(課題)

        健康管理 

  

 健康管理に水泳を思い立ったのは、1昨年(1993)の夏盛りの頃である。

その数年前は盛んに山行きハイキングをやっていたが、どうも脚の調子が良くない。ウォーキングも怠りがちで、運動不足は明らかである。そこへ新百合が丘駅前に新しいフィットネスクラブができた。水泳はかってやろうとして、2、3度登戸のYMCAのプールに出かけてみたが、不便でつづかなかった。こんどの場合、3駅離れているが、駅前は便利だ。しかし、脚の調子は良くないとためらっていると、妻の「私も行くから」という応援があり、一大決心して、いま流行のフィットネスクラブのプールへ通うことになった。水中なら転んでも怪我をすることもあるまいと。

 入会の際の申告書の既往症の欄に「脳動脈硬化症(現在)」と書いて係の女性を慌てさせたが、適度の運動差し支え無し、という医師の診断書をもらってやっと入会できた。

 50数年ぶりの水泳である。

 

 60年前、ロサンゼルスのオリンピックでは、日本が何本も日の丸を揚げ、わが町、沼津の商業学校の生徒も銀メダルをとった。それで商業(当時は呼んでいた)にプールができた。中学もこれにならってできたいう時代である。なにしろ、それまでは東海線の北側の田圃の、ど真ん中にある農業用水池を、仲良く両校選手は使っているありさまだったのだ。たぶん全長50メートルで、昇降用の足場以外はなにもない、打ちっぱなしのコンクリート。池の真ん中の島に水神さんが祭ってあり、これが両校の境であった。もちろん柵などなく、私ども小学生もかってに泳ぐことが出来た。田圃の水が流れ込むせいか、麦わらの臭い匂いがつんと鼻に来た。

 中学坊主時代は、剣道部にいたため、プールとはあまり関わりがなかったが、それでもなかのいい水泳部選手がなんにんかをり、みようみまねで(水泳上達の極意は真似にある)、年に1度の校内大会にはクラス代表となって活躍したものである。

 

 さて、現在のフィットネスのプールは、冬でも泳げる温水プールである。私の行く昼の時間帯は10対1の割合で圧倒的に女性、それも奥さん連の天下だ。スクールにアクアエヤロに華やかなものだが、むかしの中学坊主の1夏ぶんの水泳体験が、わずか1ヶ月で可能だ。しかも、春夏秋冬晴雨にかかわらず1年中できる。

 わが老妻もこの恩恵に浴して、クロールの息つぎが出来ぬと横泳ぎ専門でいたものが、みるみるうちにクロールもバックもさまになってきた。

 私の方は、おそるおそる水に入ったものの、浮力がつけば脚のよろけもなく、無事進水におよんだ。バランサー(はじめに、入会をチェックした女性)の、要注意の連絡を受けたらしいプールのコーチも「(水泳を)やったことがありますね」と、OKのサインをくれた。

 週2回ないし3回、はじめのうちは1回に2〜300メートル。ただし25メートルごとのインターバルで1息つかぬとつづかない。やがて、5〜600メートルになったが、上がってから疲れてしまい、結局プールの行き帰りはタクシーを使う慣例になってしまった。しかしながら、若い奥さんたちに混じって泳ぐと、青春を取り戻したようですこぶる楽しい。精神衛生上すぐれた健康管理方法だ。

 

 医師に訊いてはみないが、水泳は今度の脳梗塞発病には関係ないはずだ。なぜなれば、暮れと正月は水泳は休みで、正月明けに発病したのだから。しかし、発病後は1段と脚のふらつきがひどくなり、まだ水泳をやる気力は起こらない。第1、浮力でふらつきから解放されたにしても、エクスパス(フィットネスの名称)の階段をへばりついて降りるさまが我慢できるかである。エクスパスのプールは、吹き抜け構造になっていて、ロッカールームのある8階からプールのある7階まで、オープン階段を降りなければならないのだ。

 やむを得ず、エクスパスを脱会した。しばらくはわが健康管理法ともお別れだ。

 

 (教訓) 健康管理と運動の関係

 運動したからといって健康維持できるというのは妄説で、1般には、健康だから運動できる関係をいっているにすぎない。                   1995,4,15稿

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