猫の記(一九九二年)(1992年日記本欄にあるものも全部再録した。)

(一、一) は「ミイ」が室内に泊まり、他の二匹は屋外泊まり。寒くなった最初の冬を元気で越してもらいたい。

(一、一〇) 「ミイ」、塩山医院へ。盛んに痒がるのは、疥癬に寄生されているらしい。三人掛かりで薬用シャンプーとムトウハップを試みる。治る間、外出禁止した方がよろしいらしいが、当人、出たがってしょうがない。



(二、一七) 「トラ吉(猫)」が朝から姿を見せずにいたが、昼過ぎビッコで戻る。左肩あたりを打撲したらしい。塩山獣医師に来てもらう。とりあえず薬をもらって様子を見ることにする。薬は打ち身の塗り薬。 

(二、一八) トラ吉」、ビッコはかなり良くなったが、食進まず、吐く。

(二、二一) ラ吉」元気なく、死を予想する。洋間に入れて缶詰を与えたところ食べ、少々気力が出た模様。

(二、二二) 塩山獣医師「トラ吉」を連れてゆく。熱あり、ペニシリン注射を打つ。先の咬み傷ならば一週間位で腫れ、その時に注射をすればよいのだが、熱があるから今注射しておくと。

(二、二六) 「トラ吉」元気を回復し、部屋住みが飽きたらしく、夜間洋間に閉じこめておくと、カーペットをかきむしるので、閉口して居間に置く。

(二、二七) ミイ子」、嘔吐続き、塩山獣医院へ。食慾なく殆ど動く元気なし。

(二、二八) ミイ子」、塩山獣医院の採血検査で、腎臓も肝臓も異常なしと。依然として食慾なし。

 わが家の猫共、近頃相次ぎ病に冒され、医者よ薬よと大騒ぎ。少々向こう傷あり、近所の灰トラが時々現れるが、彼の毒牙に掛かったか。

 


(三、一五) 「ミイ」、朝から見えない。「ノモ」と「トラ」は朝食に戻ったが、甚だ心配である。

 「ミイ」、暗くなってから戻っていることがわかる。雨が降り始めた。安心する。

編集注、このころは居間の縁先で二個の猫小屋(ボックス型)を入り口を居間に面するように置き、戸外で飼っていた。           


 

(四、一三) 猫のミイ、後脚付け根のリンパ腺腫れ、塩山さんへ。前回の抗生剤を中途でやめたためかえって悪化した可能性あり。リンパ腺腫れなら良いが、悪性腫瘍の場合もありと(若い方の獣医)。若猫の腫瘍は痛がらないうちに急に進行する云う。ミイは先日まで痛がったらしいから、その可能性はあるまい。注射と薬(二週間分)。

 

(四、一七) 猫の朝食後、庭の掃除中、鼻先の門の内側でノモが例の黒トラに噛みつかれ、逃げて一日中姿がみえなくなった。夜に入ってようやく屋根の上(?)から現れたノモをみつけた。明子はノモの薬を、ミイの注射代を含めて、九〇〇〇円で仕入れてきた。

(四、一八) もはや他に手だての方なしと、三匹は家に閉じ込め、農薬を忍ばせた缶詰の肉を皿に入れて、猫小屋の前に置く。午前中は黒トラ現れず。夜、再度仕掛ける。一〇時過ぎ、エサはなくなっていると明子語る。

(四、一九) ノモ」のビッコは目立たなくなったが、元気なく、洋間の椅子の下にもぐったきりである。黒トラはどうなったか。

(四、二〇) ノモ」回復する。

 

(四、二一)斬猫記余聞

 昨年の暮れK先生から「斬猫」の手紙を頂いたが、禅の話で意味が分からずじまいにすごしてきた。

 ところで、わが家の三匹の猫が、どこか近所に住む「黒トラ」に次々に襲われ、半死の被害を受けた。殆ど毎日のように来るので、うちの猫は食事の時も気が気でない風だ。それで「黒トラ」を懲らしめる対策をいろいろ考えた。例えば水鉄砲等。しかし有効そうな手は思いつかない。

 そうこうしているうちに、わが家では一番強い筈の「ノモ」が襲われた日、とうとう農薬を使うことを決心した。農薬ダイジストンを肉に混ぜて仕掛ける方法である。数夜これを試みたところ、ついにこれを食べたらしく、皿の肉がなくなっていた。

 以来数日たっても「黒トラ」が姿を見せないところを見ると、一〇中八、九毒に当たったらしい。ダイジストンの注意書きを見ると、人間にとってもなかなか危ないようであるから、砂粒ほどのもの一つまみでももろに食べれば助かるまい。殺したとすれば、悪猫でも気がとがめる。薬が効いたとすれば、長く苦しまず即死してくれたことを祈る。

(四、二二)斬猫記余聞
 「黒トラ」健在なり。再び農薬入りを仕掛ける。エサなくなっている。 湯河原を経て真鶴中川美術館へ。折悪しく休館なり。三時頃帰宅。疲れて寝る。

(四、二四)斬猫記余聞黒トラ健在なり。驚くべし。


 

(五、一三) トラ吉の死

 「トラ吉」、車にはねられ死す。昼食に家族三人向丘小豪華に出掛けた留守中の出来事なり。帰ってみれはゴミ集積地に、「猫ちゃん」と書いた紙が被せられた空き箱に入れられて猫の死体が置かれていた。見れは「トラ吉」なり。道路には轢かれたときの血の跡が残っていた。何とも哀れなり。庭の木犀の木の下、先代「ミイ」の墓の隣に埋めてやる。

 後で聞いたのだが、隣の石原夫人が見ている前で学生の車に轢かれたもので、夫人が始末して、清掃局に連絡してくれたという。

 

 ネコのトラ吉の記

 

 「トラ吉」は一年と数ヶ月の短命に終わった。

 名の如く虎模様のありふれたものだが鼻を中心として褐色の部分が丸くマスクのようになっている。それが漫画にある田吾作の顔ようで、トボけた愛嬌になっていた。尻尾が他の二匹と違って、途中でプッリ中断している。家の中に入りたい時は、この尻尾を立てて、その先をぶるぶるふるわして啼く。

三匹のうち最も小食で、しまいには小柄のメスの「ミイ」より体重が軽かった。軽いせいか木登りが得意で、庭の高い枝の上で得意げ啼いていた。遠出が好きであった。それが今度の輪禍に遭う一要因でもあったであろう。去年の後半、オートバイに跳ねられて小学校の校庭でうずくまっているのを小学生が教えに来てくれたことがあった。その時はたいしたことはなく、数日で元気になった。

 

 洋間に入れてやると、ソファーに掛けてある羊の毛皮に顔をすりつけは噛みついて、モミジ手というのか前肢の掌を交互に閉じたり開いたりするーーー多分、子猫の時母猫の乳房にしがみついていたときの型であろうーーー仕草をしてから、やがて寝るならいであった。

 どこか近所に住む灰色のトラ縞の猫に咬まれて数日間ぐったりしてエサも食べないときがあった。その時も洋間に入れておいたのだが(当時は「ノモ」とともに、猫小屋で屋外起居生活をさせていた)、やがて元気を回復すると、部屋を出たがって、ドア付近の絨毯を掻きむしる。これがまた「トラ吉」の特技であったが、今はこの絨毯の傷跡が「トラ吉」の形見となてしまった。

 地に爪跡を残すというが、「トラ吉」はカーペットに爪跡を残して死んでいった。 (五、一三)

 

(五、一四) トラ吉の記(続)

 洋間からふと庭の小砂利を見る。朝小雨模様だったのが、日が出て緑が明るい。この砂利の上で陽に当たってねそべるのがトラはすきだった。今その姿が見えないのが何とも悲しい。


 後日談

 これ以降私の日記には、猫の話は見当たらない。次の『K先生との往復書簡(7、10.)』でもトラ吉の死で終わっている。
 しかし、日記に付けるだけの関心事にはならなかっただけで、「ノモ」も「ミイ」も、無事育ってくれて、今は十歳何か月になった(2002、7)

 途中我家の建換えのとき、出入り自由なねこドアーを設け、完全な内猫、それぞれが我家の1員となった。たがいに仲のよくないのは別として。

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