ、解決しようと意気込んで、スタート。
このコース、かなりアップダウンが厳しい。
坂を登り切って、しばらく丘の上を走っていると、その姿を現した。
・・・・動いている。
風をはらんで、ゆっくりと確実に、プロペラが回っている。

今年は、風もそれほど強くなく、気持ちのよいレースだった。
昨年も一昨年も大荒れの天気で、プロペラを回すには、風が強すぎたのかもしれない。
(風が強ければ強いほど、歓迎というわけではないようだ。
プロペラが壊れたらオシマイだからね)

普段、目に見えないものが姿を現す瞬間。
帆船に乗った時もそうだったけど、風が視覚化すると、
その存在感に圧倒される。

 

目に見えないけれど、そこに存在する。
風に惹かれるのは、そのへんかもしれない。

 


 

2000年3月4日(土)        種の名刺

 

一通の手紙をいただいた。
文章とは不思議なものである。
その語尾、行間に流れる空気、肉筆の余韻・・・・なんとなく親近感を抱いた。
同封されていた名刺も、一風変わっている。
花の種が入った名刺大の小袋が名刺なのだ。
表面には、名前や住所や電話番号の他に、中に入っている花の名前が書いてある。
僕のは、千日紅。
裏面には、種まきの時期や育て方まで書いてあった。

その花の種の名刺の主に、会うことになった。
彼は、若きアーティスト。
今は、バイトをしながら作品を作る毎日だという。
都会の若者とは思えないほど、朴訥とした感じの青年であった。
自分を語るのびやかな口調の中に、ピュアな部分が見え隠れする。
簡単に押しつぶされてしまいそうな薄皮に包まれたピュアな心。
危なっかしいけれど、なぜかホッとする。
久しぶりに、そんなほんわかした気分になった。
でも僕は、「現実は、厳しい」と、彼に水を差すようなことを敢えて口にしていた。

エールをおくるつもりだったにせよ、
家に帰ってから、あんなことを言うべきではなかったのかと、ジレンマに陥った。
現実が厳しいということを理由に、甘えてしまっているのは、自分ではないのか。

・・・日当たりのよい場所に床蒔きか箱蒔きとし覆土は5mmが最適です・・・
プランターに、麦をふたまわり小さくしたような千日紅の種を植えた。

名刺には、花が咲くのは、初夏だと書いてある。

 


 

2000年2月28日(月)        思わぬオマケ

 

練習不足のためか、今シーズンは、ことごとくマラソンのレースの記録が悪い。
東京ハーフマラソンも、去年より5分遅れ、
エントリーフィーを払い忘れるという
失態をやらかした(
10/26の日記参照)青梅マラソンにも、
なんとか管理事務所の方の好意で参加できたにもかかわらず、
記録は、去年より16分も遅かった。

今シーズンは、5キロ1レース、ハーフマラソン1レース、
フルマラソン1レースだけになってしまった。
ぐうたらランナーも、これじゃ、ちょっとまずいと思って、
この土日は、練習に励んだ。
とはいっても、この寒空、どうもやる気が起こらない。
それでも、ジム仲間の矢内さんと約束をしていたので、
重い腰を奮い立たせ、ランニング開始。

土曜日は、代々木上原から代々木公園を突っ切って、原宿を抜け、
絵画館前のイチョウ並木を通り過ぎ、迎賓館一周して戻った。
計1時間30分、約12キロ。
日曜日は、代々木上原から羽根木公園、馬事公苑、さざえさん通りを突っ切って、駒沢公園、猿楽のジムに寄って、代々木上原に戻った。計2時間30分 約22キロ。
・・・ゆっくりだが、なかなか頑張った・・・
なんて自己満足して、またしばらく練習しないのがタマニキズ。

気の進まない冬練(冬の練習の略)だったにもかかわらず、結構、いろんなものに遭遇した。
立ち寄った体育館では、アマチュアレスリングの国際大会の白熱した試合が見ることができたし、
羽根木公園の梅も八分咲きで可憐だったし、
馬事公苑では、馬術の大会をやっていて、
障害を越える馬の気迫が伝わってきたし、
ランニングしたおかげで、思わぬオマケがついてきた。

こういう休日も、いいもんだ。

 


 

2000年2月26日(土)        危うい世代

 

地下鉄の中吊り広告に引き寄せられた。
・・・昭和37年生まれが身勝手犯罪のキーワードだ・・・週刊宝石

なにを隠そう、僕は昭和37年生まれである。
奇しくも昨日は、誕生日だったので、敏感に反応したのか、本屋に直行してしまった。
まぁ、おおかた書いてあることは想像できたのだけれど。

新潟の少女監禁の佐藤宣行容疑者、オウムの上祐史浩幹部、連続幼女殺害の宮崎務被告・・・。
たまたま共通点が昭和37年生まれだったわけ。
そんでもって、さまざまな分野のお偉い方が、いろいろと分析してくださっているのだ。
芸能界では、松田聖子に羽賀研二・・・。
こう並べられると「なるほど」と頷きたくもなる。
まぁ、共通項を探して、結論を出すのは、面白くも楽しい。
血液型や、星占いに似ている感じもする。

自戒の念をこめ、昭和37年生まれの同士たちに問う。
本当に、身勝手で危うい世代なのかなぁ、僕ら。


 

2000年2月25日(金)        ヨチヨチ感

 

久しぶりにスキー場へ行った。
とはいっても、悲しいかな滑るためではなく、
ゲレンデの見えるところへ行ったという方が正しい。
ちょうどナイターの時間で、真っ白な雪にライトが照らされて、幻想的である。
滑っている人たちも、初心者は皆無で、なかなかの腕前の人が多い。
軽やかにのびやかにシュプールを描く彼らの軌跡を、しばらくボッと眺めていた。
スノボーの割合が、かなり多く、なんとなく以前やったサーフィンの動きを思い出させた。
自然と一体化するスポーツは、いいもんだ。

雪煙を上げて滑ってくるスノーボーダーの若者たち。
かなり華麗で格好良い。
・・・・が、下まで降りてきて、
またリフトに乗るために後ろの足をボードからはずすと、
かなり滑稽な感じになってしまう。
「スー、ボテ。スー、ボテ・・・」
なんか幼児がソリで滑って遊んでいる感じ。
なかなか前に進まない。
その横を颯爽とスキーヤーが、追い越していく。
この場所に関しては、どう見ても、軍配は、スキーヤー。
でもこのヨチヨチ感、なんとなく憎めなくて微笑ましいのだ。

本日、38回めのバースディ。
もう、いい大人のはずの歳だなぁ。
(・・・・で無理矢理「オチ」へと突入)
危なっかしいヨチヨチ歩きの38歳である。

 


 

2000年2月18日(金)        あなたも牧場主

 

とある村で牧場主を探している。
3年間、村から無償で牧場を借り受け、運営が軌道に乗ったら、それが自分のものになる。
・・・ムムムとちょっと心動いたご同胞がたくさんいるのではないだろうか。

僕のまわりには、都会を離れて生活している人が多い。
池澤さんや垂見さんは、沖縄だし、
先日お会いした手塚さんは、霧ケ峰、山岳画家の山里さんは、白馬、
カメラマンの飯田さんは、房総の岩井。
友人の中にも、屋久島に移住してしまった夫婦もいる。
(彼らは、「田舎暮らし」という雑誌をいつも愛読していたなぁ)

都会の暮らしが嫌なわけではない。
それなりに楽しみもみつけて生活しているし、便利でもある。
ただ、居心地といえば、良いとはいえないのは事実だ。
とはいっても、現実は、厳しい。
田舎暮らしで生計をたてるのは、かなり難しい。

 

先日、以前から田舎暮らしに憧れている友人の家に遊びに行った。
「いや〜、はまっちゃって・・・」と彼が取り出したのが、TVゲーム。
休日なんかも、外に一歩も出ず、一日中、熱中しているという。
もともとじっとしているのが苦手なので、
TVゲームのたぐいは好きではないのだが、
彼が、嬉しそうにはじめたゲームの画面を覗いているうちに、
「う〜む、これははまるかも」と納得してしまうところがある。

そのゲームソフトの名前は「牧場生活」。
とりあえず3年間、とある村から牧場を借り、
自分で牧場を経営するというシミレーション・ゲームなのだ。
これが、実によくできている。
最初は、小さな牧場なのだが、
畑を耕し、四季折々、さまざまな野菜を植える。
こつこつ水をまいているうちに、芽が出て、花が咲いて、実が成る。
トマト、キュウリ、トウモロコシ、ナス・・・。
画面に本当に実った野菜の絵が出てくると嬉しいものだ。
それらの野菜を出荷しているうちに、徐々に資金が貯まる。
お金が貯まれば、牛や羊や鶏を買って養う。
育てていくうちに、牛は、牛乳、羊は、羊毛、鶏はたまごが出荷できるようになってくる。
そうやって貯めたお金で少しずつ家畜を増やしていく。
さらに蓄えが増えると、家や家畜小屋、ビニールハウスなんかも増改築できるし、
村人との交流も怠らずに、村人とも仲良くしていると、お嫁さんもゲットできるようだ。
畑に水をやったり、収穫したり、家畜に餌をあたえたり、ブラッシングして家畜の機嫌をとったり、
毎日の単調な仕事をこつこつやる。
さぼるととたんに畑は荒れ、家畜は、死んでしまうのだ。
ただ、それだけのゲームなのだが、
その主人公の健気な働きぶりに次第にはまっていくという。
まぁ、自分を重ねあわせるのだろうけど。

彼は、今5年めの春を迎えていた。
住まいも広々とした2LDKになり、
牛と羊と鶏が10頭ずつ、愛馬と愛犬が一頭ずつ、
ビニールハウスでは、一年中、野菜が取れるし、
近くの池では、魚の養殖をはじめた。
りんごの木からは、果実の他にも蜂が巣をつくっていて、蜂蜜もとれる。
牛乳は、最近は加工して、売値が高いバターやチーズにして出荷している。
卵からは、マヨネーズなんかも作っている。
まだひとりものだが、料理のレシピも増えて、
村の料理コンクールにも出品するほど腕前が上達しているという。
村人からも働きものの牧場主だと認知され、
かわいい女性からのアプローチもあり、結婚間近かだと、嬉しそうに話す。

・・・・ウムウム。
なんか違うぞ・・・とその時、踏みとどまった。
危うく、その陶酔感に引き込まれそうになりそうだった。
(とはいっても僕自身は、テレビもTVゲームも持っていないのだが)
彼の気持ちがわかるだけに、なんだかむなしくなってきたのだ。
このエネルギーを夢物語でなく活かせないものだろうか。

「代々木公園のフリマにでも、行こうよ」
と外に連れ出したのであります。

 


 

2000年2月9日(水)        生きている火

 

以前、仕事でご一緒させていただいた歌手のさとう宗幸さんと、
旅をすることになった。
実は、さとうさんも、若い頃は、ひとり旅が好きで、
突然、あてもなく夜汽車に乗ったこともあったという。
しかも山登りも趣味だったとか。
仕事では、東北を一緒に旅をした。
(詳しくは、JR東日本の車内誌「トランヴェール」2月号で、どうぞ)
ほんの1泊2日だけだったにもかかわらず、
なんとなく気持ちが通じるものである。
それで一緒に旅をすることになったというわけ。
目的地に選んだのは、霧ガ峰。
エッセイストの手塚宗求氏のやっている山小屋だ。
さとうさんは、以前から手塚さんと懇意にしていて、
僕は、手塚さんが高校の大先輩だった。
偶然というものは、どこに転がっているのかわからない。

手塚さんは、まったく道がない時代から、自分で荷揚げをして、
「ころぼっくる・ひゅって」という名の山小屋を作った。
電気もガスも水道もない生活が、ほんの10数年前まで続いたという。
現在では、有料道路が通じて、快適な山小屋に変身しているが、
雪の中に佇む山小屋は、当時の寂寥とした風景を思い起こさせた。

初日は、雲ひとつない快晴で、近くの車山にラッセルしながら登ると、
北アルプス、中央アルプス、南アルプス、富士山、八ヶ岳、浅間山と、
360度の展望が開けていた。
晴れた日の冬山の美しさに魅了された人は、多いだろう。
雪がかぶっていると、それだけで山の輪郭が、数倍美しく見える。

翌朝、起きてみると、雪が舞っている。
快晴の日の眺望もよかったが、
曇天から降り注ぐ雪をただ黙って見るのも・・・いい。
煙った空に思いを馳せながら、
さとうさんも手塚さんも、そして僕も黙したままコヒーを飲む。
そして、ゆるゆると午前という時が過ぎていく。
贅沢な時間だ。

薪を燃やす暖炉があった。
手塚さんは、この暖炉の火は、「生きている火」と形容していた。
消えたように見えても、熾が突然燃え上がって、
猛威を奮うことだってあるという。
外出する予定がある時は、決してつけないという。
ガスストーブなんかとは違って、
人間がコントロールするには、限界があるというのだ。
長い間の知恵と経験からくる、幅のある言葉だと思った。

お客の少ない冬場は、手塚さんにとって、執筆の大切な時間。
山小屋にひとりこもり、しんしんと降る雪を感じながら、筆を動かす。
静寂の中の雪の気配。
理想的だなぁ。

 


 

2000年1月28日(金)        その一点へ

 

サウジアラビアへ行っていた。
久しぶりにカルチャーショックのようなものを感じた。
というより、全く違った宇宙観を垣間見ることができた感じか。
中近東は、はじめてじゃない。
トルコを手始めに、イランもイラクも行ったし、
シリア、ヨルダンなんかにも足を伸ばしている。
でも、今回のサウジアラビアは、別の意味でかなりインパクトがあった。
石油の恩恵で、サウジアラビアは、思った以上に近代化されていた。
リヤドやジェッタなどの大都会には、マックも、ウエンディーズも、ピザハットもある。
ハーゲンダッツでアイスを食べ、高級ブランド品なんかが入っているショッピングモールで、
ウインドショッピングという日常が送れる。
アメリカとなんら変わりがない街の景観・・・。
なのに、インパクトがあった。

それを、まず感じたのが、
マニラから出ているリヤドまでの直行便のサウジアラビア航空に乗った時のこと。
機内のスクリーンに、時折、飛行機の機体の絵が出て、矢印が出る。
その指し示す先は、「Kaba」と記されている。
カーバ神殿、すなわち、イスラム教徒が礼拝するメッカの方向を指しているのだ。
イスラム世界の中心メッカ。
カーバ神殿のあるその一点へ、イスラムの人びとの思いは、集中している。
そのとてつもないエネルギーを感じたのだ。
イスラム教徒にとって、メッカへの巡礼は、悲願だ。
巡礼した人は、人びとから絶大な尊敬を集める。
毎年200万人以上の巡礼者が、巡礼に来るという。
そのメッカをかかえるサウジアラビアは、
イスラムの世界では、精神的だけではなく、経済的にも中心的な役割をしているようだ。
なにしろ、出稼ぎの人びとの多いこと。
僕らが接することのできる人は、ほとんどが外国人。
ホテルの職員も、バスの運転手も、ガイドも、外国人が多い。
サウジアラビア人は、どこにいるのだろう・・・っていうのは、オーバーだけど、
目について働いているのは、出稼ぎ外国人だった。
ちなみに、出会った外国人の国名をあげると・・・
エジプト、モロッコ、スーダン、ニジェール、チュニジア、シリア、ヨルダン、イエメン、
バングラデッシュ、インド、マレーシア、インドネシア、フィリピン・・・。
フィリピン以外は、ほとんどがイスラム教徒をかかえる国だ。
なんたって、女性は、顔を出せないお国柄。
サウジアラビア航空のスチュワーデスだって、外国人なんだから。

広大な砂漠を突き抜けるきれいに舗装された高速道路。
その遥かかなたに大小ふたつの人影が。
親子がバスでも待っているのだろうかと思っていて近づいていったら、
2頭のらくだが道を横切ろうとしていた。
おしりと足が人間のシルエットに見えたのだ。
交通標識に「らくだ注意!」の「らくだマーク」だってあるほど。
とても人間の手には負えない大自然の営みが砂漠の中には・・・ある。
大都会を離れると、まだまだベドウィンの遊牧民の生活を彷彿させる風景が広がる。
あのアラビアのロレンスの映画のワンシーンのような景観が残っていて、ホッとした。

地球の財産を使い果たして作り上げた無機質なアスファルトの道路に、
熱い流砂が横殴りに叩きつけていた。

 


 

1999年12月31日(金)        時の速度

 

商売をやっていた僕の家でも、大晦日の日は、客足も早く引いて、
レコード大賞が終わる頃には、家族全員が、茶の間のこたつに集合できた。
こたつの上には、母の作ったごちそうが並び、
紅白歌合戦のひとりひとりの出場歌手にあれやこれやと歓声や文句を言い合いながら、
除夜の鐘が聞こえてくるのを待つ。
そして鐘の音とともに年越しそばを食べながら、新年を迎える。
華僑の家ではあったのだが、
今から思うと、ごく日本的な一般家庭の大晦日であったように思う。

幼い頃の記憶を辿ってみれば、一年という長さが、とてもながーく感じられたような気がする。
歳とともに時のスピードが加速する錯覚に陥るのは、なぜだろう。
時は、同じように流れているはずなのに。

僕が大学を卒業するまで、そのなんでもない大晦日の過ごし方は、続いた。
というよりも、他の大晦日の過ごし方など考えもしなかった。
社会人になってから年末年始はずっと添乗員の仕事をしていた僕は、必ず海外だった。
さまざまな国で過ごす正月。
お客さんのために、お餅をやいて心ばかりのおせち料理を作るという正月だった。
そして15年ぶりに、日本で正月を迎えることになった。

年末のテレビ特番のようだが・・・
今年の僕の一年を振り返ってみれば、
今年もやっぱり、旅の連続の日々。
それぞれに印象には残る旅ではあったが、
今年はやりだった「ミレニアム」という言葉を意識すれば、
夏に、北海の帆船にのった時にクリニッジ子午線を通過し、
ついこの間、フィジーのタベウニ島で日付変更線の延長線の緯度180度線の上に立った。
今年もまた、節操もなくあっちこっち行ったことになる。
来年は、もう少しテーマ性をしぼって取材をしたいと思っている。
懸案になっているインドヒマラヤのとある村の取材も、来年こそ形にしないと。

とにもかくにも、時のスピードに負けないように、
来年は、じっくりやりたい・・・・
と心に誓うのだが。

とりあえず、こたつにみかんに紅白のなつかしの大晦日を過ごしてみたいと思う。


1999年11月9日(火)        バオバブの根っこ

 

大学の頃、フランス語の授業で、「星の王子さま」を原文で読む授業があった。
大人のための童話というだけあって、平易な文章の中にかなりメッセージがこめられている。
そんな中で、色紙に書いて自分の部屋に飾った言葉がある。
今となっては、原文は忘れてしまったのだが、日本語だとこういうくだりだ。
「大きなバオバブも、はじめは小さかったんだよ」

予定を見ていたいただければわかるように、明日からまたまた綱渡りのスケジュールがはじまる。
とはいっても、この予定は、1ヶ月前にはわかっていたわけで、
それまでの数週間は、時間があったはず・・・。
部屋も整理整頓ができたはずだし、
いつも後回しにしている普段はできない細々とした雑用も片づけられたはず。
「はず」という言葉は、なんと口惜しい響きを持つのだろうか。

バオバブの木は、アフリカに生える巨木。
マダガスカルに行った時は、どこまでも続くバオバブの並木道を見て感動したものだ。
サハラ砂漠に飛行機で不時着した主人公の「ぼく」に、
王子さまがせがんで描いてもらったヒツジ。
そのヒツジが小さい木を食べると聞いて王子さまは喜ぶ。
だったらバオバブの木も食べるだろうというのだ。
「ぼく」は、バオバブの木は、とても大きいのでとってもヒツジは食べられないよ、という。
その時の王子さまの返事が「大きなバオバブも、はじめは小さかったんだよ」だった。
バオバブだって、最初は、小さい木だというのだ。
小さいうちに抜かないと、王子さまの住む小さな小さな星では、どんでもないことになる。
バオバブの根っこが星を突き抜けて破壊してしまう。
用心して小さいうちに根絶やしにしなければならない。
だから王子さまは、小さいうちに木を食べてくれるヒツジの絵を書いて欲しかったのだ。

・・・とあらためて、この部屋をみる。
あぁ、あっちこっちで太いバオバブの根っこで占領されている。
こうなっちゃうと、どうしようもない。
部屋の整理整頓は、少し汚れた段階でやらないと、とんでもないことになる。
この部屋は、爆発寸前だ。

王子さまの言葉をしみじみ復唱する。
何事も「そのうちにやろう」という後回しは、いけない。

 


1999年10月26日(火)        放蕩からの脱却

 

インドから帰国してから、もう3週間も経っている。
9月に比べたら、目の回るような忙しさだったわけではない。
なのにこの日記も更新しなかった。
メールや手紙の返事も放ったらかしだし(申し訳ない)、部屋も荒れ放題。
とても仕事をする環境ではなく、自習室通い。
「放蕩生活」にどっぷりだった。

・・・・・・・

放蕩(ほうとう)

酒色にふけって品行の修まらぬこと。放埒。道楽。

(広辞苑)

・・・・・・・

 

まぁ、僕の場合の「放蕩」は、「プール通い」と「うたたね」だけど。
このやる気のなさの原因は、わかっている。
本日その原因の原稿がひとまず脱稿したので、
ちょっと元気が出てきて、この日記を書いているわけ。

この僕流の放蕩生活の影響で、けっこうまぬけなことをしでかしている。
実は、数日前、青梅マラソンのコースを試走しにいった。
毎年2月に行われるこのマラソンは人気があるので、くじ引きなのだが、
インドから帰ってきた時に、くじが当たって、申込用紙が送られてきていた。
「来年も走れる!」なんて喜んだとたん、そのことは、すっかり忘れていた。
そんで、先日、青梅の体育館へ来て、
申し込み金を払っていないことを思い出したのだ。
体育館の管理事務所で聞いてみると、締め切り日は3日前。
「またやってしまった!」
 

数年前、やはりくじ引きに当たったものの、
海外に出ていてお金を払えなくて出場できなかったことがあった。
その時は、仕事だったからあきらめもついたのだが、
今回は、まったくのチョンボ。
でも、そこの管理事務所の人があまりに僕の顔が落胆していたのをかわいそうに思ったのか、
申込金を預かってくれるという。

「出場できるかどうかはわからないけど、
マラソンの事務局の人が25日に来ますので、交渉してみますよ。
速達で申し込み書を送ってみてください」

対応が公務員的でないので、びっくり。
完全にこっちに落ち度があるのに。
たぶん体型からして、この人もランナーなんだろうなぁ。
思わぬ優しさに触れて、もう出場できなくても、満足って感じになった。
(どうなったかは、また結果がわかったら書きます)

その日は、秋晴れで、絶好のラン日和。
なんだか、気持ちがほんわかして、33キロほど快調に試走したのであります。

 

まぁ、まわりの人に支えられてなんとかやっているけど、
放蕩生活もほどほどにしよっと。

 


1999年9月20日(月)        曲者にしてやられたり!

 

ずっと続いていた綱渡りのスケジュールが本日ようやく終わった。
取材と締め切りがドドドッと重なっていたのだ。
とはいっても徹夜までしなくてもよかったのだから、まだまだなのだろうなぁ。
こういう時は、気持ちに全然余裕がないから、居心地が良くない。
メールや手紙の返事も滞るし、
(ご迷惑かけた方々、ごめんなさい)
この日記だって、更新できない。
一時来日していた友人のネパール人や、
久しぶりに一時帰国した旅仲間にも結局会えずじまい。
昨日も、ジム仲間で、せっかく走る練習を計画してもらったのに、参加できなかった。
(重ね重ね、ごめんなさい)

そんななかで、唯一休みにした日がある。
それは15日の敬老の日。
駅伝にエントリーしていたからだ。
4人で走るレースなので、棄権するわけにはいかない。
ちょうど台風が、接近していて、朝からモワッとした天気。
今回のメンバーは、元陸上部ばかりなので、かなりのプレッシャー。
おまけに全然練習してないっときてるから・・・。
とにかく「たすき」だけは渡さないと、という気持ちで参加した。

僕は第2走者で3キロ。
難しい距離だ。
5キロなら何度かレースでも走ったことがあるが、3キロのレースははじめて。
力の配分がよくわからない。
でも悩んでいる間もなく、第1走者から「たすき」をもらい、全速力で走りはじめる。
今までも日記を読んでくれている人なら、もう察していただけるだろうが、
計画性がないというか、無謀というか、
余力を残すという頭がレースになると吹っ飛んでしまう。
まわりの雰囲気に飲まれて、ハイペースで走る。
バンバン人を抜いていくうちに、ちょっと心配になってきた。
案の定、坂にさしかかると、へったってくる。
台風の余波のせいか、向かい風もひどい。
あと1キロの表示からは、ただただランニング・ハイになったふりをして、
(ここが大切・・・ランニング・ハイになるとどこまでも走れるような錯覚に陥る。
3キロ弱では、ランニング・ハイにはなるわけないのだが、自分でそう信じ込んでしまう・・・
いつの間にか、そんなこともできるようになってしまっている自分が恐い)
自分を騙しながら、距離をかせぐ。
幸いにも、3キロは、フルより短かった。
(あたりまえだけど)
筋肉が悲鳴をあげる前に、次の走者に「たすき」を渡すことができた。
時間は、11分38秒。
練習していなかったわりには、キロ4分を切ったのだから、許して欲しい。

 

駅伝会場では、無料で体力診断の測定をやっていた。
面白半分で、やってみることにした。
身長、体重を計ったあと、
握力や垂直跳び、敏捷性のための起立反応、平衡感覚のチェックを受ける。
やってみると結構、いい記録がでる。
や〜、僕もまだまだ捨てたもんじゃないぞ、
なんて思っていたところに登場したのが、
平衡感覚を計測する器械。
これが曲者だっだ。
まずA4くらいの板の上に両足を乗せる。
スイッチを押すと、自動的にシーソーのように左右に揺れる。
あまりどちらか片方に偏りすぎるとブーとブザーがなるのだ。
ブザーがならないように、瞬時に反対側に体重をのせ、バランスを保つ器械なのだ。
前に並んでいた中学生の女の子なんか、ものの見事にブザーがならない。
な〜んだ簡単じゃん、と僕の番。
スタートした瞬間、あっちで、ブー。こっちで、ブー。
オヨヨ。
こんなはずじゃ。
帆船の取材の時は、60m近いマストにだって平気で登ったのに・・・。

最後に、診断結果の用紙が印刷されて出てくる。
20歳を100%として、ヤング率ってのがでるのだ。
僕は、91.5%。体力年齢は29歳と診断された。
まずまずっと思って、注意事項のところを読んでみる。
・・・・・・・
あなたのバランス感覚は劣っています。
「老化は足元から」ともいわれるとおり、
老化現象がもっとも早く現れるのは、平衡感覚です
・・・・・・・

トホホ。

 


1999年9月2日(木)        ちょっとした発想

 

そろそろ秋のマラソンレースのエントリー時期だ。
北海から帰ってきて、かなりバタバタだった。
締め切りをこなすので精一杯の僕にとって、先のことなど考えている余裕がない。
そういう時に、きちんと計画性のある友人たちを持っていると助かる。
いろんなところから、「もう締め切りだ」とか、「エントリーしてあげようか」とか連絡が入る。
ありがたい限りである。
そんで、11/28の河口湖のフルマラソンの締め切りが8月いっぱいだったのだが、
原稿の方の締め切りに追われて、後回し後回しにしていて、31日になってしまった。
エントリー用紙もないし、諦めかけていたら、ジム仲間の矢内さんから、すごい情報。
なんと「チケットぴあ」でエントリーできるというのだ。
「嘘だろ〜!」
半信半疑で、教えられた電話番号に予約の電話してみる。
するとすんなりオッケイ。
う〜ん、画期的。
昨日、エントリーチケットを受け取りに行った。
コンサートと同じチケット型の券なので、ちょっと変だが、
これでエントリー完了ってわけ。
なんだか、すごく便利。

ちょっとした発想の転換って、こういうことかな。


1999年8月23日(月)        海の抱擁

 

暗闇を仄かに灯す海底油田の炎。
鉛色の波間をうつしだす赤い月。
水平線と雲を染める夕焼け。
嵐の時の迫りくる白波。
そして、襞のないノーザンライツ。

北海での1週間の航海。
さまざまな風景が頭に焼きついている。
夏といってもさすがに北の海は、冬の気配と隣り合わせだった。
ひとたび風が吹くと、かなり寒い。
それでも、凪の晴れた日に帆船の上から飛び込むことになった。
10m近い高さからのダイブは、水面に足が届くまでにかなりの時間がかかる。
重力のどうしようもない力に翻弄されている自分。
宙に浮く心許ない感触。
大気の青が一瞬透明になって、水の世界へ。
そのあと深い藍色。
それが、自分の飛び込んでできた白い泡の粒が目の前に来て、
だんだんと淡いグリーンに変わっていく。
澄んだ海水の色に、心を奪われ、時を忘れる。
でもほんの数秒。
息が苦しいって思った時、顔が水面にフッと出た。
たぶん水温は15度くらい。
興奮しているせいか、なぜだかその時は冷たさは感じなかった。
大気と水面の境界線に漂いながら、北海の抱擁をしばし楽しんだ。

・・・といっても数分。すぐに身体がしんしんと冷えてきて、おまけに毒をもっている透明とピンクのクラゲが漂っていたので、あわてて船に上がったのであった。

透明な中にも深淵な色合いの北の海も、なかなか、いい。

(詳しくは、JAL機内誌「ウインズ」2000年1月号で、どうぞ)

 


1999年8月6日(金)        思い

 

「思い」のエネルギーは、川のようです。
その思いが強ければ強いほど、急流で深い。
まわりの土地を削りとり、轟々と流れていきます。
どこかで堰をつくらないと、洪水になる。
たとえば「恨み」とか。

そのエネルギーを、本流に戻そう。
めざせ海を。
どこまでも広がる深い藍の大海原を。

 

・・・と気持ちを奮い立たせています。
8月2日の日記に、思わぬ反響があり、恥ずかしい限りです。
ご心配をかけました。

「失恋でもしたのですか?」なんてメールもあった。
う〜ん、あながちはずれていないかも。
ここ数年、ある土地に恋をして、何回も通っていた。
なんでもない小さな村なのだが、僕は、そのなんでもないところに惹かれたようだ。
通っているうちに、どんどんその村に対する思いが深くなっていった。
僕らが忘れてしまった何かがその村には、たくさん詰まっていつような気がした。
ある雑誌で、この秋からその村のことを発表することになっていた。
だが、雑誌の編集方針の変更で、掲載直前で長期連載ができなくなった。
それが8月2日に決まったのだ。
集中連載はできることになったが、ページ数は、限られている。
でも、限られたスペースでも、その思いが伝わるように、
今は、作品をつくるしかない。

 


1999年8月2日(月)        ばかやろー

 

僕にだって、そう叫びたいこともある。


1999年8月1日(日)        小さな旅

 

歳を重ねると、見慣れたはずのものが、ある日突然、グッとくることがある。
田舎の風景もそのひとつ。
先週、松本で取材があったので、実家に泊まることになった。
実家に帰ると楽しみにしているのが、ほのかに甘辛い「おふくろの味」。
最近は、その他にもうひとつ、早朝マラソンというのが加わった。

うちの実家は、松本でも安曇野よりなので、5分も走ると、水田地帯にでる。
畦道の脇を流れるせせらぎ、稲は、青々として膝下まで伸び、風にそよぎ、
まだ赤味がないトマトがゴロンと地面に垂れていた。
その向こうには、緑濃い常念岳や燕岳などの北アルプスの秀峰が連なっている。
空気は、透き通るような旨味があり、草や木々の香りがする。
日差しもなんとなく柔らかい。

田舎にいた頃は、都会の生活に憧れ、視線はいつも東京の方に向かっていたように思う。
日々、こんなに贅沢な環境の中に暮らしていたはずなのに、
その心地よさを全く理解していなかった。
でも、知らず知らずのうちに生まれながらに染みついたものは、
僕の5感にしっかり刻みつけられていたようだ。

道祖神の脇を抜け、40分ほど田園の中を走っていると、
梓川(あずさがわ)にかかる倭橋(やまとばし)にでる。
この橋を渡ると、南安曇郡梓川村。
橋を渡って、川沿いのデコボコ道を走り、下流の橋を再び渡り、松本市に戻る。
ほんの小一時間の「小さな旅」。行って帰って10キロちょっと。

山があって、田圃があって、川がある。
どうってことない田舎の風景。
なんでもない風景の中を、のんびりと走る。
贅沢、この上ない。

 


1999年7月23日(金)        土地の言葉

 

こんなメールが京都から届いた。

・・・・・・・・・・・・
やっと、長かった梅雨が明けていよいよ本格的な暑さです。
お身体、おいといください。
・・・・・・・・・・・・

20日の僕の日記の感想に加えて添えられていた言葉だ。
「おいといください」なんといい響きだろうか。
なんだか古典の授業を思い出させるような奥ゆかしい言葉。
さっそく広辞苑を開いてみる。
厭ふ---身体をいたわる。かばう。惜しむ。
京都では、まだこんな趣きのある言葉が使われているのだろうか。

その地に生きている言葉を知り、使ってみる。
それは、旅人のささやかな楽しみでもある。
そして、その言葉は、その地の空気とともに封印され、
日常に戻り、その言葉に再び出会った時、瞬間的に封印が解かれ、
そこから次々とさまざまな記憶が溢れ出す。

「アロ〜イ」(おいしい)は、
タイのチャームビーチの夜の屋台の熱っぽい空気を思い起こさせるし、
「ムチョ・グスト」(どういたしまして)からは、
コスタリカの場末の朝飯屋の太ったおばさんの笑顔と、
天井につるされた扇風機の心地よい風を知らず知らずのうちに感じている。

まぁ、そんなわけで、
急に、京都に行ってみたくなった僕である。


1999年7月20日(火)        夜の森

 

昨日、コスタリカから帰国した。
環境に適応し工夫しながら進化しているさまざまな生物に遭遇した。
(それは、それだけでたくさんコラムが書けそうなのだが、
その話はまた、そのうちに・・・)
コスタリカは、それほど大きな国ではないのだが、
標高差があり、しかもカリブ海と太平洋の両方からの気候が影響するためか、
森といっても熱帯雨林ばかりではなかった。
熱帯乾燥林、雲霧林など、いろいろな表情があるのだ。

ある夜、熱帯雨林の中を散策することになった。
夜行性の動物を観察するためだ。
懐中電灯を持ち、暑いのだがしっかりとGパンに身を包み、足元をガードする。
そう、ブッシュマスターという握りこぶし以上の鎌首を持つ毒蛇が、
うじゃうじゃいる森なのだ。
恐ろしや〜。
そんでもって、最初に出会ったのが、カエルも飲み込むという毒グモ、タランチュラ。
オヨヨ。
そんで次に出会ったのが、木の幹にいたサソリ。
尾についている毒針をピッとたてて、怒っているようだ。
先が思いやられる。
ガイドの後にピッタリはりついているのに、オドオド。
まだ熱帯の森に慣れていないせいか、
ヒマラヤあたりの森に入っている時とは、全然気持ちが違う。
身体が収縮してしまうのだ。

そんな僕の気持ちなどお構いなく、
ガイドは、もっと動物をいろいろ探してくるからと、大きな木の下で待っているように告げて、
さっさと僕のそばから消えた。
ということは・・・。
事の成り行きを考える間もなく、ひとり森の中で取り残されていた。
しばらく、その場所に立ちすくんでいたが、落ち着かない。
しかたがないので、どこかに腰を下ろそうと、怪しそうな地面を懐中電灯を照らす。
そうれはもう、念入りにチェックする。
危ないものがいないことを確認して、やっとのことで、コケの生えた石に腰を下ろした。
でも、なんとなく居心地が悪い。
とにかく懐中電灯を消し、森に慣れることからはじめてみた。
真っ暗な森。
恐怖感がまず襲ってくる。
生き物の気配が、身体中を緊張させる。
かすかな物音にもビクッとしてしまう。
五感が、過剰に反応しているようだ。
見上げると、重なり合う木の葉のわずかな隙間に星空が見えた。
そして大きく深呼吸をしてみる。
湿った森の匂いが香った。
すると徐々に、身体と気持ちがほぐれていく。
森に同化していくというか、闇に溶けていくというか。
次第に、森の生き物たちの気配の一員になっていくような感覚。
と同時に、恐怖感が和らいでくる。
不思議だった。

まだまだ慣れるには、時間がかかりそうだが、
熱帯の森の「気」のようなものをちょっぴり感じることができた。
帰国した今となっては、恐怖感が好奇心に変わりつつある。
我ながら、お気楽な性格だと思う。


1999年7月5日(月)        スープの冷めない距離

 

以前、ある雑誌に書いたことがあるのだが、
この部屋は3階なので、ちょうど電信柱についている四角い箱が3つ、窓から見ると目の前にくる。
部屋の中のソファーに座ると、ちょうどその箱がじゃまになって、
自慢の東京タワーが見えなくなる。
各家庭に電線が配線されるためのボックスのようなものらしいのだが、
景観を損ねるその箱が最初は気に入らなかった。
が、そのうちに、その箱がいとおしくなってきたのだ。

引っ越して間もない春先、ボッーと空を眺めていた時のこと。
雀がその配線箱の真ん中のボックスに小さな枝を加えて入っていくのが見えた。
電線と箱のわずかな隙間の中に、スルッと入るのだ。
それは、何度となく繰り返される。
どうも巣を作っているらしい。
それから、その箱を観察する日々がはじまった。
雛が孵り、巣立って行くまで、いつの間にか、ささやかな楽しみになっていた。
この箱の中は、かなり安住の場所らしく、それから毎年、雀が巣を作っている。
同じカップルかどうかは、定かではないが・・・。
確かに、卵を狙っているのか、ここに巣があるのを賢いカラスは知っていて、
黒い大きな身体を翻しながらあたりを徘徊しているが、
箱にガードされているためにカラスは中に入れないため安全だ。
絶好の隠れ家のようだ。
で、最近、隣りの箱にも新しい巣作りがはじまっている。
巣立っていった子どもたちが戻ってきたのかもしれないなぁ。
スープの冷めない距離に親子で棲んでいる・・・なんてことないか。

鳥の世界も調べればいろいろな発見がありそうだ。
自然は奥が深い。


1999年7月2日(金)        ある2分

 

浜松町で待ち合わせをしていたので、原宿から山手線に乗った。
東京寄りの改札口が待ち合わせ場所。
だから先頭車両の一番前に乗った。
昼過ぎだったのだが、結構、車内は込んでいた。
立った場所は、運転手のちょうど後ろ。
なんだか「電車でGO」をやっているみたいな気分になってくる。
(シューティングのようなゲームのたぐいはあまり好きじゃないのだが、
どうしてもゲーセンで時間をつぶさなければならない時には、
ラフティングやカーレースなどのまわりの景色が変わるやつをやる。
電車でGOも立体的に風景が変わるので、それをみているだけでもおもしろい)
かすかに運転手がつぶやくかけ声も聞こえてくる。

で、気がついたら大崎。
停車時間の間に、運転手が交替した。
確かに環状線なんだから、エンドレスに線路は続いている。
運転手だって交替するのはあたりまえなんだが、
目の前で、たんたんとしかも迅速にそれが行われていくと、ちょっとビックリする。
停止して、確認作業のあと、運転していた運転手は、すっと下車。
それと同時にホームで待っていた運転手が乗り込み、
新しい時刻表のようなプレートを置き、確認事項を開始する。
なにより驚いたのは、降りた運転手と乗り込んだ運転手の関係。
運転中は、ひとりの作業だから、どっちかといったら孤独の世界。
数時間も同じ路線をぐるぐる回って、人と話すこともないわけだから、
やっと交替の時間になって仲間の同僚に会えば、会話も生まれるはず。
でも、まったく私語がない。
規則とかで、決まっているのかなぁ。
それとも険悪な仲だったりして。

でも、僕は、見てしまったのだ。
互いに目で会話をしていることを。
かすかに微笑みあう運転手たちになんとなく親しみを持った。
そんでもって、ホッとした。
ロボットじゃないんだから。

この間、ほんの2分ほど。
緑の電車は、何事もなかったかのように動きだした。

・・・コスタリカ行きが一週間延びた。
おかげで、綱渡りのスケジュールに、余裕ができた。


1999年6月28日(月)        風まかせ

 

横浜のプカリ桟橋から「海星」という帆船に乗った。
この帆船は、セイルトレーニングが行われている。
経験豊富な乗務員の指導のもと、乗り合わせた訓練生全員でロープを引き、
マストに登り、舵を取って帆船を動かすのが、セイルトレーニングだ。
訓練生は、帆船に乗るのがはじめてという未経験者がほとんど。
果たして本当に帆船が動かすことができるのか・・・。

とあるイベントの選考もかねての航海を取材することになっていたのだが、
フィジーから帰ってきたら、僕も訓練生の一員として知らない間に組み込まれていた。
トホホ。
今回は、2泊3日の行程。
本格的に梅雨に入って、雨模様だったので、船酔いが心配だった。
でも、乗り込んだとたん、さまざまなスケジュールがビッチリ詰まっていて、
船酔いどころではなかった。
グループ(ワッチ)分けされ、
グループごとの指導者(ワッチリーダー)の言われるままに身体を動かしているうちに、
どんどん肉体酷使型の血が騒いでくる。
「あぁ、楽しい」
いやぁ、こんなにワクワクする取材はなかった。
(はっきりいって、仕事ということを全然意識していなかった)
ワッチのみんなと同じロープを引き、声をかけ、帆を上げる。
最初は、おっかなびっくりだったマスト登りも、
2日めには、てっぺんのマスト(トギャラン)で、いつの間にやら、作業をしていた。
地上から30mから見る360度の大海原の風景。
(とはいっても、真後ろまでは、まだまだ振り向けなかったけど)
爽快だった。
ワッチのみんなとも、自然と仲間意識が生まれて、
たった2泊3日しか一緒にいなかったはずなのに、
作業をずっと続けている間に、古くからの友のような感覚になってくるから不思議だ。
僕はかなり単純なんで、この帆船の魅力にまさに「洗脳」されてしまったようだ。
困ったもんだ。

この船は、小笠原へ行く航海もあるそうだ。
約6日間。
そんだけ乗っていたら、嫌なこともいっぱいあるだろうなぁ。
体力的にも持つかどうか。
外洋に出れば、もっともっと海も荒れるだろうし。
でも、頭の片隅で、
もう、乗ってみようと思う気持ちがかなり色濃くなっているのが、
自分でも恐い。

なにより「風まかせ」ってところが、いい。

 

後日談・・・一緒に乗っていた編集者からの情報
訓練生のひとりの大学生の女の子が、その編集者に、僕の歳を聞いたそうだ。
ムムム、現役女子大生からアプローチありか?
と喜んだのもつかの間。
「あんな人がおとうさんだったら、いいなぁ」
といったんだって。
ガビーン。
大学生の娘がいてもおかしくない歳だもんなぁ。
しかたないか。

 


 

1999年6月24日(木)        鬼門?

 

フィジーより本日帰国した。
今回は、通信社がらみの仕事もあったので、
現地ですぐに原稿を書き上げなければならなくて、ノートパソコンを持参した。
とはいっても、4年も前の機種なので、かなり重い。
いつの頃からか、原稿を書くときに、画面を見て考える癖がついてしまっている。
原稿用紙に向かって書いていた頃がなつかしい。
文字も忘れるし、これではいけないと思うのだが、
慣れてしまったものは、しかたがない。
まだフィジーなら電気もある場所が多いが、ヒマラヤなんかだと、かなりキツイ。
そういえば、池澤さんとムスタンへ行った時は、太陽電池の設備を持っていったっけ。
池澤さんも、旅の最中に書かなければいけない原稿はパソコンに書いて、原稿用紙に清書するそうだ。
プリンターを持っていくのはたいへんだし、
原稿用紙に文字を書いてみるのは、なかなかいい快感なのだ。
でも、衛星通信も進歩し、E-Mailで送れば簡単なんだから、
原稿用紙は、ますます出番がなくなっちゃうだろうなぁ。

フィジーは、フルマラソンがらみの取材だった。
僕も参加したのだが、記録は、ここでは書けないほど惨憺たる結果。
一応完走はしたけれど、過去最低記録で、4時間台でした。
3月からほとんど走っていなかったからなぁ。
3週間前から突然練習しても遅いよなぁ。
やっぱり練習不足。反省です。
でも、現地のフィジアンたちの応援は、あったかくて、
35キロ地点で、またもや下半身がドドドッとつってしまった時、かなり励まされた。
サトウキビを満載したトロッコ列車が走る南の島のマラソン。
ローカルで参加者も少なく、素朴なマラソンだった。

それにしても、いつも同じ失敗を繰り返すのかねぇ。
30キロ過ぎまでどんなに調子がよくても、35キロで必ずひともんちゃくある。
35キロあたりは、僕にとってかなりの鬼門のようだ。
方角や場所じゃないから、ここで鬼門はおかしいか・・・。

帰国したばかりだが、明日から、横浜から帆船に乗る。
綱渡りのスケジュールは続く。


1999年6月14日(月)        四十肩

 

この2週間、かなり仕事が詰まっていた。
やることがいっぱい。あれをやって、それをやって、これをやって・・・。
頭がキリキリの状態。
普段、のほほんとしているから、こういう状況はあまり慣れていないのだが、
やればできるものだ・・・と自己満足。
仕事がくるのは、本当にありがたい。
でも、そんなに器用な方じゃないし、片手間にはできない性分。
うまくバラけて仕事がくるといいのだが、そうもいかない。
最後の3日間は、好きなプールへも行けない状況だった。
(あたりまえか・・・)

なのに、左肩が痛い。
クロールをやりすぎた筋肉痛とは、ちょっと違う感じ。
クロールの真似をして、肩をまわしても、ほとんど痛みを感じない。
でも腕を後ろに持っていって、ある角度までくると、強烈な痛みが走る。
トホホ。筋を痛めたかなぁ。
仕事の合間になんとか接骨院へ行って、ハリを打ってもらって、
少しは良くなってきたが、まだ痛い。
とても本調子とはいえない。
もしかしたら、これ「四十肩」? 
40歳を前にして、早くも・・・。
あと6日でフルマラソンのレースだというのに、大丈夫だろうか。

まぁ、そんなわけで、どうなることかわからないが、フィジーへ行ってきます。
午前中にやっと最後の原稿を仕上げ、さっきパッキングしたばかり。
本日は、運良く夜の便だったのです。
帰ってからも、綱渡りのスケジュール。

ありがたや 仕事がきたら 40肩
・・・詠み人知らず


1999年6月1日(火)        貧乏性

 

こんなメールが来た。
「謝さんは、東京にいる時は、どんな一日を過ごしているのですか?」

・・・ってなわけで、本日の一日をレポート
06:30       起床 (東南の窓に、カーテンをかけていないため朝日に起こされる)
06:45〜07:45  ジョギング(メール確認後、代々木公園4周。10キロ弱)
07:50〜08:05  シャワー(トイレ後、チャチャッと浴びる)
08:10〜08:20  朝食(ジョギングの帰りにコンビニで買ったレタスサンドとヨーグルト)
08:30〜11:45  執筆(ベランダにノートパソコンを出して原稿を書く)
12:05〜13:00  スイム(代々木50mプール 2.3キロ)
13:30〜14:00  昼食(お気に入りの代々木上原の和食屋「そ」で銀鱈定食1050円)
14:05〜14:40  ティータイム(上原のミスドでエンゼルクリームとコーヒー409円)
15:30〜20:00  執筆(代々木にある自習室にて)
20:20〜20:45  夕食(代々木八幡の「松屋」で生姜焼き定食580円)
21:00〜22:10  企画書作成(とある雑誌に向けてプレゼン用)
22:15〜23:00  メール確認とこの日記の更新
23:00〜      読書(横になりながら読みかけの「<私>という演算」保坂和志著の予定)
23:45       就寝(予定)

 

・・・・な〜んちゃってね。
こんなキツキツのスケジュールだったら、
今頃、村上春樹とはいかなくても、もうちっとはマットウな人生が送れていただろうなぁ。
肉体も、文体もきっと変わっていたはず。
全部、嘘じゃないけど。
ジョギングなんて、昨日3時間も走ったんだからと、断念したし。
午前中の執筆は、実はほとんどひだまりで居眠りしていたし・・・。

でも、午後の執筆は珍しくちょっぴりはかどった。
この「自習室」結構使える。
引っ越して数年が経つので、結構気に入っていたこの部屋もやっぱり飽きてきている。
最近、めっきり筆が進まない。
そんでもって、みつけたのがこの自習室。
要するに貸し机屋さん。
自前のパソコンが使える図書館は少ないし、
電源を貸してくれるところは皆無。
でもこの自習室は、パソコン使用もオッケイ。
電源も自由に使える。
料金は、最初の1時間が200円で、その後30分ごとに80円加算される。
代々木という土地柄、予備校生が黙々と勉強している。
その緊迫した雰囲気に、つい筆も進むらしい。

まぁ、金を払って机のスペースを借りているわけだから、
「もとをとらなくっちゃ」という意識が働くのも否めない。
ほんとに、貧乏性なんだから。


1999年5月31日(月)        海の余韻

 

早朝、3時間ランをした。
実は、6/19にフィジーで行われるフルマラソンの大会に急遽出ることになったのだ。
今年で3回目になる手作り感のある素朴なこのレースに参加し、取材レポートするという仕事。
やっぱり体育会系だ。
レースまで、あと3週間。
今回は記録をねらうわけじゃないのだが、
取材者が途中でヘロヘロになってしまうってのも、格好悪いからなぁ。
で、あわてて練習を開始したわけだ。
マウイのレース以来、あんまり走っていない。
東京にいるときは、スイムはしていたけれど・・・。
どうなることやら。

古い友人であるジムのイントラクター(この間100キロマラソンを完走した)が、
メニューをつくってくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3週間前に、3時間ラン(だだしゆっくり続けて走る)
2週間前に、ハーフをラン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たった、これだけで、いいというのだ。
体力はどこかに温存されているので、あとはひたすら身体を休めることが大事なんだそうだ。
「合間にスイムやジョギング程度ならよいが、あんまり練習しすぎないこと」だって。

都内を走るのは、排気ガスをたっぷり吸いにいくようなもので、あんまり好きじゃない。
でも青梅まで行く時間もないし、ちょっぴりゲーム性を持たせて走ることにした。
「海に向かって、1時間半で、どこまで走れるか?」
3時間走だから、半分の時間でUターンすることになる。
ルールは、1キロ5分30秒〜6分の間で走ること。
(イントラにくれぐれもゆっくり走るように念を押されたため)

500円玉ひとつ(途中の自販機で給水するため)を掌にかかえて、いざスタート。
住宅街を抜けて、とりあえず下北沢の方へ行く。
普段都会で生活していると、海のある方向なんて意識していないものだ。
で、思いついたのが、川。
川なら必ず海に流れ出るはず。
海までの最短距離だと、たぶん他の川の方が近いと思うのだが、
なんとなく都心を通りたくないので、多摩川を目指すことにした。
天気はいいが、まだ朝が早いので、そんなに日差しも強くない。
茶沢通りを抜け、三軒茶屋から246号沿いを走る。
そろそろ朝のラッシュの時間と重なり、駅に向かう人で歩道はワンサカ。
そんななかで、人混みをかき分け逆方向に海を目指して駆けていく色の黒〜い男。
あぁ、顰蹙。
自分でもかなり社会とかけ離れた生活をしていると思う。

でも、桜新町あたりを過ぎると、人混みも車の通行量もがなり少なくなり、快適に距離を稼ぐ。
気持ちもだんだんよくなってきて、ストライドの幅が広くなる。
ついスピードを出したくなる衝動にかられるが、ルール違反になるので、グッとこらえる。
ブランド主婦たちが徘徊するというニコタマの街を抜け、二子橋を渡る。
川風が気持ちいい。
東京をちょっぴり脱出。橋を渡れば川崎だ。
川沿いに整備されているサイクリングロードを川の流れと同じ方向に走る。
空が大きい。
排気ガスからも解放され、快適。快適。
でも、この時点でもう、悲しいかな1時間を超えている。
気持ちのいい道でのランは、あっという間に制限時間に突入。

このサイクリングロードには、1キロごとに道標がたっている。
その道標に「海まで15キロ」とあった。
まだまだ、潮の匂いまでは届かなかったが、
海の方向を認識したためか、ちょっぴり海の余韻を感じた。

その場で、寝ころび3分ほどストレッチをする。
日差しが心地イイ。居眠りでもしたくなってくる。
でもそれは、許されない。
来た道を戻らねばならないのだ。


1999年5月26日(水)        M度

 

佐渡へ行っていた。
ここ数日ずっと天気がよかったのに、佐渡に着いたとたん崩れてきた。
その後、前線が通過してしまってからも、
天気図を見るとちょうど新潟から佐渡の部分だけが回復が遅れていた。
東京は、天気なのに・・・。

そんな悪天候の合間をぬって、取材が決行された。
しかも夏まっさかりの海の企画。
ダイビングをして、佐渡の豊穣の海を紹介するページだ。
昨年の9月に遊びで潜ったので、ダメもとで出していた企画が通ったのだ。
海の中は、だいたい2カ月遅れているといわれている。
ということは、3月下旬の気温?!
トホホ。
でも、肉体酷使型マゾ系ライター(どんどんタイトルが長くなる)としては、
ここが頑張りどころ。
灰色の冷たい海へ、いざドボン。
その時は、もちろんドライスーツにフードをかぶって潜った。
でも、さすがに寒い。
水中に入ると、寒さも忘れ、
ダイバーには「弁慶」の愛称でおなじみのコブダイをはじめ、
ギンポ系のかわいい魚もたくさん見ることができた。
透明度もよく、結構楽しんだ。

浮上を開始して、船底まであと少しというあたりから、ガタガタ震えてきた。
「う、う、う〜」
震えが止まらない。
船に上がり、ドライスーツを脱ぐと、中がぐっしょり。
そう、水没していたのだ。
たぶんサイズが合わなかったのか、喉仏のあたりから水が入っていったらしい。
来ていた服はびしょびしょだったので、かなり前から水没していたらしい。
水中散歩に集中していたせいか、全然気がつかないお気楽な僕。
かなりM(マゾ)度が増しているらしい。
そういえば、場所も「サド」だし。
(かなりこれって、オヤジギャグ臭い)
トホホ。

ダイビングだけでなく、一般読者のために、
シュノーケルができるポイントも紹介することになっていた。
その撮影の時は、さらに過酷。
さすがにドライじゃ、夏の感じがでないからと、
ほとんど半裸の状態で磯辺でパチャパチャ。
さすがに本格的にマスクをつけて泳ぐ時は、ウエットスーツを着たが、
寒い、寒い。
海の中で泳ぐこと10分。
凍える身体。
もう、やけくそっていう感じ。
でもそのうちに慣れてくるから人間って恐い。
麻痺してきちゃうんだろうなぁ、きっと。
そのうちに快感になってきたりして・・・。
幸いにもそんな悦楽を感じる前に、カメラマンのオッケイが出て、撮影終了。
そのあとの温泉のありがたかったこと。


詳しくは、JR東日本の車内誌「TRAIN VERT」8月号で、どうぞ。
ただし、M体験のことは、書けませ〜ん。


1999年5月24日(月)        トレンド・リーダー

 

ただ今、朝の5時。もう明るくなって久しい。
この部屋は東南を向いているので、夏は、カキッとした強い日差しで目覚めることになる。
まだ夏ではないのだが、このところ太陽は、どんどん元気になっているっという感じ。

昨日の日曜日も照りつける太陽の中、駒沢公園まで走った。
通っている猿楽のジムから往復するとだいたい15キロぐらいのコース。
駒沢公園に着いてから、公園内のコースで2周した。
そこで、またもや藤竜也に会った。
会ったというか、見かけた。
彼も、ランナーである。
幾度となく駒沢を走っている姿を見ているのだが、今日は、すごかった。
口髭をはやした、そのダンディな男優を囲んで、
同じくらいの年齢のオヤジたちが、一緒にランニングしているのだ。
しかも、上半身ハダカで。
まぁ、暑いんだから、その気持ちはわかる。
でも、だいぶおなかがでてきた(数年前までは、かなりマッチョで格好よかった)
渋いその俳優をはじめ、お世辞でもきれいなボディとはいえないオッさんたちが、
10人以上走っていると、ものすごい雰囲気。
でも、よくよく観察してみると、そのグループ以外でも、
オヤジたちが上半身ハダカで、たくさん走っている。
もしかして、今日は中高年のラン大会が行われているのかなぁと思うほど。
一緒に走っていたジム仲間の女性が、
「駒沢公園は、ランニンググループが自然発生的にできているみたい」と教えてくれた。
ほほ〜、そうか。
駒沢公園では、藤竜也をトレンド・リーダーとして、オヤジたちが頑張っているのだ。
なんか、いい感じ。

オヤジたちが元気だと、なんか力が沸いてくるのは、
僕もオヤジだからだろうか。


1999年5月18日(火)        入る瞬間

 

朝、一緒にインドヒマラヤを取材している山岳部出身のカメラマンから電話で指令が出された。
「ブルータスを見よ」。
彼の作品でも、載っているのかなぁ、と昼飯の時に本屋を覗いてみると、
その指令のわけがわかった。
「肉体が変われば、文体も変わる」っていう特集記事なのだ。
16回のフルマラソンを走り抜けた村上春樹が、言った言葉なのだそうだ。
ほほ〜。
バム(
注4/10へ)の僕としてはこれは、読まずにいられない。
カメラマンもそう思ったのだろう。

村上氏のインタビューが載っていたんだけれど、
そこで村上氏が使っている「入る」っていう言葉が、妙にしっくりきた。
村上氏の説明によると、自分の内に深い深い竪穴があって、
その底に大事な水の湧き出す泉があると仮定すると、
小説を書くためには、その水を汲んでこなくちゃいけない。
それはたいへんな労働の繰り返しなんだけど、
その繰り返しをしているうちに、「入る」瞬間があるというわけ。
いちいち下りていかなくても、すっと身体がテレポートしてしまう。
浮遊状態になるというか、行こうと思えばすっと行くことができる。
でもそれには、条件があって、毎日毎日の労働の繰り返しがあってこそ、
スーパーナチュラルな状態が生まれてくるのだという。
走っていれば「ランニングハイ」だれでも経験できるけれど、
それは錯覚で、一時的なもの。
でも、訓練を続けているうちに、それとうまくつきあっていけるようになるという。
長篇を書くときも、つぼである「入る」瞬間の集中力に行き着くために、
長距離ランニングと同じような持久力が必要だという。
村上氏は、生活そのもののリズムをランニングの要素を組み込んでいるようだ。
だから、それは文章にも影響してきて、文体も変わってくるという。
走っていると呼吸のパターンとリズムが自然に変わってくる。
息が長くなってくる。そうすれば文章の息も長くなる・・・と。

確かに「入る」瞬間は、ある。
でも、文体に影響するほど、僕は継続的に走っているわけではないし、
第一もっともっと書かないと、その域までは達せないだろうなぁ。


 

1999年5月13日(木)        青空の翳り

 

いや〜、いい天気が続く。
梅雨までのこの気持ちのいい日々を有効に楽しまないと。
とはいっても迫り来る締め切り。
天気がいいとなかなか仕事がはかどらない。
せめてもの妥協策としてベランダにノートパソコンを出して日差しを浴びながら原稿を書く。
なんとか頭を仕事に切り替え、午前中は終了。
昼休みに代々木公園を4周ほど走る。
約1時間。ちょうどいい息抜きになった。

メシの後、イマイチ乗る気が出てこないので、パソコンを持って、原宿へ。
前にも書いたが、夕陽のあたるお気に入りのドトールで、仕事をしようと思ったわけ。
1ヶ月ぶりくらいで行ったのだが、いつもと様子が違う。
問題は、隣りのビル。
外壁の塗り替えのためなのか、鉄骨が組まれていて、
お気に入りの席から道行く人が見えにくい。
おまけに、そのビルの地下に入っているインド料理のお店が、
インド音楽をものすごい音響でかけているのだ。
たぶん外壁の工事で人が入りにくいから、
音楽をかけているんだろうなぁ。トホホ。
状況は更に悪かった。
隣りに座っている若いカップルが、僕の目の前でチュッ、チュしているのだ。
気がちること、この上ない。
でも人間とは、不思議だ。
こうまで逆境にさらされると、かえって開き直るものだ。
3時間、みっちり仕事がはかどった・・・・と思ったのだが。

そろそろ帰ろうかと思ったとき、パソコンの電源が突然切れた。
こまめに保存していたので、問題な〜いなんて思って自宅に帰って電源に繋いでみると、
ナイ、ナイ。
3時間分の原稿が、どっかへいっちゃってる。
そんなばかな。
あわてて、いろいろと探してみるが、どこにもな〜い。
こういう時、あきらめるが勝ち。
あまり考えると落ち込むだけ。
そんでもってやっと3時間分の原稿を思い出しながら、今、書き終わったところ。

青空フェチの僕にとって、この時期は案外たいへんなのだ。

 


1999年5月7日(金)        どんどん縮む

 

約1年半ぶりのチベット。
なんだか加速度的に変化しているようだ。
特にラサには、驚いた。
街の中心地のトゥルナン(大昭寺)のそばに、なじみの喫茶店がある。
建物は前と同じように古くさいまんまなのだが、
なんとコンピューターが数台置かれていて、
インターネット・カフェに変身していたのだ。

試しに、この「歩くネット」にアクセスしてみる。
コンピューターの中にしっかり日本語のソフトも入っているようで、
きちんと文字化けせずに見ることができる。
インターネットなんだから、繋がるのはあたりまえ。
でもチベットにいながらにして、自分のサイトを見るというのは、
ちょっと不思議な気分。
チベットの乾いた空気感の中に東京の湿った風が吹いてきたようで・・・。
世界はどんどん縮んでいく。
どんどん縮んで均一化されてしまったら、僕の居場所はなくなっちゃうなぁ。

ちなみにアクセス時間は、10分で、7元(105円)。
物価からしてもベラボウな値段ではないのだが、
アクセスしているのは、外国人ばかりで、
傍らのチベット人たちは、トランプに興じていた。
なんとなく、ホッ。

変わらないで欲しいというのは、旅人の身勝手なんだけどね。

 


1999年4月30日(金)        怪文ファックス

 

気持ちのいい青空だ。
こんな日は、野良猫たちのように、思いっきり伸びをして、
日だまりで「のほほん」としていたいものだが、そうもいかない。

とある怪文書がファックスされてきた。
タイトルは、「お見合いの心得」。
な、なんなんだ。
悪友のイタズラに違いないとさっそく電話をするが、覚えがないという。
もしや、田舎の親がいまだに独り者の息子を不憫に思っての苦肉の秘策か・・・と、
様子を伺って電話する。
もちろん、そんな話はでるはずもない。
そういえば、この間帰省した時に、ファックスの流し方がわからないからと、僕に頼んでいたなぁ。
だとすれば、誰だろう。
今、巷ではやりの、コンピューターで検索するというお見合いクラブかなぁ。
この可能性が一番高いけど、別に勧誘の内容ではないし、
ファックス用紙の上に普段は印字されるはずのファックス番号が記載されていないのだ。
これは、ますます怪しい。

まぁ、必要ないのだからポイっと捨ててしまえばいいのだが、
ちょっと内容が面白いんで、つい読んでしまった。
心得は、時間について、服装について、態度について、話題について、お見合の後は、
という5項目。
・・・男性は背広にネクタイ、又は清潔な服装に心がけましょう・・・
ふむ、ふむ。
・・・特に男性は、リラックスした気分で姿勢を正し、
相手の目を見てお話をするように心がけましょう・・・
へぇー。
・・・最初からあまり相手に負担をかける話は、避けるようにしましょう・・・
オヨヨ。


それにしても細部にわたって、マニュアル化されているのは、ちょっと恐い。
これを読んでお見合いに臨む人がいるっていう現実も、ちょっと恐い。
そして最後まで読んでしまった自分も、もっと恐い。
トホホ。

ところで、怪文書を送った犯人さん、そろそろ正体をあかしてください。
怒らないからさぁ。


1999年4月24日(土)        大段幕が大事

 

ジム仲間から留守電が入っていた。
2月に走った青梅マラソンの記録写真集に
僕の走っている姿が写っていたというのだ。
しかもカラーで。
大会の記録を写真スナップで残すこの本、
かなり厚いもので、大会参加者に配られるらしい。
アッサムへいって留守だったので、宅急便の不在票が入っていた。
本日、宅急便屋さんが届けてくれた。

わくわくしながら、僕の勇姿を探す。
ムムム。
確かに、僕が走っている姿が写っている。
でも、よ〜く見ると、そのページ、
青梅信用金庫の広告のページではないか。トホホ。
青梅信用金庫の建物に垂れ下がっている「あおしん」という大段幕が大事なんで、
その前をランナーが走っていればイイってこと。
要するにランナーなら、誰でも良いのだ。

それにしても、シンラの連載の時は、
森の中で「謝さんを探せ」という感じだったのに、
こっちのほうが、もろに自分だってわかるなぁ。恥ずかしい限り。
まぁ、ローカルな感じでいいか。

「見てみたい!」という物好きな方は、こちらをクリック→あおしん

 


1999年4月23日(金)        第3の目

 

今朝、インドのアッサムより帰国した。
ブータンからの帰りなどに何度か通ったことはあったが、
じっくりいたのは、今回がはじめて。
チベットからヒマラヤを抜けて流れ出すブラマプトラ川沿いに広がるアッサム平原には、
のどかな田舎の風景がところどころに残っていた。

ベースにしていたホテルが川を見晴らせる高台に建っていたので、
自然とボッーと川面を眺めていることが多くなる。
というのも、同行したカメラマンと夕陽の写真を撮ろうと、
着いた初日にホテルの庭から川を見おろしていた時、
川面に黒い流線形の影を見たからだ。
それも数回。
あとでわかったのだが、この川には、「カワイルカ」がいるというのだ。
それも視覚という機能をもたないイルカらしい。
目というものがないという。
一説によれば、数百年ほど前に上流で地震があって、
川の水が濁り、ほとんど視界がなくなってしまった。
その後も土壌が変化したのか回復しないため、
川に棲息していたイルカは、視覚の機能が不必要になった。
もともとイルカは第三の目、音波などをキャッチして動くことができるから、
目自体がいらなくなったというわけ。
真偽は確かめていないが、かなり詩的。
もう一度、そのイルカを見たい・・・とつい川面を見つめてしまう。
結局、もう一度見ることができたのは最終日にほんのちょっと。
影がすうっと3回、川面に波をたてたのが見えただけだった。

でも、カワイルカの出現を待って、
チベットから標高差数千メートルの旅をしてきたとは思えないほど、
ゆったりと流れる川をボーッと眺めている時間は、
なんとなくいい感じだった。
見えないけれど、どこかにいる気配がする。
視覚に頼らない存在感。
そして、なぜだか安心感。

東大の中にある博物館にこのカワイルカの剥製が陳列されているという。
今度、会いにいってみようっと。

 


1999年4月10日(土)        パチンコがやめられない

 

最近ついた僕のあだ名・・・「バム」。
英語で書くとBUM。
どうもスラングらしい。

さっそく辞書を引いてみる。
・・・【米俗】n. 浮浪人・・・
なるほど。
さらに、その後ろには、なまけ者、ルンペン、飲んだくれ・・・と続く。
全然プラスのイメージじゃない。トホホ。

実は、「スポーツ・バム」という種類の人びとがいるという。
もともとはサーファーに多かったそうだ。
波乗りのいいポイントをめざして世界中を放浪する。
いいポイントでとことん波に乗り、金がなくなったらアルバイトする。
好きな波乗りのポイントをいかにたくさん体験するか。
そんなことを考えながら世界を点々と生活をしている人びと。
その後、クライミングやスノボーをやる人びとにも波及しているらしい。
もともと放浪癖のあるうえに、最近スポーツにはまっている僕に、
うってつけのあだ名というわけ。
まぁ、僕のあだ名の場合、バムという意味の中には、
スポーツ中毒症状という意味も込められているのだが。

沖縄から帰ってインドへ行くまでに、わずか4日。
原稿が詰まっていて、たいへんなのに、
ほんの少しの合間をみつけては、プール通いをしている。
明日、出発なのに、本日もしっかり2.3キロ泳いできた。
ほんと、これ中毒。
もう、いてもたってもいられないって感じ。
まさにバム度を発揮しているというわけ。

パチンコがやめられない、という人の気持ちが最近わかるんであります。

 


1999年4月7日(水)        モイヤー弁

 

桜が満開を通り過ぎている。
今年は、沖縄へ行っていたから、恒例の花見ランもできなかったなぁ。
ちょっぴり残念だ。
せめて四谷へ走りに行こうかと思ったが、
なんか国賓が来ているらしいので、
迎賓館のそばへ行くのは怪しまれるからやめようっと。

沖縄は、ナチュラリストで生物学者のジャック・モイヤーさんに、
サンゴの海の楽しみを体験しながら教えてもらうという仕事だった。
あいにく天気はあまりよくなかったのだが、
70歳という年齢には思えぬほど力強く泳ぐ姿には、脱帽。
やはり生態を知っている人と潜ると、いろんな発見がある。
魚の泳ぎ方ひとつにもいろんな意味があるようだ。
とにかく面白かった。
(くわしくは、JTA機内誌「Coralway」真南風号 7/1発行でどうぞ)


モイヤーさんは、有名人ではあるけれど、とても気さくな方で、楽しい取材になった。
「モイヤー弁だから、わからないでしょ」と自分の日本語を謙遜するが、流暢な日本語を話す。
自然保護運動を前面に押し出して主張するのではなく、
自然のすばらしさをたくさんの人に知ってもらうことで、
自然保護の大切さを理解してもらうというスタンスをとっている。
住んでいる三宅島でも、子どもたちに海の教室を開いて、
自然に興味を持ってもらうような活動もしている。

最近では、家族の住むフィリピンとの2重生活。
奥さんはフィリピン人なのだが、
モイヤーさんの話だと、奥さんの出身地の島が、
なんだか素朴でとってもよさそう。

行きたいところがまた、増えてしまった。

 


1999年4月5日(月)        燃えた。

 

イヤ〜、燃えた。
ここまでやってくれるとは、誰も想像してなかったはず。
準準決勝は、石垣へ行く空港のロビーで、準決勝は、石垣島のそば屋で、
決勝は、黒島の海中公園でテレビ中継をみた。
そう、春の高校野球。
たまたまなのだが、
仕事の合間に沖縄尚学ナインのはつらつとしたプレーを見ることができたのだ。
真剣勝負の中の緊張感。
でもそれに押しつぶされることなく自然体で臨む選手たち。

準々決勝に勝ったとき、ウチナンチュ(沖縄人)の間でも、
「次は、PLだからね〜」とあきらめムードで、
「ここまでよく頑張ったさ〜」という感じだったんだけど、
いざPLとの試合で、互角に勝負をしているので、応援もさらに熱が入った。
そんなウチナンチュの人びとの応援の熱気の中で、
時を一緒に過ごせたのは、僕にとっては、運がよかった。
気持ちがひとつになるって、いいもんだ。
これほど県をあげて応援するのも、沖縄ならではかもしれない。
一球、一球に一喜一憂する。
その熱気の渦の中にいることが、とても心地よい。

PLとの準決勝、この延長戦の応援は、燃えた。
場末のそば屋だったのもよかったんだよね。
表の攻撃は、尚学で、延長戦になって2点とったんだけど、
裏の守りで逆転されるかもと、誰も気を許していなかった。
だから、最後のバッターを打ち取ったとき、
見知らぬオジイやオバアと一緒に、
飛び上がって拍手の嵐。
あぁ、燃えた。

優勝した今日の沖縄タイムスの地方紙の誌面構成が凄かった。
一面と最終面が見開きになるような大々的なレイアウト。
写真も見開き。いや、凄い。
那覇で優勝パレードがあれば、僕も行こうかなぁなんて、思ったんだけど、
残念ながらパレードはないようだ。

 


1999年4月1日(木)        自然を肴にビールをやっている

 

海風が渡っていく。
彼方には蒼い海がズズズ〜ンと広がっている。
白波がたっているところがリーフで、その前に、ちっぽけな無人島がある。
「まだ春の海だから、霞んでいるんだよ」と池澤氏。

ここは、とある沖縄本島の東海岸。
この時期には、めずらしくいい天気で、日差しにはもう夏の予感がある。
おもわずロングTシャツの腕をまくる。
実は、海に突き出した離れの屋上で、
池澤さんとふたりでビール(もちろん沖縄のオリオンビール)をやっているのだ。
肴は、夏の日差しと頬をなでる心地よい海風と、そして野鳥の囀り。
贅沢だなぁ、この時間。

池澤さんは、沖縄に活動の拠点を移して久しいが、
昨年末、いよいよこの海の見晴らせる土地に根をおろすことにしたのだ。
その新居におじゃまさせてもらっている。
東海岸ってところがミソ。
朝型の池澤さんらしい。
日が昇る位置が毎日移動したり、
月の満ち欠けや、潮の干満、渡っていく鳥の囀りの変化、
そんな自然が身近に感じることのできる環境だ。
ここで、どんな作品が生まれてくるのか、ますます楽しみだ。

それにしても、うらやましい限り。


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地球の片隅を歩く自然の懐を歩く街角をブラリ歩く工事中


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