八郎潟干拓計画図 中央干拓 15、870ha 周辺干拓1、872ha 「八郎潟干拓事業誌」より
2 八郎潟干拓再論
(農業土木学会報告書はしがき) 一
農林省が委託した農業土木学会「八郎潟干拓地耕地整備委員会総括報告書(昭和47年3月:1972)」のはしがきの中に、
(前略)・・・・・ 昭和36年は例の農業基本法の制定された年でわが国の農業は大きな曲がり角を迎えた時期であり、ハンドトラクター式の農業のイメージから脱却してトラクター農業、直播農業、コンバイ農業が新しい農業の未来像として描かれ始めていた時期である。
発足当初には従来の開拓事業と同じように適正規模の農家をできるだけ沢山つくって入植させるという計画であった八郎潟も、やがて事業計画は検討し直されて、学会に依託がもたらされた時点では(昭和36年5月)、干拓地に大型機械化農業を樹立しこれを日本農業近代化のためのモデルとしようという方針が打ち出されていたのである。
この課題についても当時の我々の知識は甚だ乏しいものであった。大型トラクターは想像できても米国で行われているような水稲の直播栽培や水田でイネを刈るコンバインは実感できないとうのがいつわりのない実態であったのである。
(中略)・・・・・・・・・・・・
事業者たる農林省は、自らの機構の中に八郎潟干拓事業を推進するためのブレインとして八郎潟事業企画委員会(営農部会、農村建設部会、行財政部会などの諸部会をふくむ)をつくっていて、作目や経営規模は主として営農部会で論議されたようだが適正規模の多くの農家を入れるべきだと考えた一戸当たり二・五haの当初計画の段階から一戸当たり一〇ha(従って戸数は激減)の現在の実施計画まで経営規模は様々に変わった。
学会宛の依託書には「八郎潟中央干拓地に策定される営農計画は高水準の生産性を期待する大型機械化、水稲直播方式となる予定である。」との文言が使われ、我々としてはそのことに若干の疑問を感じながらも作業をすすめたのであった。
・・・・・・・・・・」
書いてあり、さらに、本文では計画の前提条件とその問題点として、
周辺農村の実態とはかけ離れすぎ、実現可能なモデルにはならないではないか。既存農村には経営の零細性と耕地の分散にもとずく社会的抵抗がある。この二条件を解消させるような変化が農村に生じうるか疑問である。「このような考察は企画委員会において、広い各層の専門家による共同討議によって充分行われるべきものである。」「・・・・・・われわれのあいだでは一戸当たり五haとするよりも、二・五ha程度にして入植農家を多くする方がモデルとしても現実的であり・・・・との意見が優勢であった・・・・・・」
と言いきっている。かなりトゲを含んだ依託報告書である。
これに対して、農林省の八郎潟干拓事務所長の出口勝美氏は「八郎潟干拓事業誌」の序(昭和44年3月)において、次のように述べている。
「 ・・・・・・・・・
戦前のわが国には、食糧増産運動とともに「生めよ、増やせよ」運動があり、その後長らくつづいた食糧の増産運動もやっと終息した現今であるが、八郎潟干拓の計画作成そして着工の当時は、事業目的の第一は食糧増産、第二は遊休労力の吸収であった。
それから近々一〇年余たった現在では、大規模の開田事業である八郎潟干拓工事の完了に首をかしげる向きも少なくないほど情勢が一変してしまったことは、計画から施工まで多年この事業に携わったものにとって深く感なきをえないのである。
このことは、八郎潟干拓にとってきわめて重要な意味をもつ。というのは、もしも悪い食糧事情が続いていたとすれば、八郎潟の事業は当初の計画の通りに、一戸二・五haの経営規模で、小型農業機械用の農地造成や街村式の農家集落建設などの旧態依然たる干拓地農業の域をだっしてなかったであろうし、それでは、わが国の農業や農村の将来に対する現在の国家的期待ーーー農業の近代化と農村生活環境の改善ーーーが実現する可能性に乏しく、また現在の八郎潟干拓地にみられるビジョンもあるいは苦悩さえも実現しないで、そこにはただ年産五〇万石を誇る米産の場があるに過ぎなかったかもしれないのである。
もしそうだったら、それは八郎潟のためにも、日本農業の将来のためにも悲しむべきことであったといわなければならない。
八郎潟干拓が「生めよ、増やせよ」的な増産の一子としてではなく、真に一国農業の未来を拓くための有為な一子として出生したこそ、その意義があり、そこでこそ、この事業を生み育てた多くの人々の努力も酬いられるというのであろう。
昭和44年、八郎干拓事業所は主要建設工事が完了、中央干拓地区内工事を残して「八郎潟新農村建設事業団」に引き継がれることになり、彼は最後の八郎潟干拓事務所長になった。
この、二・五haか一〇haかの二つの対立する意見は、農業土木技術者のみならず、農業技術者一般、あるいは農林省一般に当てはまる意見の対立であった。そして、もし計ってみたら、前者の方が「優勢であった」だろう。
二
「モデル」に対する考えは、さかのぼって、国民所得倍増計画(昭和35年から10カ年間に国民所得を2倍のしょうとする池田内閣の経済計画)立案過程で農林省にあって、もまれてきた我々の考え方を代弁したものであったといえよう。
私の斑(農地局企画調整課)は、昭和34年までは、この所得倍増計画に、次に述べる理由で関係しており、八郎潟干拓には何の関係もなかった。
企画調整課は伊東局長の発想で、農地局の各課にまたがる重要案件の処理に当たっていた。課長の他、調査官三名、班長三名がいた。
所得倍増計画は政府の誘導政策といわれているが、政府自身が行う公共事業の投資の長期計画でもあった。
各省の行う公共事業ごとに小委員会が置かれ、農業部門は農業近代化小委員会としてまずこれからの農業あるべき姿と、そのために必要な公共事業が論議された。農林省の公共事業は農林省農地局が大部分をしめている。そして農地局の原案作りが、我が斑の担当であった。
これまで戦後の農地局公共事業は、米の増産と農村の二三男対策が、農地局公共事業の二大看板であった。これを大転換させなければならない時が来たのだ。
農業人口は減少する。
米の需要は下降する。
対応して、農業は機械化をして、トラクター農業にしなけれはならない。
トラクターを乗り入れるためには従来とちがった圃場整備が必要となる。農道の整備も重要である。これまで食糧増産で通してきた潅漑排水事業も、圃場機械化のため必要だと説明が変わってくる。(実際に、この時期から圃場整備、農道事業は潅漑排水事業と肩を並べた事業量となり、圃場整備の標準区画の大きさは一〇aから三〇aになった。)
コメの必要量は、増加人口にたいする分として一割増を見込んでいるが、農業技術の進歩で田の必要面積は不変と見込む。したがって開田必要量は壊廃に見合う分だけ、という調子で、農地局提出の公共事業の一〇年計画ができあがった。
ここで問題になるのは干拓事業である。干拓は陸地の開田に較べて格段に単価が高い。八郎潟は他の干拓地に較べて、超大規模であるが、同時に、効率がよく、面積当たりの単価は安い。しかし今、数字は忘れてしまったが、陸の開田に較べて数倍であった。干拓はこのため、例えば所得倍増計画の池田首相のブレインであった稲葉秀三氏あたりから、やり玉にあげられたといわれていた。 (「八郎潟干拓事業誌(昭44)」よれば、干拓の10a当たり工事費(昭和34年)は全国平均25万円、八郎潟13万円、入植者負担金10a当たり最高5万5千円)
私の斑は農地局の「所得倍増」担当を終えて、八郎潟干拓企画委員会事務局、営農部会担当になった。
コメの増産が不要なった、この時点においての、〈干拓の特性〉は何であったか。
(所得倍増計画)農業近代化小委員会提出した機械化の夢を実現させるには、自由に絵が描ける更地(さらち)が必要、それには問題児(?)干拓地をおいては他にない。干陸を間近に控えた八郎潟干拓は日本の機械化稲作のモデルに打ってつけ。天の与えたチャンスである、と営農部会の事務局を引き受けるとき、私は本当にそう思った。
二・五haから一〇ha変わったことに、大方の委員も賛成したのはこのことによろう。われわれが、営農部会を引き継いでから数か月で営農部会にこの変化が起きた。武井氏が私のことを「狂信的大規模農業論者」と評したのは、以上のことが私を駆り立てた結果であろう。
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