3 所得倍増計画と八郎潟干拓

 

 「著者」のいう全国5カ所の畑作機械化実験農業については、私の見聞は乏しいからおくとして、八郎潟干拓地のモデル農場について述べてみよう。 

 農地局の本来の干拓事業は、堤防、扉門、地区内土木工事が主体であったが、八郎潟干拓は一か村規模の大プロジェクトであったため、局長(伊東正義氏)は八郎潟干拓企画委員会(昭和34年発足、会長東畑四郎氏)を設け、農村建設のために広く専門家を集め協力を求めた。
例えば営農部会長森永俊太郎、農村建設部会長高山英華、行財政度部会長田中二郎の各氏)。

 (伊東農地局長は八郎潟干拓企画委員会と相前後して局に総務課と並んで各部--計画・建設・管理--に属さない、各課にまたがる重要案件を処理するものとして企画調整課を設けた。
重要案件とは河川法改正対策と、開拓制度改正のことで、そのために各課から課員を選抜した。課長、調査官2名、班長2名の体制で、開拓制度班は、M調査官と班長の私、班員5、6人、河川法対策班は課長、S調査官とO班長、係員多数で、開拓班と河川班は完全に分れた体制であった。
開拓班は、戦後始まった国による未墾地強制買収制度を廃止しようするものであった。この問題は管理部から異議がでたが、局長の裁決でおさまった。 
(河川法対策班は、八郎潟に関係ないないので置くとしよう.)

 続いて、わが班は、池田内閣の国民所得倍増計画の、公共事業(農林省分)の原案作りを担当した。国民所得倍増計画は、 昭和35年11月に施行された。続いてわが班は八郎潟企画委員会事務局担当になった。
(注 当時は局長段階でも委員会形式があった。)

 農地局では、通常の各事業地区は、計画部・建設部と流れ作業でゆく組織であった。したがって建設中の八郎潟干拓事業は、建設部ーー課の所管であったが、八郎潟干拓企画委員会は別格で、計画部K課が所管していた。そして翌35年にK課から企画調整課に事務局が引き継がれた。(この頃、後に八郎潟干拓事務所長なった、出口調査官が、建設部から企画調整課に移ってきたとおもう。)

 当時K課にいた「エリート官僚論」の著者は、われわれに関心をもったのだろう。特に営農部会が、K課提出(東北農政局経由)の1戸当たり2.5ヘクタール案を、10ヘクタール案に変えたことについて、著者の論調からみて、許し難いものにみえたであろう。
 (K課のエリート官僚の卵たち(法令係り)は、個別事業地区のことには、くちばしを入れぬ慣わしであったが、「エリート官僚論」の著者はどうした風の吹き回しだろうか?) 

 企画委員会の営農部会が、われわれの10ヘクタール案に聞く耳をもたなかったわけではなかった。東畑四郎氏は飾りものではなかった。
伊東局長は、東畑氏にまかせて委員会に出なかったから、彼の口から直接意見を聞いたことはなかったが、多くの専門家の意見を聞く気であったろう。 

『エリート官僚論』には、入念な人名(場合より課長級)索引が付いているが、著者の云うエリート官僚で後に次官、衆議院議員なった伊東正義氏の氏名はどこにもない。

 

 営農部会が2.5haから10haに変わったことは、『八郎潟干拓回想』で述べた通りである。

 次に誰もが思いつくのは、10ヘクタール稲作の実験である。わが班は、所得倍増計画の農業近代化委員会で機械化農業の必要性をたたき込まれたばかりである。   

                        先へ進む

                       目次へ戻る