(武井氏の講演)
講演(記録)は、初めに武井氏が、昭和29年農林省の農業技術研究所に入り、農業機械化の研究分野に入った経緯とか、昭和35、36年当時農林省が農業の機械化を進めようとしていたが、各地で行われた水稲の直播試験がなかなか成功していなかったことなとを述べられた後、次につづく。
(武井講演)
(2.)八郎潟実験農場の企画 ・櫻井重平さんとの出会い
そういう状況の中で、八郎潟では干拓事業が進行していました。八郎潟では日本の農業の夢をかけて、そこでアメリカ型の稲作農業をやろうじゃないか、今から考えると夢のような話ですけれど、当時は八郎潟を日本の農業のモデルにして全国に発展させて行こうとする動きがありました。それを推し進めてきた農林省(農地局)の中に企画調整課という課がありまして、そこで八郎潟問題を所掌していました。
これから八郎潟の営農計画を立てていく上で行政の役人だけでは一寸手不足である。従って機械の専門家、栽培の専門家、経営の専門家をそれぞれ一人ずつ臨時で雇い入れて、八郎潟の営農計画を作っていきたいということで、当時その問題の責任者である班長が櫻井重平さんでした。みなさん方ご存じの方もあると思いますが、最後に関東農政局長をおやりになってお辞めになった方です。
この方は非常に面白い人で、人間は一生のうちで三つ仕事をやらなければならない、或いはやることになっていると言う持論を持っておられ、一つは西富士開拓のプロジェクトを手掛けてきた、二つ目が八郎潟ということで、ほとんど狂信的な大規模農業論者でした。今でもそういう方がおられますけれど、行政の中に研究者以上に研究者的な人がいるんですね。櫻井さんもそのお一人だったわけです。専門家として、彼自身すごく勉強もしていましたし優れた人だと思います。
そこでどういう営農計画を立てたらいいかということで、まず規模の問題ですが櫻井さんがそのポストに座る前に(出来ていた計画では)、八郎潟の入植の個別の規模というのは二町(ヘクタール)五反だったのです。ざっと日本全体を平均して一戸当たりの水田面積は一町だったわけですから、二町五反は大規模農家と考えられていました。
櫻井さんは「二町五反なんてとんでもない話である。そんなことで夢が描けるか」ということで営農計画を五町まで引き上げたんですね。もちろん個人が勝手に変えられものではありませんので、その櫻井さんの熱意が秋田県に伝えられて、秋田県が地元と増反・入植の計画を協議して、入植は五町でよろしいというように話がつかないとこれは実現していかない。国の中でのそういう規模の話、それが県へつながって地元の理解を含めながら県の政策の中へ組み込まれていかなければならない。
ところが八郎潟といっても秋田県の土地でして、周辺ではやはりあの辺は多少大きいですから平均すれば一町四、五反になるかもしれませんが、そこで二町五反ならまだ許せる。ところが外側で従来通りの農業をやっているのに中に入植した人間だけ五町とは何事かということで、猛反対が起きてくるわけです。それをなんとか説得しながら五町までもっていったんですね。
その次に五町じゃ足りない一〇町にしようじゃないかという話になりました。またその手続きをやってとうとう入植も始まっていない、干拓も終わっていないという段階で入植者の一戸当たりの規模は一〇町歩になったわけです。
その話を続けていきますと、私は一年間併任で行っていたんですけれど、その後にこんどは二〇町にしようという話になりまして、これは最後に当時の局長に潰されて櫻井さんも実現できなかった話です。入植の段階では一律に一〇町ということではなく、五町、七町五反、一〇町の選択ということで行われました。
櫻井さんの頭の中では、八郎潟で夢のようなアメリカ型の稲作をやるには危険があるのは重々分かる、国有地にしようじゃないか、国有地で入植者を集めて、それを国営農場の労働者にして、一万二千町歩の農場を経営しようじゃないかというような大変大きな夢を描いておりました。
私は櫻井さんの部下としてくっついて歩いておりまして、最後にはそのことで、農政委員会の東畑四郎さんに叱られました。
「櫻井君の発想は、そういうことをやっていたら東芝農場だとか松下農場だとかそういうことになっていくのではないか、これはわれわれの考える農業でなくて企業である。そういうことは、今の農林省としては進めるわけには行かない」と大変お叱りを受けたわけです。・・・
(櫻井注)、その頃の干拓地の売り渡しは、干陸した更地(さらち)を入植者に原始取得という名目で無償取得させ、それから後の道路、水路、整地などを一般の土地改良事業として工事費の一部を受益者負担として負担させる仕組みであったと思う。
干拓は、農地価格とはかけ離れた、けた外れの造成費用がかっかている。(戦後の食糧増産に国民経済として絶対的価値があった時代の終わった。八郎潟に巨費を投ずる意味は、他の地では出来ない農業技術の変革の起爆地とすること以外にない。
こういう考えが農地局のごく一部ではあるが、私たちのなかにはあった。
大面積を一人に配分することは、国が特定の個人に多大の恩恵を与えることになる。大面積配分にたいする人々の逡巡の根底には、機械化技術論よりも、こういった公平・利益平等論が働いていることはたしかである。農地解放の基本思想もそこにあろう。
八郎潟干拓地国有論も、売り渡し価格の矛盾にたいする対案である。これには賛成の委員もいた。しかし、国が小作地を持つことは農地法に反するという局内の実務者側からの反対で一蹴されてしまった。
一万二千町経営論は、コンバインやランドプレーン(地均し機)、畦畔造成機、カントリーエレベーター(籾乾燥貯蔵施設)などの運営についてのものであった。
委員長の東畑四郎氏は、元農林省事務次官で農林官僚OB中一番の重鎮であり、戦後農地改革の立役者でもあった。
彼は委員会の席で、「そういうことは東芝の社長がやることだ」といった。私はそれまでも開拓制度の改正を手がげた際に、農地法のしがらみがいろんな面で障害になっているのを痛感していたので、事務局の小輩であったが「農林省が東芝の社長がやってはいけないようにしているのだから農林省自身でやるしかないのではないのですか」などと減らず口をたたいたが、こちらは八郎潟に賭ける気負いもあったし、東畑氏も農地制度の消極面を感じておられたのではなかろうか。武井氏のいうほど叱られたとは思っていない。
もっとも、その後、伊東局長の後のN局長が、国会答弁かなにかの勉強で八郎潟企画委員会の議事録を読んで、私たちを皮肉って、農地局にはとんでもない「全学連」注がいるといっていたと、ある人から聞いたことがある。彼らにとっては、ことなかれが判断基準、私らにとっては信ずるままが判断基準の愉快な時代である。もっとも私らの言動は艫綱(ともずな)を結んだまま船を出そうとしているように彼ら大人の目から見えたのであろう。
注 全学連--当時学生運動の主体
(武井講演)八郎潟営農計画と入植
夢を実現するためには一方では技術を確立しなければならない。中央干拓一万二千町歩の干拓は終わっていないんですけれど、周辺農家に配分する周辺干拓は終わっていました。それを六〇町歩囲って実験農場にして技術の確立を進めることにしたわけです。
(櫻井注)八郎潟干拓は、湖水面内に湖岸に近くリング状に二列の堤防を築く。リングの内側(湖内側)堤防と外側(山側)堤防の間が周囲の陸地から流れ込む小河川の承水路となる(八郎潟ではリングのほかに調整池が加わる)。内側堤防のそと、つまり湖内を排水すれば中央干拓地になる。
普通の干拓方式では、山側から水面に堤防を張り出して、山側の水を排水して農地を造る。八郎潟干拓では外側堤防にあたり、こういう干拓地を周辺干拓地という。八郎潟には、この周辺干拓工区がいくつかあり、実験農場が行われたのも、ここであった。
六〇町歩は「一〇町掛ける六戸」だが、真意は「一〇町掛ける労働力六人」の計算であった。
(武井講演) ・・・そして技術指導は技術会議(農林省の試験場所管局)でやる。実務は県に委託して(私らが作った計画にもとづいて)県の試験場がやる。ところがアメリカ型農業といっても、誰もアメリカ型農業の実際は知らない。・・・州の発行しているアメリカ農家の手引き書などを参考にして作業計画を作った。
・・・アメリカ型の稲作をやる上で、一番基本的な問題はコンターボーダーイリゲイションシステム(等高線畦畔潅漑法)です。つまり緩傾斜面をそのまま利用してそれで等高線をだして(測量して)等高線状に畦畔を作って水を張る。これを基本に据えて、アメリカ式の稲作をやっていこうと考えて行きました。
そこでまず、八郎潟実験農場は、一応六〇町あったわけですが、その六〇町を二〇町ずつ三つに切りました。二〇町を単位にして全部ヘリコプターで種をまいて終わったら今度は等高線を出しそこへ畦畔を作って、稲作をやろうということを初めて日本で試みたのです。
(櫻井注)ここは武井氏の思い違いであろう。(あるいは、実施に当たって計画を変更したのであろうか。)初めに等高線状に畦畔を作って、水を張り、そこへ種をまく・・・これを湛水直播という・・・計画である。私は実施段階では他の課に配置替えされていたから詳細は知らないけれども、なにかの機会を作って実際に湛水直播後の苗立ちの状況を見に行った記憶がある。
(武井講演) ・・・ところがこれは残念なことに失敗してしまったんですね。なぜ失敗したかというような理由は沢山あります。土質の問題とか、あるいは機械の問題とかあるわけです。等高線に沿って畦畔を作るためには・・・(カリフォルニア州の農家指導書によると)・・・トラクターが一〇〇馬力ぐらいのものが二台位つながってやらないと出来ないくらい力が必要ということがあったわけです・・・
(櫻井注)ここで武井氏講演は、畦畔造成の苦心談とか、代掻き要否をめぐっての東北農業試験場技術陣との論争などを述べているが、それを離れて、私なりに実験農場から学んだ結論をならべてみよう。
周辺干拓と云ってもまだ干陸前、水面下の段階である。南部二工区に用地を選んだ理由は、八郎潟土壌は一般ヘドロ地帯で乾燥に時間がかかるが、ここは砂質地で干陸後の乾燥が早いから機械操作にとりかかりやすいだろうということであった。しかし実際に排水を開始してみると背後地の水が浸透してきて排水に困難し、機械作業は難行した。これらは均平作業、畦畔造成作業の妨げになったと思うが、クリヤー出来ない本質的問題ではない。
ただ等高線測量もふくめ、こういう仕事は専門的技術を要するもので、農家がやる農作業の一部と考えているのが間違いかもしれない。代掻きは均平化と田植えのための床を作る手段である。カリフォルニア式の大型ランドプレーンと代掻きといずれが良いかだけの問題である。
さて、しかしながら、この試験を失敗と見た最大の理由は、湛水直播の苗が浮き苗になってしまって風に流され大きな畦畔区画の片方に吹き寄せられしてしまい、ほとんど収量にならないということであろう。私たちのもくろみでは、とにかく考えられる一つの機械技術体系を設定して実際に運行してみて、おかしな箇所、具合の悪い行程を探していこうというのだから、収量は一つの指標にすぎない。しかし、農業流の目ではすぐに、稲の生長はどうか、収量はどうかということになる。
(武井講演) ・・・農地局は作業体系の試験注をやっているつもりが、県は多収の方向に動かざるを得ないのです。 ・・・・・・大規模なものだからお客さんが沢山くるわけです。お客さんが来たとき雑草が生えているのが格好が悪い。だから雑草はせめて道路から見えるところは取ろうじゃないか。だんだん本来の櫻井流の試験が歪められてくる。・・・・・・
(注 正式名称 八郎潟干拓地大型機械化稲作作業体系試験)
(櫻井注)湛水直播は、稲作労働のピークである田植えに代わる稲作機械化の最大ポイントであるが、浮き苗が出たりする問題は、収量に直接連なるポイントでもある。等高線畦畔式湛水潅漑方式は地表の勾配、畦畔の間隔によるが、どうしても水深の深いところが出来る。実験農場の水深は幼苗の定着を妨げる限界を超えていたのか。畦畔造成や均平作業の結果が影響したのだろうか。
その数年後、農林省の肩入れで出版されいる小冊子シリーズに、アメリカの試験場で、湛水直播のばあいの稲苗の定着良否を調べたものが出版された。
彼らは水中の酸素付存を調べた。しかし潅がい水中の酸素付存量は充分あり、苗の定着障害にはなり得ないことがわかった。一方品種別試験では、定着のよいものも、悪いものもあった。なかで日本名が付いた品種は、ことごとく定着不良であることわかった。
八郎潟試験設計の策定では、使用品種を決めるについて湛水直播の観点から検討しようとする意見は、技術会議の稲の専門家達の誰からも出なかった。つまり品種を水中に於ける発芽・苗立ちの性能と結びつける考えがなかったわけである。
日本の水稲育種の技術水準は高いのだと思っていたが、田植えに結びいた零細農維持の技術に過ぎない。その後数一〇年たっても、湛水直播に着目した品種が開発されたと聞いたこともない。代わりに、いじましい田植機が開発された。プラウの代わりに浅耕耕運機、これが日本の機械化だ。
アメリカ産のコメの輸入は黒船の到来の騒ぎである。