1八郎潟干拓機械化実験農場回想
      武井昭氏の「35年を回顧して:北陸農試場長退官記念講演」を読んで

 (八郎潟時代)

 平成月・・・武井昭氏から表題の冊子が送られてきた。武井氏とはお互いに、まだ若い、農林省農地局時代のつき合いであったが、彼は本来試験場畑の人であったため、その後会う機会もなく、すっかり忘れていた。冊子が、彼の農林省の地域農業試験場長退官講演と知って、まず時の経過に愕然とした。

 その冊子の中に、私達の「八郎潟干拓事業時代」のことにかなり細かく触れてある。中には私自身忘れてしまっていたこともあるが、人から見た私の行動なり考え方がみられ、自分のとして珍しくもあり懐かしくもある。考えてみると偶然の成りゆきで入った農林省農地局で、私が本気になってやろうとしたことは、インフラ事業を、如何にして、農業近代化に役立つためのものにするか、と云うことに尽きる。

 その成果といへば、とうとうたる大河の流れの中のごまめの歯ぎしりのようなものであろうが、武井氏のような知己のあったこと知って、いまさらながらうれしい。ここに武井氏の講演の一部と、冊子にたいして送った私の礼状を掲げ、農林省(今は農林水産省)の農業技術にたいする私の考え方を記しておこう。

           

(八郎潟干拓企画委員会時代)

 

 昭和35年頃、農林省農地局(局長伊東正義氏)は、干陸を間近に控えた八郎潟干拓事業で、どのような農村を造るかが問題となっていた。そのため局長は、農業はもちろん、都市計画、行政学、ジャーナリストの一流どころをを委員に委嘱して八郎潟企画委員会(委員長東畑四郎氏)を組織し、企画調整課にその事務局をおいた。事務局は、山下、出口2調査官がおり、私はその下の班長であた。後に思えば最も仕事の出来る時代であった。 (注 干拓堤防の内水を揚水機により乾かし、陸地化すること)

 企画委員会の事務局には省内の農学系からも動員された。武井氏は農業技術研究所から事務局員として派遣され、私とともに八郎潟干拓地の営農計画の立案の仕事をした。武井氏は東大農業経済学科出身で私の後輩でもある。

 

 この講演の中で武井氏は、私のことを「狂信的大規模農業論者」と言っているが、私の考えに対して必ずしも否定的見解にあったわけではなさそうだ。彼は私の影響を受けその後の研究に及んでいると述べている。

 今思い出しても、当時私はかなりの決意で八郎潟営農計画に取り組んでいた。それまであった八郎潟営農計画(営農計画は局内の別の課が担当していた)は一戸当たり三とか五ヘクタールという旧態依然とした日本型小農を増殖する計画に過ぎなかった。しかし、委員会も、こと営農部会に関する限り、そのような営農計画の在りようについて何の疑いも挟まぬように見えた。

 私らの班は、それまで池田内閣の「所得倍増計画」における公共投資の農業部門(農業近代化小委員会)の農林省案の原案作成を担当しており、それが終わって、八郎潟を担当することになったのである。
 
  所得倍増計画の農業近代化小委員会では、これからは農業人口は商工業に移動するとともに、機械化による近代農業が始まると、私らは、煽られ煽ってきたばかりである。八郎潟干拓で、農業近代化実現の正念場が来た、天の与えたチャンスであると信じた。私は、西富士開拓以来、農業経営規模を大きくする(そのための基盤を造る)ことが農地開発事業の中心課題と考えていたから、八郎潟干拓は、水田で実行する打ってつけのチャンスであると思った。

 所得倍増計画の農業近代化委員会に出した計画では、当時すでに水田の新しい造成は、もはや不要になると予想していた。八郎潟はわが国では最大干拓事業地区であるが、水田機械化経営の試金石としてのみ意味があると考えたのである。

 

 私たちが事務局を引き受けたときは、営農部会は経営規模について、旧案のどれかを決める寸前にあったが、待つたをかけた。一波乱あって、当初案をご破算においこみ、営農部会案を一戸当たり一〇ヘクタールにした。一戸あたりの面積が変われば集落の配置計画も変わる。初めは六集落の案が、最終では一集落になった。
 (集落を担当する都市計画部会のある委員は、営農部会の案は変わりっこないと、われわれを冷やかしていた。それほど営農部会関係つまり農業専門家達はコンサバチブの人が多かった。)

 また、機械化農業計画の手始めに、中央干拓地より一足先に干陸する周辺干拓地に、六〇ヘクタールの機械化実験農場を試みることになった。計画上の所要作業員六人の稲作である。この立案段階で武井氏が加わったのである。

 計画策定は技術会議の協力を得て、およそ一年かっかた。企画委員会事務局は東京あり、これから作ろうとする実験農場は秋田にある。干拓地の造成は現地の干拓事務所、あとの畦畔造成を含む試験全体を秋田県農業試験場へ委託した。
 干陸したばかりの周辺干拓南部五工区に道路排水路ができた四月、私は他の業務のため、農地局経済課に配転された。県の試験場が計画に従って畦畔造成を始めようした段階である。
 以後の詳細は知らぬが、実験農場は多分一年限りで廃止され、地元増反用に細分されたと思う。

 その数年後中央干拓地が干陸し、全国から入植者が募集され、現在の大潟村が創設された。大潟村は、その後コメの減反や供出問題で新聞をにぎわしているが、実験農場の思想はかろうじて中央干拓地の入植者一戸あたり一〇ヘクタール配分につながった。

 六〇ヘクタール実験農場の意図は、一戸あたり一〇ヘクタールというより、ピーク時でも六人の作業員で足りるというところにあった。穀物単作の六〇ヘクタール規模では、欧米先進農業では数のうちに入らぬ。それを日本の農業では夢想狂信としたわけだ。しかし本当は日本の経済構造が変化する中で、農業をそのままで維持できると信じていることの方が夢想狂信になりつつあるのだ。

 にもかかわらず、農業関係者は、役人、政治家を含めて、変化を嫌い、鎖国の上に安逸をむさぼった。それが最もわけしり者の態度であると。

 *

 基本的に、農業発展に最もブレーキになったものは農地法であろう。戦後の農地解放は政治における公職追放ほどの社会的インパクト効果はあったかもしれないが、その後の社会の大変化に対応できず、農地を地主から取り上げて小作に渡したという意識が土地の利用、移動を鉛のごとく重く固定化してしまった。日本の農地は解放時点で不動金縛りにされてしまった。

 農地法にたいする批判は、農林省内ではタブー以上のもので、誰も口にするものはなく、規模拡大の問題が出るとやむをなく、数字合わせのような、協業とか何とか妙ちきりんの変態を空想する以外になかった。それらはすくいようのないごまかしであったことは明らかである。

次へ進む

目次へ戻る