(武井氏の講演)

 

 講演(記録)は、初めに武井氏が、昭和29年農林省の農業技術研究所に入り、農業機械化の研究分野に入った経緯とか、昭和35、36年当時農林省が農業の機械化を進めようとしていたが、各地で行われた水稲の直播試験がなかなか成功していなかったことなとを述べられた後、次につづく。

 (櫻井注)その頃の干拓地の売り渡しは、干陸した更地(さらち)を入植者に原始取得という名目で無償取得させ、それから後の道路、水路、整地などを一般の土地改良事業として工事費の一部を受益者負担として負担させる仕組みであったと思う。
 干拓は、農地価格とはかけ離れた、けた外れの造成費用がかっかている。(戦後の食糧増産に国民経済として絶対的価値があった時代の終わった。八郎潟に巨費を投ずる意味は、他の地では出来ない農業技術の変革の起爆地とすること以外にない。
 こういう考えが農地局のごく一部ではあるが、私たちのなかにはあった。

 
 大面積を一人に配分することは、国が特定の個人に多大の恩恵を与えることになる。大面積配分にたいする人々の逡巡の根底には、機械化技術論よりも、こういった公平・利益平等論が働いていることはたしかである。農地解放の基本思想もそこにあろう。

 八郎潟干拓地国有論も、売り渡し価格の矛盾にたいする対案である。これには賛成の委員もいた。しかし、国が小作地を持つことは農地法に反するという局内の実務者側からの反対で一蹴されてしまった。

 一万二千町経営論は、コンバインやランドプレーン(地均し機)、畦畔造成機、カントリーエレベーター(籾乾燥貯蔵施設)などの運営についてのものであった。

 委員長の東畑四郎氏は、元農林省事務次官で農林官僚OB中一番の重鎮であり、戦後農地改革の立役者でもあった。
 彼は委員会の席で、「そういうことは東芝の社長がやることだ」といった。私はそれまでも開拓制度の改正を手がげた際に、農地法のしがらみがいろんな面で障害になっているのを痛感していたので、事務局の小輩であったが「農林省が東芝の社長がやってはいけないようにしているのだから農林省自身でやるしかないのではないのですか」などと減らず口をたたいたが、こちらは八郎潟に賭ける気負いもあったし、東畑氏も農地制度の消極面を感じておられたのではなかろうか。武井氏のいうほど叱られたとは思っていない。

 もっとも、その後、伊東局長の後のN局長が、国会答弁かなにかの勉強で八郎潟企画委員会の議事録を読んで、私たちを皮肉って、農地局にはとんでもない「全学連」がいるといっていたと、ある人から聞いたことがある。彼らにとっては、ことなかれが判断基準、私らにとっては信ずるままが判断基準の愉快な時代である。もっとも私らの言動は艫綱(ともずな)を結んだまま船を出そうとしているように彼ら大人の目から見えたのであろう。
       注 全学連--当時学生運動の主体

 

 (櫻井注)八郎潟干拓は、湖水面内に湖岸に近くリング状に二列の堤防を築く。リングの内側(湖内側)堤防と外側(山側)堤防の間が周囲の陸地から流れ込む小河川の承水路となる(八郎潟ではリングのほかに調整池が加わる)。内側堤防のそと、つまり湖内を排水すれば中央干拓地になる。
 普通の干拓方式では、山側から水面に堤防を張り出して、山側の水を排水して農地を造る。八郎潟干拓では外側堤防にあたり、こういう干拓地を周辺干拓地という。八郎潟には、この周辺干拓工区がいくつかあり、実験農場が行われたのも、ここであった。
 六〇町歩は「一〇町掛ける六戸」だが、真意は「一〇町掛ける労働力六人」の計算であった。

(櫻井注)ここは武井氏の思い違いであろう。(あるいは、実施に当たって計画を変更したのであろうか。)初めに等高線状に畦畔を作って、水を張り、そこへ種をまく・・・これを湛水直播という・・・計画である。私は実施段階では他の課に配置替えされていたから詳細は知らないけれども、なにかの機会を作って実際に湛水直播後の苗立ちの状況を見に行った記憶がある。 

 (櫻井注)ここで武井氏講演は、畦畔造成の苦心談とか、代掻き要否をめぐっての東北農業試験場技術陣との論争などを述べているが、それを離れて、私なりに実験農場から学んだ結論をならべてみよう。

 周辺干拓と云ってもまだ干陸前、水面下の段階である。南部二工区に用地を選んだ理由は、八郎潟土壌は一般ヘドロ地帯で乾燥に時間がかかるが、ここは砂質地で干陸後の乾燥が早いから機械操作にとりかかりやすいだろうということであった。しかし実際に排水を開始してみると背後地の水が浸透してきて排水に困難し、機械作業は難行した。これらは均平作業、畦畔造成作業の妨げになったと思うが、クリヤー出来ない本質的問題ではない。

 ただ等高線測量もふくめ、こういう仕事は専門的技術を要するもので、農家がやる農作業の一部と考えているのが間違いかもしれない。代掻きは均平化と田植えのための床を作る手段である。カリフォルニア式の大型ランドプレーンと代掻きといずれが良いかだけの問題である。

 さて、しかしながら、この試験を失敗と見た最大の理由は、湛水直播の苗が浮き苗になってしまって風に流され大きな畦畔区画の片方に吹き寄せられしてしまい、ほとんど収量にならないということであろう。私たちのもくろみでは、とにかく考えられる一つの機械技術体系を設定して実際に運行してみて、おかしな箇所、具合の悪い行程を探していこうというのだから、収量は一つの指標にすぎない。しかし、農業流の目ではすぐに、稲の生長はどうか、収量はどうかということになる。 

 (櫻井注湛水直播は、稲作労働のピークである田植えに代わる稲作機械化の最大ポイントであるが、浮き苗が出たりする問題は、収量に直接連なるポイントでもある。等高線畦畔式湛水潅漑方式は地表の勾配、畦畔の間隔によるが、どうしても水深の深いところが出来る。実験農場の水深は幼苗の定着を妨げる限界を超えていたのか。畦畔造成や均平作業の結果が影響したのだろうか。

 その数年後、農林省の肩入れで出版されいる小冊子シリーズに、アメリカの試験場で、湛水直播のばあいの稲苗の定着良否を調べたものが出版された。
 彼らは水中の酸素付存を調べた。しかし潅がい水中の酸素付存量は充分あり、苗の定着障害にはなり得ないことがわかった。一方品種別試験では、定着のよいものも、悪いものもあった。なかで日本名が付いた品種は、ことごとく定着不良であることわかった。

 八郎潟試験設計の策定では、使用品種を決めるについて湛水直播の観点から検討しようとする意見は、技術会議の稲の専門家達の誰からも出なかった。つまり品種を水中に於ける発芽・苗立ちの性能と結びつける考えがなかったわけである。

 日本の水稲育種の技術水準は高いのだと思っていたが、田植えに結びいた零細農維持の技術に過ぎない。その後数一〇年たっても、湛水直播に着目した品種が開発されたと聞いたこともない。代わりに、いじましい田植機が開発された。プラウの代わりに浅耕耕運機、これが日本の機械化だ。

 アメリカ産のコメの輸入は黒船の到来の騒ぎである。

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