(課題)

    国内で、今訪れてみたい所

  

 小田急沿線に住みながら、1990年の引退以降、新宿まで出掛けたことがない。35年通いなれたルートであったが。急行では電車の座席が得られないためというような理屈をつけていたが、内心、給料とり、宮仕えのしがらみを断ち切りたい、東京方面の呪縛を断ち切りたいという願望が働いてのことだ。

 昨年来、多摩川以東に脚を伸ばしたことがない。それまでは、世田谷に住む旧友の、菊を見に来るようにとの誘いで出掛ける習わしであったが、昨年の夏、彼を亡くしてしまった。学校も勤務先も同じであったが、私は妻を代理にたてて、葬儀にはいかなかった。脚の不調が理由だったが、東京方面のしがらみが煩わしかったからでもある。

 

 多摩川以西、正確には生田駅以西は、通勤の逆コース、めったに足を踏み入れなかった土地が、「東京の呪縛」から解放されている故に、わが自由を保障する土地となった。

 相模大野のグリーンホールには1月か月に1っぺん、多摩センターには週に1っぺん脚を運ぶことになる。多摩センターの場合は、スケッチブックを背負い、ひるは「そごう」の駿河屋で鍋焼きうどん。実際、多摩センターは車が隔離された都市構造で、われわれ徒歩族にとっては、精神的にも肉体的にも自由の天地である。

 フィットネスのプール通いが始まってからは新百合には週に2、3回行くようになった。ただし、このごろになってからは脚の調子がますますよくなく、行き帰りタクシーで自由半平どころか自由四半平となった。しかし他人に支配されない自由であることには変わりない。

 

 旅行。年2、3回の旅行の行き先は妻と娘の発議で、私は拒否権づき同意をする。(妻は北海道あたりの遠出をと思っていたらしいが)最近は拒否権の発動を予想される遠出をさけ、箱根、伊豆あたりが相場となったーーー箱根も伊豆もわが庭つづきなり。時期は、娘の仕事の都合に合わせるのだが、このくらいは自由の範疇を妨げるものではなかろう。

 ただし、これも発病以前の話。今は別居中の息子の車の助けを借りなければ、どこへも動きたくない。

 おりしも、ーーー

 長男の誕生を機に、息子は2世帯住宅で親の敷地に割り込む事を計画、設計のさなかに私が倒れて入院。息子の嫁は出産のために熊本へ郷里帰り。妻は私の発病とつづく仮の引っ越しでおおいにくたびれる。私の病後の静養(これは息子の休みを取るための大義名分)と妻の慰労のため息子は休みをとって箱根伊豆の車の旅を買って出る。

 といったところで、実のところあわただしい旅行に出た。

  帰ったときの感想。なんといっても、わが家が(仮住まいでも)1番だ。 ただし、これは妻には内緒にしておく方がいいかもしれない。       
                  1995、4、23稿

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