His Diary

近況報告

 

★2000年★

4月  5月 6月 7月  8月  9月 10月 11月 12月 

★2001年★

1月 2月 3月

★1999年4月〜2000年3月★

★1998年4月〜1999年3月★

★1997年6月〜1998年3月★

★最新の日記に戻る★ 


 

2001年3月22日(木)        素質

  

月曜日には、桜はまだ花弁の緑のところだけしか見えなかったのだが、
ここ数日で、つぼみがずいぶん膨らんで桜色に変わってきた。
春だなぁ。

3月に入って、
いろいろとやらなければいけないことが山積みで、
精神的な余裕がまったくなかった。
この日記もそうだが、メールや手紙の返事も書いていない。
返事が遅れていてすいません。
この状況は、今月末まで続きそう。
ここ数年間やってきたことの仕上げの段階なので、
悔いのないようにやりたいと思っている。

そんな多忙な時、
母親から電話がかかってきた。
「ふふふ。今度は、中国の紫禁城で歌うのよ」
「は?」
母親のカラオケ好きは、以前書いたことがある。(2000.9.24の日記参照)
この間は、ハワイだったはず。
懲りずに今度は、中国かぁ?
紫禁城ってもしかしたら、ラストエンペラーのあの紫禁城?
嘘だろう?
プロの歌手じゃあるまいし、
あんな文化遺産のような場所で歌えるわけがない。
話をよく聞いてみると、
日中友好のイベントかなにかがあって、
ホントに、歌えることができるらしい。
ただし・・・
さらによくよく聞いてみると、
予選が北京のホテルで行われるらしい。
500人くらいの予選者が歌って、
本番の紫禁城で歌えるのは、わずかにちがいない。
なのに・・・
「もちろん紫禁城で歌うのよ、わざわざ北京まで行くんだから」
・・・と本人は、本気で予選に通るつもりである。
お気楽というか、恐いものしらずというか。
ちなみに、ハワイではどうだったかというと、
歌詞を忘れ、途中から「ららら〜」と歌ったそうである。
「その度胸が評判になったのよ〜!」
と笑う母。
懲りない、懲りない。

この親にして、この子である。
顔が母親似の僕としては、
開き直りの素質が僕にもあ〜る・・・ということ肝に銘じたのであった。


 

2001年2月20日(火)        分身と決別

  

幼いころ、乳歯が抜けると
上の歯だったら軒下に投げ入れ、
下の歯だったら屋根に投げ上げた。
立派な大人の歯が生えるためのおまじないだった。

親不知の数が多いほど原始的だと何かの本で読んだのだが、
僕の場合、4本とも生えてきた。
やっぱり野生児なのだ。
そのうちの1本は、生えたときにものすごく痛くて抜いたのだが、
あとの3本は、なんとか僕の口の中に居座っていた。
しかし、あとから生えてきたから、行儀が悪い。
まともに真っ直ぐに生えてはいない。
1本上の親不知が虫歯になりやがって、
おまけに斜めに生えているから、
治療が前の歯にひっかかってできない。
それでも、頑なに抜かないようにレーザー治療なんかもしたんだけど、
結局、虫歯菌のやつしぶとくて、一掃できなかった。
抜かねばならなくなったのだが、
風邪で熱を出したり、その皺寄せで忙しかった上に、
青梅マラソンがひかえていたりして、
のばしのばしにしていた。

日曜日に青梅マラソンが終わり、
月曜日に目白押しだった締め切りも終わり、
のばす理由がなくなり、本日、いよいよ抜くことになった。

麻酔をかけられ、
口の中をきれいに掃除してもらったあと、
いよいよ分身との決別の時がきた。
そうだなぁ、10年以上は共に生きてきたわけだし、
やっぱり虫歯菌に犯されているとはいえ、僕の一部。
なんとなく感慨深いもんだ。
レントゲンで見ると、不格好に曲がっているので、
かなり抜くのに時間がかかると思っていたのだが、
グリグリグリってな感じで、
結構、あっけなく僕の身体から離れていった。

分身との対面。
不格好で、汚い。
でも、なんとなく愛おしいのであ〜る。
歯医者さんに聞いたら、捨ててしまうというので、
いそいそと持って帰ってきた。
マンション住まいなので、軒下がないから、
どっか秘密の場所に埋めに行こうと思っている。
・・・大人の歯は、もう生えてこないけどね。


 

 

2001年2月7日(水)        鬼の霍乱

  

「歩くネット」のはずがまた「走るネット」になっているよ、
といわれそうなので、あんまり日記には書かないでいたのだが、
それでも、黙々と走ってはいた。
この間の日曜日のさいたまマラソンでは、
自己ベストを10分も更新する3時間20分29秒の好成績。
走ることに興味のない人にとっては、
それがどうしたんだと思うかもしれないが・・・。
5キロを23〜24分のイーブンペースで、
最後は、ラストスパートをかけることもでき、
僕としては、記録だけでなく、結構、満足の行くレース展開だった。

そんでもって、気を良くして月曜日。
筋肉痛も少しあるものの、そんなにひどくなく、
仕事も普段通り、
夕方にプールで筋肉をほぐしたりして夜になった。
昼間から少しずつ咳が出ていたのだが、
ひどいものではなく、気にもとめていなかった。
でも、夜になると痰がからんだようなひどい咳になり、
なんとなく身体がだるいので、
風邪薬を飲んで、早々に寝た。

そして、火曜日。
友人の電話で起こされたのだが、
身体が起き上がれない。
節々が痛いのだ。
こりゃ、おかしいと、熱をはかってみると、
なんと38度をこえる高熱。
フルマラソンのレースの後で、
僕としては最大限に身体が弱っていたところをやられたらしい。
普段、健康が当然のことのように生活していると、
ちょっとした熱でも、かなり精神的なダメージを受けるものだ。
おまけにボーとしていて、思考能力がゼロ。
ただただ寝ているしかない。
ひとつのことをやり遂げるまでに、かなりの時間がかかる。
薬を飲む、水を飲む、トイレに行く、布団をかける、横に寝る・・・。
なんでもない動作なのだが、まともに行動できない。
食欲もない。
それでも何か口にしなければと、しばらくしてからコンビニへと出かける。
マラソンの筋肉痛の上に、熱による関節痛が重なり、
歩くのもままならない。
住んでいるマンションの階段をえっちらおっちら・・・降りる。
いつもなら、ちょちょちょいっと2分で行けるコンビニまでの道のりの遠いこと。
青息吐息で、やっとのことでコンビニに到着。
ミネストローネスープとか身体の温まりそうなものをゲットして、
そしてまた、ゆるゆると家路へと戻る。
端からみたら、色が黒くてどう見ても健康そうな男が、
よろよろと歩く形相は、ちょっと怖かったかもしれない。

結局その日は、一日中熱が下がらず、床に伏せっていた。
自分が発する熱の中で、夢とも現実ともわからないような不思議な意識の中にいた。
あっという間に時間が過ぎる。
意識だけは起きているつもりだったのだが、実は結構、寝ていたんだと思う。

本日、水曜日になって、少しずつ熱が下がり、元気をとりもどしつつある。
普通に歩ける、普通に食べられる・・・・普段と同じようにできることに
感謝の気持ちが生まれている。
そのうちにこんな気持ちも薄れてしまうのだろうが・・・。
「健康」という幻想に、いつまでも胡座をかいていてはいけないなぁ。
そんなことを思う30歳代ギリギリの男である。


 

2001年2月2日(木)        普段の顔

  

ひとつ前の日記で、代々木上原の話題を書いたら、
結構、反響があった。
それでってわけじゃないだろうけど、
最近、たまたまよくご近所さんに、ばったり会う。
この一週間だけでも、5月頃出版予定のスピティの単行本のデザインをしてくれている
デザイナーの方に代々木上原駅前のセブンイレブンで声をかけられたし、
駒沢公園からランニングして帰ってくる坂の途中で、
水中カメラマンの高砂さんの奥さんに会って立ち話・・・。
で、今、代々木八幡のパン屋さんに朝飯を買いに行ったら、
そのパン屋の前で、
学生時代、アパートの隣の部屋に住んでいた
シナリオライターにばったり。
この方は元陸上部なので、ウルトラの話とかをやっぱり立ち話。
その上、来週の月曜日には、
やはりご近所さんのライターの方と例のマックでお茶をする約束をしている。

毎日同じ街で生活していても、普段は、めったにお目にかからないのに、
こう立て続けにご近所さんに会う機会があるとは。
同じ街の住民だと、
それだけで、ちょっと親しい感じがする。
そこに住んでいる人が、その街の雰囲気を醸し出す要因のひとつになっているわけで、
なんとなく同じ匂いを放っているのかも知れない。
よそ行きじゃない、普段の顔を知っているご近所さん。
(時に髪の毛がボサボサだったり、顔もあらっていなかったり、
寝巻きがわりのジャージ姿だったりして、恥ずかしいこともあるけど・・・)
知り合いが同じ街で日常を送っている。
同じスーパーで、同じコンビニで、同じ本屋で、同じ茶店で、同じ郵便局で・・・。
会うことはめったになくても、同じ環境の中で生活している。
なんだか、心がホッとするんだな。


 

2001年1月25日(木)        知らない街

  

1位:古賀政男音楽博物館
2位:東京ジャーミイ
3位:JASRAC
4位:ジーテン
5位:クリエーターズ オフィス
6位:素敵な邸宅
7位:MUSICASA
8位:カストール
9位:Mama’s parade
10位:AMERICAN

一体なんの順位かというと・・・
代々木上原の街を特徴づける順位だとか。
テレビ東京系の土曜日の夜9時から
「出没!アド街ック天国」という番組が放映されている。
この番組は、毎週ひとつの街を取り上げて、
その街を特徴づける名所や場所、お店なんかを取り上げる、
都市型エンターテイメントの内容らしいのだが、
先週オンエアされたのが、代々木上原。
ご存知の通り、僕の家には、テレビがないので、
悪友が教えてくれた。
さっそくテレビ東京のサイトにアクセスしてみた。
そこに書いてあったのが、上の順位だ。

学生時代からこのあたりと転々と移り住んでいるから、
もう20年もこの街にごやっかいになっていることになる。
でも、このベスト10の中で、所在地が頭の中で確認できるのは、
1位と3位のみ。
あっと、名前だけじゃわからなかったが、
さらにクリックすると、2位は、あのモスクのことだったから、
2位もわかる。
このベスト3にしたって、すべて一度も足を踏み入れたことはない。
6位の素敵な邸宅は、点在しているから別にしても、
あとは全く所在地がわからない。
名前だけでは、これが店なのか場所なのかさえもわからない。
全く知らない街のようである。

銀ダラ定食を頼むいつもの定食屋も、
行きつけの歯医者も、
長居ができる本屋も、
僕のなじみの店は、どこにも出ていない。
いかに流行とは無縁に生きているのかがわかる。
なんだかテレビで紹介されちゃって、
生活圏を荒らされるのも嫌だし、
ちょっとホッとしているところだ。

その悪友曰く、
「謝のサイトの『渋谷を歩く』を早くアップしてよ。
もう3年も工事中なんだから・・・」
ごもっとも。
僕だけのマニアックな代々木上原を、
そのうちに紹介しないとなぁ。



 

2001年1月9日(月)        砂の下の秘密

  

「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ・・・」
と、王子さまがいいました。

今年の年越しは、リビアの砂漠の中で迎えた。
星の王子さまの舞台になったサハラ砂漠だ。
どこまでもうねうねと続く砂丘。
砂漠の中にキャンプを張った初日は風が強く、
赤褐色のその砂山の表層だけが、風に舞って、
くるくると回転しながら
いく筋もの砂の川を作っていた。
「流砂」という言葉が、その時はじめて顕在化したような気がした。

リビアの砂漠の中には、巨大な「化石水」の地底湖があることがわかった。
化石ができた太古の時代から地面に溜まっていたから、化石水と呼ぶという。
この化石水を利用して、とんでもないプロジェクトをリビア政府は考え、
そして実現している。
砂漠の中にある地底湖に深井戸を掘り、
そこから全長1900キロのパイプラインを地中海側に引いて、
海岸部から砂漠を農地化しているのだ。
あるところから、ないところに引く・・・
単純な発想だが、計画が壮大だからすごい。
そして、実行してしまうところが、なおすごい。
さすがカダフィを率いる国の考えることは違う。

砂漠の中で井戸に出会った。
出会ったという言葉がしっくりくる。
乾いた砂漠の台地の下には、確かに水があるのだ。
ポンプ式にはなっていたが、
遥か昔から生けるものに潤いを与えてくれた井戸だ。
砂漠に入ってまだ3日めだったが、
頭から水をかぶって洗髪した。
なまあったかい、砂漠の水。
ありがたみを身体で、そして心で感じた瞬間だった。

・・・・・・
「さよなら」とキツネがいいました。
「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなものは、目に見えないんだよ」


 

2000年12月17日(日)        キャラバン

  

ひところ前世占いなるものが流行っていた。
前世などと書くと、ちょっと眉をひそめる人がいるかもしれないのだが、
自分の細胞の中に溶け込んだ余韻のようなものを感じることはないだろうか。
僕の場合、それを強く感じる原風景のようなものがある。
ヒマラヤの麓、限界樹林帯を越えたあたりの遊牧民の住む地域の風景。
氷河を頂いた峰々が遥か彼方にそびえ、
そこから滔々と谷を削って川が流れる。
ヤク(高地牛)が闊歩し、
大麦の穂が揺れる。
妙に居心地がいい。
そして、どこかなつかしく、せつない。
はじめて見た風景なのに、
僕の細胞の奥の方で、デジャブーなのだ。

そんな原風景を堪能できる映画を観た。
「キャラバン」
チベットとの国境近くのネパールのドルポ地方の物語。
大麦の収穫だけでは暮らすことのできない人びとが、
糧を得るために、チベットからの塩を南へと運ぶ。
そこには、自然の中で生きる人びとの日常があり、
逞しさと激しさと弱さとせつなさがある。

ドルポは、僕も昔から一度は訪れてみた場所のひとつだ。
国境に近いため、
個人で入ることは難しく、
ネパール政府にかなりの金額を払わないと正式な入域許可がでない。
しかもポリスの監視付きだ。
そのため、まだ実現していない。

この映画のキャストのほとんどは、
演技とは無縁だったドルポの人だ。
彼らの日常をそのまま画面いっぱいに表現したような、
まさにドキュメントのような物語なのだ。
もちろんかわされる言葉もチベット語の方言のドルポ語。
物語はとても単純である。
しかしながら、彼らが語る言葉の中に、
心に沁みるセリフがちりばめられている。

音楽もいい。
目を閉じても、
ヒマラヤの雄大で清冽な風景が浮かび上がってくるような
淡々としたせつないメロディー。

まだやっているみたいなので、
興味を持った方は、ぜひ。

・・・・・
キャラバン
シネマライズ 渋谷公園通りパルコパート3前
10:20(土、日、祝のみ)/12:35/2:50/5:05/7:20
・・・・・

 


 

2000年12月14日(木)        母国語

  

甘党なんで、
朝マックだったら、
迷わずホットケーキセット。
代々木上原のマックは、
禁煙席と喫煙席が離れていて、
独立したブースになっているので、
空気がいい。
しかも、禁煙席の方は空いているし、
朝食の後、
仕事部屋として活用させてもらっている。

禁煙ブースは、全面ガラス張りで、
駅を乗降する人を観察もできる。
ある朝、いつものようにホットケーキに舌鼓を打った後、
パソコンから、ふっと目を上げると、
外の雰囲気が違うんだよね。
日本じゃないみたい。
アジアの香りが・・・。
まず目についたのが、スカーフで髪を隠しているマレーシアの女性たち。
髭を蓄えた中近東の男たちも楽しそうに快談している。
たぶんイランかトルコの人。
シャルワール・カミズと呼ばれるダボッとした民族衣装を着ているのは、
パキスタンの人たちだ。
そう、その日は金曜日。
代々木上原にあるモスクで礼拝が終わったのだ。

先日の日曜日、
恩師のフランス語の先生と約束があって、
母校の大学に行ったのだが、
四谷の土手沿いに、ずらっと屋台が出ていた。
それが、とってもラテンチック。
ちょっとしたスナックや、
ポルトガルのCDなんかも売っている。
集まっている人もなんとなくラテン系。
陽気な雰囲気が溢れている。
そうか、四谷にあるイグナチオ教会は、カトリック。
南米や南欧からの人が礼拝に来ているのだ。

異国をひとりで長旅している時、
無性に日本語の活字が恋しくなることがある。
ブリの照焼きやカツ丼が食べたくなることもある。
心が弱っている時は、特にそうだ。
日本で生活している外国の人もまた同じなのだろう。
一週間の出来事をなんとなく母国語で話す。
それだけでホッとする。
そんな居心地の良い場所。
モスクや教会・・・というところが、
信心深くない僕とはまったく違うのだが。

東京の中にも、そういう空間がある。
そして、さまざまな思いがある。


 

2000年11月28日(火)        あべこべだったら

  

悪友曰く、
「謝の唇は、Just do it だね」
運転免許書とか、パスポートの写真だとか、
僕がすまして写真を撮ると、
必ず口が「へ」の字の逆さまのようになっている。
僕の唇は、よくよく見れば、右の口角が少し上がっているようだ。
そう、ちょうどNIKEのマークのようだと悪友はいいたいのだ。

ちなみに最新の動物行動学の研究では、
子孫を残すために、
強力な遺伝子を持つオスを
メスは、知らず知らずのうちに選んでいるのだという。
その要素となるキーワードが、シンメトリー。
シンメトリーの男は、モテるのだそうだ。
ということは・・・。
トホホ。

 

学生の頃から腰痛で悩んでいるので、
スポーツマッサージも兼ねて、
接骨院に通っているのだが、
その先生曰く、
「?型の背骨をしていますね」
ハテナ型?
普通の人の背骨は、s字型をしているのだという。
僕の背骨は、最後のところが湾曲せずに、まっすぐなのだ。
だから、その部分が腰痛を引き起こす。

まっすぐであるべきところが、曲がっていて、
曲がるべきところが、まっすぐなのだ。
あべこべだったら、人生ばら色だったかなぁ?

 



 

2000年11月19日(日)        手作り感

  

肉体酷使型、体育会系ライター。
この秋は、さまざまな挑戦があると以前の日記で書いた。
四万十の100キロランで、終わりだと思っていた方が、多いのではないだろうか。
実は、まだ挑戦は続いていたのだ。

6月に、トライアスロンの駅伝に出たことを書いた。(6/4の日記参照)
スイム500M,バイク10K,ラン3Kのスプリントのレースだった。
今年のシドニーオリンピックのトライアスロンをTVで観戦した人は、
結構いると思う。
スイム1.5k,バイク40k,ラン10k。
このオリンピックディスタンスに挑戦しようという、
これまた無謀な企画が持ち上がった。
(実は、企画を考えたのは、当の本人なのだが・・・)
一挙に距離が3倍以上伸びることになる。

舞台は、ロタ島。
サイパンとグアムの間にある常夏の島だ。
宮塚や白戸など、有名選手にまじってのスタート。
き・ん・ちょ・う!
初トライアスロンでは、たった500mだったのに、
人工湖の大波の中でのスイムに懲りていたので、
まずは、オーシャンスイムにびびる。
折り返しのブイが水平線の彼方に見える。
かなり遠い。
でも、初レースとの大きな違いは、海水だったということ。
身体が、おもしろいように浮く。
波は結構あるのだが、
透明度50m以上ともいわれるだけあって、
オーシャンブルーに包まれながら、
快適に自分のペースで気持ち良く泳ぐことができた。
終わってみれば、0:31:16で、63人中29位の成績。
こりゃ、できすぎって感じ。

でも、トホホのバイク。
そもそも腰痛持ちで、バイクの姿勢は結構、きつい。
その上、技術もないので、みるみるうちに、バンバン抜かされていく。
かなりきつい登りで、ヘロヘロ状態。
おまけにパンクしたら、自分で直せないので、その場でリタイヤということになる。
「神様お願い、パンクだけは、しないでくれ!」
なんとも情けない、トライアスリートもどきである。
それでも、折り返しからは、急坂を下ることになるので、一挙にスピードが上がる。
初心者の僕でも、時速60キロは出た。
恐いくらいだ。
まるで遠くに見える海に吸い込まれるように坂を下った。
バイクは、結局、1:31:48で、63人中42位。

そんでもって、ラン。
ランのレースは、一番慣れているはずなのに、
慣れないバイクの後の、ランは、かなりきつい。
足が思うように上がらないのだ。
それでも、だんだんと足が慣れてきて、少しずつ順位を上げていく。
海沿いの気持ちのいいランコース。
熱帯特有のシダ類などが迫り出して、
木陰を作ってくれている。
日差しは、そろそろ強くなってきているが、
ペースには、さほど影響しなかった。
最後は、スパートもできて、0:53:31で、63人中22位。
総合では、2:56:35で、63人中26位でゴールした。
サブ3だったので、
初挑戦にしては、上出来だったと思う。

レース結果もさることながら、
なによりロタ島のこのレースが気に入ったのは、
手作り感。
スイムキャップもゼッケンもナンバーは手書き。
島中が盛り上がって、応援をしてくれる。
島ぐるみでのボランティア。
素朴で、とても温かいレースだった。


 

2000年11月9日(金)        種明かし

  

「投げ掛けばかりで、答えがな〜い!」
というメールが多いので、あわてて種明かしをしていきます。

 

★その1★ (8/25日記参照)
ダライ・ラマへの僕の質問
「What makes you always happy ? 」
の答えは?
・・・・ただ今、カメラマンが企画を持ち込み中なので、
もうしばらくお待ちください・・・種明かしになっとらん。

 

★その2★(11/1日記参照)
「シャーさんがみつからない」
というメールをたくさんありがとうございました。
つまらないことに巻き込んでしまい、すいませんでした。
・・・・実は、天気が悪くて安曇野に再撮に行ったおかげで、
その中の写真の1枚が、
JR東日本の雑誌の「トランヴェール」の今月号の表紙になったんです。
その表紙の片隅に、誰も気がつかないくらいの大きさで、僕がいるんだなぁ。
それが、しばらく中吊りに広告されていたんです。
たまたま僕は、一度だけその広告を見たんだけど、
広告期間は、数日だったようで、
ほとんど幻の中吊りでした。
昔、シンラでシルバン・ノートという連載をやっていたんだけど、
あの時の、イメージとそっくりなんです。
カメラマンも一緒だしね。
知り合いでも、僕ってわかんないくらいだと思います。
その中吊りで僕をみつけてくれた人は、
・・・やっぱり誰もいませんでした。
ヒントは的確だったと思うんですが・・・・。
ちなみに雑誌にたどり着いたというメールは3通いただきました。

 

★その3★(10/23日記参照)
西京焼きの謎のその後について、
「西京焼き捜索隊京都支部長」からとても興味深い報告がありましたので、
添付します。
・・・・・・
突然「そうや、お味噌のことやったら、やっぱりお味噌屋さんに聞くにかぎるやん!
(何故、こんなに関西弁になってしまうのでしょうか?)」
と思い、早速、電話帳で調べてみところ、なんとそのものズバリ・・・
「西京味噌(株)」という会社&お店を発見。
とりあえず今日行ってみることにしたのでした。
その会社(お店)は、『本田味噌本店』というのが正式な名前で、
お店に入るといろんな種類のお味噌が並んでいました。
(ごま味噌、柚みそetc・・・。)
目指すは「西京味噌」・・・。
並んでいるのは、「西京白味噌」が二種類・・・。
一つは見慣れた色の白味噌、もうひとつはちょっと色が濃い目の白味噌。
これが、知人の言っていた西京味噌なのだろうか???
ここで、タイミング良くお店のおじさん(多分店長さんだと思われる)
が出てこられたので、思わず質問。
「この二種類の白味噌、一体どこが違うのですか?」
おじさん(?)の答えは「簡単に言うと大豆の量が違う」のだということ。
色の濃い白味噌は大豆の量が多く、季節限定で夏には販売せず、
つまりお雑煮用に今くらいの季節からのみ店頭に並ぶのだそう。
味は普通のものより‘まろやか’らしい。
つづいて、
「どうも白味噌のことを西京味噌って、東京では呼ばれているみたいですけど、
西京味噌=白味噌って考えていいのですか?」と聞いてみました。
すると「ハイ、そうですね。そう考えていただいていいと思います。」との答え。(「エーッッ!!!」・・・心の中の叫び)
そして、おじさんはこの店の歴史を話してくださいました。
本田味噌の創業は江戸時代天保年間、今より凡そ170年前にさかのぼり、
宮中のお料理用にお味噌を献上したのがはじまりです。 
御所御用達としてもっぱら宮中に納めてきたけれど、
明治維新のころより一般にも商いを広げたんそうです。
で、当時、江戸を「東京」と呼び、京都を西の京、
すなわち「西京」とも呼んだことから、
このお店のお味噌も西の京の味噌、「西京味噌」と親しまれるようになり、
現在、白味噌の代名詞のようになっている、との説明でありました。
・・・・・・
みなさん、これで大分、西京焼きの謎が解けてきたのでは、ないでしょうか?
それにしても、京都支部長殿。
わざわざ、お味噌屋さんまで、出向いてくださって、
ありがとうございました。

 


 

2000年11月4日(土)        揺らめく一瞬

  

炎。
尖った先っぽの方が、かすかに伸びたり縮んだりする。
肌には感じないが、空気はかすかに動いているのだろう。
ゆるやかに左右にも揺らめく・・・。

少し黄色味をおびたロウソクに火を灯している。
しばし時間を忘れて、
ボーッとその揺らめきを見ていた。
暖色という言葉がある。
このロウソクの炎の色は、まさにあたりを温かく仄かに照らす。

蜜蝋を知っているだろうか。
ミツバチは、集めてきたハチミツを食べて、
体内から蝋を分泌し、それで自分たちの巣を作るという。
もともとハチミツから出来ているので、蜜蝋自体は食べることができ、
ロウソクの他に、化粧品やハンドクリームにも使うことのできる、
人間に優しい天然素材なのだ。

山形県の朝日連峰の大朝日岳の麓で、
その蜜ロウソクを作っている
安藤竜二氏を取材で訪ねた。
ミツバチを育む森を愛し、
混じり気のない100%の蜜ロウソクを作る。
朴訥と静かに語る彼の言葉には、
このロウソクのように、ホッとした気持ちにさせる、
温かさと安らかさがあった。
(詳しくは、トランヴェール1月号にて)

ロウソクが淡い黄色をしているのは、
ミツバチが集めた花粉の色なのだという。
1匹のミツバチが分泌する蜜蝋の量は、
1ヶ月で、たったのスプーン一杯。
揺らめく一瞬、一瞬が、いとおしくなるのだ。

 


 

 

2000年11月1日(水)        シャーを探せ

 

 

WANTED!
期間:11月上旬限定
地域:関東、甲信越、東北、限定
場所:JRの電車の中

・・・わかるかな、わかんないだろうなぁ。

ヒント 1★★★
ヒント 2★★★
ヒント 3★★★

みつけた方、メールでもください。
粗品をさしあげま〜す。
なんちゃって。
・・・わかんないだろうなぁ。  


 

2000年10月23日(月)        深まる謎

  

1週間ほど留守にしていたので、
メールを開けたら40通近く。
そのうちのいくつかは、西京焼き(
10/14の日記参照)についてだった。
ありがたいもんである。
結構、読んでくれている人がいるのだ。
食に強いライター仲間や、
オーナーシェフ、
京都出身の友人や、
京都在住の方からもメールが来た。

関東近郊出身の人たちのメールを総合すると、
一般的に、西京焼きは、
西京味噌という関西地方の白味噌に魚の切り身を漬け込んで焼いたものだそうである。
なるほど、ということは、西京焼きは、西京焼きであって、決して東京焼きには、ならないのだ。
馬鹿なことを書いてしまった。

・・・しかし一方で、
京都出身の友人や、京都在住の人のメールによれば、
京都では、西京焼きなるものがないという。
西京焼きってどんな味?って質問返しされたほど。
じゃあ、西京味噌は、どうか?
京都では単に“白(しろ)味噌”と言うようで、
正月の雑煮に使うくらいで家庭ではあまり使わないらしい。
高級な料亭で、
料理と料理の間の口直しに小芋を白味噌で煮たものが出てくるぐらいだという。

ムムム。
ますますわからなくなってきた。


 

2000年10月17日(火)        限られた視界

  

松山の道後温泉で、
能舞台の上にあがらせてもらった。
能は、意味はよくわからないのだが、雰囲気が好きで、
何度かみる機会があった。
まさか、その能舞台に上に立つことができるとは・・・。

先人の英知が、舞台には、いっぱいつまっている。
たとえば、舞台は、観客の方にゆるやかに傾斜している。
地面と平行してはいないのだ。
観客にも見やすいし、
その方が、舞いやすいのだという。
その舞台の下には、瓶が置いてあって、
音響効果も抜群。
実に、いろいろと考えられている。

能面もつけさせてもらった。
ブータンの仮面舞踏では、
仮面をつけたとたん、神が踊り手の僧に宿る。
それと同じように、
面をつけたとたん、心が引き締まる。
背筋がピッと伸びる感じ。
能面は、目の部分にふたつ穴が開いている。
つけてみると、そのふたつの穴がひとつの点になる。
ちょうど、両目の視点が一致するように、
穴が開いているようだ。
その視界は、驚くほどに狭い。
足元など見ることはできない。
初心者だと、舞っているうちに、
正面の方向さえ、わからなくなるという。
能は、わずかな視界の中で、
感覚だけを頼りに、舞うのだ。
茶の湯の世界もそうだけれど、
限られた中に生まれるものは、美しいと思う。
奔放な美もいいけれど、
制約の中の美を、最近、僕は好んでいる。

いつの日か、興福寺の薪能を見てみたいものだ。

 


 

2000年10月15日(日)        半端じゃ、ない。

  

ヘロヘロである。
それもそのはず、ついにこの日を迎えたのだ。
8月下旬に、ヒマラヤから帰ってきてから、本格的に練習を開始。
9月に毎日走ったのも、今日のため。

『四万十の清流沿いを走る』
一度は、四万十川を見てみたいと常々思っていたので、
そのうたい文句に、無防備に心動く体育会系ライター。
でも、よくよく聞いてみると、
その走る距離というのが、半端じゃ・・・ない。
ちょうど100キロ。
ホントに半端じゃなくって、キリのいい数字である。
トホホ。
四万十という言葉に惹かれたばっかりに、
この無謀な計画が遂行されることになってしまったのだ。

四万十の河口近くにある高知県の中村市。
100キロウルトラマラソンは、地元の人びとの応援なしでは、成り立たない。
レース前日から、民家に泊めていただき、温かいもてなしを受け、走る前から感激。
早朝5時30分に、スタート。
スタートしてから、すぐに沿道の応援がはじまる。
まだ真っ暗なので、道をところどころ車のヘッドライトで照らしてくれるのも、
地元の人びとだ。

四万十と並ぶ清流「うしろ川」をまず遡る。
20キロ地点では、急坂があり、最初の難関。
高尾山の山岳トレーニングが、このあたりで役立つ。
ペースはゆっくりだが、それほどダメージはない。

峠をひとつ越えると、野々川沿いに今度は、下っていく。
野々川も清流である。
透き通った藍・・・「瓶覗き」のような色合いの川面だ。
薄日の差す心地よい道を、快調に走る。

フルマラソンの42.195キロ地点を4時間50分くらいで通過。
キロ6分より早く走らないように、押さえ気味に走る。
調子は、まずまずだ。
まだ、景色も楽しむ余裕があった。

・・・しかし、50キロを過ぎたあたりから、
次第に足が重くなってくる。
練習で、一度66キロを続けて走っていたので、
そこまでは行けるだろうと思っていたのだが、
55キロから先の数キロは、かなり疲れがたまってきた。
四万十川に出て、景色は、最高なはずなのに、
楽しむ余裕は、すでになし。
62キロ地点には、着替えとエアーサロンパスがおいてあったので、
そこまで行けば・・・と、わずかにペースを落としながらも、
ほぼイーブンペースで走りきる。

62キロ地点の休憩は、あまり休みすぎると
走る気力がなくなるといわれていたので、
ランシャツだけ着替えて、ストレッチをして、
おにぎりをほお張り、エアーサロンパスを吹きかけ、
20分弱で出発。

66キロを過ぎ、
ここからは、未知の世界。
それでも70キロまでは、なんとかペースを保つ。
僕にとっては、70〜80キロにかけての10キロが、ひとつの山だった。
別に、特にどこが痛いわけじゃない。
筋肉がつりそうなわけでもない。
でも、足全体が、悲鳴をあげているのだ。
「これ以上、酷使するな」
という信号が、足のいたるところで点滅している。
それでも、前に進まねば、ならないのだ。
3キロごとに給水のエイド、
6キロごとに給食のエイドがある。
そのエイドがどんなに待ちどうしいことか。
給水のエイドは、水を飲むだけにして、
あまり止まらず、
6キロごとの給食のエイドで、パンやおにぎりをほお張りながら、
ストレッチをして、エアサロンパスを足全体に振りかけることにした。
ルールを自分に課して言い聞かせないと、
もう走る気力が無くなりそうだったからだ。

80キロを過ぎると、
「ここまできたんだから、絶対に歩かないぞ」
という気持ちになってきた。
どんなに、遅くとも、走る。
時には、早歩きしている選手に抜かされることもあった。
それでも、走る。
トホホ。
一度歩いてしまったら、もう二度と走れないような気がした。

そろそろ関門の時間が気になりだした。
80キロの関門通過の時点では、
制限時間まで、1時間弱の余裕があったのだが、
87キロの関門通過した時には、あと40分しかなくなっていた。
その頃には、すでにあたりは、暗くなって、
液状の蛍光ライトをエイドで配られ、それを頭から下げて走る。
最後の94キロの関門通過するまで、
時間との闘い。
気が気ではなかった。

94キロの最後の関門を残り時間30分弱で通過。
その時、はじめてゴールを意識した。
嬉しさがこみあげてきたのは、この時だったと思う。
「ああ、完走できる!!」
それでも、酷使し続けてきた足は、
気持ちとは裏腹に簡単には、回復しなかった。
完走の手ごたえは感じつつも、
そのままの亀さんペース。
残り3キロ地点では、
僕の名前を書いたプレートを発見。
ホームステイしていた家のお母さんが、置いてくれていたのだ。
涙がでそうになる。

ゴール手前1キロの場所は、登り坂だった。
その坂に差しかかった時、
ふうっとタガがはずれたように、足が軽くなった。
嘘のように、スピードが出せる。
沿道の声援が、心に響いてくる。
・・・こんなに力が残っていたなんて。
そう自分でもびっくりするくらいのラストスパートで、
ゴールのテープを切った。
時間は、ネットタイムで13時間42分11秒。
すでに夜の7時はとっくに過ぎている。
制限時間は、14時間なので、ぎりぎり。
嬉しさが、ふたたびこみあげてきた。
ゴールで待っていてくれたホームスティ先のお母さんに、
コスモスの花束をもらい、再び感激。
あらためて、地元の人のボランティアや温かい応援に感謝。

長い一日が終わった。
それも、ただひたすら走っている一日。
身体中が、ヘロヘロ。
特に、足。
階段が降りられない。
そんな疲労困憊の身体の奥底から、
沸き上がってきている充実感。
常識はずれの一日が、すでに常識はずれと思わなくなっている自分が怖い。

ちなみに、117キロというレースもあるそうである。

 


 

2000年10月14日(土)        東京焼き?

  

最近、九州に住んでいる悪友と昼飯を食べる機会があった。
いつもの代々木上原の定食屋で、
僕は「さわらの西京焼き」を頼んだ。
「西京焼きって何だ?」とそいつ。

・・・・そうだよなぁ。
東京を基準にして、考えれば、京都は西にあるから、西京焼き。
九州だったら、同じ味付けのものが東京焼きってことになる。
本場の京都だったら、なんていうんだろうか?
・・・・もしかしたら、
あずまびとが、京風味の味付けをまねて、西京焼きと名付けただけで、
関東近郊にしかないのかもしれない。
そういえば、生まれ育った長野県では、なかったような気もする。
こんなこと、常識の範囲なのかも知れないのだが、
料理関係は、とんと疎い方なので、
(なんでも美味く感じてしまう、この貧乏舌がいけない・・・)
どなたか、教えてくださ〜い。
京都の方、京都に「西京焼き」ってありますか?

最近、頭の中で、無意識に覚えている固有名詞や地名の意味を考えて愕然とすることがある。
この「西京焼き」もそうだが、実家のある松本の隣りに「塩尻」という地名がある。
子供のころから、慣れ親しんだ地名だ。
僕の頭の中には、「し・お・じ・り」という発音の羅列で、
インプットされているらしい。
でも、意味を考えれば、
かつて海から塩を運んだ「塩の道」の最終地点、どん尻という意味なのだ。
この間、安曇野の撮影の時、高速で塩尻を通過した時、
カメラマンからその話を聞いて、愕然とした。
実は、この歳になって、はじめて気がついたのだ。
トホホ。

昔、地下鉄はどこから入れたんでしょうね・・・という漫才があった。
どうも、気になりだすと、眠れない秋の夜長になりそうである。

 


 

2000年10月9日(月)        あと少し

  

巷は、3連休。
僕なんか、あんまり関係ないのだが、
世間一般の人は、やはり関係あるわけで、
3連休を持て余していたのか、久々に大学時代の友人から電話がかかってきた。

母親がカラオケにはまっていることを以前、この日記で書いた。(9/24の日記参照
いくつかのメールには、
「謝さんって、カラオケにはまっているんですか〜、今度ぜひ行きましょう」
とか。
「カラオケのイメージとは、かけ離れてるよ」
とか・・・。
結構、思わぬ反響があった。
母親似で、はまる性格とは書いたのだが、
カラオケにはまっているとは書いていないんだけど・・・。

そいつも、僕の日記を読んでくれているようで、
「カラオケ、行こうぜ」
と誘われたので、ある。
カラオケなんて、もう5年くらい行ってない。
どこにカラオケボックスがあるかも知らないくらい。
友人も、僕の日記を読んで思いついたらしく、最近は、ほとんど行っていないという。
しかたないから、以前行ったことのある下北沢のカラオケ屋へ行ってみた。
すると・・・そこは、串カツ屋になっていた。
トホホ。
そもそも、そんなにカラオケに行きたかったわけじゃなかった。
久しぶりに会ったのだから、つもる話もあるはず。
でも、いざ行けないとなると、無性に歌いたくなるもんである。

若者で賑わう、下北の街を「カラオケ」の文字を探して歩いているオジサン二人。
最初にみつけた店は、ずら〜と若者が並んでいて、気遅れする。
路地の奥で発見した2軒めに、意を決して入る。
幸い、待ち時間なく入れた。
30分ごとに区切れている。
「何時間にしますか?」
と茶髪の兄ちゃんに言われ、
「1時間ももたないよなぁ」
と我々。
「とりあえず1時間」
とボックスのなかに入る。

久しぶりである。
本の最初の方にラインナップされているのは、曲名どころか、歌手の名前さえわからない。
となると、歌える歌を歌うしかない。
まわりでは、今流行りの、クラブ系の歌がギンギンに流れている。
その中を、昔なつかしい80年代の歌が重なり合う。
トホホ。

2曲ほど、当時十八番だった歌を歌ってみる。
案外、覚えているものだ。
このあたり、気を使わない同世代のいいところ。
ふた時代も前の曲なのに、結構、盛り上がる。

「ピー!」
突然、インターホンが鳴り響く。
「お客さん、5分前になりました」
「・・・・」

 

「・・・あと1時間延長してくださ〜い。」


 

2000年10月1日(日)        らしい

  

東京駅で、赤い羽根をつけている人を見かけた。
あぁ、10月になったなぁと思う。
そういえば、昔、就職活動解禁日が、10月1日だった。
マスコミ狙いだった僕は、あんまり就職活動というものをやっていないのだが、
それでも人並みに、その日は、つんつるてんのスーツを着て、
会社訪問をした。
確かJTB。
本社のある東京駅で、赤い羽根の共同募金をやっていた記憶がある。
赤い羽根をこれ見よがしにつけていくのも、なんだなぁ、と思って、
あの時、東京駅では募金はしなかった。
もう16年も前のことだ。

午前中に新幹線で大阪から帰ってきた。
今回は、桃山学院という私立高校で久しぶりに講演をした。
講演といっても、僕の場合、
ヒマラヤの写真を見せながら、そこに住む人々の生活なんかを語り、
そこから何かを感じとってもらえばと思って話しをしている。
どちらかといえば、スライド上映会のようなものだ。
ちょうど学園祭が開催されていて、そのひとつのプログラムという感じ。
男子校だったので、どんな反応かなぁ、と思っていたのだが、
出席してくれた生徒たちは、
熱心に話を聞いてくれて、とても話やすかった。
制服もなく、学校は自由な気風。各自の主体性と責任を重視しているような学校のようだ。
先生方も、気さくな方が多かった。
まぁ、僕のようなものを呼んでくれること自体、かなりくだけているよなぁ。

講演会が終わり、校長先生と話したり、担当の先生と昼食を食べた後、
せっかく大阪に来たのだからと、向かった先は・・・・大阪城。
でも、観光が目的ではないのだ。
昨日は、9月30日。
以前の日記(
9/16参照)にも書いたように、
9月は、毎日走ることになっている。
そう、昨日は、その挑戦の最後の日だったのだ。
東京のランナーが皇居の回りを走るように、
大阪のランナーは、お城の回りを走っているという。
その大阪ランナーのメッカで、ぜひ、9月の挑戦を締めくくろうと思ったのだ。
午前中は雨だったのだが、大阪城公園駅に着いた頃は、雨もやみ、
走るには、絶好のコンディション。
トイレで、ウエアーに着替え、いらないものをコインロッカーに入れて、
いざ、スタート。
お堀沿いに、ジョギングコースができていて、
天守閣までの往復の寄り道を含めて一周5.5キロ。
皇居が5キロだから、それより少し長い。
お堀の回りは、公園になっているところが多く、
皇居よりも、緑が多いジョギングコースになっている。
なかなか良いおすすめコースだ。

とある場所には、青色のビニールシートのテントが乱立しているところがある。
あぁ、これが有名な浮浪者街かなぁ、なんて思って走る。
緑が多い木立の中で、都会とは思えない。
そこに点在するテント。
なんか上高地あたりの自然が多いキャンプ地でテントを張っている感じ。
僕なんかが住んでいるところよりも、
よっぽど環境がいいじゃん。
な〜んて、無責任なことを思う。
結局、ゆっくり2周して、9月の挑戦「毎日走ろう」の挑戦は、幕を閉じた。

梅田まで出て、カプセルホテルにチェックインして、
その下に併設されているサウナへドボ〜ン。
ゆっくり汗を流し、
そこで日替わり定食(海老カツ丼)を食べ、
ちょっと寝ようと思って、カプセルに横になった。
起きたら・・・朝。
せっかくの食い道楽の大阪にいるのに、
どこへも行かず、うまいものも食べずじまい。
でも、なんとなく僕らしい大阪滞在だったのだ。


 

2000年9月24日(日)        母親似

  

先週は、秋晴れの天気だったので、
悪天候のため先々週撮影できなかった写真を、
(散歩がテーマの特集なんで、雨模様じゃ絵にならない)
安曇野にカメラマンと再撮にでかけた。
夕焼けや朝焼け狙いで、早寝早起きの健全な(笑)撮影だった。
北アルプスもばっちり。
なかなかの絵が撮れたと思う。

帰りに実家に寄って、一泊したのだが、
お袋が開口一番、僕に言ったことば。
「来週、ハワイに行くの。」
と嬉しそうに話す。
ふ〜ん。
観光にでもいくのかなぁ、と思っていると、
しずしずと旅行のスケジュール表を出してくる。
・・・愕然!
なんと、カラオケを歌うためだけに行くのだ。
ホノルルにハワイシアターというコンサートホールがあるようで、
そこでわざわざカラオケの発表会をするのである。
(注:別にこれは、歌が上手い人が選ばれるわけではない。
10万ちょっとの旅行代金を払えば、誰でも出ることができる。
・・・ふ〜む。こういう商売もあったのか)
全国各地からカラオケ教室に通う人たちが集まって、
朝から晩まで、そのステージで、ひたすらカラオケを歌うのである。
自分の出る時間は、ほんの5分弱。
あとは、人のカラオケを聞くということになる。
それじゃ、カラオケバーにいるのと変わりなぁ、と思ったが、
ルンルン気分のお袋の顔の前で、言葉を飲み込む。

お袋が、カラオケ教室に通うようになったのは、
そう、5年くらい前かなぁ。
習いたての頃は、かなりはまっていて、
たまに実家に帰ると、カラオケをかけて、
「ねぇ、聞いてみて」
とド演歌を聞かされる。
それが、音程がしょっちゅうはずれて、
お世辞でも上手いとはいえないのだ。
本人は、上手く歌っているつもりで、真剣そのもの。
真剣な表情とものすごい音程。
そのギャップが、思わず笑いを誘わずにはいられなかった。

最近は、それほど話題にものぼらなかったので、
カラオケ熱も覚めたのかと思っていたのだが、
怖るべし、執念。
ここまで、カラオケにはまっていたとは。

自分では、そうは思わないのだけれど、
お袋と僕は、そっくりの顔をしているようで、
一緒にいると、必ず親子とバレてしまう。
似ているのは、どうも顔だけじゃないようなのだ。

このはまりやすい性格、どうも母親似のようである。


 

2000年9月16日(土)        告白

  

9月も、半分過ぎた。
昨日、キンモクセイの香りに今年はじめて気づいた。
この香り、僕にとっては、甘くせつない思いがつまっている。
・・・ははは、こんな風に書くと、「年甲斐もない」と気恥ずかしくなる。
でも、僕にも、淡い思い出は・・・あったのだよ。
(この話は、JAL機内誌「ウインズ」の11月号に、告白したので、お楽しみに)

で、別の告白。
・・・悪友曰く、
「最近の日記を読むと『走るネット』になっているねぇ」
そういえば、このサイト『歩くネット』だった。
決して歩くことをやめたわけじゃない。
この間も、仕事で安曇野を散歩したし、
(雨だったけど)
ずっと工事中の「渋谷を歩く」のページもあきらめたわけじゃない。
しかし、確かに、最近は走っている。
実は、9月は、『毎日走る』って決めてしまったのだ。
インドヒマラヤの長期取材の原稿は、9月いっぱいにあげなければいけないし、
他の仕事も入っていて、僕としては、結構忙しい月となっているのだが、
それでも、決めてしまったことは、しかたない。
密かにやっていたのだが、もう半分達成したし、ここで告白ってわけ。

ネット仲間のページで、実は、この毎日の経過は報告されているので、
興味のある人は、
【毎日走ろう2000】へ、どうぞ。
(そんな人、いないか・・・ちなみに僕の走行記録は、『たか』の表です)

たとえ1キロでもいいから、
毎日走ればいいという単純な挑戦。
でも、これ、体力的というより、時間的にかなり難しい。
安曇野で取材に行った時に、記録が途切れそうになった。
ちょうど名古屋付近で、災害があった翌日で、
安曇野も朝から大降り。
とっても仕事前に、走る状態ではない。
取材に入って、わさび田の散策をしている時に、小降りになってきた。
トレッキングシューズに、Tシャツに長袖のシャツを羽織り、綿パンというのが、
その時の格好。
11月号の取材だから、秋物の格好をしていたわけ。
カメラマンが、この川の先に橋があるかどうか、ロケ班したいといいだした。
ぬかるんでいて、川沿いの土手道は、とても車では行けない状態。
・・・で思いついた。
「僕が、行きま〜す。!」と嬉しそうに手をあげる色の黒い男・・・すなわち、僕。
シャツを脱ぎ、綿パンを膝上までたくしあげ、
トレッキングシューズのまま走り出した。

・・・で500Mほど走って、橋を発見して、
Uターンして戻ってくる。
同行していたデザイナーとカメラマン曰く・・・
「そうまでして、走るかなぁ」
とあきれ顔。

でも、そのおかげで、今のところ毎日走ろうの挑戦は、途切れていないのである。
昨日は、8時間走も敢行した。
玉川上水と野火止め用水路の分岐までの往復できた。

「そうまでして、走るかなぁ」
誰かサンの声が、聞こえてきそうで・・・ある。

 


 

2000年9月3日(日)        深刻化

  

昨日は、かなり蒸し暑く夕立もあった。
東京の気温は、37.5度。
砂漠とかの暑さと違って、東京の場合あの独特の湿気が伴うから、
不快指数は、グググっとあがる。

本日、日曜日、実は、6時間走というのを前から計画していた。
給水やストレッチのロス時間も含めていいのだが、
それにしても何が楽しくてわざわざこの暑い中を、
ぶっ続けて6時間も走ろうという発想になるのだろうか・・・
と普通思うだろうが、
体育会系ライター、いろいろと秋に向けて計画があり、
(無謀とまた言われそうなので、まだ発表できる段階ではない)
それに向けて、トレーニングをしているのだ。

早朝7時前、自宅近くの代々木上原にジム仲間の矢内さんと集合。
それはそれは、ゆっくりペースでまずは、神田川をめざす。
甲州街道を経て、神田川沿いを井の頭公園まで走るコースは、
遊歩道も整備されていて、なかなかのランニングコース。
玉川上水まで行ってちょっと大回りして帰ってくると、全部で30キロになる。
このコースは、何度か走っているのだが、
今回は、井の頭公園から更に玉川上水を奧へ走った。
井の頭公園から、玉川上水沿いに少し行くと、
あっという間に三鷹駅に着いた。
このあたりで2時間くらい。
あと1時間は前に進まないといけない。
三鷹駅のある場所は、
玉川上水と交差しているまさにその地点ということを知っている人は、
少ないのではないか。
ランニングにランパン姿の、
色の黒いキャップとサングラスをした汗だらだらの色の黒い男が、
三鷹駅の改札を通り過ぎる。
かなり怪しい・・・らしい。
みんなに一瞥される。
トホホ。

でも、三鷹駅を過ぎると、
土の歩道が玉川上水沿いに出来て、
桜並木の日陰の中を、涼しい風が吹き抜け、
快適に走ることができた。
風の心地良さからは、もう秋の気配を感じた。
そのあたりで、もう20キロ以上走っているのだが、
幸いにも足の方もダメージはなかった。
途中、国木田独歩の「武蔵野」の中に出てくる桜橋なんかもあって、
それは、それは、趣のあるコース。
小金井公園のあたりで、ちょうど3時間。
公園の中を散策して、茶屋でソフトクリームを食べて、
折り返した。

・・・ちゃんと帰ってこれたかって?
それが、思ったより調子が良くて、
帰りは、スピードもあがり、代々木上原の駅に、
5時間45分で着きそうになったので、
駅のまわりをぐるぐる大回りしたほど。
まぁ、そんなわけで、片道25キロ以上。
50キロは走ったことになる。
「自分を誉めてあげたい」って感じ。
再来週には、8時間走というのもひかえている。
玉川上水が野火止め用水と交じっているところまで、行けるかなぁ?
・・・年を重ねるごとに、M度
(1999 5/26の日記参照)は、深刻化しつつある。

 


 

2000年8月25日(金)        "What makes you ...?"

  

インドヒマラヤから月曜日に帰国した。
さすがに2カ月近く留守にすると、
日本でも、いろんなことがあったようで、
しばらく浦島太郎状態。
2000円札や新500円玉を目にして感激したりしている。

 

ヒマラヤの懐にあるスピティの谷。
3年前から通っていた村々とも、
今回でひとまずはお別れだと思うと、
感慨もひとしおだった。
さまざまな人との出会いがあって、
ということは、それと同じだけの別れがある。

これだけ頻繁に来る異邦人も珍しいのだから、
村人たちも、僕に旅人以上の何かを感じてくれているのは確かだ。
その分、今までは見えてこなかった負の部分も、もちろん露見するわけだけど、
そんな部分も含めて、書けたらなぁと思っている。

 

9月いっぱい、このスピティの原稿に集中するつもりだ。
実は、帰国してから、ひとつ緊急の締め切りがあった。
そんで、この日記も、たまりにたまったメールや手紙の返事も後回しになっている。
昨日、ひと通り書き上げたので、日記を書いているわけ。
これから返事を書きます。
みなさん、返事が遅れてすいません。

 

そうそう、スピティのキーゴンパという場所で、
ダライ・ラマのカーラチャクラという最高レベルの法要があったのだけれど、
砂マンダラが出来上がっていくところを、随時見ることができた。
僧たちの地道な作業の積み重ねで、少しずつ出来上がってくる。
池澤さんは、「成長する」と表現していたけれど、まさに、そのとおり。
神が宿る宗教的なものではあるけれど、
まるで生きているようだ。
これほど美しい砂の芸術はないのではないだろうか。
近くで見ると薄っぺらなのでなく、立体的なのには、ビックリした。

あと、ダライ・ラマとのプレスインタビューの時に、手を挙げていたら、
ダライ・ラマ自身が、僕を当ててくれた。
なんか顔が真っ黒で、チベット人かと思ったようだ。
得した。
僕の質問は、

"What makes you always happy?"

どんな答えだったと思う?
そのうちに、どこかに書こうと思っています。

 


 

2000年7月1日(土)        まだ見ぬ

  

「あれ〜、出発したはずなのに、日記が更新してある」
と思った方も多いと思う。
幽霊では、ない。
実は、インドヒマラヤ行きが3日延びた。


今回も、ここ数年通っている、スピティという谷に行くのだが、
その谷に入るには、方法がふたつある。
軍事道路で、一年中除雪がされる西ルートと、
4550Mの峠を越えるため、雪で道路が封鎖され、
夏の間の3カ月足らずしか、通れない東ルートだ。
現地から連絡があって、
その東ルートがあいたというのだ。
例年よりかなり早い。
今年は、積雪が少なかったのかなぁ。

今回、なぜこんなに長くスピティに行くかというと、
7月10日前後に、地元のお祭りがあるのと、
8月上旬に、ダライ・ラマのカーラチャクラの法要があるからだ。
滞在型の取材を試みているので、
その間の期間は、
さらにディープな取材を試みようと思っている。

で、当初の予定だと、崖崩れなどの突発的な事態に備えて、
日本を出発して、祭りの場所まで、西ルートを通って10日近くかかると考えていた。
東ルートから入ることができれば、それが大幅に短縮できる。
うまくいけば4日めには、祭りの場所に着ける。

お気楽な僕でも、
やはり2カ月近く日本を離れるのは、
たいへんである。
仕事や雑事を片づけ、留守中のさまざまな手配をしなければならない。
それで出発を3日延ばしたというわけ。
この3日は、大いに助かった。
もし、3日延びていなかったらと思うとゾッとする。

 

春先に種をいただき(3/4の日記参照)プランターに植えた千日紅のつぼみが膨らんできた。
この花が咲くのを待たずして、旅立つことになった。
まだ見ぬ花を残していくのは、心苦しいが、
この部屋に、誰も見ることのない花が、ひっそりと咲いているなんて、
ちょっといい感じ。
バラの花を星に残してきた、誰かさんに似てはいないか。

・・・行ってきます。


 

2000年6月17日(土)        大人という器

  

ひと組の親子。
小学校低学年の男の子と僕らと同じ世代の父親。
学校の休みを利用して、SLに乗っている。
流れゆく車窓の向こうに、人影が。
農作業をしていたおじいちゃんやおばあちゃんが、
立ち上がってこちらに手を振っている。
男の子は、すぐに自分の手を大きく振りかえす。
再びおじいちゃんやおばあちゃんが手を振っているシーンが、
スローモーションで視界に入ってくる。
父親は・・・
わずかに手をあげて、それに応えようとしている自分に気づく・・・。

・・・・
最新の車両の山手線に乗っていた時、車内のモニターで流れていた広告。
たぶんJR東日本のSLが走っている「ばんえつ線」かなんかの宣伝なんだと思う。
もしかしたら、テレビでも何度もやっているのかもしれないが、
僕は、その時、はじめて見た。(テレビがないからね、この部屋には)
なにげなく見ていたので、詳細は、違っているかもしれないのだが、
最後の余韻をしばらく噛みしめるほど、なぜだかグッときた。

たぶん、あの父親の気持ちが良くわかるからかもしれない。
いつの間にやら、僕らは大人という器の中で、
喜怒哀楽を閉じこめてしまっているのかもしれない。
でも、ある瞬間、その器から忘れていた熱い感情が溢れ出す。
そう、少年の心。
使い古された言葉だけれど、大人は、かつては、みんな子どもだったんだから。


 

 2000年6月16日(金)        ボツ原稿その5

  

29歳

 


 気がつくと、一面の雪景色。それも雪の結晶がそのまま降ってくる。手袋をはずし、掌をさし出すと、六角形の結晶が体温で消えていく。
 山の天候はあっという間に一変する。視界がきかないほどの横なぐりになった。私はそのまましばらく立ちすくんだ。

 自分ってなんなのだろう。

 人と同じ呼吸をするのが、私の旅だった。しかし、「出会う」ということは、私という人間がそこに存在するから生じるものなのだ。
 自分の存在に気がついた。同じ空気を吸うことの難しさを、実感している。さまざまな人との触れ合い、私はいろんなことを思った。同じように、彼らも私という人間の出現によって、何かが変わってしまうのだ。
 それが「出会う」ということ。
 私は、自分の存在について考えている。秘境を旅し、文化、習慣、価値観のちがう人びとに触れ、自己へともどっていったことになる。自分がおぼろげながら見えてきた。
 でも、まだ輪郭はしっかりしない。

 私は、また、足を踏み出した。雪の結晶のくずれゆく実感がする。
 そして、地表に私の足跡が残る。

 

 

先週の土曜日の6/10の日記で、「風の足跡」が絶版になることを書きました。
それを読んだ方々から、思わぬ反響があり、
あたらめてこの本は、たくさんの力に支えられているのだと知りました。
励ましのメールや電話をありがとうございました。
この場をかりて、お礼を申し上げます。
風の足跡は、絶版になってはしまいますが、
みなさんの、そして僕の心の中で、鮮明に生き続けていければと思っています。


 

2000年6月15日(木)        ボツ原稿その4

  

4

27歳

 


 夜の海。波の音だけがする。真っ暗で何も見えない。私はじっと海に対峙していた。波のとどろきは一定だった。ひどく単調に思えた。闇の中、ひたすら耳をすました。

 調律の中に砂をなでるつぶやきがかすかにした時、雲間から下弦の月が出た。すると、せり出した波だけが反射した。砂の海岸をくすぐり、波だった部分だけが黄金の光となった。

 放浪したあと、周囲の勧めで旅行雑誌の編集プロダクションに就職した。しかし、なかなか海外に出られず、悩む日々が続いた。
 外に出たい。飛び出したい。そういった思いはつのった。そして、現実的に実行に移した。フリーという立場でライターと添乗員をする決心をしたのだ。そうすれば、その合間をぬって、自分のための旅ができる。確かに添乗員には抵抗があった。また葛藤がおこるだろう。しかし、東京でくすぶっているよりは、問題意識を持ってやってみようと思った。
 自分の身を秘境の地におくことで、何かが生まれると思った。

 月はふたたび雲にかくれ、闇の世界へともどった。
 しかし、光の余韻は残った。

 

 


 

2000年6月14日(水)        ボツ原稿その3

  

25歳

 


 空に溶けた。
 紺碧の空に、ひとかけらの雲が浮かんでいた。あたりはひどく乾燥しているため、空気が澄んでいた。標高も4000メートルをこえている。空が広い。紺碧の粒子がひとつずつ見えるようだ。
 その雲も手に届きそうであった。やがて、綿毛がほつれるように、いくつもの筋になった。筋はよじれながら広がっていったが、紺碧の粒子の中に溶けこんだ。

 そして、消えていった。

 旅行会社をやめて旅に出た。別にあてはなかった。ただ、ひとりで旅に出たかった。気がついたら5カ月がたっていた。
 あの頃の私は、「旅人」としての自分を問いなおしていたのかもしれない。現地を同じ呼吸をしたい。そんな願いを形にしたかった。情熱がたぎっていた。

 でも少しずつ気づいてた。その願いが、どれほど不可能に近いか。しかし、私は、やりきってみたかった。信じてみたかった。
 25歳になっていた。
 私は、自然体でいることにした。それが現地に溶けこむ最善の方法だと思っていた。

 眼前には、紺碧の空だけが残った。

 

 


 

2000年6月13日(火)        ボツ原稿その2

  

23歳

 


 バンコクまであと数時間だったから、たぶんカンボジアかベトナムの上空だったと思う。
 星が輝いていた。空気が流れるのがわかるのだ。星の光が成層圏に入り、気流にさえぎられ、途切れ途切れになる。星が呼吸している。そんな感じだ。
 無数というほどでなく、点々としているその光は、地表があるはずのはるか下の方までつながっている。闇は深く、農村のともしびは星になっていた。地表と空の区別のない不思議な空間が眼前に広がっていた。
 私は、居場所のない不安にかられていた。

 大学を卒業して、秘境を専門にあつかう旅行会社に就職した。旅をすることにおいては、こだわりがあった。未知の世界へのあこがれ、旅がすべてだった私には、天職だと思っていた。しかし、ツアーの添乗員の立場は、貧乏旅行の学生のときとはちがう。時には、現地の人と理不尽な交渉もしなければならない。そのことに少しずつ矛盾を感じていたのかもしれない。いや、その矛盾さえ感じないで、人を傷つけてしまっていた。

 すごく居心地が悪かった。
 闇の中を、いき場を失って右往左往しているようだった。

 

 


 

2000年6月12日(月)        ボツ原稿その1

  

昨日の日記に書いたが、過去との訣別の作業中に、
思わぬものが、出てきた。
そう、ボツ原稿。
「風の足跡」は、僕の20代の旅の軌跡が書かれている。
僕の年齢とともに、5つの章に分かれている。
当初その各章のはじめの部分に、短文を入れ込もうと思っていた。
でも、書いてみると、なんだか本文を読む前から種明かしをしているような感じもしたので、
編集者と相談して、割愛した。
そのボツになった原稿が、出てきたのだ。
そのワープロ原稿、もう日に焼けて、なんとか文字が読める程度。
当時は、まだパソコンを購入する前だったので、
どこに保存されているかもわからない。
絶版にもなることだし、この日記に毎日1章ずつ保存していこうと思う。
ちょっと気恥ずかしいような気もするのだが・・・。

     

            1            

20歳

 


 幅3メールもない峠の上で、テントを張ったことがある。両側は、断崖絶壁である。すぐ下には、氷河のクレバスが口をひらいている。
 峰と峰を結ぶ稜線の窪んだろころが峠になっていた。風の通り道だ。ゴーッ。暗闇の中、風の音がとどろく。その音に恐れをいだきながら夜をあかした。

 東の空があかるくなった。日の光は、反対側の蒼い氷河の上に山の稜線の陰を投げかけた。すると、その山の陰の上に人間の影があった。手をふると、その影も手をふってみせた。よく見ると私の影である。

 20歳の夏のことだ。

「探検部」という響きに酔っていて、他の奴とはちがうんだと意気がっていた大学時代。都会での自分の居場所を見失っていた私は、その焦燥感がいやで、秘境と呼ばれる地へ目を向けていった。しかしそこは、ちっぽけな自分とは無関係に存在していた。ポカッとげんこつをくらった思いがした。
 秘境では何もかもが新鮮だった。見るもの、聞くもの、肌に感じるもの。両手を広げ、なんでも吸収していた。
 虜になっていった。きびしい自然に。そしてそこに住む人間に。

 私は、自分の影がそこに存在することに意義を見いだしていた。

 

 


 

2000年6月11日(日)        大作戦、決行中

  

トライアスロンのレースの目標がひとまずなくなって、
せっかく持続していたこのエネルギーをなにかに活かそうと、
先週からはじめたこと。
名付けて「バオバブ根絶大作戦」!!!

日記を続けて読んでいる方には、わかると思うのだが、
ベランダからの景色だけに魅せられてここに引っ越してきて、早いもので5年と半。
収納が少ないことにあとで気がついたが、もう遅い。
僕んちのバオバブは、少しずつ大きくなり、
昨年あたりから、完全に巨大化して、手に負えなくなってきている。
ここまで根深くなると、それなりに適応してくるから、これまた困る。
もうあきらめムードになってしまい、さらにバオバブに肥やしを与えることになる。
(はじめて読んだ人には、なにがなんらや、わからんだろうなぁ)

環境の悪化とともに、仕事は、家でやる気がおこらず、お金を払って自習室へ通っているし、
仕事の打ち合わせも、とてもここではできず、近くの喫茶店になってしまっている。
これじゃ、イカンと、奮起したわけ。
とはいっても、何度も挫折しかけた。
少し整理すると、すぐに足場もなくなるほど。
どこから手をつけてよいかわからなくなる。
それほど、バオバブの太い根は、このちっぽけな僕の星を破壊しかけていたのだ。

昔から整理整頓は苦手あった。
・・・というか、物を捨てられないのだ。
もっといえば、過去と訣別できない。
雑誌ひとつとっても、あぁ、この記事のために買ったんだと思うと、もういけない。

大作戦がはじまって、1週間。
水曜日は、それだけのために費やした。
(月曜日と火曜日は、途中で投げ出した)
あとの日は、1時間〜3時間。
嫌になる前にやめるのが長続きの秘訣。
田舎に送った荷物、すでに10箱。
(まだあと少なくとも2箱は送る予定)
土曜日の燃えるゴミの日に捨てたゴミ袋は数知れず。
(こんなゴミの中で生活していたんだと思うと、ゾッとする)
不燃物の月曜日と、雑誌の日の火曜日が待ち遠しい。

まだまだ、根絶には、時間がかかりそうだ。


 

2000年6月10日(土)        去りゆくもの

  

郵便受けに、ふたつの郵便物。
ひとつは、毎月送られてくる雑誌「シンラ」で、もうひとつは、福音館書店からのもの。
同じ日に、同じ郵便で送られてくるのも、なにかの縁を感じる。
・・・どちらも前もって知っていたことだけれど。

シンラは、6年前の1月から創刊された雑誌。
僕にとっては、はじめて自分でプレゼンをして連載をいただいた思い出の雑誌だ。
創刊号から、いろいろと原稿を書かせてもらった。
2色ページの連載から、広告ページの連載コラム、そして自ら企画した取材記事へ。
歳月とともに、シンラは、いつも僕の身近にあった雑誌だ。
いろいろと試行錯誤して、方向転換をしながら、新しい読者を獲得しようとしていたようだが、
今月の7月号で、休刊になることが決定した。
編集者の方々にも、とてもお世話になった。
やっぱり、淋しいものである。

そして、福音館書店からのお知らせ。
・・・「風の足跡」は、1996年より刊行させていただいてまいりましたが、
2000年7月25日をもちまして販売をひかえさせていただきたく、お願い申し上げます・・・

要するに、僕のはじめての単行本は、4年と4カ月をもってして、絶版になるわけです。
2週間ほど前に、担当の編集者に会ったときに、教えてもらっていた。
その時に聞いたのだが、余った本は、切り刻んで処分されてしまうそうだ。
なんとも悲しい運命。
まだ、500冊ほどは、売れ残っているようである。
自分の分身が切り刻まれるような気分。
それと同時に、もう注文しても、この本が手には入らないという事実は、
なんとも、淋しいものである。

でも、後ろばかりは振り向いているわけには、いかない。
去りゆくものは、どうしたって、去っていく。
残されたものは、次のことをやっていかなければ。

 


 

2000年6月4日(日)        マジックの跡

  

実は、この1ヶ月、ある挑戦に向けて、練習をしていたことがある。
今さらこの歳で・・・といわれそうなので、内密にしていたのだが、
本日が、その挑戦の日だったのだ。
初トライアスロンのレース。
しかも駅伝。
スイム500M,バイク10K,ラン3K。
これを4人の選手が、ひとりずつ続けてやって、タスキを繋いでいく。
ランナーズ仲間の友人が、距離も短いし、初心者にでもできるからと誘われた。
スイムとランは、日頃やってはいたが、
バイクは、マウンテンバイクで街をころがしているくらいだったので、
自信がなく、一度は、断った。
でも、他に出る人がいないからと、もう一度誘われて、腹をくくった。

出場が決まってからの1ヶ月、
ほぼ、気持ちの中では、このレース中心で回っていたように思う。
まずはジムへ行って、エアロバイクなんかをはじめた。
3週間前からは、スイム、バイク、ランとレースより多めの距離を続けてやった。
レースまでに、この通し稽古は、計5回になった。
距離が短いし、筋肉をまんべんなく使うためか、フルマラソンなんかのダメージよりは、
はるかに少ない。
「結構、いけるんじゃない」
・・・な〜んて、高をくくっていた。
先週の日曜日には、ランの駅伝にも出て、3キロのスピード練習のつもりで走った。
調子は、まあまあ。

 

で、今日を迎える。
僕らのチームは、1人以外は、トライアスロン未経験者。
唯一の経験者もレースに出るのは、2年ぶり。
まぁ、距離も短いし、初心者もたくさんでるファミリー向けのレースだから・・・
という話だったのだが、埼玉県の戸田市の荒川河川敷にある彩湖の会場へ行ってみると、
雰囲気が違う。
まず目についたのが、体育会系の大学生たち。
大学ごとに、あちこちで円陣を組んでいる。
体つきは、男も女も・・・それはそれは、凄い。
ちょっと年輩のチームだって・・・脱ぐと、凄い。
持っているバイクも、素人からみても、かなりの代物ばかり。
マウンテンバイクを使い回そうなんて初心者なんか・・・
僕ら以外、どこにいるの?・・・ってな感じ。

意気消沈する僕ら。
でも、あたふたしている間に、第1走者のスタートの時間になる。
第1走者は、唯一の経験者、僕らのチームでは、切り札である。
最初のスイムのバトルは、とても初心者には、危険で無理なので、
最初から、このカードを使わなければいけない。
しかしこの僕ら最高の切り札をしても、
結果は、周りのレベルがあまりにも高く、
一番最後でリストが第2走者に渡る。
(手首に巻くリストがトライアスロンの場合タスキのかわりになる)
第2走者は、スイムのインストラクターもしたことのある猛者。
途中で1人抜いてくれた。

第3走者が、僕。
もう、とにかくマイペースだけを考えて、スイム開始。
東京にいるときは、プールで毎日2キロ近くは泳いでいたから、
それほど、スイムは心配していなかった。
コースは、スタート地点から、三角形に泳いで、同じ場所にゴールする。
その三角形の各頂点には、浮きブイのポイントがある。
最初のブイめがけて、息を整えて、押さえ目で泳いでいると、
近くにいたライフセーバの人の乗っているサーフボートが見えた。
大きく左の方向を差している。
・・・と顔を水面に出してみると、
行きたい方向からかなり右にずれている。
強風と波で、流されているのだ。
ヒエーっと思ったとたん、水を飲んだ。
気を取りなして、再び、泳ぎはじめる。
でも少し泳いで、顔をあげると、また右にずれている。
高波が押し寄せてくる。
全然、前に進めない。

気が動転してくる。
後ろからきた最後の選手にも、抜かされる。
うぅ〜。
もう、死ぬ。
手足のバランスが、メチャメチャ。
アップ、アップって感じ。
・・・リタイヤの文字が頭に浮かぶ。
でも、それができないのが「駅伝」。
メンバーの顔が思い浮かぶ。
ちょっと平泳ぎをして、呼吸を整えて、なんとかまた泳ぎはじめる。

ひとつめのポイントを過ぎると、流される方向に次のポイントがあったので、
それからは、なんとかいつも通り泳ぐことができた。
さっき抜かれた選手を抜いて、ビリを脱出。
でもゴールまでは、また、向かい風。
押し戻される、押し戻される。
でも、もう前に進むしかない。
ヘロヘロになりながら、やっとのことで、陸に上がる。
やっぱり人間は、陸の生き物である。
地面が足の下にあり、空気が満ち足りて存在することが、どんなに安心感をあたえてくれるものか。
ウエットスーツを脱ぎ、靴を履いて、バイクへ。

僕らは、もうその時点で、周回遅れ。
次々と優勝候補の早いチームが追い越していく。
でも、こちらはマイペース、マイペース。
じゃまにならないように、マウンテンバイクのペダルをひたすらこぐ。
バイクに乗っている間に、徐々にスイムのダメージが薄れていく。
向かい風の時は、きついが、追い風の時は、かなりのスピードが出せた。
バイクの時間は、約25分。
30分の予定だったので、まずまず。

すぐにヘルメットを脱いで、ランへ。
最初は、足が思うように動かなかったが、次第にペースが上がってくる。
気持ちよくスピードに乗り、足が前に進む。
第4走者だったかもしれないが、全部で3人抜いた。
ラストスパートもかけることができ、アンカーにリストを渡す。
ランのタイムは、12分45秒くらい。

僕らのチームの最終走者は、もと高校時代は、陸上部、
大学時代はサイクリング部という心強いアンカー。
スイムは、僕と同じで風に流されたが、陸上で力を発揮してくれて、
快調にゴール。
結果は、51チーム中50位。
課題は、いろいろ残ったものの、
アンカーがゴールに入った瞬間は、なにかをやり遂げた壮快感でいっぱいだった。

チームのみんなの腕と太股には、「41」とマジックで書いた数字の跡が残っている。
汗で消えかけた僕らのゼッケン番号。
なんだかシャワーを浴びてしまって、消すのがもったいないのである。


 

2000年6月1日(木)        バイク・ハイ?

 

 

今日から、6月に入った。
予定のところにも書いてあるが、
今月末から2カ月近く、3年前から通っているインドヒマラヤのスピティの谷へ再び行く。
現地には、知り合いがたくさんできて、再会できるのが、今から楽しみなのだが、
現実的には、その取材に行く前に、いろいろとやらなければいけないことが山積みである。

でも、今日のような梅雨前の気持ちのいい天気だと、
つい外に出たくなってしまう。
本日は、代々木にあるコーラルウェイの編集部までマウンテンバイクで行く。
そのあと渋谷と恵比寿で用事をすませ、プールを経由して我が家まで。
ほぼ渋谷区を一周したことになる。

歩く速度、走る速度、そしてバイクの速度。
同じ街を移動していても、その速度によって、
見えているものが違ってくる。
風や大気の感じ方も微妙に違うような気がする。
まわりの景色が速度によって、
曖昧になるにつれて、
次第に、自分の中に入っていく。
外界との間に膜ができるというか、
かかわりが希薄になるというか。
悪くいえば自己中心的になる。
だから、僕の場合、バイクが速度の限界なのかも。
ランニング・ハイのことを以前書いたが、
バイク・ハイっていうのも、あるような気もする。
・・・以前、山手通りのしかも歩道で、バイクで事故って骨折したことがある。
今から思えば、ちょっとバイク・ハイになっていたのかも。
危ない、危ない。
気をつけよう。

そうそう、編集長に会ったので、5/30の日記で思い出せなかった曲名がわかって、すっきりした。
「石狩挽歌」だ。
そうだよなぁ。
なんで出てこなかったんだろう。

 


 

2000年5月30日(火)        眩しい日差しの中で

 

 

ゴメが鳴くから、ニシンが来ると
赤いつっぽの若衆(やんしゅ)が騒ぐ・・・

ここ数年、カラオケには行っていないので、
歌詞もうろ覚えなのだが、北原ミレイの・・・曲名が出てこない。
小樽は、卒論のテーマだった場所なので、何度も通った。
ニシン御殿にも行ったことがある。
まぁ、そんなこともあって、十八番の曲だったのであるが、
コーラルウェイの編集長の十八番でもあり、取り合いになったこともあった。

で、なんでこの曲を思い出したかというと、
昨日の夕飯に、ニシン塩焼き定食を食べたからだ。
下北沢の僕の御用達の定食屋さん。
ごく普通の定食屋なんだけど、自然食品を素材に使っていて、
いつも混んでいる。
オヤジばかりじゃなくて、結構、若者のカップルなんかも入ってくる。
値段も良心的で、胃袋を健康的に満たしてくれる「おふくろの味」。
ひとりものには、こたえられない店だ。

オーダーして出てきた、ニシン。
切り身かなんかを想像していたのだが、丸ごと1尾、ど〜んと皿に乗っている。
こりぁ、お得・・・と思って食べだした。
魚好きなので、猫のように骨までしゃぶるくらい平らげるのだが、
ちと思い悩んだことがある。

秋刀魚のように、内臓部分も食べるのだろうか?
箸でつついてみると、その部分は、白子のようになっている。
卵のような形・・・・ということは、かずのこ?
ちょっと違うなぁ。
食べるべきか、食べざるべきか。
来週は、大事な駅伝の試合もあるし、
ここで腹をこわしたら・・・。
なんて、考えて残してしまった。

なんだか、もったいない感じ。
もしかしたら、いちばん旨いところだったのかもしれないのに。
会計の時、よっぽど店のおばちゃんに、聞こうかと喉元まで声が出かかったのだが、
常識知らずと思われるのが、ちょっぴり恥ずかしかったのである。
でも、こんなに気になるなら、聞けばよかったなぁ。

真夏を思わせる眩しい日差しの中で、
僕の頭に流れている曲は、チューブではなく、
北原ミレイのずっしりとした重いせつない曲が、
今朝から、頭を駆けめぐっている。


 

2000年5月20日(土)        球でないから

 

 

秩父宮へラグビーを見に行った。
フィジー代表対日本代表の試合だ。
昨年から、フィジー政府観光局がらみの仕事をさせてもらっているので、
フィジーの応援団に加わったのだ。
フィジーの村に滞在するとよくわかるのだが、
子どもの頃から、フィジーでは、ラグビーに親しんでいる。
村の中心にある広場は、すなわちラグビー場で、子どもから青年まで、
真っ暗になるまでラグビーで汗を流している。
主食のタロイモは、プロティンがいっぱい含まれているそうで、
フィジー人の幅のあるでっかい体格は、まさにラグビー向き。
そんなわけで、歴代のフィジー代表は、
世界でも、かなり上位に食い込むという強いチームだ。

競技場の中に入ると、芝生の淡い緑が飛び込んでくる。
小雨に濡れて、瑞々しく美しい。
実は、前日の5月19日に、フィジーでクーデター騒ぎがあった。
まだ、先行きは混沌としているのだが、
選手たちは、その重い空気の中で試合をすることになったのだ。
キックオフ直前に、芝生の上で、フィジーの選手全員で、
低めの叫び声を上げて、パフォーマンス。
競技場が、緊張感に包まれる。
ウォー・ダンスと呼ばれるものだという。
彼らの興奮が伝わってくるようだ。

13:05、キック・オフ。
ラグビーは、テレビでは見たことがあったが、実際に競技場に足を運んだのは、はじめて。
実際の白熱した肉弾戦を見て、思ったこと・・・
ボールが球形でないから、おもしろいんだなぁ。
ラグビーボールの微妙な形が、さまざまな偶然を呼ぶ。
思わぬ方向に転がっていったり、手から滑ったり。
その偶然が、観客を沸かす。
選手としても、その偶然をある程度、考慮に入れながら経験的しかも感覚的に動いているはず。
時として、偶然は、その経験や感覚を超えることがある。
その一瞬が、おもしろい。
その偶然を、瞬時にして、どう活かしていくか。
きっと、そのあたりにラグビーの魅力はあるような気がする。

まわりは、ほとんどが日本の応援。
その中で、フィジーを応援しているのだから、
大波に逆らうような感じ。
でも、フィジアンたちの華麗なパスが繋がった時は、
観客からも大きな拍手が沸き上がった。
結果は、47対22でフィジーの圧勝。
点差は、あったが、かなり見応えのあった試合だったように思う。

ノーサイドのあとも、いい。
ほとんどけんか腰の試合のあとの、選手どうしの触れ合い。
まさに、ノーサイド。
いい言葉。

 



2000年5月9日(火)        はい、ここ・・・

 

 

マダガスカルの帰りに、シンガポールで半日時間があった。
それで思いついたのが、足裏マッサージ。
ちょうど風邪気味だったので、リフレッシュと思って、
シンガポールの銀座、「オーチャード通り」へ。
こういう観光地へ行くのは、15年ぶりか。

ショッピング・センターの雑居ビルの一室が、
評判のいいというマッサージ師がいる店。
ちょっと薄暗い部屋に入って、靴と靴下を脱ぎ、
クマのアップリケのついたイケテル短パンに履きかえさせられ、
マッサージ台に足を乗せる。
痛い痛いと聞いていたので、おっかなビックリだったのだが、
そのイカツイ身体のマッサージ師の指使いは、それほど痛さを感じず、
むしろくすぐったいか、気持ち痛いくらい。
なかなかイイゾ、っと思ったとたんに痛い。

「はい、ここ、キカンシ」
と、なんとなく日本語らしき言葉で、僕の身体の悪いところを言い当てていく。
風邪をひいて、咳が3日くらい前から出ていた。
さすが名人。当たる。
その後、痛かった場所に呼応している僕の器官は・・・
胃、首、腰・・・・
その通りって感じ。

で、もうひとつ痛かった場所に呼応する器官を聞いて、ガックリ。
「はい、ここ、セイショクキ」
セ・イ・ショ・ク・キ!!!?
トホホ。

意気消沈しながらの帰り道。
オーチャード駅から、地下鉄に乗ろうとした。
するとシンガポールにも、ずら〜といましたジベタリアン。
こんなところにも日本の影響があるのかなぁ。
たぶんシンガポールでも 他のアジアの国と同じように、
J- POPは人気があるのだと思うけど。

そのうちに、ヤマンバファッションの子たちも、
オーチャード通りを徘徊するようになるのかなぁ。

 

後日談・・・
足裏マッサージの効果で身体の中から悪い物を外に出そうとしたのか、
深夜便で成田に向かう途中、発熱し37.8度まで上昇。
鬼の霍乱だよね。
でも優しいスチュワーデスさんが、気遣ってくれて、いと嬉し。
(注:気を引くために発熱したわけじゃないから、そこのところよろしく)
そのうちに、徐々に回復し、帰宅してから計ったら、ほぼ平熱に戻っていたのであ〜る。


 

2000年5月7日(日)        とにかく寝る

 

 

仕事ではあったが、バオバブとキツネザルに囲まれて暢気に過ごしていたGW。
現地にグアテマラの事件の一報が入ってからは、気持ちが一転した。
すべてが解決するまでは、コメントはひかえるが、
僕もあの街を知っているだけに、心が痛む。

日本でも、いろいろあったようで・・・。
とにかく、今日は、寝る。

 


 

2000年4月28日(金)        木の音

 

 

タタタタ、タタタタ。
最近、僕の部屋のそばで、そんな音が頻繁にしてくる。
木の音。
正確にいうと木をたたく音。

斜め前に、古い一戸建ての家があった。
そんなに広い敷地じゃなくて、ごく普通の家。
1ヶ月ほど前、その家が取り壊された。
しばらくして看板をみたら、その敷地に、新しい家が三軒も建つらしい。
ギュウギュウ詰めという感じ。庭なんかなさそう。
(でもこのご時世、前の広さだと売れないんだろうなぁ)
基礎工事が終わって、1週間ほど前から、大工さんが仕事をはじめた。
・・・ムムム。大工さんは、全部で3人。
3人ともランニングにGパン姿。かなりマッチョな感じ。
ちょっとなまった英語を話す。・・・・金髪だ。
ひところ流行った、こっそり手伝っている外人の不法労働者という感じじゃないんだな。
もう、3人だけで、みるみる建物が形になっていく。まさに職人って感じ。
そう、たぶんこの人たち、本物のカーペンター。
工具の鞄の中身もかなりすごい。いろいろな面白い工具がずらりと並んでいる。

その仕事の早いこと。
昼飯の時間も、お茶の時間もそこそこに、
タタタタ、タタタタ・・・・。
現在、3軒めに突入している。
近くのクリーニング屋さんで、彼らの話題になった。
近所では、かなり話題になっているそうで、
(とても目立つから)
最初は、うさんくさく思っていた近所の人たちも、
彼らの仕事ぶりをみて、もう絶賛だそう。
「よく、働く、感心、感心」
・・・ってな具合だそうだ。

言葉じゃなくて、仕事ぶりで評価される。
職人気質って、好きだなぁ。

 

本日から、本物のバオバブの国へ。
わが部屋のバオバブは、元気がよくて、育ちすぎて、始末におえなくなっている(笑)
1999.11/9の日記参照

 

追伸・・・

池澤さんの7年ぶりの小説「花を運ぶ妹」読了。
バリの話。
旅人のなにげない視線が、いい。
どっぷりと浸かってしまった。
かなり忙しかったこの数日にもかかわらず、
どんどん先が知りたくて、読んでしまった。

 


 

2000年4月25日(火)        人間光合成

 

 

コンピューターに慣れてきたとはいえ、
最終的な原稿は、やはり一度プリントアウトして、活字で読まないとなんだかしっくりこない。
画面だけだと、まだまだ不安が残る。
誤字脱字はもちろんのこと、画面で見ていただけでは、気がつかないことを発見するし、
それが結構、内容的にも重要なポイントだったりするので、侮れない。
それで本日中に、できあがった原稿を読み返さなければ、ならなかった。
なんと150枚。
昨日、天気予報をチェックすると、
今日は、朝からピリカンの天気。
昨晩は、深夜に仕事から帰ったのだが、
眠い目をこすりながら、コンピューターに入力したままの
原稿をすべてプリントアウトした。
「あそこへ、行こう!」
まるで、遠足でも行くような気分で、
今朝に備えていた。
 

新緑の頃の日差しは、心地よい。
とはいっても、実際は、かなり強いのだが、
身体が南方系に慣れ親しんでいるせいか、
これくらいガンガンきてくれる方が、気持ちがいい。
もうオヤジだから皮膚にはよくないと思うんだけど。

とにもかくにも、人間光合成をする、よい場所を発見したのだ。
『あそこ』とは、新宿南口のスターバックス。
このスターバックス、最近、あちこちでどんどん拡大して店舗が増えているけれど、
僕らオジサンには、ちょっと頼み方も複雑で気後れがする。
・・・・でもやっと慣れた。

朝、七時台の満員電車にわざわざ乗って、新宿まで来た。
この時間、若者でいつもは溢れているスターバックスも閑散。
朝の柔らかい日差しが、屋外のカフェを優しく包んでいる。
ここの良いところは、この屋外の場所が、道路に面していないこと。
よく気取ったカフェは、道路に面していて、道行く人から丸見え。
まぁ、人から見られるのを意識しながら、
道行く人を観察するのも、それなりに面白いのだろうが、
なんとなく落ち着かない。
その点、このスターバックスの屋外部分は、線路側に面していて、
いい感じの空間になっている。

僕のひとつおいた先のテーブルには、
出勤前の白人女性が、英字新聞を読んでいたりしている。
一応、喫煙席なのではあるが、
外だし、僕が陣取った席は、一番はじっこだったので、
それほど、気にならない。
タイ風サラダのパンを頬張り、カプチーノのトールをチビチビやりながら、
仕事開始。

集中して読んではいるのだが、やはり周りの様子はなんとなくチェックできる。
8時台は、出勤途中のバリっとスーツで決めたビジネスマンやOLたちが、
コーヒーを飲んでいく。ほとんど、座っているのは、10分程度。
それでも、席は埋まらない。
ほどよく空いている。

9時台になると、もうちょっと服装もラフで自由な感じの人も交じってくる。
デザイン系とかマスコミ系の仕事でもしているのだろうか。
出勤時間で服装が微妙に変化するのが、結構、面白い。

10時台になると、次第に学生風や暇そうな若者たちがたむろしてくる。
このあたりから、満席になり、ちょっと居心地が悪くなる。
それまでは、1人が多かったのだが、次第に2人からグループになってくる。
そうすると、もちろん互いに会話をするわけだから、
ますます仕事の環境としては、悪くなる。
僕の横では、なにやら若いネーチャンたちが、
化粧品の話をしている・・・ようだ・・・たぶん。
(でてくるブランドの名前が、まったくチンプンカンプンなので、
もしかしたら、鞄とか靴とかの話しかもしれない)
でも、仕事は、まだ終わらない。
無理矢理、居座る。

11時台・・・・
さすがに暑い。
長袖のシャツをたくしあげていたのだが、
めくってみると、腕が中途半端な場所で、黒と白の境界線ができてしまった。
焼けたのだ。
(もともと黒いんだから、それ以上は焼けないと思っている方もいるだろうが、
そんなことは、ない)
ほとんど12時になって、
やっと読破して、完了。
やはりかなり言い回しなども変えた。

それにしても、パンひとつとカプチーノ一杯で、よくこれだけねばれたものだ。
店員の人が、五月蝿くうろうろしていないところも、よろしい。
放っておいてくれるのが、なにより嬉しい。
でも営業的には、嫌な客だろうなぁ。

天気のいい日は、朝飯をここへ食べに来てもいいかなぁ、と思っている。
わざわざ満員電車に乗ってもね。


 

2000年4月23日(日)        ひとりじゃ、ない

 

 

前にも書いたと思うが、桜が散るのを待っていたかのように、花水木が咲き出した。
花水木は、なんといっても、少し遠くから眺めるのが、いい。
花弁が大きいためか、葉っぱは隠れて、枝全体をアイボリーか赤紫に染めている。
葉っぱが小さい分、花だけが枝に乗っているようで、
しかも、花弁と花弁には、間隔がほど良くあいていて、その木の枝ぶりが見える。
そのためか、赤紫の方は、比較的強い色なのに、それでもゴテゴテの派手な印象は受けない。
外来種の割には、日本的な趣がある花だと思う。
それにしても、東京の街には、どうしてこんなに花水木が多いのだろうか。
・・・と気がつくのは、花の咲いているからこそなのだが。
花水木の方としては、一年中生きているんだぞ、といいたいだろうなぁ。
とにもかくにも、田舎の松本には、こんなに、ない・・・と思う。
(子どもの頃の意識なんか、あてにならないけれど。
もっとも、花水木のことをいいだなんていう子どもは、ちょっと恐いかも)

この10日間くらい、かなり長い原稿を仕上げなくてはならず、
珍しく朝早くから、仕事にとりかかり、
昼前の1時間〜1時間30分だけラン、もし雨ならスイムと決めて、ストレス解消。
そのあと、昼飯を食ったら、自習室に直行・・・・という生活をしていた。

ウインズの編集者と打ち合わせと、
アウトドアの編集部からキャプション書きの依頼以外、
約束はなし。
予定では、ひたすら、その原稿に集中することにしていた。
・・・・ということは、人との交流が全くなかった?
とこの一週間で、会話を交わした人の顔を思い浮かべてみると、案外そうでもない。

昼飯に行くなじみの定食屋では、「銀ダラですね?」と若い女性の店員さんが、
僕のお気に入りのメニューを知っていて、笑ってそう語りかけてくれたし、
自習室の受付の男の人も、「いつも、お疲れさま」って声をかけてくれる。
たまたま会社を休んでいた悪友と、駒沢公園へのランの帰りに待ち合わせをして、
昼飯を一緒に食ったし、
その駒沢公園では、あの藤達也にだって遭遇して、ランナー同士の会釈をした。
プールの掃除のおばさんとは、「今年は花水木が一段ときれいですね」と世間話。

約束のない、なにげない一日でも、
それなりに人との交流があって、ひと言、ふた言、言葉を交わす。

そう、ひとりじゃない。

 


 

2000年4月12日(水)        桜の雨、いつか

 

 

春の光に包まれたままで
1人息をひそめ泣いていた
さよならも言えずに
離れたあの人の面影がなぜか蘇る

何もしてあげられなかったのに
いつも見守ってくれていたこと
伝えたかったのに
あなたはもう何も答えてくれない遠い人

ありがとうって言ったら
永遠にさよならになる
果てしないこの旅で
どこかでいつか会おう

もっと色んなこと話したかった
いつか叶うものと思っていた
安らかな寝顔に
そっと触れたくちびるにこぼれてゆく涙が

桜の雨になる
夢が今虹をかけてく
あなたは空を行く
私を1人にして

永遠のおやすみ
ささやいて見上げたこの街の空は青くて

桜の雨が降る
夢が今虹を越えてく
あなたは空を行く
私を1人残して

ありがとうって言ったら
永遠にさよならになる
果てしないこの旅で
どこかでいつか会える・・・

・・・・・・
最近、はまっている曲がある。
ラジオから流れてきて、まずは、そのメロディーが気に入った。
僕の場合、メロディーが心地よく入ってくると、どうしても詞を知りたくなる。
この詞がまた、いいんだなぁ。
ふっと、弱っている部分に入ってくるというか。

それにしても、この詞を書いた松たか子・・・
オジサン、好きです。
彼女のイメージは、僕の中では桜色。
(オヤジ的発想で、ごめんなさい)

今、まさに東京は、桜の雨。

 


2000年4月9日(日)        長野県人

 

 

長野でマラソンを走ってきた。
今シーズン最後のフルマラソンだ。
一週間前まで、この日は雨の予報だったのが嘘のような晴れマーク。
気温も東京より高い21度の予想だ。
風もなさそうだし、シドニーを手中におさめたQちゃん(高橋尚子)と同じように
寒いよりは、暑いほうが好きな、僕には絶好のコンディションだ。

半袖、ランパンという寒がりの僕にしては、珍しい出立ちでスタート。
去年、走った友人のランナーから、くれぐれも最初の下りが続く6キロは、
スピートを出し過ぎないようにと注意をうけていたので、
キロ五分のペースを頑に守った。
次々と追いこされていくが、ここが我慢のしどころと、ペースを保つ。

それにしても、凄い応援。
沿道を埋めつくす人々。
普通、街から離れた場所では、人がいなくなるもんだが、
畑や、りんごの果樹園しかないような場所でも、人が出ている。
それも、ただみているだけじゃないんだなあ。
声をはりあげて、「がんばれ〜!」といい続けるおばさん。
選手のゼッケン番号を呼んで、かけ声をかけてくれるおじさん。
自転車で、どこまでも追いかけてくれる小学生。
各町内ごとでたたかれる太鼓の力強いリズム。

なんか、温ったかい。
きっと他のランナーのみんなも、そう思ったと思う。
なんだか誇らしかった。
同じ長野県人でよかったなあ。
(東京に出てきて、もう20年になるのだから、
こういう時だけ長野県人と思うのも虫が良すぎるけど・・・。
「信濃の国」というすご〜く長い歌が誰もが歌えるほど、
長野県出身者は、気持ちの中で繋がっている部分がある)
青梅の応援もすばらしいけど、
長野も負けていなかったよ。
その中を走ることができて、ほんとに幸せものだ。
感謝、感謝。

気持ちの良い千曲川沿いを走る。
今回は、30キロ過ぎからも調子は良くて、
35キロ過ぎまでスピードを上げることができた。
オリンピック会場になった各施設を巡るあたりだったので、
応援団もさらに増え、あんまり気も抜けなかったし。
さすがにあと5キロからは、ちょっとダウンしたけれど、
いつもの痙攣に悩ませられることなく、気持ちよく完走できた。
これも、沿道のみなさんの応援のおかげだろう。

 

自己ベストは、更新はできなかったけれど、
今年最後のフルマラソンにふさわしいレースだった。

 


2000年4月7日(金)        桜のトンネル

 

今朝、まだ早いうちに目黒川まで走った。
そう、この時期に必ず走りに行く場所のひとつ。
四谷の土手は、月曜日に走ったので、今日は、こっちを選んだ。
目黒川沿いでも、池尻大橋〜中目黒の間の桜は、秀逸。
このあたり川幅が狭いのが、いい。
両岸からもたれ掛かるように、枝が川に迫り出している。
まるで桜のトンネルだ。
川面に薄ピンクの色がうつっているのも、いい。
何より、人がいないのが、いい。

喧噪の中の夜の桜もいいけど、
やはり花をじっくり眺めるのなら、朝。
さまざまなピンクが微妙に移ろって、トンネルを形作っている。

う〜む。
こんな中で、走ることができる。
ささやかながら、贅沢な幸せである。

 


 

2000年4月4日(火)        笑み

 

病で身体がいうことを聞かない時、
精神的にも、かなりダウン気味になるはず。
それが、異国の地となれば、なおさら。
心細さに、打ち震えるかもしれない。

もう、18年も前のことになる。
パキスタンのフンザというところで、
激しい下痢に見舞われ、身動きがとれないほどの高熱でダウンした。
その時、献身的に看病してくれたのが宿屋の主人のアリだった。
アリとのその数日の接点が、僕の旅の原点だった。
彼と出会っていなければ、まったく違った旅のスタイルになっていたかもしれない。
人と接する時も、まず疑うことからはじめていたかもしれない。

そのアリが亡くなったという知らせがあった。
当時40歳なのだから、いつの日か、でも遠からず来ることはわかっていたはずだ。
ここ5年ほどは、会ってはいなかったけれど、
いつも身近な存在だった。
システム手帳の中には、まだ若い頃の精悍な顔つきのアリの写真が入っている。
僕にとっては、お守りのようなものだった。
落ち込んだ時、自信を失った時、ポンと背中をたたいてくれるような気がしたものだ。

皺くちゃになってしまった写真の中のアリは、
口髭をたたえて、
・・・・・
少し笑っている。

 


 

2000年4月2日(日)        音の波

 

ゴーッという地響きで目が覚めた。
音は次第に波のように、押し寄せ、迫ってくる。
その轟く波に幾度か飲み込まれ、翻弄されるにまかせるしかなかった。
外界は、大荒れ。
嵐の真っ直中なのだろう。
心許なく寝袋の中で、身体を丸める。

と、うなりが突如消えた。
テントのファスナーを開けて、乗り出してみれば、
嘘のような闇の森。

タスマニアの原生林の森を渡る風は、
どうも
気まぐれのようだ。


メール 待ってます
sha@t3.rim.or.jp
トップページへ戻る
地球の片隅を歩く自然の懐を歩く街角をブラリ歩く工事中


謝 孝浩のこと Links