三年連用日記 1
1昨年の暮れ、博文館の3年連用日記を買った。これまで連用日記なるものには、まったく関心がなかったものが、ふとその気になったのは、ちょっとした理由があった。
私には、数年来文通を続けていたものが2人いた。2人とも旧制高校の同窓である。もっとも、2人どうしは友人関係はない。卒業年次は離れているし、同窓会名簿で名前を知っているか、いないかの程度であろう。
1人はSと云い、剣道部の2年先輩、といっても肺結核で高等学校3年のところを6年掛かった末の別格先輩で、剣道部といっても剣道はやらない、当時大学生にも仲間がいる超元老的存在であった。
新潟に住む元高校教師。学生時代の肺結核手術の後遺症で、後年にいたり酸素ボンベの助けを借りなければならなくなり、数年前からは喉に酸素吸入用の穴を開け、ために筆談に頼らなければならなくなった。入院加療中。
1人はWと云い、私の1年後輩で、世田谷に住み、元農林省役人である。彼とは学生時代というよりも、戦後富士山麓開拓事業所時代からの付き合いである。
山登りが好きで、役人退職後も奥さんとヒマラヤ旅行などしていた。5年ほど前、夫婦でトルコ旅行に誘ってくれたが、ちょうど私が検査のためM医大病院に入院していて、行けなかった。そのころ彼は癌で胃を根こそぎ切除したあとで、喰いだめが効かず、始終小出しにビスケットか何かを食べていたが、あれは医師の誤診だったと、胃はなくとも、なかなか息盛んだった。
しかし、その後、癌が転移したとかで、入退院を繰りかえしていた。
この2人に比べれば、私はまだまだ自由に動きまわれる。自由半平である。
トラック家族旅行の際の「わがトラック島戦記」も、半分は病床の2人の無聊を慰めるためのものであった。かくして、1993年の自由欄には、トラック島戦記のメモや下書きが1杯になった。
さて、1994、1995、1996年連用日記を買ったさいに、両氏に3年連用日記を買った旨の便りを書いた。お互い頑張ろうぜというつもりであったが、俺はまだまだという自惚れ心もあった。さすがに5年の連用は遠慮したが。
彼らへの便りは、話題が少ないときは、以前は公園など屋外のスケッチ(ひと頃樹木に凝る)をまじえて送っていたが、行き先が限られたりし、路上での位置が限られたりして、1昨年の後半からは魚のスケッチ専門になった。新百合ヶ丘駅前のエルミロード7階にあるフィットクラブネスのプールに通うようになってからのことである。
地下の食品売場の魚屋でモデルを物色する。これは家に帰ってゆっくり描ける。始めはめざしをスーパー・シーフード「白波五人男」その1などと称して、4、5番で止めるつもりであったものが、何番もつづいていった。1、2週に1回、計2枚。そのうちに試し書きを1枚、両人に1枚ずつ、計3枚となった。
毎回、絵はがきに添える「賛」の下書きが、1994年の日記のメモ欄に杯となった。
1
例えば、「6月5日 『むつ』の絵をS、W両氏に送る」とあるあとに添え書きメモで、
「 ーーー少年時代、「陸奥(むつ)」といえば「 長門(ながと)」とならんで軍艦の王者だった。そして、なぜか私は「長門」より「陸奥」びいきだった。しかし「陸奥」の終わりはなんともあっけなかった」
S氏からの応答
「むつは瀬戸内にて故障沈没、ながとは生き残ったが残存海軍の雷砲撃で太平洋に沈んだ。ともに悲劇的なさいごだったナ。半世紀昔のこと!
夏空ゆ 郭公かなしき 声ふらす 散 散はS氏の俳号」
W氏からの応答
「黒むつ、繪が大きいせいか、銀粉の威力か、なかなかの迫力あり、白黒あまり見比べたこともないですが、すぐに戦艦陸奥を想像するあたり同世代。大和、武蔵より親しみやすいです。
「むつ」の絵はがきは2枚続きであった。
6月20日、W氏からからの葉書、
「 梅雨寒や ベット起こして小藷喰み
いよいよ本格的な梅雨の季節になってしまいました。貴兄の魚シリーズも枚数を重ねて楽しい画集になって来ました。どしどし描いて見せて下さい。1番の楽しみにしております。
昨夜アイスランドの鱈漁のテレビを眺め、北の海の豊かさに驚きました。若い頃愛読したピエール・ロチの 島の漁夫、危険を知りつつ北海に乗り出して、若妻を残して死んでゆく、北フランスの漁夫の話を思い出しつつ! 」
もしやと思っていたが、夫人から訃報があった。これが最後の便りであった。
「6月27日 エクスパス。水泳頑張って400米泳ぎ、脚、本格的疲れあり、帰宅後1休み。妻より、W氏逝去の報告あり、いずれ来るものと予想していたいたものの、来てみればやはり心痛たし」
「6月29日 エクスパス、クロール50米、ブレスト550米、疲れたが新記録。ロブスターの絵を描く。W宛の1枚がなくなったのが淋しい。 1寝入りして夕刊を取りに表にでたが歩行がよくない。戻り際、庭の階段でよろめき尻餅をつく。どこも怪我がなかったと安心したが、夕食後ベッドについてギックリ腰が起きたことに気がつく。」
(妻を代理にして葬儀に欠席)
つづく (1995,6,4稿)
三年連用日記 2
1994年の『年頭所感』を読み落としていた。
「1994年 年頭所感
日記がたまって置場所を塞いできた。3年1冊なら荷が軽かろう。 3年連用日記を買って、わが「寿命観」をからかってみる気になったのが最大の理由だ。S氏とW氏への見舞いの葉書にちょと触れて置いたが、病床の両人に対しては悪かったかな。」
わが寿命観をからかってみるーーー連用日記の効用が、1年立つか立たぬ内に現れてきた。W氏の逝去とS氏の病変、それに私の脳梗塞入院、75才ともなれば、当然ともいえる出来事とも云えようが、それはそれ己の体験ともなれば別だ。もう少し詳しく「日記」「応答書簡」を辿ってみよう。
S氏からの年賀状
「くだかけら のんどのかぎり あらたまの
くれないにほふ あかときをよぶ 」
1994年の賀状は、まだ、病床にありながら、例年のように手製の色刷りであった。くだかけら、のんどは、管を掛けた喉の意であろう。( この「作文集」を送ったK氏から、S氏の「くだかけ」はニワトリの古語である旨のご注意があった)
W氏の年賀状は、やはり版画(2人の孫の図であろう)色刷り。「着膨れてわが一ーーーーも見ーーけり」、書き込みがあった。ーーは、判読困難。彼はむかしから癖字のへきがあった。
「1月10日 S氏より「トラック島戦記」受け取りの葉書あり。WK氏の章を感じたとあり」
同窓WK氏、サイパンで戦死。
S氏のハガキ、師走念八と記してあり、昨年暮にだし忘れたものと見える。賀正の追伸あり。念八は、廿八。
「戦記再版いただきました。もう半世紀の昔となったナ。ボツボツ味讀しつつあるが、老頭児の不昧をいかせん。文中を探りて感を深うしたるは、WKとの邂逅と永訣の1章、以て至極と為した。 想えば、重平(じゅうべい)は武運拙くして今日あるを得たりと謂ハンカーーーー
賀正元旦 唖蝉四年月ニ入ル 」
「2月13日 昨日の雪近年にないものなり。雪かきで少々くたびれ、気分悪し。
A氏より「トラック島戦記」の評来る。戦争観、同感らしい。やはり同年代は同じ感を持つらしい。
S、W両氏にコハダの絵はがきを出す。」
「2月18日 W氏より葉書あり。1月、2月に2度入院して尿道拡張の治療のよし(現在自宅)、苦痛の模様、気の毒なり。暖かくなったら尋ねてきてくれとある」
W氏からの便り
「コハダの絵はがき拝見、生き生きした新鮮さが感じられて、上達ぶり顕著です!雪かきまでやっておられる由、その元気があるのは羨ましい。
ーーー2月8日〜11日まで再度入院その後は自宅で静養ーーー 大岡昇平俘虜記で、人間最後は、排泄がエネルギーの消費の中心とありますが、判りますね。絵も描かず、音楽もやらず、無為に過ごしています。ーーー」
「3月13日 S、W両氏にカレイ(焦げたもの)の絵はがきを送る。コガシタカレイと名づければよかった!」
期日不詳、めざしと思ったのに、頬ざしであった、という繪にこたえて、
S氏、「ーーー今度の干物、少年時代に久留米に住んでいたが、何でも頬ざしと云っていたように想っている。ーーーついでながら、頬の発音ーhohoと重ねると窮屈ーhoーo 半音に発音するのが自然?ho-o笑(えみ )、ho-o紅(べに)、ho-oかぶりetc。
烏賊(いか)という名前(文字)も面白い。このグニャグニャした生きものは烏を喰っていたと想ったようだナ」
「3月15日 W氏より目刺し受け取ったと便り、また大腿部の手術をしたという」
W氏から
「五色豆、楽しいスケッチ。いよいよ海の幸は種切れですか。初鰹がでますね。----六花会報に新潟交響楽団と音楽部について書いておこうと思い原稿を書き始めて入院中断です。ーーー」(4、?)
この原稿が同窓会誌に載ったとき、彼はすでに亡くなっていた。
「4月27日 エクスパス水泳。S、W両氏に海老の絵を送る。このところ絵を描くことと水泳が、生きている証のような気になっている」
「6月9日 さざえを画く。 賛ーーー娘との会話
「さざえの壷焼きは、身を刻んでから焼くもの?それともそのまま焼くもの?」
「そのまま焼くに決まっている」
「だって、川端康成の小説では、刻んで料理する話があったもの」
「川端康成は、山家育ちだったんだろう」
ところが、話は鎌倉の魚屋のことらしい。文化が進むと堕落が始まるものだ。
五右衛門の 生まれ変わりか 哀れなり
」
W氏からの応答。
「久しぶりの淡彩、サザエの壷焼き、江ノ島あたりの様子では刻んでからやっているらしいですがーーーー」
つづく (1995,6,10稿)
3年連用日記 3
1994年の日記メモ欄の絵はがきの「賛・添え書きの下書き」をさらに書き抜いてみよう。
メバル
以前、2尾のメバルを描いたことがある。横の縞はランダムに配されていると思って、それぞれ適当に描き入れて置いたが、どうやら間違いらしい。今度よく見たら皆同じ配列だ。種属のアイデンティティを示すものなのか。キジバトも、パターンは1つだが、土鳩はのパターンが数種ある。日本ネコは白、黒、とら、三毛とう、数パターン群があるが、パターン群の中はランダムで、同じものは1つもない。パターンは彼らにとってどういう役目を果たすのか。
ヒコイワシ
腰痛で4週間寝込んだ後、プールへ行く。体重が浮力だけ軽くなって具合がいい。人間の先祖は、たしかに水中を歩行遊泳していたに違いない。
昼のフィットネスのプールは、若鮎といかぬまでも、ひこいわし級の女性群の天下だ。
赤い水着のブレスト上手し 水光る 」
この頃からプール通うのに、往復タクーシーとなる。
イシモチ
ある日、スーパーマーケットの棚で銀色に輝くイシモチを見た。まるでトレーに納まっているのを忘れさせる見事さだ。数日後、画材屋で銀粉を求め、スーパーの棚を探したが、3尾480円の小物しかない。大物のかがやくような神秘性はない。
まあ、目をつぶって想像してください。
カワハギ 盗賊の影二つ三つ 月おぼろ
スズキ 公達の面影残す すずきかな
シマイサキ
「てんぷら」はメゴチが1番うまいと思う。ところが私の図鑑には載っていない。ねんのため広辞苑で調べたらネズミゴチの別称とある。ネズミゴチなら私の図鑑にもある。だがネズミゴチでは、「てんぷら」屋が使う名前としては具合が悪いのだろう。
イサキという名は何となく上品だが、てんぷらの種には向かないのか。
格子戸の内なるは誰ぞ 夏の月
イイダコ (トレーに載った小さなイイダコ10尾ばかり)
火星からのUFO墜ちし浜辺かな
時雨るや UFO墜ちし 海白き
イシダイ あの縞のジャアージはいずこのチームなりやーーー
S氏からの応答
「海幸の潮にのりて届きけり 春ようやくに輝きみちて (4、4)
「神代から人は魚くずを一体何億匹喰ったかな、重平画伯の健筆を以てしても、とてもとてもだろう。ーーー」
「夏瑠璃の浪 金銀(こんごん)の魚踊る 散浪子 」
「ぎっくり腰とは災難でした。お互いに寄る年波ですナ。気分だけは若いつもりでも所詮成るようにしかならぬ喃!悲しいがーーー 英雄も不克病!とかーーーまして、英雄ではないから、降参降参、だテーーー。 散 」(7、8)
「今度の鯛が1番秀作で、貫録もあり、いささか正面をっきた形がおくゆきを感じさせ、色彩をグッと抑えてかえっていきいきとしている。鯛の文字も古い権威を感じさせる」(9、5)
「うろくづの数無数だろうから、まだまだ大兄の筆彩をふるう余地あるナ。毎日の病人食も大方はサカナだが、どうしても単調になる。
「ネタキリ生活は参るナー。ことに腰の大切さは一層感じるだろう。老生もスイッチ操作でベッドを上げ下げして辛うじて腰を動かし得ているーーーナンギなこっちゃ」
「それでも水に潜れるのは大したものです。コッチは仰向けに伏しただけが大部分でやっと半身を起こすのが日に数分という状態です。耄碌度も我ながら甚だしい。人名、文字そのものの度忘れ日常茶飯事的です。散浪士」(8、17)
「貴兄の魚のスケッチは訪れる仲間を仰天させてをる。それぞれ得意はあろうが筆をとって描かせては、重伯無双と申すべきか。Frauも熱心なフアンである」(11、18)
再び日記に戻って、1994年末から95年の正月の記載を見ると、11月以降、S氏からの音信はなくなった。歳末の贈答はあったが、あれは家族のものがしたのであろう。
12月14日 わたりがにをスケッチする。ハサミを厳重に縛ってあるのでよく見るとかにが活きているのに驚く。こうまでして売らなければならないか。」
12月19日 茹でて赤くなったわたりがにの絵をS氏に送る。近頃返事がないのが少々気に掛かる。」
12月23日 S氏に「するめの1夜ぼし」の礼を出す。
大いなる佐渡のするめの一夜干し 」
12月26日 カレイ、無目側に斑点があるので珍しく思い、購入してかく。アクアガッシュを使う。」
12月30日 鯛を描く。アクアガッシュ使用。絵の具の使い勝手なれぬため苦心する。」
1995年
1月1日 S2さんの年賀状、Sさんに触れる書き込みあり。『Sは白雲の峯に遊んでいるようなものか』
」
S2氏は、S氏の高校初期の同級生。新潟市在住。
1月6日、私は脳梗塞に襲われ入院するところとなった。始めのうちは1言の言葉がいえず、自分の名も漸く書ける程度であったが、そのなかに「S」という名があった。それは、S2氏の賀状の書き込み「Sは白雲のーーー」が、気になっていたのだが、思っていることが口で云えなかった。
私は2月8日退院したが、なお言語障害リハビリで通院することになった。手紙をかくなぞおぼつかなく、妻に、S夫人宛、私が病気した旨を伝えるとともにS氏の様子を尋ねさせた。
S夫人より妻明子宛の書簡(2、18)
「ーーー御主人様その後の御様子如何でございませうか、紙にSと書かれてありました由、私は胸が1杯になりました。何時もシーフードの繪を送って頂き、額に入れてテレビの上に飾り、楽しませて頂いておりました。当方、12月半ば頃から身体が痒くなりつづきましたので夜眠られず、眠剤を呑みましたので意識がはっきりしませんで昼夜うとうと眠り続けましてどう仕様もありせんでした。今は薬を少しづつ下げておりまして、痒みもだんだんなくなったようですので少しは落ち着いて来ましたーー」
私の1994年連用日記の半分は病床2人の関連の記事であり、2人の書簡を補間しなけれはならないものであった。
1995年は正月1日2日の記載を除き、1月、2月半ばまでブランク。
以降、現在(6月)まで「病院に行く」といった記号的記事のみである。この先のことは判らない。
(1995,6,15稿)