秋丸機関
        氏から私あての手紙(部分)

 私は数年前から、あることがきっかけで新潟市に住むS氏と川崎市に住む私の間で、書簡による交流がはじまった。S氏は旧制高校・剣道部の4年先輩で大学は経済学部出身、私は農学部出身。たがいに学校のことや戦争のこと、農業のこと(S氏は農協関係)についての思い出話を、書簡を通じて、しゃべり合うことになった。年齢80歳と80数歳との交流である。 S氏は昭和16年開戦直前、総力戦研究所に席を置いていたことがあり、戦中は軍務、戦後は新潟県信連ほかに勤務された。 

 秋丸機関という戦争に関する秘密研究機関がありました。ノモンハンで大敗を喫したこと来るべき世界情勢と大戦に備えるため、陸軍の軍事課長岩畔豪雄大佐の主導で成立したと見てよい。 

 初めて私が知ったのは、平成5年の学士会報の脇坂義太郎氏の記事によってです。

 秋丸中佐は参謀本部付き経済建設の主任をしていたが、経理学校より東大経済学部に員外学生として、有沢広巳氏の、演習には参加しそこねたが、何らかの縁があったのか昭和14年9月東京に呼ばれ、実際に着任したのが15年9月というから決して古くない。三国同盟と英米の長期戦争を予想して戦争経済の研究に入った。

 面白いことに、当時軍政の中心人物であった岩畔大佐が選んだのが人民戦線事件で検挙され保釈中の有沢氏。当時の常識からいえばアカ。
 彼の指導か指示のもとで秋丸中佐を主務者として広範な研究を始めましたが、まず人民戦線で保釈中の人間を使うとは何事かと検事局から文句、更に東条首相からクレームがつく。種々なトラブルを克服して研究をすすめました。 

 この秘密研究に東大法学部の連中が積極的に参加しています。およそ軍部に反対と思われているでせうが、政治外交関係に高木八尺、蝋山政道、木下半治等法学部の錚々たる連中が積極的に参加し、矢部貞治、岡義武なども推薦されています。田中耕太郎博士なども人選に関与しています。

 (中略)

「世の中というのは私などにはわかりません。レオンチフという学者の原本と相似しているそうです。研究するゆとりはなかったと申します。なかなか仕事がすすまないのを激励して16年8月1日(?)に参謀総長以下に報告、厖大なものであったらしいが結論は戦争は不可能。
 総長の命で、よくできているが国策にあわぬと一切は破棄され、機関は解散し責任者は左遷。

 偶然のことから一部の断片が有沢氏の死後見つかり、経済学部の研究室のどこかにあるという。見る人もなく見る要もないでせう。研究スタッフから見て日本で可能な最高のものであったらしい。
 秋丸中佐は後始末をして比島の主計にとばされています。 

  岩畔大佐についても不可解なところがあります。研究の実質的主催者が16年の2、3月頃、突如アメリカへやられます。私のきいた情報(頗るあてにならぬこと戦後判明)では、日米交渉が進まない、ぐずぐず云うなら俺が野村を刺すといっていたそうですが、8月には帰国しているのですね(これは私など全然知らず)。

どういういきさつか、渡米すると対米戦争不可と唱え、帰国するや対米戦争反対を数回ぶったため、東條から発言禁止の弾圧を喰い、マレー戦に行く近衛師団の一連隊長にとばされます。本省の軍事課長、陸軍の一推進力、まちがっても軍や師団の参謀以下ということはないと思いますが、左遷でせうね。

 (中略)

 

「この研究、不必要と破棄されたのが16年8月、我々が動き出したのが、漸く8月、研究所(注)には各所からの専門家もいましたが秋丸機関のアの字も聞いたことはない。

注  総力戦研究所 大学出たてのS氏もこの中にいた。
「総力戦研究所は大戦を必至とみて、総力をあげて知能を結集しろと、各界のエリー集めて(昭16)生まれた。所員はまずは勅任官、研究生は官軍民ともそれに近いキャリアー。首相直属の最高政策の全容など、学校でたの新米にわかる訳はないと思うが、青二才のペイペイが見ても疑問が多かった。

「長い戦争で国力は疲れ切っている。石炭鉄の増産如何。シャベルとツルハシしかなくてはいくら知恵があっても仕方があるまい。こうなると知脳の集結も只の寄合世帯であるーーー(耳食之徒の嘆き S氏稿)

戦時経済の研究者が3、40名も集まり、陸軍がやっている戦時経済(秘密機関?)、然も時節柄睨まれている人物が運営しているものを一人も知らぬとはあり得ないはずです。

もしそうなら戦争準備は何もしていないことになります。鉄砲はあるが弾はないどころでない。敵が目の下にいるのに戦う気があるのか、みたいなものです。戦争とは何ぞや、考えても仕方がないが、考えもせず準備もしない。

貴兄は、もはや落ちぶれた状況で苦労されましたが、野積みに放置した砲や弾丸で戦争準備万全というようなものです。
    『わがトラック島戦記』11章

(以下省略)

                    (S氏書簡 1996,7,12付けより)

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