芝  

  

 日本では、グランドは裸地のままが常態だと思われてたものが、サッカーのJリーグによって、球場には芝生が不可欠のものであることがわかってきた。

 衛星中継で見る世界各国の球場の、芸術品ともいえる芝の刈り込みように比べ、日本では、Jリーグで見た開幕当初の芝は、出来たての1部を除いて、ハゲチョロケやつぎはぎだらけで、あんな所では2度とやりたくないと選手に忌避された球場もあったそうだ。

 野球場は人工芝のものが現れてきたが、サッカー場に人工芝が使われないところを見ると、人工芝は体になじまない欠陥がるのあるのだろう。人工芝を除いては、野球場は内野はすべて裸のままである。甲子園の高校野球など見ていると、1試合ことに土を掻きならして水を撒き、折り悪しく雨でも降ろうものなら泥田も同様になる。それでも甲子園には外野には芝があるが、地方に行けば裸地が正常で、外野は草むしりの手が回らないからといったのが普通であろう。

 ラグビーの場合は、勇ましくて、試合を晴雨に関わらずやるというが、敵味方の区別つかない泥まみれジャージーイの光景に、しばしばお目に掛かる。もっとも、秩父宮競技場は芝生ではあるが、日本芝の悲しさ、冬は枯れてしまう。ラグビーの正式試合は冬と相場が決まっているからこういう始末になる。

 

 球場競技はすべて明治以来の欧米からの輸入品であるが、グランド造成技術だけは輸入できなかった。西洋芝は年中青々としているが、蒸し暑い日本の気候では夏枯れを起こしてしまう。在来からの日本の芝は、夏には元気が良いが、冬には枯れてしまう。もっとも地下茎は生きているが、芽吹くのが遅い。

 そのため日本式庭園は樹木とコケと石ばかりで、芝を取り入れたものは極めてまれだ。

 かくて、グランド造成もやむおえず未完了のままにしておかれた。それがいつの間にか常態となってしまったのだ。

 

 西洋芝は北方型とか冬型といい、日本芝を南方型とか夏型という。これは芝だけなく、牧草1般の分類法である。(この場合、西洋というのはヨーロッパおよび北米を指す。また、アメリカ合衆国の南部にある種類のものが南方型つまり夏型である。)日本では芝を牧草の仲間にするのは変と思うかもしれないが、牧草の本家では、芝は牧草の内の特殊の用途にあるものとされ、現にある種類では家畜の飼料と芝の用途の2股掛けたものがある。

 日本では芝といえばターフ(匍匐型)と決め、芝をターフの訳語としているが、西洋芝というのには直立型も含む。日本では、芝は植えたら後はほったらかしですむものだと思っている向きも多いが、飼料の仲間として長い間大事に育てられて来たものともなれば、肥料もやらなければならない、刈り込みもしなければならないということになる。

 

 夏型と冬型の決定的な違いは、ーーーむろん日本芝を含むーーー日本の蒸し暑い夏に耐えうるのに対して、西欧の冷涼の気象を好み、蒸し暑いの夏に耐えられないことである。

 アメリカの地理学者のハンチングトンという人がこういう説を唱えたという。彼の説によれば、地球上で頭脳のために最も優れた条件をそなえた地域ーーー夏は冷涼、冬は比較的暖かな地域ーーーつまり、冬型牧草の地域(ハンチングトン先生はそういったかどうか知らないが)ーーーはヨーロッパと北米のある地帯であるということである。ノーベル賞はそんなところから輩出しているのだろう。

 ところが、ハンチングトンはこういう地帯が日本にもある、それは三陸地方であるという。

 三陸地方は、かっての冷害常習地帯、(1昨年の冷害は生々しい、)やませという冷夏の元凶となる風が吹いて、冷夏と稲作文化とがせめぎ合ったところ。宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろ歩」いたところである。稲は、この国では代表的夏型牧草の仲間である。

 日本の稲作文化と、ノーベル賞は相いれない仲か。

 

 さて、日本のサッカー場の、芝は、夏を除くシーズンは外国産の冬型、夏は外国産の夏型あるいはそのミックスであろう。夏型・冬型の切り替えのときは特別の栽培技術がいろう。サッカー場の芝の課題は、サッカー技術とは別の、明治以来のやり残した興味ある問題である。                                      (1995,4,30稿)                   

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